プロが教える店舗&オフィスのセキュリティ対策術

どのカテゴリにすれば良いのか解らず、こちらにお邪魔させて頂きました。

キリスト教の、旧約の有効性というか、新約によって変更(或は廃止)された点と、現在でも絶対守るべき神の法としてあるものをどのように考えられているでしょうか。

私はカトリックですが、事情により、今はSDAの人たちと共に居る事が多いので、割と込み入った会話をしています。
不慣れな英語で会話をしている事もあり、中々微妙な細かいニュアンスでの会話が成立せず、少々困っています。

汚れた肉、安息日、ワイン等が当面の大きなお題です。
私は全ての食べ物は清い(何でも食べて良い)と思っていますし、安息日を守るのは尊い事ではありますが、旧約時代のように守らなければ死罪に値するほどの厳格さは無いと思っています。少々大胆な言い方になりますが、守っても守らなくても良いと。
ワインも聖書の至る所に「良いもの」との記述があります。私もそのように考えています。

正直私は自分の信じ方に自信があり、ちょっとやそっとではこの信念は変わらないと思います。
ただ、多勢に無勢の中で行われる会話の中で少しでもアイデアが欲しく、皆様がどのようにお考え、或は信じておられるかを知りたく、質問をさせて頂きます。

SDAの信徒さんは、絶対の自信を持っている人が多く、その意味で行動力に富み、良い結果を生み出している面は認めますが、もう一面として、○○な人ほど簡単に自信に満ちやすく、目の前の人の自信が必ずしも正しいとは言い兼ねる面も強調させて頂きます。
※信仰は人間知ではないので、そもそも賢いか○○かを語る事そのものがナンセンスな場合もありますが。

よろしくお願い致します。

A 回答 (5件)

No.2,3,4です。


回答のやり取りをしている中でApostle様は、私とほとんど同じ立場にたっていらっしゃるのではないか、とこちらでも思っていました。おそらく、私がApostle様と同じ所にいたら、同じ悩みを持ったと思います。
さて、初めにSDAについて調べてみました。略称だからピンと来なかったのですが、正式名称を見て「ああその教団の略称なんだ」ということを知りました。そして、当該教団のホームページをざっと見たところ、たしかに、プロテスタント教会の流れを汲む教派であることは確認できましたが、決定的な違いは、やはり安息日理解にあるようです。
では、どうして安息日が土曜から日曜になったのかということですが、もう一度記します。
ユダヤ教の安息日は、土曜日です。その根拠は旧約(十戒)にありますから、彼らは「命がけ」で守ります。ところが、初代教会において安息日が日曜日に移されます。それは、「誰がいつどこで」決めたのかは分かりませんが、日曜日に礼拝をするようになりました。その理由を考えるとやはり、キリストの復活という奇跡的かつ衝撃的な出来事以外には考えられません。最初期はユダヤ人キリスト者が圧倒的に多いため、自分たちで安息日の変更など考えることはしなかったと思われます。しかし、キリストの復活という出来事を目の当たりにし、その日に礼拝をささげたことが直接のきっかけとなって、キリスト教会は金曜夜から日曜朝の礼拝へと移行し、そこから教会が始まったと考えられています。

