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教唆犯と共謀共同正犯について質問いたします。
共謀共同正犯を認める趣旨は、犯罪の黒幕的人物を教唆犯ではなく正犯として罰したいということからだと思うのですが、刑法61条によって教唆犯にも正犯の刑が課されるのですから、黒幕を教唆犯と罰すればそれで足りるのではないのでしょうか?同じ刑が課されるにもかかわらず、共同正犯と教唆犯を区別する意味というのはどういうところにあるのでしょうか?黒幕を教唆犯としても、実行犯以上の刑を課すことも可能なわけですし。。
どうか、ご回答おねがいいたします。

A 回答 (3件)

明治の末頃に制定された刑法は、旧憲法と同様、新興ドイツを模範としているようです。

当時のドイツ刑法は、今でもそうでしょうが、非常に理論的な対立が喧しく、そんな議論が何の役に立つんだい?と聞きたくなるほど、概念的な議論が多かった。

当然、正犯とは何か、共犯とは何かなど、「概念」を巡って論争します。その頃から日本の刑法学者は、もうほとんどヨーロッパ刑法学の論文を読み漁り、それを翻譯して我が国に持ち込むのが仕事になったでしょう。今でもそうじゃないですか?まぁ軸足は大西洋から太平洋に移りましたが。結果無価値だとか人的違法とか、素人が聞いても分らないような概念を振り回して得意になるのが学者の仕事というものです。

共同正犯と教唆犯も、共同正犯は正犯ですから自分で実行行為を行うもの、教唆犯人は自分では実行行為を行わず、いわゆる修正された実行行為(教唆行為)により犯罪に加功するものという基本的な区別があります。基本犯の実行行為は修正された実行行為より重い犯罪行為の類型ですから、あとで違法性や責任という細かいことを見るに先立ち、ひとまずきちんと概念的に振り分けておかなくてはならないというのが筋道になるでしょう。

法定刑はヨーロッパでこそ大きな意味を持ちます。かの地の裁判官は国王領主の手先として国民市民を弾圧した歴史を持つため、国民の代表である議会が、裁判官に量刑の裁量を委ねる場合の足かせが法定刑です。当然、正犯の法定刑と教唆犯の法定刑は前者の方が重いのが普通です。

ところが我が国の場合は、かの地とは異なり、刑事民事の裁判はむしろ市民の治安と福祉のために行われました。民生に無頓着な平安時代など、二百年以上に渡って公的な死刑が行われなかったことがあるほどです。このため裁判官に対する信頼の厚い我が国では、裁判官の裁量を広く許し、法定刑も極めて大雑把に定めました。その結果、法的な根拠付けよりも量刑の妥当性こそ重要だということになるのでしょう。ただそこまで言うと、じゃ刑法学者は要らないんじゃないかという話にもなりかねませず、おあとがよろしいようで。
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この回答へのお礼

含蓄に富む解説をありがとうございます。

法定刑の意味づけが、ヨーロッパと日本では歴史的理由から大きく異なるということは興味深く、大変勉強になりました。

丁寧に回答してくださって本当にありがとうございました。

お礼日時:2008/03/20 01:43

日本では判例上、伝統的に教唆犯を認めにくいような土壌なので、共謀共同正犯概念を使い馴染みがあるために好んで使われるようになったのではないでしょうか。



また、黒幕というとどうしても配下のものをあたかも自分の手足として使うかのような、他人の行為を自己の手段として犯罪を実現するものであり、教唆や幇助だけでは評価し尽くせない共謀性が散見されるはずです。

故に、60条が『共同して犯罪を実行した』と規定しているのは、共同意思に基づいて実行したことを指し、実行行為が共同のものと認められればよく、共謀という強い心理的因果性を要求することで、形式的な共同実行を要せず、共同正犯を認めればいいのではないでしょうか。

法慣習上、教唆概念を持ちいずらいので、滅多に使わないようにすればいいだけで、無理して教唆概念を使わないという方向性でいいのではないでしょうか。
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この回答へのお礼

ご丁寧な回答をどうもありがとうございました。

確かに、司法統計をみても教唆犯と幇助犯は正犯に比べても圧倒的に少ないんですよね。

刑罰だけの問題だけでなく、やはり犯罪を正確に評価するに当たっては教唆ということだけでは捉えきれないものがあるんですね。

どうもありがとうございました。

お礼日時:2008/03/17 23:54

どこにも意味はないと思いますね。

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