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 この質問は 《QNo.4140486:人の業績は 人間そのものですか = http://oshiete1.goo.ne.jp/qa4140486.html 》を継ぐものです。

 さしづめお伺いしたいことは 次のような主題です。
 (1) 意識と無意識との関係が知りたいです。あっても 知り得ないという想定ですか。
 《無意識》と規定すると 無意識という場やはたらきがあると捉えがちになります。記憶という行為において 含まれるであろうとは思います。ですが 実際には その働きは 意識し得ませんし なかなか 理解しがたいものです。想定する場合には どこまでを 捉えているのでしょう?

 (2) 記憶と意志との関係を 無意識説の立ち場から おしえて欲しい。
 人間の行為能力には 三つを想定します。記憶行為(≒司法)は ほかの知解行為(≒立法)や意志行為(≒行政)と どうかかわっているのか これを 無意識野を想定する立ち場では どう説いているのでしょう?

  *  *  *

 なお さらに趣旨説明として 掲げておきます。
 この問いの課題は 一つ あって それに決まっているように考えています。つまり 《意識および無意識なる経験領域》と《それらを超えたさらに無の領域》 これら両領域の互いの関係や如何に? の一点だと思います。その具体的な視点が 上の主題です。

 すでに 質問者も かなり問い求めを進めて来ております。(前の質問の質疑応答を参照されたし)。再掲します。
 人間にとって 表象は 視認にせよ概念の把握にせよ 心の志向性にとって 或る目標を与えます。理想や理念のそれであれば その心の視像は 意志の目的とそこにおける休息になり得ます。
 《記憶そして無意識野〔での出来事だ〕》と想定し規定すれば わたしたちは そこを あたかも探究の途上にありつつ 〔あたかも〕到達点として位置づけてしまいがちです。合点! 合点! 合点! というわけです。
 早い話が 通り魔殺人事件での加害者にせよ被害者にせよ その原因究明に際して ポーンと 《アーラヤ識なる場における記憶行為の積み重なり》の説を出すと 《ああ 犯人は 無意識野だ》という早飲み込みに到らないとも限りません。
 というよりは それでもよいのですが 問題は その先にあって では この無意識野におけるわが生命の息吹きでもあり しかもちょっとよそ道に逸れてしまったこのわが衝動を どうすればよいか これを 同時に 明らかにしてくれたまえ。そうしてこそ この《アーラヤ識》の理論の真骨頂があるのではないか。ということになります。のではないでしょうか?

 《記憶》行為は 《意志(つまり これに色をつければ 愛です)》の行為と そして《知解(知識ないし経験合理性)》と それぞれの内容が 互いに時間的な食い違いをゆるしつつも おそらくは 一定の時系列において・もしくは一つの生涯において 互いの一体性を持つと考えます。わたしたちは それら三つの能力行為のあいだこに 互いの整合性を問い求めようとします。(ホンネとタテマエの食い違いと それの是正のようにです)。
 このような時間的な差延を持った三つの行為能力の一体性に仮りに立つとすれば 記憶にかんする〔知解としての〕科学的な解明のほかに それと並んで 意志としての心の志向性のあり方 これも 大いに 自己主張をしてよいのではないか。こう考えますが いかがでしょうか。

A 回答 (43件中31~40件)

primeapeです。


そろそろ答えを書きます。

心の本質。本来の意味の「意識」とは神の領域にあります。
人間性が人知を超えた軋轢にあります。
だからこそ「われわれ日本人はお互いを神と思っているのではないか」と言うお話が生じます。
コレは無意識の忠実な出力です。
brageloneさん固有の無意識にもあらかじめこの答えがあります。
ただし「考え」が及んでいないだけです。
その意味では今回のご質問ではボケた振りがまさしく名演技です。
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この回答へのお礼

 primeapeさんのお答えですね。

 当たっているのかも知れませんが どうも言葉使いの点で 違ったふうに わたしとしては ものごとを見ているのかと思います。
 否定とも挑戦とも別ですが その違いを きちんと述べてみましょうか。

 ★ 心の本質。本来の意味の「意識」とは神の領域にあります。
 ☆ 心の本質は 時間的に考えるところにあり 限りある力しか持ち得ない。なぞにおいて なぞとして 神を その名として 受け容れる。この神は 心に宿るという言い方もするけれども たぶん 接点があるというのみだと考えられる。つまり 経験世界とそれを超えた想定世界との あるとすれば 接点。
 要するに 神は 身体=精神を超えている。神は 精神ではない。
 ★ 本来の意味の「意識」
 ☆ とは たぶん 生命の根源 その力・そのはたらき といった内容をおっしゃっているのではないか。

