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 どのくらいいらっしゃるでしょうか。
 人数が知りたいのではなく どのようにその状態を捉えておられるのかをおしえてください。たとえば 実際であるかどうかを措くのですが ブッダは次のように語ったとされています。この境地について そういう内容なら おれは すでに達した / わたしは たしかに すでにこれを経験しているなどなど 感ずるところ・思うところを述べて お聞かせください。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
《さとり》の境地を示し 人々を教え導くために
余は巧妙な手段を語る。

そしてそのとき余は 《さとり》の境地に入ることなく
この世に教えを弘めるのだ。

その場合 余は霊妙は力によって みづからの姿を現わし
そしてすべての人々に加護を垂れるのだ。

人々は理性が転倒して愚かであり
余がそこに立っているにもかかわらず
余を見ることはない。

(《正しい教えの白蓮 Saddharma-pundariika 》十五 
 〈如来の寿命の長さ〉 岩本裕訳 岩波文庫《法華経》・下)
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 また わたし自身は 経験済みだと臆面もなく言うのですが それは 大馬鹿者になるでしょうか。つまりむしろ このように語る人間(ブッダ)がいたと言って伝えながら その人を崇めるとすれば そのほうが 間抜けであることを免れないのではないでしょうか。《人を崇める》のであればです。つまり ブッディスム批判としての質問にもなるのですが いかがお考えになるでしょう。

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A 回答 (33件中11~20件)

お互い様々な価値観を認めていけばいいんでしょうけどね…。



なんだかいつも私は
仏教徒に虐げられている気がします。

必ず論理を振りかざしてきて。
様々なものを奪っていく。永遠や我までも。

お陰でこんなことをだらだらと
書き連ねたわけです。

なにがこの人をそうさせたのだろうと思うのであれば
そんなところです。

仏教は素晴らしいですよ。
駄目なのは人間ですかね。
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この回答へのお礼

 yukiyama20さん 少しくどいですが 夢談議を補足します。

 じつは 大・池・田・作さんからのことばは さらにもう一件ありました。
 組織の解体を訴えるのはやめてくれというものです。信仰の理論的な規定や 宗教のあり方の議論はいいけれども 宗教教団の解体を主張するのは いま少し控えてくれないかというものです。
 いや わたしは キリスト教団については 信仰を基礎にしているので 基準が明確であるから 自己解体を勧めているけれども 仏教については 別ですと まづ答えました。この点を さらに説明し始め はっきりしたやり取りが進まず 夢は切れてしまいました。

 この点 整理して 添えさせていただきます。
(1) 信仰を基盤にしているなら 絶対論にもとづき 生命および存在を善とするゆえ この大前提を破った場合には その組織は解体すべきである。

(2) 信仰を基盤にしていない場合。組織の善し悪しについての判断は むつかしい。それは むしろ ふつうの社会的な評価や人びとの評判によって 決められるのではないか。

(3) 別様に 問題があるようだ。信仰を基盤にしていないのに 《信じる / 信心 / 神またその意味での仏》などと説く場合が見られる。これについては 看板を明確にすべし。宗教法人ではなく 生活共同組合であるとか 学習研究集団であるとかと書き替えるべし。

 こんなところです。くどかったですね。

お礼日時:2008/03/12 21:15

大道廃れて仁義有り、


知恵出でて大偽有り。

昔、仏教徒に監禁させられて
仏教は素晴らしいと何時間も責められたことがあります。

仏教が素晴らしいなんていう人間が
慈悲という言葉を吐くと、その偽善ぶりが、ゆるせないわけです。

どれほど私が間違っていようと愚かだろうと罪人だろうと
仏教が真理だなんて絶対に、認めたくないですね。

あの、詐欺師たち。

はじめは何もなかった。
仏教も。悟りも。

悟りが登場して
詐欺師が登場した。

ブッダになりたければブッダと名乗ってください。
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この回答へのお礼

 yukiyama20さん わたしも 学生時代の
★ 昔、仏教徒に監禁させられて 
 仏教は素晴らしいと何時間も責められたことがあります。
☆ いまの対処の仕方は あなたとわたしとで 対極をなしているようですが 長い目で見つつ すすんでまいりましょう。

 ひとこと わたしの手法は もし相手の思想に よいところもあるのならば いったん その思想を すべて丸ごと みづからが飲み込むという行き方です。つまり 《われはブッダなり》と宣言してしまうものです。相手にとっては 《甘えて来ている》とも感じるでしょうし その感覚のもとに こちらのほうにその相手が《甘えて来る》きっかけになるとも考えられます。こちらが 甘えているとすれば それは 聖なる甘えです。この場合の聖なるというのは はからいの無きという意味です。
 いつも ひとこと多いわたしですが もうひとことです。あくまで 悪魔は 生け捕りに限ります。燃える炭火を相手の頭に積む手法です。いかがですか?