たしかに、「すべてのことが実現し、天地が消えうせるまで、律法の文字から一点一画も消え去ることがない」(マタイ5:18)とイエス・キリストは山上の説教で語られています。ここからは、聖書解釈の一つであり、Apostle様の問いに対する回答となるか不明ですが、一つの解釈として考えていただければと思います。
まず、17節で「わたしが来たのは~廃止するためではなく、完成するためである」とキリストは語られます。これは、当時の教会(マタイ福音書が記された時代80年代後半)で、「律法は無効」という主張があったということが背景ではないかと言われています。それに対して、マタイは「キリストは律法を完成するために来られたのであって、廃止するためではないのであるから、律法が無効であるというわけではない」ということをここで示そうとしているのです。それが18節の言葉の意図です。しかし、同時に律法による義に依存するユダヤ教の考え方を退け、新しい義を求める道を示されるのです。その新しい義を求める道は、「あなたがたの義が律法学者やファリサイ派の義にまさっていなければ」というものです。「律法学者やファリサイ派」は、自らの義を確保するために、細かい律法解釈とそれを実行するまじめな努力を重ねていました。それと比べられ、まさる「義」とは、もはや人間の努力によって得られる義とは性質の異なる義、つまりキリストを信じること以外にないのです。マタイは律法=愛と考えています。それを発展させればさらに=キリストの言葉と(強引かもしれませんが)置き換えることもできるのではないでしょうか。実際に、24章35節では、「天地は滅びるが、わたしの言葉は滅びない」というキリストの言葉から考えれば、そのように理解することも可能ではないかと思います。そして、「最も小さい掟」とは、律法にある比較的守りやすい簡単な掟というのではなく、キリストを信じること、そして神を愛し、隣人を愛することであると考えられます。
また、「逃げるのが冬や安息日にならないように祈れ」というのは、マタイ、マルコ、ルカに並行箇所がありますが、「安息日」という文言を入れているのはマタイだけのようです。マルコは「冬」だけ、ルカに至ってはこれに相当する言葉はありません。但し、三つの並行箇所に共通するのは「脇目も振らず逃げろ」ということです。そうなると逃げるのに大変な「冬」という季節(マルコ)にマタイが何も身動きがとれない「安息日」を付け加え、そうならないように祈りなさいと言われているのではないかと考えます。読み方によっては、律法に縛られていると「逃げられない」と読むことも(これも強引かもしれません)できるのではないでしょうか。

またまた、とりとめもない文章で申し訳ありません。
主がわたしたち一人一人の信仰を支えてくださることをお祈りいたします。

この回答への補足

Free20さま、お返事ありがとうございます。
(※お礼の欄には1000文字しか書けないとの事でこちらに失礼させて頂きます。)

略称での記載につきましては、言葉足らずで申し訳ありませんでした。私に取ってはあまりにも当たり前の名称になってしまっていて、他の方に正式名称で書くというところまで考えが至って居ませんでした。

「私は律法を廃止する為ではなく、完成するために来たのである」という箇所は、私は今までの文字による律法から心による律法に完成されたと考えています。
彼らの言い分からすると、文字による律法が心を伴ってもやはり文字は已然として残っているという考え方ですが、私としては、心による律法に変わった時点で、ある意味に於いてはより守るのが難しくなったと言えますが、文字という意味に於いては大分フレキシブルになったと考えているのです。
それが、「基本的には守った方が良いが、事情があればそれはそれで問題はない。」というものです。
要は、心がそこにあれば良いのであり、必ずしも文字は意味をなさないというものです。

私としては、Free20さまのご回答に大変感謝しております。
私のシンプルな信仰においては既に十分です。
しかしながら、この問題はやはり何年も歴史のなかで論議が続いてきた事からも察する事ができる通り、特に聖書から決定的な証明ができる訳ではなく、結局のところは”個人がどう信じるか”の問題になるのであろうなと思います。

彼らの日頃の説教や会話を聞いていると、自分たちは将来、日曜休業令に断固として(命がけで)立ち向かわなくてはならない。と言っています。
私には、特に必要ではない事に命をかけるという言葉がちょっと的外れに聞こえる訳です。
しかしながら、無神論者からすれば、私もまた彼らには必要ではない事に命をかけたり、危険をおかしたりしているように見えるのだろうなと思った時、もしかしたら私は私には見えていない、今私が持っている真理よりもより高い真理を示されているのに、それを受け入れる事ができないだけなのかもしれないという思いを拭えず、また良い機会でもあるので、色々と考えているものです。

こちらでのやりとりでは思いつきませんでしたが、Free20さまが仰った
>「最も小さい掟」とは、律法にある比較的守りやすい簡単な掟というのではなく、キリストを信じること、そして神を愛し、隣人を愛することであると考えられます。
に関しては、一度「今まで思ってなかったがより良い解釈だな」と関心しましたが、思い直してみると、やはり、「これら一つでも破り、他人にもそうするように勧めるものは~」と書いてあることから、イエス・キリストを信じることというよりは、やはり文字律法を指しているように思いまして、Strong's Greek Bible Dictionary (with KJV)を見てみたところ、commandmentの一単語に、2つのギリシャ語単語が書かれています。一つは、”彼”とか、”これ”等と解釈できる単語、もう一つはそのままずばりcommandmentと書かれています。
どう受け取れば良いのか解りかねますが。

