海外旅行から帰ってきたら、まず何を食べる?

考えていたらどつぼにはまり、さっぱり分からなくなってしまいました。疑問の全容が自分でも掴めていないので、質問に至った経緯を申し上げます。
切欠は、チベットの民族浄化のお話。拷問され、強姦され、宗教を否定され。言葉にするのも躊躇われるほどのひどいことをされたにもかかわらず、ダライ・ラマは「中国人を憎んじゃいけない。どこかで、中国人も罪の意識を感じているはずだ」と言ったそうです。
聞いた瞬間に、その誇り高い精神に泣きそうになったのですが、その言葉を胸に刻み込もうとした時、「あれ? 相手が罪悪感を抱いているという事は、憎しみを消す理由になり得るの?」と、ふと疑問が浮かびました。
あまり関連していない気がする、と思った次の瞬間、どうして関連していないと感じるのかが分からなくなり、そもそも憎しみって何なんだ、と頭を抱えてしまった次第です。

正しい答えなど無いであろう事は重々承知の上で、自分の中でしっくり来る何かを見つけられたら、と思っています。よろしくお願いいたします。

A 回答 (9件)

憎しみは、自らの存在否定につながると感じた時に生まれるものだと思います。



人間は元来、愛情を求める指向性を持って生まれついています。
それはあたかも、人間が愛によってこの世に生まれてきたからであるかのようにも見えます。
このような生が、「存在否定」と感じるのはどのような時か。
本能的には生存を脅かされた時。
自我的には誇りを汚されたとき。
ということが可能ではないかと思われます。
エス(本能)は快を求め、不快を回避しようとします。
自我は得を求め、損を蒙らないように配慮します。
エスや自我には必然的に煩悩も含まれざるを得ませんが、これは生のエネルギーそのものの変形であるだけに、一概に否定すれば良いという性質のものではありません。

ただ、人間は崇高性を希求したいという超自我的欲求もまた持ち合わせています。
これは、言ってみれば他者におけるエスや自我もまた認めていこうとする精神性です。
「>どこかで、中国人も罪の意識を感じているはずだ」
という場合の「どこかで」は、この誰もが持っているはずの超自我を指しているものと思われ、彼の言葉にはその意味での真理が含まれていると言っていいように思います。

>「あれ? 相手が罪悪感を抱いているという事は、憎しみを消す理由になり得るの?」と、ふと疑問が浮かびました。
:「罪悪感を抱く」というのは超自我的な精神性です。
これには同じく(「憎まない」という)超自我で対応しなければ、互いの理解は永遠に得られない。
そういった意味と解釈します。
彼の地の民族浄化は、ナチによるユダヤ人迫害と同様、異質な(と感じる)ものに対する恐れがその原因と捉えています。

噛み付いてきた相手にも、「これでいいのか?」という罪の意識があるという可能性が少しでもあるならば、その精神性に対応する形で応じていかなければ真の解決にはいたらないだろう。
彼はそう言っているように感じます。

迫害された側の感情的には単純に受け入れがたい解釈ですが、たとえば「拷問し返し、強姦し返し、宗教を否定し返す」ことによってどのような解決に至るというのか、ということを考えた場合、彼の言葉に誤謬を見出すのは難しいように思われます。
 
 
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この回答へのお礼

超自我的欲求という言葉を初めて聞いたほどに基礎知識がなっていないので、頂いた回答の全てを理解出来ているわけではないと存じますが、その言葉で新しい概念が生まれて、疑問がほどけていくのを感じました。
それにしても…真の解決に向けての統治者からの言葉である、という根本を失念していたとは。件の残虐性に気を取られて(というのは言い訳に過ぎませんが)、言葉の意図を理解する前に意味を(一文目と二文目を混同してしまうという形で)考え込んでしまったのが、違和感・混乱の原因だったように思います。
とてもスッキリしました。ご回答ありがとうございました。

お礼日時:2008/03/29 23:32

「憎しみ」と「嫌悪」は意味が大きく重なっていますし、単に強弱の度合いに差が感じられるようでもあるのですが


「憎むとは少し激しく思うことかな」
ということばを、むかし何かで目にしたことがあります。
恋愛感情のようなものとは一見、正反対のようですが、相手について激しいまでの関心を抱き気持ちを向けていることに違いはないのですね。
そのことを自覚しているのかいないのか、到底、愛や恋のような+の感情とされている思いを向けてもらうことがかなわぬ願いであることを怒り悲しむ人が、相手から殊更に憎しみの感情を誘発せんばかりの言動、行動に訴えるというような現象も見られます。
愛がダメなら、せめて憎しみを。無関心よりは憎しみのほうがマシ。
そのくらい、無関心は、ある種の人にとって最大の冷酷な仕打ちなのです。

