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私は以下のように考えて「心は社会的現象」と思っています。皆様、いかがでしょうか。

一般的な理解では、心は脳内現象(デカルトの心身二元論:「私」=身体+心)。でも、ようく考えてみると心は単なる神経細胞脳細胞の反応ではない。我々の心の大部分は記号(言語、美術、音楽その他)によって枠組みが形成されているからである(俺の言うところの記号世界)。

そして、記号とは社会的規約(将棋の駒=記号の意味は将棋におけるその使用規則と使用例)である。とすると、心は社会的現象ということになる。つまり、

 「私」=身体(物理的化学的現象)+心(社会的現象)

という等式が成立する。換言すれば「心は身体内に生じている社会的現象」である。

だから、宗教において、心を無化する(仏教)とか神に帰依する(キリスト教)などという教えも成立する。脳内現象ではなくて社会的現象だからこそ、心を無とか神とかの記号に結びつけられるのである。もっと端的な別の例を挙げると人々の心の相互理解・相互影響も心が社会的現象であることの証左となる。

こんな単純なことに到達するのに西洋哲学はプラトン以来二千数百年を要した(聡明で健気な貴女に捧げる哲学史(5)自然に帰れ参照)。

A 回答 (7件)

私は何も考えないで頭を真っ白にする特技があります。


自らの心について実験といいますかいろいろな試行錯誤をしていますが、無意識と言うのは個人を超えた心のつながりを持っていまして確実にテレパシー能力があります。
試行錯誤の途中で偶発的に主観そのものがテレパシーを自覚したことがありますが、これは進化した特異能力でなく一種の病理でした。
心の社会現象というとこの無意識のテレパシー能力を連想します。
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この回答へのお礼

なるほど。そんな連想もあり得ますね。

お礼日時:2008/03/27 09:47

 人間という依り代は肉体に存拠するのですから、脳みそや脈絡、肉体のあらゆるものが、関与するのは当然だし、社会的なものであれ、個人の意識範囲の事柄などで、言語表示が不可能或は、wakefull意識の把捉、気付きの視野からでていても、当然に社会的存在物でしょう。

意識も社会意識、分化、信仰、宗教も。心理という個人の内面的現象かのようなものも。社会を、一般を除去しても心の現象がどこにありましょう。
 私達は西洋の論理ではありませんが、超越神が半月の照らす側で意識を表す。これが創造の意識となって、自己を反射する。シミュラクラ現象ににているが。見つめる、そして創造する。
 その第一の顕現がことば、vibration、オウム。そしてそこに一人子が創造される。だから、三位一体は父とこと聖霊であるが、ヒンドゥ的にはオウム、タート、サートとなる。
 この一人子が、普遍意識(クライスト意識)であり、実はそこからみながきているのだから、本来みな同じ身である。一つの実体を構成している。心とはそういうものの中の波、風の現象に過ぎない。
 となるようです。個別意識は個体としての意識で、それは全体一なる意識があっての存立となるようですね。
 当然みなの心と共鳴しあいながらの現象と内容となります。
 極く当然のことのように存じますが。それがその通りだと確信してくるにはずいぶん長い勉強と実践が要求されるものです。
 少なくともこの愚者には洵に長いことでしたし、まだこれからです。
 みなの中の私、私達でしかありませんよね。心も何も。でも個人の内部的なこととは存続するのですね。個別化と個別性の維持が創造の原理ですものね。ヴァラエティ、本当は単純。一つ。全く騙しや、手品師。
 いえ父たる創造の神に対する、悪口ですが。今もここでご覧になっておられますよ、私の延髄の後ろから。
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「心は社会的現象である」という命題は


現代の社会学,心理学,あるいは認知科学の研究者のあいだでは
ある程度共有された認識ではないでしょうか。
「私」=身体+心という二元論的発想や,
心が「身体内に生じている」とする見解には異論が出そうですが。