以前から頭の片隅で気にはなっていた旧約の有効性が今になって目の前に問題として浮上しています。
恐らく、”行った方が良い事”として行う事は私にはいとも簡単でしょうが、理由が理由だけに、ほんのちょっとした理由で”行わない”事にもなりえるでしょう。

もう少し続けさせて頂きたいと思います。

補足日時:2008/06/20 17:11
    • good
    • 0

No.2,3です。


丁寧なお礼に心から感謝いたします。

まず、安息日に関してですが、たしかに使徒言行録を読むと、パウロたちが各地の会堂(シナゴーグ)の礼拝に参加している姿を見ることができます。けれども、パウロ自身の記した手紙でのパウロの立場から考えると、安息日を守るためというより、安息日に集まるユダヤ人や「神」に興味を持っている異邦人たちに伝道するためではなかったかと考えられます。また、それとは別に週の初めの日(つまり日曜日)に「パンを裂くために集まっていた」という記述があります。これは聖餐(聖体拝領)を示す言葉であり、礼拝と密接に関連していることなので、おそらく、キリスト者にとっての礼拝日(安息日)は、やはり日曜日であったのではないでしょうか。
但し、ローマの信徒への手紙14章では、安息日、断食日、食物規定などに関しての対立が、ローマ教会でユダヤ人キリスト者と異邦人キリスト者の間で起こっていたと記されています。つまり、ユダヤ人キリスト者は旧約の律法を守る立場、異邦人キリスト者は信仰において廃棄されたという立場で対立していました。パウロは、はっきりと異邦人キリスト者の立場に立っています。なぜなら、洗礼を受けることによってユダヤ人と異邦人の区別が廃棄されているから、ユダヤ教の律法実践の継続自体は必要ないと考えていたからです。
しかし、パウロは、律法を守る人々に対して「それを止めなさい」とは言いません。なぜなら、洗礼を受けて獲得した「自由」によって、「主のために守る」ということも認められているからです。つまり、すべてのキリスト者の義務としない限り、律法を守る必要はないという立場の人々もそれを容認しなければならないのです。けれども、問題はそれを他者に強制することです。しばしば、他の手紙で論敵として想定されるユダヤ人キリスト者たちは、異邦人キリスト者に対し割礼等、律法遵守を強要したために、パウロに非難されることになったのです。
そこで気になるのが、Apostle様の周りにおられるSDAの方々の言葉です。律法主義ではないと言いつつ、「土曜日安息は義務ではないか」、「破ることは背信ではないか」とあたかもキリスト者はこうあるべきだと言っておられると感じますが、それを他者に強制(特に違う立場にあるキリスト者)しているのであれば、それは律法主義になってしまうのではないでしょうか。そうではなく、個人の意見として「このように確信している。けれどもそれが絶対的な真理だと言って押しつけるつもりはない」というのであれば問題はありませんが。
Apostle様が心配されている件に関しては、あまり気にされることはないと思います。但し、その方々が言っておられることが、救いのためにキリストの十字架と復活を信じること以外に律法を守らなければいけない、もしくはキリストの十字架と復活を信じることよりも律法を守る方が重要(この二つほぼ同じ意味と考えてください)というものであるならば、それはキリストの救いをないがしろにしてしまう可能性があるので、気をつけられた方が良いと思います。

>旧約は、新約の登場によってどのような影響を受けたか?
これについては、上記の部分でも触れましたが、基本的に旧約の律法は廃棄されたと考えた方がよいでしょう。但し、廃棄されすべてが無効になったという意味ではなく「儀式としての律法は廃棄された」ということです。少々難しい言い回しですが、これはイスラエルの救済状態を維持するための律法は廃棄されたということです。なぜなら、救済はイエス・キリストの十字架と復活において成し遂げられ、同時に律法のすべてがイエス・キリストにおいて完成されているからです。ですから、キリストを信じ洗礼を受けた人は、キリストを信じることによって律法を行っていると考えることができるのではないでしょうか。