これまでの各御回答や、それへの御返事からですが
「憎しみの根元の自己憐憫」
「怒りの元はみんな哀しみ」
その哀しみや自己憐憫は「守られて当然の権利を侵害」されたと感じることから起きるとしたら、次に考えなければならないことは、何が「守られて当然の権利」かということです。「当然」の範囲を確定しなければならなくなります。そこを検討するときに、願望や欲望の妥当、不当を問われることになります。その妥当性、不当性をどう判断するか、どう意義付けるのかに、自ずと、その人の人柄や内心の価値観などが表に出てしまいます。

この御質問は、どちらかと言えば哲学カテゴリーにふさわしいかな、と思いましたが「相手が罪悪感を抱いているという事は、憎しみを消す理由になり得るの?」ということが直接の御尋ねになるということでしたらANo.2様の
>相手が攻撃するにふさわしくないと気づいたとき、憎しみは弱くなります。

これは私自身も個人的情況において実感してきたことです。
たとえば親の、子である私に対するあらゆる理不尽さの陰の、彼らが幼少時から抱え込んできた苦しみや、やりきれなさを少しずつ理解することで、私自身の、やり場のない怒りや苦しさを緩和してきました。
それでも、同じ親のもと同じ家庭のなかで育ち、障害を持つ私より世渡りし易いはずの兄弟姉妹でも、自分のなかの割り切れなさを持て余して荒んだ生活をおくり、連鎖させるかのように自分もまた自分の子を苦しめた者もおりますし、辛うじて、それらを避け、ひとまずは人並み以上の生活を築き上げることに成功したかに見えながら心底の苦しみに堪えきれず自死した者もおります。この者は、自分が受けた理不尽な仕打ちの陰に潜む相手の未熟さや未消化の苦しみを、私がどんなに説明しても、自分の苦しさを盾に、頑として受容しようとはしませんでした。
同じ親の血を引き同じ家庭で育っていても、かくも個々の差がある。ましてや世のなかの人々ともなれば。。。
憎しみを持つ相手は大概、自分よりも立場が有利とか或いは少なくとも同じくらいの力があると思われるものです。つまり自分に圧迫感を与えてくる存在。その圧迫感が不当であるとか不快であると感じられるとき憎悪の感情が起きてきます。
ところが時の流れと共に何かのおりに思いがけなく相手の立場や力が自分を下回っていることに気づいたとき、または何らかの面で自分よりも下回っているらしいと気づいたとき、それまでの憎悪の感情は拍子抜けし、逆に相手への憐れみや共感に変化することがあります。これは自分に対して向けられていた圧迫の理由が分かり安心するからでしょうが、その理由が分かってもなお相手の言動、行動に目に余るものがあると、今度は侮蔑感や或いは不気味さに転じることもあります。こうなると、相手に、それを感じさせてしまった者の孤立は決定的になってしまいます。
なお、理解能力が極端に低い人は、自分に似ているかどうかで何でも判断してしまおうとする傾向がありますから、こういう人が自分に似ていると思える面が相手に見つけられない(投影をさせてもらえない、と言い換えることもできるかもしれません)となると、いかにも不気味な存在、と恐怖を感じるようです。こういう人は永久に相手からの脅威を逃れることができません。

ところでダライ ラマ猊下14世はチベット仏教の教主のみならず政治的な権限を代表するお立場でもいらっしゃいますから、その御発言も、なかなか個人の感情剥き出しにすることが許されませんでしょうし、長年の宗教的修行や政治的地位によっても、その発言と利益との兼ね合い、影響といったことを重くみていらっしゃるはずと思います。ですから
ANo.5様の
>チベット人に対して高い精神性を喚起して暴力的直接行動を抑制し、中国人にも国際社会にも非暴力であることを表現
とはいえ二度と同じことが起こらないようにするのは当然で
「どこかで中国人も罪の意識を感じているはずだ」はチベット人への慰めというより、中国人に対して罪の意識をもって同じことをやるなと言っている

ということは当然、含まれているだろうと思います。
そして、それを実行すること、それによってチベット人の精神的高さと中国人の行動との対比を、冷静な第三者としての国際社会に見せつけるという政治的計算性も垣間見えると言いましたら穿ち過ぎになるのでしょうか。

孤高の精神性には敬意を感じます。しかし現実社会において大事なことは、重大な誤りをただし、連続させない連鎖させないこと、これを実現させなければなりません。
それにダライ ラマ14世の発言のなかに「罪の意識を感じているはず」と、中国人は確かに罪深い行動をしたのだということを明言しておられます。
問題は、中国が自分のとった行動を「罪深い」ことと認めるかどうか、何よりも二度と繰り返さないということによって、その認識を証明するかどうかです。そのことが実現されなければ、自分さえ気高くあれば、というのは単なる個人主義になりかねないかもしれません。

