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ふと気づいたら、自分は他の人を収入や学歴で判断していました。

自分の志望している大学より偏差値が低いところ、私が滑り止めで受ける予定のところに通っている人やそこを志望している人を見ると、心の中で馬鹿にしてしまっています。

大人の人を見ても、フリーター→「いい年して何やってるんだろう、馬鹿だなあ・・・」とか、
まじめに働いている人でも、知的労働じゃない人などは「収入低いんだろうな」と、見下してしまっています。

こんな考え方、いけないってわかっています。
でも無意識にそう考えてしまっている自分がいます。
大人になって、自分がもっとひねくれた見方をもつようになるんじゃないかと不安です。
どうしたら治りますか。

A 回答 (13件中11~13件)

滑り止めに受験する学校に通っている学生を馬鹿にしていて、もしあなたがそこにしか合格できなかったらどうしますか?



私が卒業した大学はそういう経緯で入学してしまったひとがたくさんいました。私もその一人でした。
バイト先なんかで学校を訊かれて卑屈な気持ちになったりしましたよ。
ある日、早稲田の政経に通っている友人から「東大に合格できなかったからと負け犬気分のやつがたくさんいる」と聞いて、そういう構造(学校ヒエラルキー)そのもののアホらしさに気付きました。

学歴や収入も他人に対する価値判断のひとつですから、そういう基準で何かを判断することが必ず間違いであるとは限りません。

ただし、それらの価値基準しか持ち合わせないで他人を判断するとこれからの人生、楽しみが激減ですよ。
世の中には面白い人がたくさんいます。
貧乏だったり、ちょっと馬鹿だったり、グータラだったり、優等生だったり、企業戦士だったり、そういった目に付く部分だけでは判断できない色んな面を持った人がいるんですよ。

貧乏で怠け者だけど、教養豊かで多角的な視点があるから話していると楽しいな、なんてひとが案外いるもんなんです。

と、年長の人生の敗残者が言っていたことを心に留めておくと少しはかわるかもしれません。
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ある日ふとそういう考えがバカバカしくなる日が来ますから、今は問題意識を持っていれば大丈夫です。


高学歴高収入の友人と何年ぶりかで会って、奥さんと離婚して一人寂しく生きているという話を聞いたとき、自分がエリートとして怖いもの知らずで生きてきて、病気で入院したら誰も見舞いに来ず、退院しても居場所がなくなったと気が付いたとき、考えが変わるときは様々ですけど、私もこの年になり幸せの基準はそういったことではないと否応無く気が付かされました。
高校時代は進学率の高い一流高校の落ちこぼれで、同期会など気後れして出る気も無かったのですけど、ある年同級生が近所にレストランを開店し、そこでやるというので義理もあって出席したら拘っていた自分がバカバカしくなって、現在は価値観に縛られない人生を送るようにしています。
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現在、あなたは高校生ですね。


まだ、自分の世間と言うものができていないので、仕方ないでしょう。
そうですね。人は大概、自分が中心で基準になります。
あなたが滑り止めで受ける学校に通っている人なら、心の底で、あいつら馬鹿なんだ、と思っていても普通です。しかし、自分が触れる世間の範囲には入っている人たちだということを覚えて置いてください。
あなたの高校の先輩で、フリーターになっている人はいないでしょうか。いるなら、それもあなたの世間の範囲の人たち。人生ではありえる選択肢ですよ。
私が高校のときなど、自分の母親程度の人生なんか絶対送らない、専業主婦なんて絶対いやだ、と思って口に出しても言っていました。
けれど、現在はパートには出ているけれど、扶養範囲内の専業主婦です。
所詮、母親の生き方も、自分にはありえる選択肢だったわけです。
大学も、私立大学や短大なんて絶対にいやだ、と思っていましたが、けっきょく滑り止めの短大に進学しましたし、それも高校で普通程度の人ならありえる選択肢でした。
そう思えば、フリーターや滑り止め大学の人たちを馬鹿にする気持ちも起きないのでは。
それは、ありえーる、と思うことで、許容範囲は広がるものです。
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