「心は脳の中で生じている」とか
「脳がわかれば心がわかる」とかいった類の
通俗脳科学に毒された言説が巷に溢れていますが,
このような短絡的発想を「脳バカ」と斬って捨てる
こころある(こころない?)研究者は実在します。

一方で「心の社会性」なんてことを言い出すと,
物質とは別の何か霊的なものを想定しているかのように勘違いする人がいるようですが,
これは誤解です。
一元論的世界観に立脚しつつ心の社会性を受け入れることは可能です。
心的表象(記号)の存在論的地位についてはまだまだ論争が続いていますが。

下記のサイトや文献も参考になさってください。
立脚点はそれぞれに違いますが,
心を脳の中に閉じ込めないという点で共通しています。
最後のものが質問者さんの視点に近いかもしれません。
すでに御存知でしたらごめんなさい。

■グローバルCOE「心の社会性に関する教育研究拠点」
 http://lynx.let.hokudai.ac.jp/CSM/

■<心>はからだの外にある/「エコロジカルな私」の哲学
 河野哲也(著)
 NHKブックス
 http://www.nhk-book.co.jp/shop/main.jsp?trxID=01 …

■考える脳・考えない脳/心と知識の哲学
 信原幸弘(著)
 講談社現代新書

■「心」はあるのか
 橋爪大三郎(著)
 ちくま新書

■心の社会的構成/ヴィトゲンシュタイン派エスノメソドロジーの視点
 J.クルター(著),西阪仰(訳)
 新曜社
 http://www.shin-yo-sha.co.jp/mokuroku/books/4-78 …
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この回答へのお礼

心強くなる情報をどうもありがとうございました。参考文献等、機会があれば読んでみたいです。心より出でて心に還り来む意味を求めてめぐりし後に

お礼日時:2008/03/24 08:30

 《心》ないし《わたしによるわたしの・そしてわたしを取り巻く環界の認識およびそれについての判断》が 《脳内現象》であって 同時に 《社会的現象》であるというのは ふつうのことだと思います。

それ以外にないと考えます。ということで いわば 斜交いからの補足要求のような文章を提出します。

 《自然本性なる存在》として その《身体を基体とした精神のあり方》をめぐって こういう議論が出来るかと思います。

 アウグスティヌスの《われ あやまつならば われ有り》から デカルトが 《われ考える ゆえに われ有り》を導き出したことには 独自性があると パスカルが 議論しているところです。主体のあり方がどうであるかの問題です。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 わたしは公正な人々に尋ねたい――とパスカルは言う―― 《物質は自然にかつ絶対に 思考する能力を持たない》という原理と 《わたしは思考する ゆえに わたしは存在する》というそれとは 果たしてデカルトの精神においてと 同じことを千二百年前に言った聖アウグスティヌスの精神においてと 同一であろうか。
(パスカル:《幾何学の精神について》2.1657)
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 パスカルは デカルトの《コギト エルゴ スム》という《原理》は アウグスティヌスの《われあやまつなら われ有り(われ欺かれるなら われ有り。 Si fallor, sum. )》の焼き直しであるが 独自性があると言おうとしている。
 アウグスティヌスの語るところは たとえば次のようである。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 だから 精神は自己自身をよく知るようにという命令を聞くとき 自己自身をよく知ることに何ものも付加してはならない。
 ・・・だから精神は 知解力が存在し 生きるように 自己が存在し 生きることを知っている。だから 例えば 精神が自己を空気であると思いなすとき 空気が知解すると思いなすのである。しかも 精神は自己が知解することを知っている。精神は自己について思いなしているものを分離せよ。自己について知っているものを認めよ。

  * 念のために この点についてのデカルトの文章です。――
  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
   そして最後に われわれが目覚めているときにもつすべての思想
  がそのまま われわれが眠っているときにも またわれわれに現わ
  れうるのであり しかもこの場合はそれら思想のどれも 真である
  とはいわれない ということを考えて 私は それまでに私の精神
  に入りきたったすべてのものは 私の夢の幻想と同様に 真ならぬ
  ものである と仮想しようと決心した。
   (方法序説 4)
  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