答えになったかどうかわかりませんが、もし不明の点があればまた、回答のところで教えていただければ幸いです。

Apostle様の上に主の祝福が豊かにありますように。
    • good
    • 0
この回答へのお礼

Free20さま、お返事ありがとうございます。

Free20さまのご意見は私の考えと同じだと思わせて頂いております。
ありがとうございます。
しかしながら、イエス様が仰った、「律法の一点一角もなくならない、律法の文字の一角がなくなるよりは、天地の消え失せる方がまだ易しい」とはどういう意味だとお思いでしょうか。
また、イエス様が、終わりの時の苦難に先立って「逃げるのが冬や安息日にならないように祈れ」と仰ったのも気になります。

彼らの場合は、土曜日が安息日である事を知っている人が、それでもあえて日曜日を守るのであれば、神の定めた法(土曜日)よりも、人間の定めた法(日曜日(彼らは土曜日が日曜に移されたのは、カトリック教会の独断によるという考え))に従っているということ。
もう一つは、エレン ホワイトという女性(SDA設立時の教派立ち上げに貢献した人物)を預言者だとし、彼女の著書の中に、「日曜休業令が将来定められるまでは、日曜礼拝は獣の印ではないが、日曜休業令が定められたその時、それは獣の印として成立する」という意味の言葉が書いてあるのです。
私は彼女の著書を少量ではありつつも読みましたが、正直、その範囲では、彼女の聖書解釈そのものがそもそもかなり強引です。しかし、彼らは彼女を預言者だと信じているので、彼女の著書に書いてある事はまるで聖書のように(彼らの中の多くは、聖書と同等に考えている)考えています。

また、彼らも、儀式的法がイエス・キリストによって廃棄されたと言いますが、道徳法は已然健在だという意見です。
つまり、私が考えている、”旧約は守った方がベターだが、事情があるならそれはそれで仕方がない”のではなく、もし誰かが土曜日ではなく、日曜日を強要するなら、命がけで守れ!という事です。
土曜日を聖日とし、それを清く守るのは立派な事だと思いますが、それを命がけで守れと言われると、少々行き過ぎだと感じるのです。

しかしながら、上に書きました通り、「律法の一角がなくなるよりは~」や、「逃げるのが安息日にならないように」等の言葉は確かに引っかかります。

ご多忙中とは存じますが、この当たりについてのご意見をお聞かせ頂けますと幸いです。
何卒、よろしくお願い致します。

イエス・キリストの御名によって、私たちの上に恵みと平和、力と智慧が豊かに留まりますように。

お礼日時:2008/06/19 12:03

No.2です。


お礼の言葉ありがとうございます。
回答へのお礼のところを拝見すると、特にSDAで関わっている方々の安息日に関する理解についてのApostle様の疑問(というか納得ができない点と言った方が適切でしょうか?)とお見受けしました。

まず、安息日を「守らなければ救いはないのか」ということについてですが、「守らなければ救いはない」ということはありません。そもそも、十戒における一つ一つの戒めは、「守れば救われる」のではなく、「救われたから守る(そこに生きる)」もの、言い換えれば救いに対する神への感謝の応答です(宗教改革者のカルヴァンはこれを「律法の第三用法」と言います)。このことは、十戒の前文つまり、出エジプト記20章2節「わたしは主、あなたの神、あなたをエジプトの国、奴隷の家から導き出した神である」(新共同訳)ではっきりと示されています。つまり、「神はイスラエルの民をエジプトでのファラオの奴隷から解放し、神に仕える民として選ばれた」(救い)ということが先立っているのです。一言で言えば「救いが先」なのです。ところが、時代が下るにつれて「救われた民として感謝の応答として十戒(律法)を守る」のではなく、「救われるために守る」ようになってしまい、更には「守っていれば救われる」となってしまいました。こうなるとイエス・キリストやパウロが批判した「律法主義」と同じになってしまいます。そして、実は「守っていれば救われる」ということが「目に見えて分かる」ので一番楽であるため、どうしてもそこに陥るのです(それはキリスト者であっても同じことです)。おそらく、今得られる情報から推測すると、Apostle様の周囲におられるSDAの方々はそのような状態なのではないかと考えております(間違っていたらごめんなさい)。
また、イエス・キリストは、マタイ・マルコ・ルカ福音書で記されている「安息日に麦の穂を摘む」という箇所において、律法を言葉通り守ることに固執して起こる「歪み」について語られています。
以上のことから(説明不足も大いにあると思いますが)、「安息日を守ることができなければ救いはない」のではなく、「救われている感謝の応答として安息日を守る」とわたしは理解しています。ですから、事情によって「守りたくても守れない」という状況が起きたとしても、ほんの短い時間であったとしても、作業を中断して神に祈りを捧げるということも「安息」につながるのです。

