海外旅行から帰ってきたら、まず何を食べる?

 どのくらいいらっしゃるでしょうか。
 人数が知りたいのではなく どのようにその状態を捉えておられるのかをおしえてください。たとえば 実際であるかどうかを措くのですが ブッダは次のように語ったとされています。この境地について そういう内容なら おれは すでに達した / わたしは たしかに すでにこれを経験しているなどなど 感ずるところ・思うところを述べて お聞かせください。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
《さとり》の境地を示し 人々を教え導くために
余は巧妙な手段を語る。

そしてそのとき余は 《さとり》の境地に入ることなく
この世に教えを弘めるのだ。

その場合 余は霊妙は力によって みづからの姿を現わし
そしてすべての人々に加護を垂れるのだ。

人々は理性が転倒して愚かであり
余がそこに立っているにもかかわらず
余を見ることはない。

(《正しい教えの白蓮 Saddharma-pundariika 》十五 
 〈如来の寿命の長さ〉 岩本裕訳 岩波文庫《法華経》・下)
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 また わたし自身は 経験済みだと臆面もなく言うのですが それは 大馬鹿者になるでしょうか。つまりむしろ このように語る人間(ブッダ)がいたと言って伝えながら その人を崇めるとすれば そのほうが 間抜けであることを免れないのではないでしょうか。《人を崇める》のであればです。つまり ブッディスム批判としての質問にもなるのですが いかがお考えになるでしょう。

A 回答 (33件中31~33件)

ん~、brageloneさんの言葉は難しい。


もう少し平素な言葉で書くとこのQAももっと面白くなると思うんですが。

修行によって悟れるのですか?
別の言い方をすれば体系化されたシステムによってそれは可能なんですか。
それが出来るなら学校や習い事と同じですよね。
誰がこれに対して卒業証書をくれるんですか?
    • good
    • 0
この回答へのお礼

 ご回答をありがとうございます。
 そうですね。今回の質問は 同じブッディスムでも まったく見方・捉え方がちがっています。
 すでに《さとり》を持ったという時点から出発します。それも ブッダと同じ程度のさとりです。
 あとは そのことをはっきりと 宣言しますかという問いです。宣言したと同じ状態にあるという場合を含みます。

 そして その場合 この法華経の文句と照らし合わせて どう考えるのか そのように問うています。
 さらには もしこの法華経の表現が 気に食わないという人の場合には それでは とうぜん ブッダを対象として信じたり崇めたりはしないでしょうね?という問いを添えています。
 (おそらく ここまで来れば ブッディスムは その人の中で破綻を来たすのではないかという わたしの魂胆があります。そうではないでしょうかという質問になっています)。

 ですから 自称としての自分だけが認証したという形ででも われがブッダなりと宣言する人は その限りで すでに《卒業証書》を持っているという仮定です。仮定のまま――つまり わたくしが 質問趣旨にほざいたように 仮定・自称のまま―― ブッダたちが集って そこで行なわれる対話・議論がどうなるのか というもくろみです。いかがでしょうか。

お礼日時:2008/03/08 21:51

悟りを開くの意味を、まず説明します。

悩みの無い人は悟りを開く必要が、有りません。悩みと言うものは矛盾です。それは「自我」と仏性」との矛盾、対立でも良いです。

人が悩むのは、心の矛盾です。二つの考え方が在って、それが、離れていればいるほど、悩みが深くなります。それは自我(左脳)と仏性(右脳)の意識の違いを矛盾として自我が感じることです。

悟りを開くと言う事は、自我と仏性が出会うことです。仏性は「永遠の命を持っています。その事で「死にたくない」と思っていた、「自我」が、本当に大事なものに気が付く事です。そのことによって、自我が仏性に全てを預けて安心して生きてゆけることです。「絶対肯定」という足場に立つ事になるからです。

ですから、人の苦しみを救いたい、と強く願う心が在ります。自分の苦しみが、余りに大きかった事によります。大悲、大智という心です。ですが、人になにをしてやれるかと言う事は、疑問です。