お礼日時:2008/03/12 10:44

やっぱり日本て


仏狂信者が多いのね。

某宗教がいわれていることと同じことを
言うこともできない。

神は死んだとどこかの誰かは言った。
仏は死んだとは言いませんね。

死人が仏になる国ですからね。
もともと死んでいたんです。

生きてなんかいなかったわけです。
生きている人間に必要なものでは、なくなっているわけなんです。

だって、そんなものなかったから。
それに気づいたから、ある人々は
それで商売することを思いついた。

だから、ブッダがいると困るんです。
いてはいけないんです。

まに受けて、ブッダだと名乗る人を
嘲笑いながら。
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この回答へのお礼

 yukiyama20さん 次の#23のご投稿も読み合わせてお応えいたします。
 ただいま《Q:イエス・キリストに影響を受けた歴史上の人物や出来事を教えてください》に 投稿したところです。《元真珠湾攻撃隊長・淵田美津雄》をそこで紹介しました。かれは 戦後になって 《父よ、彼らを赦したまえ、その為す所を知らざればなり》ということばに打たれたそうです。

 ところで わたしも《仏狂信者》ではないかと疑ったご投稿に対して お応えしたあと 夢の中に 次のような場面を見ました。(朝に一たんうっすら意識が覚めたあとのことでしたので 厳密には夢とは言えないと思いますが)。

 地獄行きの切符を買ってその旅に出たところ まだ 三途の川にもたどりつかない場所に 大きな池があって その傍らに田を(畑を?)耕作している人がいたのです。わたしを見止めると すぐさま 声をかけてきました。
 ――あなたは こちら方面へは行かない人です。とどまってください。
   このたびは わたしの仲間が阻喪をしてしまいました。どうぞお赦
  しください。
   早速ですが 日蓮の他宗派を誹謗する文句は すべて破棄します。
  人に対して お前は地獄行きだという捨て台詞を教えたのは 間違っ
  ていました。あやまります。反省いたします。人に不快感を与えるこ
  とは わたしたちの本意ではありません。猛省いたします。一から根
  本的に改革します。どうか 寛いこころで見守ってください。
   ちなみに あなたの言う《第三の道》 これは 正直なところ 賛
  成です。じゅうぶんに吟味して 参考にしていきます。
   こういう事情ですので とりあえずは 質疑応答に戻って いまの
  わたしたちの心を 受け止めていただきたいと思います。・・・

だそうです。どういう事情でしょう? わたしも その筋の回し者なのでしょうか? とにかく この夢見を記しておきます。
   

お礼日時:2008/03/12 10:34

涅槃。

安らぎ。ありのまま。

なんでもいい。

苦しみの無くすと言って
幸せになれ、と人を脅す思想。

喜怒哀楽、人間の情を否定する。
その思想。

死に美を見出すその思想。

人は、聖者になる必要など無い。
聖者の心境はわからない。

わかりたくもない。

知りたくもない。

闘争から逃げ、煩悩とともに消失するがいい。
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この回答へのお礼

 説得(折伏)の達成感
 そしてその先輩後輩の成立による上下関係 
 果ては 役職とその権限を持つことによる優越感
 それにからめて ひそかな支配欲を満たしうるという充実(?)感
 けっきょくは 支配欲に支配されたその姿。

 仏教は その手段です。
 全体としては 生活相互応援運動 芋づる人脈増殖活動。 
 権力奪取も 視野に入れているが 無理でしょう。
 甲子園じゃあるまいに 全国制覇というのが どうも 大好物のようです。
 どうでしょう どれくらいの割合で ふつうにまじめな人たちがいるでしょうねぇ? 変質したか 苦しんでいるか。よく勉強する人が おおぜいいるのですけどねぇ。

お礼日時:2008/03/11 08:59

いわゆる仏教徒というのは


人の苦しみを無くすことをめざすという。

つまり、悟らないと苦しみつづけるわけである。
誰だって苦しみは嫌でしょう。幸福になりませんか?
私たちに従いませんか?彼らは言う。

彼らの論理に打ち克つためには、
苦しみを肯定するしかなかった。

この生起消滅する世界。
この闘争の世界。

私はこの世界を愛する。執着する。
この世界を生起せしめる。

構うものか、苦しみ続けてやる。
闘争を。力を。

それでも、誰が涅槃に入るものか。という意志。
これではないでしょうかね。もう。

意志ですよ。
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この回答へのお礼

 直前の回答に対するお礼で あなたと同じようなことを口走ってしまっています。
 言われるままに 地獄行きを受け容れました。そうしないと 相手の方は 自分の自己(自然本性)を回復し得ないと思うからです。わたしも けっこう ジヒ深いニンゲンですねぇ。