 こういう《決まった一つの課題》のもとに 今回の質問があるというところまでは はじめに意識しています。ボケてもいません。
 それと わたしは 精神分析については その科学的な解明の部分は別として あとは どうも 馴染めません。アーラヤ識説にしても 入って行くと こちらが みづから はじき返って来ます。それは 経験世界とそれを超えた世界との関係が あいまいだと思われるからです。精神分析のほうは 無意識と意識との関係が しっくり来ないか あるいは その説明事例を聞いてみると しっくり来すぎか に思われ 馴染めません。
 この点を明らかにしてくれる理論があれば おしえて欲しいと思います。

 もう一つは たぶん わたしの場合 こういう質疑応答をつうじて その途中で 自分の解答を得るという場合があるということだろうと思います。

お礼日時:2008/07/04 11:21

疑問にばかり返答してきましたが、


>つまり 心の領域が 二層になっている。あるいは前の部分と奥の部分とに分かれている。深層あるいは奥の院が 無意識と呼ばれる。しかも 時として これを意識しうる場合もある。

私の見解ではその通りです。
そして意識があらかじめ無です。
無意識を煩悩の巣窟としているのが唯識の始まりで、だからこそ私の個人的見解とは異なります。
無意識は幼い子供です。
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この回答へのお礼

 つづいてです。

 ★ 無意識を煩悩の巣窟としているのが唯識の始まりで、だからこそ私の個人的見解とは異なります。
 ☆ なるほど。たしかに 煩悩なり無明なりを はじめに 掲げて 訴えるようにして そのあと 菩提なり明知なりを説く。自分でマッチを擦って火事にしておいて またあとで 自分で消す側にまわる。という要素があるようにも見えますね。

 次に行きます。

お礼日時:2008/07/04 10:59

A10の


>有価軋轢のようなものが
これはタイプミスです。
>何か軋轢のようなもの
が正しいです。
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primeapeです。


補足をいろいろと。

> ★ 〔意識し得ていない無意識を制御するかどうかは〕欲望に振り回される悩みだと思っています。
 ☆ わかったようでもありますが。でも 聞いてみます。このとき《欲望》というのは 欲望として意識し得ているそのものですか? 単なるたとえですか? 《欲望の振り回される〈ような〉悩み》というたとえですか?

特に自己評価の低い人がそうですが、欲望に振り回されるのは困ったこととして自覚可能です。
A4さんの言うような右脳と左脳の答えの出し方の違いも作用します。
欲望自身はどんなに拷問しても自白しないのですが、意思および真実の無い歪みと有価軋轢のようなものが欲望では無いかと思っています。

>単純に言って神との関係 これが 無意識の場であるというふうにおっしゃっているように聞こえます。神とわたしとの接点が 無意識であるというふうです。

神との関係を司るのは無意識です。
したがって無意識には忠実な信仰心が欠かせません。
この信仰心を表ざたにすることを日本人は長らくやせ我慢していました。
だから日本人キリスト教徒は迫害を受けたのだと思います。
私にとって忠実な信仰心を表ざたに出来ることを教えてくれた生き証人はbrageloneさんです。
感謝しています。

>そうですね。質問者が自分のことを出しますと 上(前半)の見方は わたしも受け容れますが それを《無意識》と呼ぶ必要は特にないと思っています。
事故の同一性のとり方は人それぞれで大半の人も無自覚に過ごせますが、brageloneさんもそうなのでしょう。
欲望も(自己中)自己の同一性を保つその場しのぎの絆創膏のようなものです。

