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記号論を勉強しているのですが、自分はとても記号論に魅力を感じています。人は多くの記号を消費して生きていますが、逆になぜ、人は記号を消費するのでしょう?また、なぜ記号が消費されるのでしょう。なんだか、記号の操り人形状態な気がしてきて、不思議に感じてきました。記号から逃れることはできないのだろうか・・・記号を使っての分析は多くされているのですが、このことがわかりません。
出来れば、ソシュール、パース、ロランバルト、ウンベルト・エコ、バタイユ、ボードリヤールなどを勉強している人の意見がきければうれしいです。
よろしくお願いします。

A 回答 (5件)

はは。

。。
まさにヴィトゲンシュタインにうってつけだ!
彼は航空力学も研究していたっけ。
それはともかく、その謎を追って、kakiku1999さんが
メタ哲学、コミュニケーション、認知心理学、と駒をすすめるうちに
きっと記号論にそれほど魅力を感じなくなると思うよ。
その先は、先端科学かアウグスティヌスかの奇妙な分かれ道。
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下手な考え休むに似たり


記号の消費ならぬ記号の浪費
糸の切れた凧が飛んで何処かに行ってしまってるみたいな
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記号の消費の反対は記号の創出(生産)でしょうか。

消費というのは何かの比喩だと思いますが、記号の消費が生きがいならば記号の創出は生きがいにはならないのでしょうか。
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参考までに



記号は社会的差異を表しています。記号を消費するというのは資本社会における、他者との比較における自己象徴としてのアイデンティティーの確立ということだと思います。つまり、商品を選択的に消費することを通して社会の中で自己が所属する、あるいは所属すべき階層・集団を確認し、そうすることによって自分を他者と区別し自身のポジションを確立していきます。(一部文章を引用しています)

例えば、服を買いに行ってたとして2000円の上着を買ったとします。しかしこれは交換価値と使用価値に対してお金を消費して商品を得る行為ではなく、記号の社会的差異に対して消費者はお金を支払っている行為だと考えられる。それは記号の差異に価値が存在するからです。僕らは他人とかぶらないように服を選びますよね、それは他者となるべく違うものを選択して自己を確立している行為だと言える。つまり、自分の服を買うということは他者のために(差異による自己確認)と言い換えることができると思っています(すべてのケースでこれが当てはまるとは言い切れませんけど)。人ととは違うという自身のアイデンティティの確立を記号の消費によって行っているのでしょうね。

そう考えると記号社会においてもはや”記号の消費”から逃れることはできないのではないでしょうかね。

僕は直接、このトピックに関するボードリヤールのテクストを読んだことはありませんが、他のセオリストがボードリヤールのこのトピックについて書いていたのを読んだことがあります。

参考まででした
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私は素人ですが記号に興味を持っています。

私は権威に頼ることがすでに記号に支配されていると思っています。自分で記号を作ってみるくらいの恣意性がないとなかなか記号のことはわからないのではないかと思っています。ここに絶対的矛盾があると思います。記号から逃れるためにはほかの人と交流しないことが絶対に必要のように思うわけです。匿名性が保障されているこのようなサイトはほかの人の意見を知りながら交流しないで済むという意味で貴重な場のように思います。ずれてしまいましたが記号を消費するということと記号から逃れるということの関係がよくわかりませんでした。記号は人が生むものですが他の人が作った記号を利用するということとは別のことのようにも思います。
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この回答へのお礼

早速のご回答ありがとうございます。
バタイユやボードリヤールは何かを消費することによって人は生きている実感が得られるといっていました。そしてその消費するものはどんな形にせよ記号に他なりません。この、「消費したい」ということが、記号を消費することとつながるのかなと考えたりもします。

お礼日時:2008/02/10 12:22

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