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 以前の質問において 次のような仮説を捉えました。それの吟味をしたいので お尋ねします。

 第一次に《こと=事》に感応して《ことだま=事霊》を見止めるがごとく思い描き 同時に《ことだま=言霊》としても捉えた。そのあと 第二次に 事の端⇒言の葉⇒言葉そのものに言霊があると見なすようになった。とするなら 《言葉を発すると そのまま それの表わす中身の事が起こる》という《言霊》の思想は 人為的に後で出来たこの第二次のほうではないだろうかと。→《Q:3994017 われわれ日本人は 互いに相手を神と思っているのでしょうか http://oshiete1.goo.ne.jp/qa3994017.html 》No.11補足欄など。

 ところが この仮説をくつがえす次のような説を見かけました。両者を吟味しつつ ご見解をおしえてください。

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 我々は祝福というと おそらくすぐ神に祝福されるというふうに考える。《創世記》一二章の一節から三節でもそう書いてある。けれどももっと遡って旧約の中で祝福とか呪いという問題を探ってみると 神との関係が初めにはない。・・・
 というのは 神との結びつきは旧約の伝承を探ると二次的なのである(ショットロフ)。要するに〔第一次のは〕言葉のもつそれ自身の祝福の力および呪いの力である。これは宗教的にいえばいわゆる呪術の段階である。ところが旧約ではきわめてすみやかに神とのかかわりをもたせさられて《あなたは祝福されている》《あなたは呪われている》という言葉が神との関係で用いられはじめており・・・(以下省略)。
 (関根正雄:『古代イスラエルの思想』2004p.63〔初出=1982〕)
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A 回答 (33件中31~33件)

primeapeです。


一人で先に進みます。

>人によってはありうる状態の例えですが、頭の中は妄想や雑事が言葉として駆け巡っているさなかでも口先からはソレとは無関係な日常会話がもれたりします。そのような人の場合はどちらを観察の対象としているか明示しないと質問内容の理解すら滞ります。

以下は心理学的裏づけの無い私の独自の解釈です。
本当なら心理学の本の解釈を当てにしてください。
心の内面の言葉との言行一致をしている人の場合、欲望の出口が行いにしか無くなり、いわゆる欲望を肯定した人となります。私が悪い意味で例える現実的な人です。

心の内面の言葉との言行一致をしていない人の場合、一般にソレは見透かされて、腹黒い人、嘘を付く人などとされます。この場合自分自身をどのように解釈するかはそれぞれです。

私の場合仕事中は手先では自分の仕事をこなし、口先では日常会話をしながらさりげなくパートナーの仕事をサポートして、頭の中ではメチャンコ悪魔君が舞い込んで来る欲望を討伐している三位一体状態です。この頭の中(保持記憶機能)が今までひょっこりひょうたん島といったり、人知の浅はかさと言ったり、誰かの心の断片と言ったりのガラクタ状態です。
このガラクタ置き場を言霊の港にたとえるのはちょっと判りにくいです。

無意識野は肉体とは独立しており、心の本質、主観、とは、例え話じみていて判りにくいようです。したがって今回お話の言霊は頭の中に聞こえている声のことに絞っているのではないかと解釈しますがいかがでしょうか。心の内面の話にしないと思考不能です。(観察不能とも言います)
でもそうすると、人間性というよりも人知の基づく自らの主観に対する解釈に論議が圧倒されて、またしても神とはなんぞやの話だけで結論が遠のく可能性もあります。
最近のbrageloneさんのご質問はこれが多い気がします。
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この回答へのお礼

 primeapeさん No.2でのやり取りで おおよそ お応えできたのではないかと思います。心理学や言語学の研究成果にかんしては それを持ち出す以前にとどまりますが。

 《神との関係》も 
 ★ 神とはなんぞやの話
 ☆ には入らずに 問いを提出していることも 説明できたのではないでしょうか。

 そのほかに 心象風景と言いましょうか 大きく心理の世界にかんして お話を述べていただきました。
 たぶん こういうふうな整理になるのではないでしょうか。
 わたしの仮説に言う《第二次のコトダマ》思想にあたかも則って 人びとは 同じくわたしの用語で《デーモン》を頭の中に抱え それを 人に向けて 発出することがある。このデーモンを わたしたちの頭の中に(あるいは心で)受け止めることもある。このとき
 ★ 頭の中ではメチャンコ悪魔君が舞い込んで来る欲望を討伐している
 ☆ と表現される事態も 起こるということのように理解したのですが いかがでしょう。
 ですから こう言っては何ですが この質問では 言霊の起こりつまり起源ですね そこに焦点をあてていただけると うれしいです。具体的には 第一次と第二次とがあるようで これに関して 明らかにしたいという狙いがありますが いかがでしょう。

お礼日時:2008/06/01 00:50

primeapeです。


仮説について補足要求というか確認です。
心理学では確かな用語と解説があったはずですが、頭の中を駆け巡っている一般に「考え」とされている言葉を言霊になぞらえているのでしょうか。
もしソレだけが言霊の議題なら心理学書を読めば疑問の大半は解決します。
それとも口から出た言葉も言霊に含まれるのでしょうか。