>《別の存在》ですか!? それは 《主観》を広く取って 大きくは この主観の基礎としての存在なのではないでしょうか?
私の場合主観が正体不明から抜け出したのはほんの3~4日前のことです。
自分が正気かどうかの心配はそれまで常にありました。
普遍的考察かどうかは確信がありませんがそのような見解もありえます。
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この回答へのお礼

 primeapeさん おはようございます。ご回答をありがとうございます。

 今回の一連のご回答に接して primeapeさんご自身の経験 その個別性としての部分は なかなか 微妙ですね。分かりづらいのではなく 分かったと思っても 反応しづらい要素があるように感じられます。
 これを それでも分かろうとすると――ここまでのご回答に対して 何も考えずに そうして来ましたが―― どうしても さらにご自身の懐深く こちらが入って行って お尋ねするというようなかたちになってしまいそうです。
 ということは primeapeさんに もう少し一般化して述べてもらえないでしょうかとねだっている形でもありますが 〔だからと言って わたしの説明の仕方が 一般化されているのかと言えば 覚束ないところが多いでしょうから〕 たぶん 一つひとつ ご自分にしっくり来る言葉を選んで 述べておられるのでしょうから これからも 鍵語となると思われるようなところを 質問してまいりたいと思います。

 ☆★ 欲望 意志のゆがみ 真実性の薄さ 何かとの軋轢のようなもの これとしては 意識している ということですね。
 ☆ 右脳左脳の方の説明と軌を一にしているかも知れません。

 ★ 神との関係を司るのは無意識です。うんぬん。
 ☆ と続く箇所ですが 言葉の違いとしてだけ 反応します。
 ● 神とわたしとの関係は 身体=精神のすべてです。
 ☆ という言い方をします。そういみ意味で 無意識を取り立てているというわけではありません。
 
 さらにご回答がつづきます。

お礼日時:2008/07/04 10:54

primeapeです。


夢物語です。
当事者の一方であるフセイン大統領は屈辱の中処刑されましたよね。
あの屈辱と罵声は彼の罪をこの世で人間が許すためのお清めです。
彼は天界に祝福されて死を迎えました。
同じ心境たるイスラム教徒は無意識的にこのいきさつを知っています。
ならばアメリカの行いも許せるのが本来の人間性ですが、実際の成り行きは正反対に写っています。
ただし罪や嘘の意識を共有する必要はないでしょう。
神様が認めています。
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この回答へのお礼

 ご回答をありがとうございます。

 直前のお応えにも書きましたように この夢物語は 分かりやすい!です。それ以上のことは わたしには なんとも 言葉が出ません。
 でも こういう話であれば 直接 当事者に対して語ってあげても よいようにも思います。何に対してでも いいのですが そのきっかけになるように思われます。

お礼日時:2008/07/04 00:37

primeapeです。


(1)の記憶について。
記憶が過去お意味する一般的な合意の上ではわたしは解説をためらいます。
マナ識が自分を取り戻してアラーヤ識に欲望の手先が居なくなれば少なくとも今生で起きる全ての縁起は計算可能です。
この記憶は過去ではなく将来起きることで私のアラーや識は既に記憶しています。
アラーヤ識の本分は真実を忠実に写し取る鏡です。

成功例の断片であり無意識の連帯の上では卑怯は抜け駆けでもありますが、9.11事件はその十年位前に霊視していました。当時の大統領はパパブッシュでしたが、ジュニアがまたしても大統領を次ぐことも知っていました。日常の細かなことでもこの手の経験はあります。この手のことは知っていてもどうにもならないんですよね。卑怯な抜け駆けなので更なる縁起を結びように無いんです。だから口に出すことも出来ない。
トピックスですが、ブッシュジュニアは予期された第三次世界大戦を小規模紛争に還元した功労者でもあります。対イラク戦はそのような効果がありました。天界がそのようにいさめてくれています。
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この回答へのお礼

 ご回答をありがとうございます。

 ううーん。そうですね。実際問題として 過去にだけではなく 将来にも限られず 記憶あるいはアーラヤ識では その種子というのでしょうか その歴史的に連綿とつづく因果関係があって そのつど 目立つような結果が現われるということのようですね。
 分かりやすいと思われます。次のご回答でも 《夢物語》として披露されていますが 分かりやすい! この一言だと思います。

 すなわち 無意識と意識との関係は 分からない。それゆえ どんなふうにも 説明することができる。――論理的には どうも こうなるように思えたのですが 少々逸脱したでしょうか。

お礼日時:2008/07/04 00:32

primeapeです。


トピックスです。
メチャンコ悪魔君とは和解と承認の段階から感情があることを認める(人間である)祝福の段階に写り、その結果自我と超自我のバランスが取れたのが私自身3~4日前にやっとのことです。
その結果やっとはっきりし出したのは、意識している事柄とは主観と言う本質とは別の存在に頼っていると言うことです。
個性への疑問もこのような事象によるものでしょう。
主観や意識の話ならば言葉の使い方は人それぞれでマチマチです。
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この回答へのお礼

