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絶対(絶対者)と人間とのかかわりとして 神の受肉とどう違うのでしょうか。おしえてください。

じつは 一度質問しています。
http://oshiete1.goo.ne.jp/qa3130694.html

法身は 絶対と捉えていいのでしょうか。生身の人間(つまりゴータマ・シッダルタ)が出現したというからには さらにつまりは応身としてのブッダが歴史的事実だというからには 超経験の絶対者が この経験世界に姿を現わしたということでいいのでしょうか。

あるいは あくまで 時間過程を伴なった悟りの結果 絶対者としての実現が成ったというのでしょうか。
それでも――つまり この応身としては 無常の存在であるが それでも―― 報身としては この地上の経験世界(つまりわれわれ人間)と現実においてかかわりを持つ永遠の絶対者であるという説明になるのでしょうか。

三位一体については 神の受肉という点で 対照させていただけばよいかと思うのですが。 

A 回答 (31件中31~31件)

[法身は 絶対と捉えていいのでしょうか。

生身の人間(つまりゴータマ・シッダルタ)が出現したというからには さらにつまりは応身としてのブッダが歴史的事実だというからには 超経験の絶対者が この経験世界に姿を現わしたということでいいのでしょうか。」
・・・その通りです。
この世界は法(法則)意識によってできています。その法意識を「釈迦大如来」と呼んだり「全知全能の神」と呼んでいるのです。これが霊界の真実です。その法意識が肉体に宿って法を説くことを法身、あるいは応身というのですね。仏陀再誕ですね。この法意識が肉体を持つときは天上界のすべて、地上のすべてが地上の法身に従うのですね。「この意味が「天上天下唯我独尊」ですね。この言葉を聞くは3千年に一度咲く優曇華の花を見るがごとく稀有なことですね。この耳で聞きたいですね。聞いてないとこんな回答できないか?」
一方、報身-については、難しいところがありますね。地球45億年の歴史で地球で創造された霊で仏陀「法意識」になった霊はいまだいないですからね。幾百万転生の修行の結果、如来界(大天使界)に到達した霊はいるそうですから不可能ではないとしかいいようがありませんね。ということで修行者への方便かな。

三位一体:三位一体というのは「法意識」が肉体を持ったときに使う言葉ではありません。「法意識」以外に何体かの大霊がおられます。この大霊が地上で肉体を持ったときに「法意識」及び他の高級霊の権限と権能を預かるという意味で使う言葉です。一般に救世主と呼ばれる大霊ですね。イエス様もそのお一人ですね。
参考に、でも間違いなく霊界の真実ですね。

この回答への補足

mmkyさん ご回答をありがとうございます。

《霊界》という用語で説明される点については ブッディスムとしては ちがった行き方かなと思いましたが その内容について 絶対と経験世界(人間)との関係を その肯定説として明かしていただいたと存じます。

細かい点については 省略に従いたいと思います。
(たとえば 法意識というとき 意識は 唯識つまりは一般に唯心論に基づいてその用語があるのだろうか。
(「全知全能の神」とも呼びうるとき 法意識は 世界の創造主なのかどうか。
(《法意識が肉体を持つとき》 それは 人間としての誕生の時から 法意識であると同時に 肉体を持つ普通の人間であるということなのか・つまり神の受肉と同じことなのか。などです)。
(また 三位一体については わたくしの理解するところは 次の質問への回答にまとまっていますので よろしかったら ご参照ください。→《Q:神とイエスと聖霊http://oshiete1.goo.ne.jp/qa3377425.html》のANo.8)。

ひとつお訊きしてみたいと思うことは 次のようです。
つまり 《仏陀再誕》とおっしゃるのは 《法意識が肉体を持》ったブッダが 釈尊のほかにも 幾人かいたということだと思いますが 釈尊のあとは もう出ないのでしょうか。

というのは 釈尊以前だけとしても なぜ〔この応身ブッダが〕 何人か出るのでしょう? つまり そんなに多く現われるのなら 誰でも 自己がブッダだという宣言をするようになりませんか?なっても かまいませんか?その言ってみれば真偽は どうして見分けるのでしょう?

何人か応身ブッダが現われてもいいかも知れませんが 一人ひとりにそれぞれ必然的な出現の理由があるといいのではないでしょうか。そうでないと 法意識のその法則が 一体どういう内容なのだろうといぶかるようにならないですか?

もう一点よろしければ お訊きしてみたいと思います。
《霊界》には 《法意識》のほかに 《何体かの大霊〔あるいは他の高級霊〕がおられます》ということですが 絶対の領域において なぜ そのように 別個の存在がいるのか 解せません。絶対が分割されるということ自体が 理解不能です。仮りに 絶対について その一部分を特定できたとして しかも その部分は――絶対であるなら―― 全体の絶対と等しいということにしかならないと考えるのですが。

基本的には 神の受肉という内容を 類型的に 示しておられると思うのですが 付随するところで なにか 経験世界の経験思考そのものを 法意識の存在に対して あてはめているというように感じられます。そこから 三位一体との違いが 作られている(失礼!)ように わたしには思われるのですが。はじめから違うというのであれば また別のブッダ論になるのだろうと考えられるということだと思いますし。

わかりませんが これが 人間界の真実だと理解しているのですが。

補足日時:2007/10/10 21:10
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この回答へのお礼

あやまりの訂正です。

上の文章の中の 三つ目の段落の終わりの行で わたくしの理解する《三位一体》は 次の質問の回答No.7でした。番号を間違いました。
→《Q:神とイエスと聖霊http://oshiete1.goo.ne.jp/qa3377425.html》のANo.7。

お礼日時:2007/10/10 23:35
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