それから、
>黙示録の"獣の印”を引っ張ってきて、これは将来起こる日曜休業令の事であり、土曜日を守る人々が神の人、日曜を守る人が獣の印を受ける人との事なのです。
という、Apostle様の周囲におられるSDAの方々の解釈ですが、残念ながら私は聞いたことがありませんでした。私自身は、「獣の印を受けた人々」=「皇帝礼拝をする人々」と理解しています。当時のローマでは皇帝の権威が衰退の兆しを見せていたため、「存命中」の皇帝を神として礼拝するよう、ローマ帝国領内に住む人々に強要していました。それに対してキリスト者は当然「否」を唱え、結果として迫害に晒されてしまいます。そのことを黙示録の当該個所は記していると私は理解しています。
また、たしかに旧約、ユダヤ教においては土曜日(厳密には金曜の日没から土曜の日没まで)が安息日でした。これは、創世記2章3節に記されています。しかし、初代教会はキリストが復活された日、つまり日曜日を霊的な安息日として、礼拝の日としたのです。おそらくは、黙示録が記された紀元1世紀末以前から、既にキリスト者は日曜礼拝に移行していたと考えられます。ですから、「将来起こる日曜休業令」という解釈は成り立たないのではないかと考えられます。事実、ユダヤ教と決別する以前(紀元85年頃・・・黙示録成立よりも少し前)は、ユダヤ教の会堂(シナゴーグ)を使用しての礼拝もかなりあったと言われています。もしも、土曜日を安息日として維持しようとするなら、ユダヤ教と同じ時にしなければならなくなるという不都合も起きると思います(但し、これが日曜になった主な理由ではありません)。

またまた、長くなり、まとまりもない文章になってしまい申し訳ありません。文面から推測するとApostle様の置かれた状況は、大変つらいものだと思います。おそらく、これまで育まれてきた信仰と違う(同じキリスト者でありながら)方々と共に過ごすというのは、当事者でないと理解できない苦労もあると思います。私自身も経験があります。けれども、Apostle様はその中にあって、相手の主張にも耳を傾けられていると思います。同時に、自分に与えられている信仰を大事にしているからこそ「これでいいのか」と思われているのではないでしょうか。私は、それでいいと思います。自分自身の信仰における立場をはっきりさせて互いの立ち位置を踏まえた上で、理解できるところは理解し、納得いかないところはとことんまで意見を交わす。これは決して不毛な争いではありません。もちろん、すべてこれで上手く行くということはないでしょう。しかし、中途半端な妥協などで表面的な平和を作るよりは、良いのではないかと思います(少し乱暴ですか?)。
どうか、Apostle様の上に、主が必要な知恵と力を注ぎ、大いなる御手を持って支えてくださいますように。
    • good
    • 0
この回答へのお礼

Free20さま、お返事ありがとうございます。
毎回、すごく親切で優れた回答に少々驚いております。
それ故に、私の表現力の貧しさがひしひしと感じられます。

土曜日問題に関しましては、「守らないと救われない」とは彼らも言いません。彼らも「報恩として、愛の心から守るのであって、律法主義ではない」と言います。
しかしながら、聖書の随所にある「私の法(掟、戒め等様々な同義語)を守るならば」という節を強調し、知らないのであれば問題はないが、知ったにも関わらず依然として土曜日ではなく、日曜日を守るという事は、永遠に変わりのない神の言葉(旧約、新約は全く矛盾もなく、変更もない、同じ事だという主張)に意図的に背く事になりはしないか?それは背信ではないのか?という事です。

私自身は、土曜日に日常の事をしないのはとりわけ難しい事ではありませんし、汚れた食べ物をさけ、健康を考えてベジタリアンでいる事も全く苦痛にならず、ワインも止めろと言われればちょっと残念ながらそれでも比較的簡単に止める事ができる状態にあります。

しかしながら、私が問題にしているのは、これらの教えを”キリストの教え”として受け入れたとたん、私は伝道の際に他の人に言う事になりますね。そのさい、もし実際には日曜日OK豚肉OKワインOKなのに、よけいな重荷を被伝道者の肩に乗せ、もしその人がそれを苦痛に思ったら、私は”兄弟の肩に先祖も負いきれなかった軛を乗せるもの”になってしまいますよね。
この事を彼らに話しても、彼らは依然として自信満々に、「そうだね。でも土曜日は絶対に大切なんだよね。」なのです。