 トピックスですね。ありがとうございます。

 でも 分からない部分もありますよ。
 ★ 意識している事柄とは主観と言う本質とは別の存在に頼っている
 ☆ 《別の存在》ですか!? それは 《主観》を広く取って 大きくは この主観の基礎としての存在なのではないでしょうか? 主観は 変わり行くもので 動態ですが わたしという存在も その現実意識として 主観という言い方をすると思います。したがって この主観の根底としての存在 という表現が わたしには しっくり来るようなのですが?

お礼日時:2008/07/04 00:17

primeapeです。


A3のお礼についての釈明。
>primeapeさんの場合 《無の意識》であり それゆえ 《無の境地》が出てくるのではないでしょうか。

誰もが持つ健康な無意識とは無の境地に到達しています。
だからこそ人間らしく生きていられます。
仏性はだれもがあらかじめ内包していると言っていいでしょう。
そんな無意識の発見から始まった私の神秘体験は、確かに無意識について他の人と異なる見解をしているかもしれませんが、無意識は魔物ではないので人間性を離れて悪魔を装うのは仮の姿です。
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この回答へのお礼

 ご説明ありがとうございます。

 そうですね。
 そうしますと わたしの解釈では 意識とそして 単純に言って神との関係 これが 無意識の場であるというふうにおっしゃっているように聞こえます。神とわたしとの接点が 無意識であるというふうです。
 ただし
 ★ ・・・無意識は魔物ではないので人間性を離れて悪魔を装うのは仮の姿です。
 ☆ というふうに いろんな変化に富んでいるとも採れます。
 あぁ それで《制御》ということが 出てくるのでしょうか?

 そうですね。質問者が自分のことを出しますと 上(前半)の見方は わたしも受け容れますが それを《無意識》と呼ぶ必要は特にないと思っています。
 後半のことは たぶん わたしにも そういう出来事が起こっているかもしれないと思いますが ふつうは 知らん振りですね。と言いますか たぶん 知らないと思います。――知るようになるだろうと おっしゃっていますね。

お礼日時:2008/07/04 00:09

primeapeです。


A2の補足の返答。
>《目標にする》というところに引っかかっています。
>だから 《目標》もあって 普段は それ以下の状態にあるということでしょうか?

お題目となっている。との意味です。
克服、または説得の必要な課題と言うことです。

>必ずしも別の自分がいるというな見方にまでは 行かないとも思うのですが?
私に言わせれば無自覚に過ぎないのですが自覚する以外のアプローチで克服する方法もあるかもしれません。その人次第です。

>人を殺せば精神病院行きではなく死刑です。
私は生贄になれているので(心の新陳代謝)血なまぐさいたとえ話が好きなだけです。
個性だと思ってください。
思慮深い人のお話の通り詳しく聞くまでも無く死刑は廃絶すべきなのでしょう。

>これは 一般には おかしいです。意識し得ていない領域の力と働きを 《制御する》も《しない》も ないと思われます。
欲望に振り回される悩みだと思っています。

>わるく言えば――片方の側に偏って行って いぢわるく言えば―― けっきょく 大きく広くは 無意識は 心であるというふうに響くのですが それでは 誤解ですか?
心を預かっている。
このほうが表現上は正しいようです。
鬼束ちひろの歌でもメチャンコ悪魔君のつぶやきでもあります。
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この回答へのお礼

 つづいてですね。

 ★ 〔無意識にかんして〕お題目となっている。との意味です。 / 克服、または説得の必要な課題と言うことです。
 ☆ 無意識は 課題となっていて 人びとに対して こちらが 説明していくことであるという意味ですね。

 ★ 〔意識し得ていない無意識を制御するかどうかは〕欲望に振り回される悩みだと思っています。
 ☆ わかったようでもありますが。でも 聞いてみます。このとき《欲望》というのは 欲望として意識し得ているそのものですか? 単なるたとえですか? 《欲望の振り回される〈ような〉悩み》というたとえですか?