 ただし 一点 異同の異があります。
 《わたしは すでに涅槃に入っています》です。いかがでしょうか。
 (まぁ 逆も真なり / または 対極は相い通ず といった程度であるかも知れません)。

お礼日時:2008/03/11 08:48

貴方も理論ばかりを振り回す舎利佛みたいな人ですね,釈迦は法華経で舎利佛の過去の姿を述べられ破折されています。

理論は何の役にも立たないことは前に述べました。全てが現証のみなのですよ。地獄の姿というのは死んでからのことではなく,現当二世の姿なのです。命の状態のことです。まあ,貴方にいくら言ってもむだでしょうね,逃げてはいませんよ,可哀想な人だと思いますからね。貴方が正しいのか,私が正しいのかは現証で将来はっきりと証明されますから,もう一度言いますね,理論で理解しようとしても貴方では無理です,付属を受けていないから。一生迷いの生命で苦しまれるといいでしょう。苦しみぬいて初めて判ると思いますよ。私の言ったことがね。百万言の理論よりも一つの実証には過ぎずです。
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この回答へのお礼

 わかりました。シャーリプトラなど足元にも及ばない理屈王子です わたしは。いえ 謙遜すべきですね。理屈魔です。

 あなたに言われるまま 有り難いご教示に従って では 地獄行きの切符でも買いましょう。すぐさま出発します。帰ってきたら また報告します。では さようなら。

お礼日時:2008/03/11 08:43

補足の解答を致します。

釈尊も五百塵転功という過去に仏になったと書かれています。では何を持って仏になれたのでしょうか?サンスクリット語でナムサダルマフンダリキャソタランガその答えで,それ以外には無いのです。法華経は今はその功力はありませんから,いくらやっても成仏は出来ません。これについては日蓮大聖人御書全集に全ての事が書かれておりますので勉強されればいいと思いますよ。信心は疑わざるを信と言うとおり理論や屁理屈ではありません。現証が全てであり貴方も何も得ていないのに得た様に思う人にはならないようにしてくださいね。私も49年間信・行・学をしてきましたが,機根には上・中・下根があり私は下根なのでしょう。この事についても書かれていますので参考に,誤った信仰をすれば地獄に堕ちますからくれぐれも御用心を,それではこのあたりで失礼しましょう。
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この回答へのお礼

 補足要求にお答えくださってありがとうございます。

 ただしまた 直前のお礼欄に書いたように 推測によってですが いわば第三の道が出て来たかと 半ば期待していましたのに 正直に申せば その気持ちは しぼんでしまいました。

 信仰の立ち場であるなら そうであるということを ブッダの所説との対比の上で しっかりと理論的に説明しなければならないと考えます。基本的に無記というのが 信仰に対するブッダの立ち場だと理解しています。

 もう一点は あまりにも安易に 地獄うんぬんと言葉にしがちであるように感じます。やはりwikiの《法華経》の項目には たとえば
 
   さらに提婆達多の未来成仏(悪人成仏)等、”一切の衆生が、いつか
  は必ず「仏」に成り得る”という平等主義の教えを当時の価値観なりに
  示し、経の正しさを証明する多宝如来が出現する宝塔出現、・・・

うんぬんと説明していますが この前向きの態度に逆行するように思われます。わたしが言うのも おかしいですが このあたりの内容に注目してくださいませ。

 失望しました。こう言わないと もう見捨てたことになるでしょう。

お礼日時:2008/03/10 23:19

これは私のプライドなのかもしれないのですが、宗教的なことを自分以外のところに求めたくはないんですね。


教祖が何を言ったとかドグマはどうだとかそういうのは何か違う気がして、
すべては自分の責任の中としたほうが納得がいくしそれこそが本当の宗教じゃないかと思っちゃうんですよ。

それはそうと、この質問に対する回答のようなものは出たんですか。
私が思うところはだいたい書いたんですが。
回答なんかしてねーじゃねーかと言われかねないですけど。
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この回答へのお礼