 それにも拘らず すべての精神は自らが知解し 存在し 生きていることを知っている。しかし精神は知解することをその知解するものに関係づけ 存在することと生きることを自己自身に関係づける。

 さて 生きていないものは知解しないし 存在しないものは生きていないことを誰も疑わない。

  * この点をデカルトは 《物質は自然にかつ絶対に 思考する能力
   を持たない》と言ったと パスカルは書いていた。

 だから 必然的に 知解するものが存在し 生きていることは 生存しない死体が存在するようにではなく また知解しない動物の魂が存在するようにでもなく 独特な したがって卓越した仕方による。・・・
 さて 生きる力 想起する力 知解する力 意志する力 思惟する力 認識力 判断力が 空気(あるいはその他の元素)であるのか・・・どうか人々は疑ったのであった。或る人はこれ 或る人は他のことを主張しようと努めた。それにも拘らず 自分が生き 想起し 知解し 意志し 思惟し 知り 判断することを誰が疑おうか。たとい 疑っても生きており 疑うなら なぜ疑うのか 記憶しており 疑うなら 自分が疑っていることを知解し 疑うなら 彼は確実であろうと欲しているのだ。疑うなら 彼は軽率に同意してはならないと判断しているのだ。それゆえ 他のことを疑う人も精神のこのすべての働きを疑ってはならない。もし この精神の働き(または《わたし》)が存在しないなら 何ものについても疑うことは出来ないのである。・・・
  (アウグスティヌス:三位一体論10・10 c.399-421)
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

  もう少し つづります。途中に差し挟んだ引用文のあとつづけて デカルトが
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 そうするとただちに 私は気づいた 私がこのように すべては偽である と考えている間も そう考えている私は 必然的に何ものか〔の存在〕でなければならぬ と。そして 《私は考える ゆえに私はある》というこの真理は・・・
(方法序説 2)
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
と書いたことは よく知られているところである。

 これらに対してパスカルは このアウグスティヌスからのデカルトの独立性を ある別の議論(つまり幾何学と論理学との関係について)の途中に一例として 軽く触れた。
_________________________________________________________
 デカルトがこの偉大な聖者(アウグスティヌスのこと)を読むことによって初めてそれを知ったにしても 彼(デカルト)がそれの真の唱道者でないということは わたしには実際 思いもよらぬことである。・・・なぜなら デカルトがその志向において果たして成功したと想定し この想定の上に立って この言葉が彼の書物にあっては 他の人々が偶然に言った同じ言葉と違っていること あたかも生命と力とに満ちた人間が死人と違っているのと同様であると わたしは言いたいからである。
(パスカル:幾何学の精神について 2)
____________________________________________________________
 パスカルは アウグスティヌスが 上に引用した文章のことばを《偶然に言った》と述べて けなしているのだが 大目に見ておきましょう。
 
 アウグスティヌスは 紀元四百年前後を生きた人です。
 かれから得た社会的現象の概念図を示してみます。
* * * * * * * * *
身体〔の運動〕・・・・・精神・概念(記憶・・・・・知解・・・・・意志)
・・・・・・・・・・・・・・・・・↓・・・・・・・(↓・・・・・・・↓・・・・・・・↓)
[市民/市民社会]
個体・・・・・・・・・・・・家  族 ( 秩序・・・・・労働・・・・・・愛)
社会主体・・・・・・・・自治態勢(自治組織・・〔生産〕・・共同自治)
経済主体・・・・・・・・生産態勢(組織・・・・・・生産・・・・・・・経営 )
政治主体・・・・・・・・・↓ ・・・・・・・↓・・・・・・・・↓・・・・・・・・↓ 
[公民/公民圏] ・・・・・↓・・・・・・ ・↓・・・・・・・・↓・・・・・・・・↓
社会科学主体・・・・・社会形態(社会組織・・経済活動・・・政治 )
 〃・・・・・・・・・・・・・(国 家 : 司法・・・・・立法・・・・・・・行政 )
* * * * * * * * * * *