人によってはありうる状態の例えですが、頭の中は妄想や雑事が言葉として駆け巡っているさなかでも口先からはソレとは無関係な日常会話がもれたりします。そのような人の場合はどちらを観察の対象としているか明示しないと質問内容の理解すら滞ります。

それから私にはこの質問は心の本質と言葉の関係を洞察しようとしているかのようにお見受けしますが、ソレを神との関係になぞらえると次元の違う話になります。

この回答への補足

 primeapeさん ご回答をありがとうございます。

 うっぷ。つまり あっぷあっぷです。心理学また言語学の問題だというふうには つまり その学そのものの探究を俟って初めて解明されることだとは 考えていませんでした。
 wikiの解説では
 ▼~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 言霊(ことだま)とは、一般的には日本において言葉に宿ると信じられた霊的な力のこと。

 声に出した言葉が現実の事象に対して何らかの影響を与えると信じられ、良い言葉を発するとよいことが起こり、不吉な言葉を発すると凶事がおこるとされた。そのため、祝詞を奏上する時には絶対に誤読がないように注意された。今日にも残る結婚式などでの忌み言葉も言霊の思想に基づくものである。・・・
 (http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A8%80%E9%9C%8A
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ とありますが このような定義と事例とは わたしの仮説では 本来の言霊ではないと考えたところから 出ています。そこで 《第一次》と《第二次》とに分けて捉えようとしました。wikiの叙述は つまり それが一般の思想なのですが そこで言う言霊は わたしの整理では 第二次のものだということになります。
 今回 それに反する事例が 趣旨説明に書きましたように 見つかりました。これを どう扱えばよいか。そういう趣旨になります。

 ★ 心理学では確かな用語と解説があったはずですが、頭の中を駆け巡っている一般に「考え」とされている言葉を言霊になぞらえているのでしょうか。
 ☆ これは さらに別の見解のようにお見受けします。
 ★ それから私にはこの質問は心の本質と言葉の関係を洞察しようとしているかのようにお見受けしますが、ソレを神との関係になぞらえると次元の違う話になります。
 ☆ 《神との関係》というのは No.1の補足欄に書いたと思いますが ふつうの人間の知性のあり方 という意味です。(有神論と無神論とを ともに 同等に認めるふつうの歴史知性という意味です)。
 それで 一つ前の心理学の問題とも合わせて ともかく わたしの趣旨説明との関連で どういうことが言えるのか とりあえずそこで必要な事柄は何々か といったようなかたちで お答えいただければありがたいと思うのですが。
 あるいは さらに 設問の仕方が 成っていないという場合には もう少しその理由説明を添えていただいて 説得してくださると ありがいと存じますが いかがでしょうか。窮余の策でのお応えにしかなっていないかと思いますが。

 参考に 関根正雄の叙述を もう少し引用しておきます。
 ▼ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 現在の我々は祝福というとただとかく言葉のことに考えるが 古代人には祝福と呪いというのはそれだけで実力的な力だったのである。・・・〔祝福は〕古代人にとっては命令であったということも含まれるし あるいは神の言葉に従うということも含まれるが そのことだけで問題は尽きない。そうではなくて もっと中心的なことは神の霊的力としての祝福だった。そしてその反面は呪いなのである。
 (『古代イスラエルの思想』p.62)
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ 
 ☆ このあと そもそも 《神との関係が初めにはない》という認識が出て来ています。つまりまた 《ところが旧約ではきわめてすみやかに神とのかかわりをもたせさられて・・・》と続きます。
 もし このような言葉の霊力を問題とするときには 第一次・第二次は どのように認識すればよいのか。こういう問い求めなのですが。

補足日時:2008/06/01 00:25
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こんばんは、brageloneさん。



                
               “ ヤッホー! ”



あら??? ちがった(*^^*)>゛゛゛山彦でしたワ=☆ こりゃまた失礼m( _ _ )mども。


BGM
【ラチエン通りのシスター】
http://music.goo.ne.jp/lyric/LYRUTND8468/index.h …

●神との関係が初めにはない

契約がとり交わされてないってこと?

信頼関係で成り立っていたってことなのかな?