 なるほど それはそうですよね。
 つまり 信仰の点で わたしと違うところは おそらく わたしは 自分以外のところに 自分に合った文章を見出してしまった / ゆえに その文章にこだわらざるを得ない。あなたの場合には すべて自前だということですね。立派です。《自分の責任》という点では 同じですが。
 《宗教》ということばにも抵抗がありますが それは もう言わずもがなとして わたしの老婆心は もしそのようにすべて自前主義だとすると 人によっては おまえが教祖か?と言ってくるかも分かりません。ま どうってことないですが。

 質問のほうは No.15で ご批判をもらいました。法華経の扱い方が一点 もう一点は よくは分からないですが 次のような思想を持っていらっしゃるのかも知れません。つまり ブッダであるかないかなど 小さなことである。また 経験思想であるか それを超えた信仰の問題であるか これも 関係ない。要は いまここに生きるということだ。生命という神秘でもあれば 人と相い対してどのように振る舞うか・またどう相手を遇するか きわめて具体的な考え方であり身の処し方なのでもあると。
 それを 《無作の三身》という。うんぬんという思想であるらしい。これは 推測で言ったのですが そういう立ち場もありえたかと いま 思っています。もしそうだとすると ブッダを卒業しているとも言えるし ブッダという生命の目覚めということでは その本流であると主張しているのかも分かりません。
 見守っていてください。

お礼日時:2008/03/10 19:41

信仰についてはこれ以上は私の手に負えないので、


引用ですいません。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
信奉者たちが、手柔らかにであれ、手厳しくであれ、おどされ、そして指図されるのを好むというのは、奇妙な事実である。彼らの考えによれば、手荒な処遇はかれらの訓練(霊的な成功のための訓練)の一部なのである。傷つけられ、荒々しくゆすぶられたがろうとする願望は傷つける喜びの一部なのだ。そして指導者と追随者、グルを作り出すのは、あなたがより大きな感覚を欲するからなのだ。そしてこの新たな満足のために、あなたは犠牲を捧げ、いやなこと、屈辱、そして支障を忍ぶのである。こうしたことはいずれも、相互作用の一部であり、それは、真実とは全く無関係であって、そしてそれゆえ決して幸福に行き着くことはないだろう。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
ちょっと耳が痛い。
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この回答へのお礼

 個人の信仰そのものではなく そこから人びとの群れという情況が前提となるいわゆる宗教の問題だと思います。

 それにしても どこからこのように平易にけっこう手厳しく述べた文章を引っ張り出して来られたのでしょう。別にその答えを要求しているのではなく こういった文章(=判断)が 広く目に触れるようになるといいなと思います。

 もう一度それにしても 《ちょっと耳が痛い》のですか? まぁ 広く会社や社会一般のものごとについても 当てはまるところがあるやに思われますので だれもが その責任を負うと言っても言い過ぎではないのかも知れません。

 日本人の世の中は 人と人とが 芋づる式につながっているので それ自体が 宗教のようでもあります。だから グルには弱いのかも分かりません。(しゃれ ですよ)。

お礼日時:2008/03/10 18:01

すみません,貴女は法華経八巻二十八品についておっしやっているのでしょうか?法華経は正法・像法時代に功力があった教えであり,末法である現在は法華経の功力はないことは,経文に説かれているとおりです。

われはブッダなりといっている人はまやかし・盗賊・詐欺師です。法華経はその文底に末法に流布する教えを予言しています。仏とはそもそも私たちの生命の中にある絶対に侵されない無作の三身のことなのです。他にはありません。全て隋自意なのです,金儲けだけの坊主の説法なんかは地獄に堕ちるだけです。

この回答への補足

 takashi-99さん ご回答をありがとうございます。こう言ってはおかしいでしょうが やっとご批判をいただきました。大切に味わってまいりたいと存じます。
 ただし やはりこちらの知識不足でしょうか 総じてみて言って 必ずしも前提が共通であるのではないようにも思われます。今回は あらためてこちらからお尋ねするかっこうになります。

☆ まづわたしは男ですので 《貴女》はないと思います。

★ われはブッダなりといっている人はまやかし・盗賊・詐欺師です。
★ 金儲けだけの坊主の説法なんかは地獄に堕ちるだけです。
☆ これにつきましては そのほかにご説明が見当たりませんので 何ともお応え致しかねます。わたしのこれまでのお礼欄・補足欄に説明していますので どうぞその箇所についていただきますよう お願い致したいと存じます。

 さて wikiの《法華経》
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B3%95%E8%8F%AF% …
の項目では 
★ 法華経は正法・像法時代に功力があった教えであり,末法である現在は法華経の功力はないことは,経文に説かれているとおりです。
☆ というよりも