 そうして 質料(もの)や動物が考えないと言っているからと言って 質料で出来ている人の身体も 考えるところの精神とは 切り離されていると取るのではなく そうではなく 身体と精神とは 肉において この世の存在として 一体であると取ってください。その意味は 肉(身体と精神)が この世に属さない何ものか(たとえば 《霊》と言ったりする)と 区別されているという認識のことです。もしお望みなら そして表現の問題であるという前提に立てば 《こころ》は 上の社会構造のすべてに通じています。
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この回答へのお礼

>身体と精神とは 肉において この世の存在として 一体である
全く同感です。質問に
「私」=身体(物理的化学的現象)+心(社会的現象)
と書きましたが、これは敢えて端的な表現をしたまでで、身体も広い意味では社会的現象となるのかもしれません。

お礼日時:2008/03/24 08:22

と言うことは、意思と呼ばれるものも社会的現象であり、実際には自由意志というものが存在しないということですね。

つまり社会的現象が積み重なることによって意思という名の記号が意味を持ち人々によって理解されるが、社会的現象自体が他人によって形成される為個人で作り上げる自由意志とはなりえないと。
ということで、あなたが意思の存在を信じているならば、あなたの論理は矛盾します。(補足がなければ)
また、身体内の社会現象であるとすれば現実の社会現象との違いをどうやって説明するのでしょう?
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この回答へのお礼

いえ、私は自由意志というものは(何を自由と定義するかという難問は別にして)あると思っています。社会の中における個人の意思や判断は普通にある現象ですから、心が社会的現象であるとしても自由意志が無いことにはならないと思うからです。もっと言うと、社会と個との関係は相互に相手を規定するという関係(ただし、社会の規定力の方が圧倒的に強い)と思っています。
つまりは、社会的動物である人間にとって自由とは、社会的制約の範囲内で追求するしかないものではないでしょうか。

お礼日時:2008/03/24 08:16

私には何故わざわざそのような難解な言葉で説明するのかがわかりません。


人間が、その地域や文化、地球や宇宙など自然のサイクルの枠組みの中で生きているのは当たり前の事なので、ある制約の中で生きているのは当然ではないですか。人間も自然の一部ですから、その人間の心には前提としてそうした規制があるわけです。また、生存していくためや社会的秩序維持のために人間が独自につくりあげてきた社会的なルールも前提として人間を縛っています。他の動物でもそれは同じでしょう。犬だってサルだって社会を形成しています。サルにはサルの社会的ルールや慣習があってその枠組みの中で生きています。それをわざわざ「心は社会的現象」だと言い表すのには一体どういう意味があるのでしょうか。その言い方では、事態をよく説明するのではなく、かえって分かり難くするのではないかと思います。
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この回答へのお礼

なるほど。そういう見方もありまねえ。心は脳内現象だとかデカルトの心身二元論だとかにはまり込んでいるから、難しい言い方をしてそこから逃れようとしている自分に気づきました。ありがとうございました。

お礼日時:2008/03/24 08:09

質問者さまの考え方が、私にはよく理解できません。



>心は記号によって形成される

という定義をしたから、
>心は社会現象である

に結びつけているだけのように感じます。

心が記号であるという根拠は?
記号化できない、だから誰にも伝えられない、自分でもつかめない思いが心にある場合は?
それも「記号化できないという記号だ」というなら、単にそれは言葉のトリックであって哲学ではないような気がします。
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この回答へのお礼

心を知情意に分類すると、私の質問で社会的現象としている心は主として知の部分を指しているという注釈をつけるべきだったと思いました。知の多くは記号として心の中に入ってきた情報だと考えますが、情とか意はおっしゃるように「記号化できない、だから誰にも伝えられない、自分でもつかめない思い」の様相が強いと考えます。
もっとも、情や意にしても知と全く無縁であるはずはありませんが。心ってほんとに難しいですね。

お礼日時:2008/03/24 08:03

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