度外れに欲深い人というのはいます。こういう人に「そうでしょうとも、そうでしょうとも」と譲ってばかりいると際限がないこともあります。こういう人は、その欲望の強さに現れているように生存欲求も非常に強い。しかし、それはまた強迫的なまでに、弱いと感じていることの裏返しでもあるのです。ですから、こうした強迫的完ぺき主義的不安の持ち主を、独力で改めさせるには、暴力的なまでに強制的手段でも講じる以外、大変に困難です。したがって、国際的規模での働きかけが重要になります。それに先立ってチベット人民が中国顔負けに暴力的手段に走ってしまっては国際社会の共感を削ぐことになりかねません。いまチベットにとって、そして中国にとっても、必要としているのは国際社会の聡明な協力でしょう。
ダライ ラマ14世の御発言には、そのことも含まれているように思います。

(ついでに私個人は、最低これは、やっちゃいけないという基準を比較的明確に持っていますし、そのことに関して間違いがあったときにはハッキリと自他共の認識を確認します。認識を徹底する努力と共に、認識に反した行いが繰り返された場合には容赦しない基本方針です。これは、個人的欲望の強烈な人がやると危険で始末の悪いもので、また、そういう人が往々やりがちなことでもあるのですが、本来は自他共に大事なことであり、だから個人的な大欲を基底に据えていてはいけないのだと思います。
オプションを標準だとか義務だとか言い出すと必ず大問題になります。)
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この回答へのお礼

憎しみへの疑問を抱いて最初に調べたとき、「愛の反対は憎しみではなく無関心」という言葉を見かけて、その時は意味が分からなかったのですが、今は何となく分かる気がしました。人は人との関わりなくしては生きられませんものね。
投稿するときに少し迷ったのですが、矢張りカテゴリー間違えていましたか。浅学故の愚かなミス、申し訳ございません。ご教示ありがとうございます。
「それまでの憎悪の感情は拍子抜けし」なんだかしっくり来る表現でした。”少し激し”い思いが消える瞬間にしては、あっさりしすぎているのですよね。
理解の後でも行為が目に余ると、「侮蔑感」―これは、憎しみでなく嫌悪の類でしょうか。理解力が極端に低いと不気味に思う…そういう方は、不気味に思う物が多すぎて過敏になってしまいそうですね。
中国の方は根本的に「一度悪になった物は最後まで悪」という考え方をお持ちだそうです。チベットの方が中国にとってどう悪なのかはさておき、そういう思考がある限り、穏便な事態の解決は本当に難しそうですね…。国際社会の協力により、彼らの行動が独りよがりにならないことを願います。
言葉の咀嚼に時間が掛かり、お返事遅れてすみません。色々なことを考える機会を頂け、充実した思考を楽しめました。社会問題まで言及した丁寧なご回答、貴重なお時間を割いていただき本当に有り難うございました。

お礼日時:2008/03/30 13:46

最近、無差別殺人のニュースが毎日のように報道されています。


先日も、岡山市のJR岡山駅ホームで、大阪の少年18歳に突き落とされて死亡した県職員38歳の記事に、ああまたかと驚くばかりでした。しかし、この被害者の父親のインタビューを聞いて、眼から鱗でした。「早く、罪を償って、更生しこれからの社会のためになる立派な人間になって欲しい」と。
心の中では、憎しみでいっぱいだったでしょう、悔しかったでしょう。ふつうなら息子を返せと怒鳴るところでしょうに、立派な親がいたものです。憎しみは人間なら誰でも起こります。しかしいつまで憎んでいたところで、何の前進もないということをこのお父さんが教えているようです。桜のような人に出会った気持です。
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この回答へのお礼

岡山の事件、私もニュースを見ました。あのお父様のじっと耐えるような声。感情をぶつけてしまいたい衝動をお抑えになっていたのですよね。桜のような人―素敵な比喩ですね。ご回答ありがとうございました。

お礼日時:2008/03/29 21:34

「憎しみは憎しみによっては止まず、ただ愛によってのみ止む」


たしか法句経(ダンマパダ)の一節です。

仏教徒の人がいくら理不尽でも憎むなというとき、
この一節を思い出します。

…彼らのロジックは忘れましたから正確なことはいえませんが
貪瞋癡の三毒は…無明が原因だそうですから

なによりも、自分たちがしていることを知らないでいること。
それこそが、苦しみの原因であると。

怒りや憎しみはそこから発生する。

チベットの人たちが憎しみに耐えて慈悲を保ち
中国の人たちが自分たちがしている行為の罪深さを知り
チベットへの迫害を止めるのならば…

全て解決するのかもしれませんね。
でもどうなのかな…と思います。

あまりに人の善を信じている…
いや…。これ以上いうのはやめます。

とりあえず、何よりも罪深いのは知らないでいること。
知らないで苦しむこと。なのでしょう。
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この回答へのお礼