   この教えを信じ弘める行者は必ず世間から迫害されると予言する
   ・・・「受難劇」の視点も見られる。

とあります。つまりそれほど功力があるというふうにも解されます。詳しい知識の上に立って言っているわけでも じつはわたしも ないのですが もう少しその《経文》についておしえていただけるとありがたいです。

★ 法華経はその文底に末法に流布する教えを予言しています。
☆ たしかに wikiには 

   「文上」(経文の文章をそのまま読んだ意味)よりも
  真実たる「文底」(経文をそのまま読んだだけでは分からない、その
  根底にある真意)が重要という姿勢

について触れています。そこで
★ 仏とはそもそも私たちの生命の中にある絶対に侵されない無作の三身のことなのです。他にはありません。
☆ この《無作の三身》については 分かりません。補足していただけるとありがたいです。
★ 全て隋自意なのです,
☆ これにつきましては 別のサイトで
http://enlighten.fc2web.com/jigage.html(妙法蓮華経如来寿量品第十六)
において 次のような説明を得ました。法華経が 末法においては功力がなくなるというよりは ブッダのおしえの集大成であり しかも対機説法ではなく おっしゃるように 《随自意》の説き語りであると言っています。その部分をも合わせて引用しておきます。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 釈尊は成道後、四十年余り色々なお経を説かれましたが、法華経を説かれる直前に無量義経で次のように宣言されました。

   「悟りをひらいた仏陀として仏眼で一切の諸法をみると一言では言う
  ことはできない。なぜかというと、人々の性質・欲望はそれぞれ不同で
  ある。性質・欲望が不同だから色々に方便をもって説き導いた。それゆ
  え四十余年いまだ真実を説いていない。」

 お釈迦様の説かれた膨大な一切経で、法華経以外のお経は《随他意》のお経といって、相手の機根に合わせて説かれたお経で、法華経のみが《随自意》のお経として、つまり釈尊のお悟りそのものを相手に合わせるのではなく、釈尊の御心のままに説かれました。
 さらに法華経において

  「世尊は法久しくして後、かならずまさに真実を説くべし。」 
  「正直に方便をすてて、ただ無上道を説く。」
  「わが説くところの諸経、しかもこの経において法華最も第一なり。」
  ………等、

つまり法華経は釈尊の悟りそのものであり、そこには最高の真理が説かれているわけです。
 中でも如来壽量品第十六に、釈尊の壽命は始まりも無い久遠の昔より未来永劫まで無量であり、今も常に滅せず我々衆生を仏道に入らしめ、仏に成らしめんと大慈大悲で教え導いてくださっているということが説かれています。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
☆ すなわち もしおっしゃるような法華経のあり方であるのならば この《随自意》のおしえが 二通りあることになるのでしょうか。つまり 法華経の《文底》の内容と そして そのような《文上・文底》を超えた新たな随自意としての《無作の三身》との二通りなのでしょうか。是非 お伺い致したいところです。
 このようですが よろしくお願いいたします。

補足日時:2008/03/10 17:49
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Q人となりの使い方

「○○さんの人となりってどんな感じ?」
と言う使い方は合ってますか?

Aベストアンサー

間違っては、いないのですが、
相手が、なんて?人となりって?
みたいに、「人となり」が分からない場合が
あるので、「人柄は、どんな感じ?」や「性格は、どんな感じ?」
のほうが良いと思います。

Q人となりとは

ふと、疑問に思ったことですが
「人となり」の示す範囲とは?
辞書には
(1)生まれつきの性質
(2)体つき
みたいに書かれていますが
実際は、その人の思想傾向を示す場合や
経歴、財産までも含めるように使われる場合があります。
では、本来の定義はどうなのでしょう?
宜しくご回答ください。

Aベストアンサー

 人となり、は「為人」と書き、もとは漢文で用いた言葉です。故人の評伝や歴史書などによく出てきます。
 もっとも一般的な用法は「生まれつきの性質、性格、性向」といったほどの意味です。しかし、むかしの中国人の考え方は、「その人の持って生まれた性質や性格が発展してその人の思想が生まれる」というものでしたので、そこからさらに発展して思想傾向といった意味でも用いられることがまれにありました。それをさらに拡充させたのが「経歴、財産、思想傾向」までを含めてしまう現代語の用法ですが、これはやや首肯しがたい部分があると思います。
 「為人」は「その人がその人である根拠・要素」といったような意味ですから、性質、性格、拡大しても思想、哲学、人生に対する態度、というところまでが至当ではないでしょうか。なお、体つき、というのは、所謂名は体をあらわすという発想で(体の大きいやつは勇敢、とか)、漢文ではしばしば外見が描写されます。それが性格描写に結びつくために「人となり」一語でまとめられるわけです。


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