          

            これやこの 行くも帰るも わかれては
         
               しるもしらぬも 逢坂の関
           (蝉丸)


           「 行く人と帰る人が別れ、知る人と知らない
                
             人が出会うという、これがあの逢坂の関 」






【現場からのリポート】
http://dndi.jp/07-harayama/hara_18.php
【相対主義について】
http://www.kt.rim.or.jp/~igeta/gr00/rs/05.html

この回答への補足

 littlekissさん こんばんは。ご回答をありがとうございます。

 ★ ●神との関係が初めにはない―→契約がとり交わされてないってこと? / 信頼関係で成り立っていたってことなのかな?
 ☆ そのあとにあるように つまり
 ▼ これは宗教的にいえばいわゆる呪術の段階である。
 ☆ というように まったく理屈抜きで 何でもかんでも そこに超自然的な力が宿るとみれば その力もしくはその力を含む領域へと 体も魂も 乗り移って行くという知性以前の心の動きだと まづは 思います。
 その世界と交通しうる人間の言うことなら 確かで間違いのないことだと 思ってしまう原始心性だと思います。さらには そういうかたちで 社会としては 共同自治がいとなまれていたという情況ではないでしょうか。
 ということは その超自然の領域に 事霊=言霊を 見ようとしていたと言えるのかも知れないのかなぁ。
 でも たぶん このようなアニミスムおよびシャーマニスムであるとすれば もう 一応としては その個人としての心性が そして集団としての心理的な交通情況が 固定してしまうでしょうから そしてそうであるからこそ 《神との関係が初めにはない》という情態だと思われるので 事霊=言霊のやはり以前の状態にあるように考えられます。つまり 第一次のことだまよりも 以前であるという意味です。逆に そうであっても 第一次のことだまより以前の段階だということで それが むしろ取り上げられて 第一次のことだまの段階を通り越して 第二次のコトダマ(言葉霊)の段階では 或る意味で 復活しているのかも知れません。

 次のような整理のもとにです。

 -1:原始心性=《ヨリ(憑り)》:アニミスム&シャーマニスム
 0 :歴史知性=《イリ(入り)》:世界への入り
 +1:超歴史知性=《ヨセ(寄せ)》:《ヨリ》を束ね 《イリ》をも 
     社会力学上(政治的に) 寄せる。

 このとき 《ことだま》は 《イリ》知性の問題であり その情況でこそ 第一次だとわたしは思っていたのですが こうなると 《ヨリ》においても すでに現われていたと見なしうるとするなら 《ヨセ》にとっても 人間本来の心性かつ知性の基礎であると言い張るよすがとなるかも知れません。統治者のホンネとしては そういう学説を望むのかも知れません。
 解いてください。

 ▼【現場からのリポート】~~~~~~~~~~~~~~~~
 光を照らしてくれるのが「Phronesis」の概念で、野中氏の登場となります。あまり聞きなれない概念なので定義を引用すると「個別具体的な場面のなかで、全体の善のために、意思決定し行動すべき最善の振る舞い方を見出す能力」となります。ここでキーとなるのが主観であり、その主観がよりどころとする価値体系の構成要素である倫理観、歴史観、社会観、政治観、美的感覚なのです。科学的知識と実践的知識を融合してアクションを取るイノベーティブなひとには規範的な側面においても卓越していることが求められるのではないでしょうか。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ 《全体の善のために》というのは 思惟の段階で 一般的に 出てくると思うのですが 個人としての行動に際しては あまり考えないほうが つまり むしろ 個人は 自己の利益を 一応 考慮して振る舞ったほうが 無理がない(A.スミス)と思うのですが どうでしょう? と思いました。

補足日時:2008/05/31 23:42
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この回答へのお礼

 ▼ 【相対主義について】~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 漱石の「相対主義」ということに関していえば、例えば、『坊っちゃん』について次のようなことがいえるのではないか。
 この作品においては、主人公の坊っちゃんの側と、教頭の赤シャツの側に分けることができる(すなわち、アンチノミーを形成している)。ある種、「伝統的日本人」の理想像である坊っちゃんが象徴しているものは道徳であり、非合理であり、近代以前である。それに対して、文明開化後の西洋的教養を身に付けたインテリである赤シャツは、科学、合理、近代といったものを象徴している。そして、「勧善懲悪」の小説といわれている『坊っちゃん』だが、江藤淳も指摘しているように(『坊っちゃん』新潮文庫、1980、「解説」)、このアンチノミーにおいて、「善」、つまりテーゼ=坊っちゃんが、勝利しているわけでは必ずしもない。むしろ、最後には学校を去っていく坊っちゃん(と山嵐)は敗者であるともいえる。ここに、鴎外と共通する、漱石の立っていた、ある意味「相対主義」的ともいえる困難な立場がうかがえるであろう。
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 ☆ お節介なコメントですが こう受け取りました。坊っちゃんは スサノヲ人間語をしゃべるスサノヲ市民であり 赤シャツは アマテラス理性語を話すアマテラス公民とよぶべき一市民であるようだと。
 ことだまは どちらにも宿るでしょう。前者は まだ玉が磨かれていないかも知れない。後者は 言葉によって 磨き過ぎてしまったかも知れないと。
 と言えるのは はじめの仮説が有効であるときでしょうから やはり その揺らぎが 気になるところです。
 いったい どういうふうに考えればよいでしょう? 
 ▼ 〔第一次的に〕言葉のもつそれ自身の祝福の力および呪いの力
 ☆ という別の仮説をめぐってです。《言葉そのものが 言霊を持つ》と捉えるのか? 言語学も関係してくるのでしょうか。

お礼日時:2008/05/31 23:55
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