 総じて言いまして いまのところは こう受けとっています。
 つまり 心の領域が 二層になっている。あるいは前の部分と奥の部分とに分かれている。深層あるいは奥の院が 無意識と呼ばれる。しかも 時として これを意識しうる場合もある。

お礼日時:2008/07/03 23:56

仏教の難しい理論は判りませんが、(1)について書いてみます。


『意識』は感情を持っています。又言葉を持っています、分別をして論
理的に考える事が出来ます。分別できる事は『有限』に属しています。
従って『無限、永遠』などは理解できません。

『無意識』は直感で物事を判断します。分別しません、現実を直視して
います。常に正しい判断が出来る者です。感情はありません。感情を
『起こさせるもの』です。感情の源を司っています。その人を実際に生
かそうという働きをします。又『働き』そのものとも言えます。従って
「捉える事は」大変に難しいと言えます。

それを科学的に解剖するならばスペリー博士の『分離脳』の研究成果に
顕れています。「左脳」は言語脳で論理を担当している。という事で
す。また「右脳」は空間の認識、言葉を持っていない、自我意識とは
『違う全く別な人格がある』という事です。

わかり易い話しとするために脳の機能と言う観点から『禅問答』を取り
上げます。是は分別脳の機能から言えば解く事が不可能の問題です。
それは丁度『精神疾患』にかかった人たちが、分別脳だけで『精神疾
患』を治そうとしていることと同じです。分別脳では出来ない問題を
『分別』の塊である『薬』を使って中々治らない状態と言えます。

精神疾患とは分別脳で、『禅問答』を目の前にして呆然と立ちすくんで
いるいる状態です。それでは『禅問答』が解けた状態を言ってみます。

それは自我意識(分別脳)が自分では出来ない「大死一番」する時に、
自我意識に代わってその問題を解決してくれる者、それが『右脳の意
識』です。その時に初めて自我意識が無意識の意識と出会う事になりま
す。それが『見性』です。悟りが開けることです。

それは、苦しんでいた者が神と会った事に相当します。又神と和解した
事に相当します。それは苦しみからの解放と言えます。悩み苦しみの元
は『心の矛盾と対立です』それは『右脳の意識と左脳の意識』の対立と
矛盾と言えます。それが『人間苦』の元です。

悟りを開くという事は『心の矛盾の解消』という事です。是は『薬も使
わない究極の心の癒しの治療法』と言えます。
『禅問答』が解けたと言う事は『生死の問題が解決』した事になりま
す。是は、『神」に会った人以外は信じられない事です。

神を信じる事も「禅問答」を解く事も一回『分別の世界』を飛び出さな
ければなりません。分別の世界に留まっている限り「永遠の世界」は理
解できません。神を信じられません。ですが、科学が証明している事。
人間の頭は誰の頭も、半分は『宗教と神』で出来ています。
2,500年も前にお釈迦は言いました。

        『一切衆生悉有仏性』
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この回答へのお礼

 tumaritou1さん ご回答をありがとうございます。

 よく分からないのですが 断片的に 質問をさせていただきます。
 (1) 《意識と無意識》と《分離脳(左脳と右脳)》との関係が よく飲み込めないのですが? 
 ★ 『無意識』は・・・「捉える事は」大変に難しいと言えます。
 ☆ ということは 時として しかるべき人には 意識し得るということですね? それゆえ
 ★ 「右脳」は空間の認識、言葉を持っていない、自我意識とは 『違う 全く別な人格がある』という事です。
 ☆ ということなのだが 無意識を意識しうる人にとっては
 ★ 『右脳の意識と左脳の意識』の対立と矛盾
 ☆ というように《右脳》についても 《右脳の意識》があるということでしょうか? つまり 《自我意識とは違う 全く別な人格》を実現したということでしょうか?
 
 (2)★ 『無意識』は直感で物事を判断します。分別しません、現実を直視しています。常に正しい判断が出来る者です。 
 ☆ これの保証は どこに求めておられるのでしょうか? 上の《自我意識とは別の人格》のことでいいでしょうか? でも それが どうして 保証になるのでしょうか?
 ★ 『一切衆生悉有仏性』
 ☆ だからでしょうか? 雑草が ある日生えてくるように おのづから この右脳の人格≒無意識≒仏性の境地になるということでしょうか? 
 ★ 『禅問答』
 ☆ が分かり
 ★ 「大死一番」
 ☆ した人は これまで どのくらい いるのですか?あなたは
 ★ 『神」に会った人
 ☆ ですか?

お礼日時:2008/07/03 23:42

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