目の前に、全ての真実が有る、自らを灯明にして生きてゆきなさい、というお釈迦様の遺言は「正しい教えかと思います」

間違っても、自分は悟りを開いたから、自分を崇め、奉れ、とは言わないはずです。そんな事を言う人は「悟ってない」人でしょう。
ですが、確かに、本をいっぱい書いてそんな事を言っている人もいます。歴史が解明するでしょう。
    • good
    • 0
この回答へのお礼

 ご回答をありがとうございます。
 
 法華経は ブッディスムに非ずというご見解でしょうか。

 tumaritouoさんは 《われはブッダなり》と宣言されますか。

お礼日時:2008/03/08 21:12

感ずるところは、


上から目線で感じわる~ですね。

こういうの野狐禅っていうんでしたっけ。
多分、悟ることを目的にするのは本末転倒なんじゃないですかね。
正しく生きている人をブッダと呼ぶんじゃないでしょうか。

ところで、
私たちは世界を観念を通してみていますよね、家族、学校、会社、社会、国・・・・全部観念ですよね。
目に見える世界を観念を通さずに見ているのがブッダの特徴だと思いませんか?

この回答への補足

 shift-2007さん ご回答をありがとうございます。

★ 感ずるところは、 / 上から目線で感じわる~ですね。
☆ わたしの質問もしくは その中の鉄面皮の発言のことを言うのでしょうか。それとも この法華経を書いた人の表現の中身を言って そう感ずるということでしょうか。
 前者なら もう何をお応えしても 詮ないでしょうけれど。

★ こういうの野狐禅っていうんでしたっけ。
☆ 《野狐禅》をよく知りません。漠然とはわかりますが。

★ 多分、悟ることを目的にするのは本末転倒なんじゃないですかね。
☆ この姿勢と言いますか ブッディスムに対する立ち場と言いましょうか それについては もう今は問うていません。仮りにでも 修行を一たんいづれかの段階として終えたところでの境地を 前提にしてください。
 (そんなことは出来ないという場合には その点について 説明をお願いしたいと存じます。→
★ 目に見える世界を観念を通さずに見ているのがブッダの特徴だと思いませんか?
☆ この特徴に立てば 仮りのブッディストであっても このいまの《余》の立ち場に立って 対話をすることになると思うのですが)。

★ 正しく生きている人をブッダと呼ぶんじゃないでしょうか。
☆ これについても 前段と同じことのように思います。言いかえるとしますと この《正しく生きている》というその内容が 法華経の文句と どのように切り結びするか これを お尋ねしています。

★ 私たちは世界を観念を通してみていますよね、家族、学校、会社、社会、国・・・・全部観念ですよね。 / 目に見える世界を観念を通さずに見ているのがブッダの特徴だと思いませんか?
☆ ですから たとえば《毒箭(どくや)の譬え》を思い出すのですが。つまり いまの質問としては 射た者や弓矢の種類を知ろうとする前に 箭を抜き取って治療をするのでないといけないと言うのではありませんか。
 そのとき 《〈さとり〉の境地を示し・・・ / ・・・すべての人々に加護を垂れるのだ》という《正しい生き方(?)》を あなたは していますかという単純な質問です。ただ この文句は あなたが初めに触れていたように 《感じわる~》の表現ですので その点 どのように思うのか これにも及んでいるというかたちです。

 もう少し勇み足としてでも述べてみます。
 一方で ブッディスムのおしえは 一般にわたしたちに出来ることであり 他方で もしそうであっても あるいは なくても ブッダその人を崇めるというのであれば それは あなたの言うようにその教えや本人を《観念》化している。という疑いが持たれる。このような物言いがつくように思いますが どうでしょうという質問です。

補足日時:2008/03/08 16:43
    • good
    • 0
←前の回答 1  2  3  4

お探しのQ&Aが見つからない時は、教えて!gooで質問しましょう!

関連するカテゴリからQ&Aを探す