そこで、まず改めて考えようと思ったのが旧約は、新約の登場によってどのような影響を受けたか?というものでした。
変更があるのか、あるいは、道徳や単なる守った方が良い事等ではなく、今でも全く変わりのない神の法なのか。
という事を考えています。

SDAの方々も、安息年とか、割礼は勿論守っていませんし、守る気もない(守れるなら守った方が良いとは考えている)のですが、十戒だけは今でも守らなければ行けないものだという強い主張です。
他の9条にかんしては納得ですが、安息日については”大切”であるというイメージが中々わかないのです。

この辺りはどのようにお考えでしょうか?

お礼日時:2008/06/18 16:22

わたしはプロテスタントなので、もしかしたらカトリックの質問者様と解釈の違いがあるかもしれません。

そのことを念頭に置いてくださいませ。

まず、旧約の有効性と新約での変更もしくは廃止ということですが、旧約と新約合わせて66巻(カトリックでは第二正典があるので数は違いますが)が聖書であるということから考えれば、旧約で記されていることが「有効」と言えるでしょう。例として、十戒があります。十戒は出エジプトの時に与えられたものであり、律法の根幹ですが、今日の教会においても大切にされています。マタイ・マルコ・ルカの三福音書では、「何が一番大切な掟か」という律法学者の問いに対して、キリストは、十戒から「神を愛し、隣人を自分のように愛すること」という答えをされています。
一方で、律法のすべてを字義通りに守ることが必要になるかと言われると、「否」です。例えば、レビ記等に記されている贖いの儀式に関しては、キリストが十字架で贖いの犠牲となられたので、わたしたちが罪を犯すたびに羊や牛を犠牲としてささげる必要はありません。また、食物規定においても、ペトロがヤッファで見た幻にあるように、「神が清めたものを、清くないなどと、あなたは言ってはならない」(使徒10:15)と記されているので、食物規定から解放されていると考えてよいでしょう。また、パウロはローマの信徒への手紙で「何を食べてもいいと思っている人もいれば、野菜しか食べない人もいる。…互いに軽蔑したり裁きあったりしてはいけない。神はこのような人をも受け入れられた」と記しています。
安息日に関しては、質問者様の「守っても守らなくてもいい」というのはたしかに大胆ですね。もちろん「守らなければ死罪(破門?)」ということはありませんが、安息日というのは「聖なる日」です。キリスト教で語られる「聖」とは「神によって分たれた」という意味を持っています。それはまた、日常生活からの中断を意味します。日常生活を中断して「神に思いを集中する日」が安息日なのです。そうであるならば「守っても守らなくてもいい」というより「できる限り守った方がよい」とわたしは思っています。
ワインに関しては、わたしもその通りと思います。ただ「酔っ払って神を忘れるほどの」飲みすぎは良くないと思いますが。

簡潔にまとめたと言い難いですが、以上のようにわたしは、考えています。人それぞれ考え方があるので、これが絶対というものではありませんが、一回答として受け止めていただければ幸いです。
最後に、旧約と新約は別物ではなく一つであって、旧約を通して新約を理解し、新約(イエス・キリストの十字架と復活)の光に照らされて旧約を理解するということを頭において聖書を読むと、答えが見えてくるのではないかと思います。
長々と失礼いたしました。よきお導きがありますように。

この回答への補足

すみません。
この補足は、Free20さまに対する補足ではなく、Free20さまに当てた私自身の返信の補足です。
編集ができないので、こちらに書かせて頂きますが、SDAをご存じない方の為に、下記の意見はあくまで私個人の見解なので、どうかSDAを誤解なさらないでください。
どうかこの記事を読んだ方が誤解をなさらず、公正に物事を判断されることを祈ります。
イエス・キリストの御名によって、アーメン。

