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この事件を通して幕府と47士は何を主張しようとしていたんですか?
教えてください><

A 回答 (7件)

「赤穂事件」とは「浅野が吉良を殿中で傷つけて切腹、お家断絶となり、浅野の家来が吉良を襲撃して殺し、全員切腹処分となった」一連の事件のことですか?



ここでは課題の丸投げ・そのような質問への直接回答は禁止ですので、ご自分で本を呼んで調べて下さい。文献はいくらでも見つかるはずですが、手軽に読めるものを一つ教えて差し上げましょう。この事件に関する書物はインチキなものも多いので、ちゃんとした人が書いた本を選んで勉強して下さい。

忠臣蔵 赤穂事件・史実の肉声 ちくま学芸文庫
野口武彦/著
http://www.7andy.jp/books/detail?accd=31979645
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この事件を、被害者といえる吉良家の立場から分析した本も出ており、一読に値すると思いますので紹介しておきます。



吉良上野介を弁護する 文春新書
岳真也/著
http://www.7andy.jp/books/detail?accd=31055571
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47士の方は、「浅野家だけ、一方的に御家断絶になるのはおかしいんじゃないか」「せめて減俸転封にしてくれてもいいんじゃないですか」というところだったのでしょう。


幕府としては、「浅野内匠頭はどうしようもない大馬鹿者だから、良い機会なので、潰してしまえ」という感じだったようです。
池波正太郎さんも著書の中で、浅野内匠頭の行状の酷さを書いています。
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 一方は政治と治安与る立場からは、処断。


 他方は武士の面目。そしてそれは反逆という形として、結果表示。
 これが当たり前の、みんなの認識だと存じますが。
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当時の揉め事の処理はケンカ両成敗と言ってケンカを仕掛けた方も仕掛けられた方も両方処罰されると、世間の認識は出来ていました。

世間はこの事件は浅野家と吉良家のケンカと解釈していたが、幕府の処分は浅野家のみの処分で吉良家は被害者との判断を下したため世間はあまりにも浅野家がかわいそうだとの噂がたちいまに浅野家の家臣たちが敵討ち
をするだろうと、期待して見守っていた一般社会があったようです。浅野家の家臣たちが一番望んだことは浅野家を復活させることですがもしかなわぬ時は世間が期待している敵討ちを果たして世間に浅野武士ここにありと驚かしてやろうと考えたようです。この事件のあとこの47人
の処分を如何にすべきか幕府の内部で意見が分かれ、このような忠臣
は武士の誉れであるから無罪にすべきだと主張するものから、夜中に襲撃して世間を騒がせたことは許されないので重罪にすべきだと主張する者まで議論百出のなかで全員切腹処分に落ち付いたようです。なにしろ
戦乱の時代から百年以上がすぎた平和な世の中にいきなり敵討ち事件の発生だから、世間は大変な騒ぎになった事はたしかだろう。
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「戦乱の時代から百年以上がすぎた平和な世の中にいきなり敵討ち事件の発生だから、世間は大変な騒ぎになった事はたしかだろう」



鸚鵡籠中記
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%B8%9A%E9%B5%A1% …
という、同時代の尾張藩士の膨大かつ詳細な日記が現存します。

約20年前に、中公新書で
「元禄御畳奉行の日記 尾張藩士の見た浮世」 中公新書 740
神坂次郎/著
http://www.7andy.jp/books/detail?accd=02886866
が出版され、上記の日記の内容が紹介されて話題を呼びました。現在でも刊行されています。

この日記に「浅野が吉良を殿中で傷つけた話は書いてあるが、浅野の家臣が吉良を襲撃して殺害した話や浅野家臣が切腹処分となった話は書いていない」事実があります。江戸時代史の権威、大石慎三郎氏の下記の本にそのことについて言及されています。

徳川吉宗とその時代―江戸転換期の群像 (中公文庫)
大石 慎三郎
http://www.amazon.co.jp/%E5%BE%B3%E5%B7%9D%E5%90 …

赤穂事件については、No1で書いたようにいい加減な情報が流布していますので、きちんとした人の書いた本を読んで勉強して下さい。

また、毎年12月になると「義士の討ち入り」と言ってお祭りをやります。浅野家家臣が吉良を襲撃した「元禄15年12月14日」は旧暦の日付であり、西暦に直すと1703年1月30日となりますが、この「日付のずれ」について言及されることは全くと言って良いほどありません。「いい加減な情報が一人歩きしている」一例です。

また

「当時の揉め事の処理はケンカ両成敗と言ってケンカを仕掛けた方も仕掛けられた方も両方処罰されると、世間の認識は出来ていました」

この事件は「浅野が殿中で刀を抜いて吉良に斬りつけた」事件であり、「喧嘩」ではありません。この事件の前にも後にも、「乱心した」大名等が江戸城内で他の大名等に斬りつけ、場合によっては被害者が死亡する事件が起きていますが、処分されるのは「乱心した者のみ」でした。これが当時の「法」です。

例:堀田正俊
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A0%80%E7%94%B0% …
大老の地位にあった堀田は江戸城内で若年寄の稲葉正休に刺殺されました。堀田は即死はせず辛うじて意識があり、駆けつけた役人に自らの刀を示し「自分は刀を抜いていない」(抜刀を禁じる殿中の掟を守っている。喧嘩ではない)と言い残して死んだと伝わります。
下手人の稲葉正休は本人はその場で他の大名に殺され、お家断絶となりました。「松の廊下事件」での浅野と同様の処分です。
被害者で死亡した堀田については、通常通りに嫡子への家督相続がなされています。
また、稲葉を殺した複数の大名についても処分は為されておりません。殿中で刀を抜いて暴れる乱心者を殺すのは当たり前だからです。
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幕府としては法、制度の現世を示し事でした。


この事件は勅使供応の最中で起こったので朝廷の怒りを配慮する必要があり、また時の将軍綱吉は将軍親政を目指していましたから、その権威を示す好機と考え即断で処罰を決定したのです。

結果はご存じのとうりやや一方的なものでした。

赤穂側は主家の回復が狙いでしたが幕府は法を楯に変更をみとめませんでした。
この為、討ち入りを決行し抗議の姿勢を表したのです。
この行動は江戸市中の秩序を乱すものとして厳罰にすべきものでした。
従って助命論などもありましたが幕府としては筋を通し切腹をめいじたのです。
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