仏典の中にそんな一節があるのですね。三毒…字から察するに、貪欲・怒り・愚かさでしょうか。
真理を知らないが故に瞋を抱く。相手を知り耐えることで相手に知る機会を与え、いつしか……うう、言葉に詰まります。
根本的に、とても優しい方々なのですね。そういえば、彼らは太平洋戦争の時にも(アメリカに協力を要請されたにもかかわらず)中立を保っていてくれたと聞きました。
仏教には疎かったもので、とても為になったと共に、考えさせられました。ご回答、ありがとうございました。

お礼日時:2008/03/29 21:16

自己保存を害されたとき、それを排除し、さらに、二度と同じことが起こらないように対処する動機とその行動の原動力になるのが憎しみでしょう。

これを持たない個体は生き残ってこれなかったのです。
そもそも、憎んではいけない、と言っても制御できるものではありません。物事に対して自然発生するからです。「憎しみを顕わにしてはならない」なら解りますし、憎しみはあって然るべきなのです。
にもかかわらず、「中国人を憎んじゃいけない」というのはチベット人に対して、これを統御する高い精神性を喚起して暴力的直接行動を抑制し、中国人にも国際社会にも非暴力であることを表現しているのでしょう。
とはいえ、二度と同じことが起こらないようにするのは当然で、
「どこかで、中国人も罪の意識を感じているはずだ」はチベット人への慰めというより、中国人に対して罪の意識をもって同じことをやるなと言っているのだと思います。
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この回答へのお礼

憎しみは言われたところで制御出来る物ではない、その通りだと思います。
それぞれの文すこし切り離して考えるのですね。一文目は自分たちの統御と、相手・国際社会への“表現”。二文目は戒め……でしょうか。少し違う視点からのとらえ方、参考になりました。ありがとうございました。

お礼日時:2008/03/29 20:44

 憎しみとは、してくれて当然だと思った事をしてくれなかった、守られて当然の権利を侵害された時に発生します。

つまり、期待を裏切られたとき、人は憎むのです。憎めば復讐しようとします。だから、憎んではならないと、ダライ・ラマは言ったのでしょう。言い換えれば、復讐してはならないと、言ったのです。その期待が、相手の事情を鑑みて、抱いて当然かどうかを省みれば、また復讐することが事態を解決することになるかどうかを考えれば、憎しむ必要は無いと言っているのです。憎しみでなければ、ただの嫌悪です。ただの嫌悪ならば、復讐に結びつく感情ではありません。
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この回答へのお礼

憎しみの発生条件、とてもわかりやすい説明ありがとうございます。思わず「あ、そうかも」って呟いてしまいました。
私以上に私の疑問の核心に迫っていらっしゃるようで、有り難いです。道筋が見えてきました。復讐―攻撃的な衝動を伴わない負の感情は、憎しみにはなり得ないのでしょうか。嫌悪と憎しみ、もう少し自分でも煮詰めてみます。ご回答ありがとうございました。

お礼日時:2008/03/28 23:50

憎しみをもっと大きな愛で包みましょう ということでは無いでしょうか?


本当に芯が強い人間にしか、こういう発想はできないと思います。
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この回答へのお礼

憎しみを大きな愛で……私には難しい発想です。ですが、相手はダライ・ラマ。そこから生まれた言葉である可能性も否定できませんね。本当に心が強い人間、同感です。ご回答ありがとうございました。

お礼日時:2008/03/28 23:33

私は、常に威圧的でな父を憎んでいました。

また、私を完全に見下し、虐待した学校の先輩を憎みました。それは、自分に大きな不利益を与えたり、傷つけた人への防衛反応だと思います。攻撃することにより防衛しようとしているのだと思います。しかし、相手が攻撃するにふさわしくないと気づいたとき、憎しみは弱くなります。
父が仕事でトラブルを抱えていて、精神的にまいっていたことを知ったとき、そのような人を攻撃する気にはなれません。その先輩が、不良に脅されていたと知ったとき、先輩を攻撃することはふさわしくないと感じました。
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この回答へのお礼

ryusei2さんの文章を読んでいるだけで、私の中でも勝手に芽生えていた先輩方への苛立ちが消化されるのを感じました。
ダライ・ラマの言葉への理解が深まり、自分のわだかまりが一つほどけた気がします。貴重な立場からのご意見、わかりやすい例をありがとうございました。

お礼日時:2008/03/28 23:29

憎しみは形を変えた自己憐憫じゃないでしょうか。

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この回答へのお礼

おーなり由子さんの著書に「怒りの元はみんな哀しみ」という一文があり、とても感銘を受けたことを思い出しました。なるほど、同じように、憎しみの根元に自己憐憫があるものなのかも知れませんね。ご回答ありがとうございました。

お礼日時:2008/03/28 23:21

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