補足日時:2008/06/17 14:39
    • good
    • 0
この回答へのお礼

Free20さま、お返事ありがとうございます。

安息日につきましては、”大胆”ではまだ言葉が足りませんでしたね。
私も”できる限り守った方が良い”と考えています。ありがとうございます。

私の聖書の理解は、Free20さまを含め、多くの方々とそう大差は無い(自分でもっている仮説は別として)のですが、ことSDAの方々(教派内である種の分裂があるようなので全てのSDA信徒の方とは言いませんが、少なくとも今私の身の回りに居る所謂”伝統派”)はかなり違うのです。

黙示録の"獣の印”を引っ張ってきて、これは将来起こる日曜休業令の事であり、土曜日を守る人々が神の人、日曜を守る人が獣の印を受ける人との事なのです。

ですから、このOKWaveでの私の質問は、どちらかというと、”守らなければ救いは無い”レベルなのか?という位置に近いと思います。

※あくまでも中傷するつもりはありませんが、ただ感じた事、考えていることをそのまま一個人の意見として書かせて頂きます。
彼らの聖書解釈(特に預言解釈)はかなり強引で、中には優れているな、きっとこれであっているんだろうなと思う物もありますが、多くは強引なのです。
それでいて、全員自信満々、更に私は今後もしばらくの間彼らと共に時間を過ごさなければならないという状況下で、色々と考える事もあるのです。

Free20さまは専門家との事ですが、この辺りについてはどうお考えでしょうか。

長々と申し訳ありません。
最後に、誠実で優れた回答に改めて感謝致します。

お礼日時:2008/06/17 11:03

聖書に関したことは、教えて!goo内の検索をすれば、同類の質問がいろいろヒットしますよ、見てみてください。



>正直私は自分の信じ方に自信があり、ちょっとやそっとではこの信念は変わらないと思います。
ただ、多勢に無勢の中で行われる会話の中で少しでもアイデアが欲しく、皆様がどのようにお考え、或は信じておられるかを知りたく、質問をさせて頂きます。

こういったスタンスの延長線上に、「戦争」があることをご自覚ください。


>もう一面として、○○な人ほど簡単に自信に満ちやすく、目の前の人の自信が必ずしも正しいとは言い兼ねる面も強調させて頂きます。

それはお互い様ではないでしょうか?向こうも質問者さんのことを同じように思っていると思いますよ。


神の教えを、不完全な人間が勝手な解釈をしているから、世にたくさんの宗派が存在するわけです。そして皆、(不完全であるはずの自分の判断を)われこそが正しい、と主張しあうのです。
ああ、なんと浅ましい人間の姿!

この回答への補足

azharuさま、お返事ありがとうございます。

gooの検索については、検索ワードが悪いのか、あまりぴたりとくるものがありませんでしたので、こちらにお邪魔させて頂きました。

戦争の原因や、自分の主張への自信が様々な問題を起こしている事は承知しています。
しかしながら、それを避けるために神の言葉を様々な妥協や解らないというあきらめ等によって覆い隠し、結果として神の言葉を土の下に葬ってしまうというのは日本によく見られる傾向だと思うのです。
azharuさんの仰る事はよく解っているつもりですし、私自身、可能なかぎり気をつけています。

また、自信があるとは言いましたが、それが間違いない事実であると確信しているとは言っていません。言葉足らずで申し訳ありませんでしたが、私自身、盲目の自覚がありつつも、目の前に居る人もまた盲目であると考えています。これらの事から、相手がなぜあのような(言葉に表現するととても長くなる状態なので、想像にお任せします)状態でいるのか不思議なのです。

最後に、私はしなくても良い議論を楽しむつもりはありません。
今の私に、少なくともあと1年くらいはしなければならない状態に置かれているのです。
色々の低レベルの論争があり、それが多くの人の先入観となり、ちょっとでもそういう匂いのする話を聞けばすぐにそれと結びつけ、いやがる。これは人間の弱さです。私も勿論、こういう面をたぶんに持っています。
しかし、中には大切な事がそれらの中に含まれている事がある事はごぞんじでしょう。

私だってしたくてこんな事をしている訳ではないのです。
ただ今は仕方がありません。
パウロは戦争を起こしたくて各地でキリスト教を伝え、各地で現地の宗教の誤りを指摘したとお思いでしょうか。

以後、冷やかし、或は質問の答えになっていない回答は熟考後の書き込みを願います。

補足日時:2008/06/16 09:32
    • good
    • 0

お探しのQ&Aが見つからない時は、教えて!gooで質問しましょう!