プロが教える店舗&オフィスのセキュリティ対策術

 この質問は 《QNo.4140486:人の業績は 人間そのものですか = http://oshiete1.goo.ne.jp/qa4140486.html 》を継ぐものです。

 さしづめお伺いしたいことは 次のような主題です。
 (1) 意識と無意識との関係が知りたいです。あっても 知り得ないという想定ですか。
 《無意識》と規定すると 無意識という場やはたらきがあると捉えがちになります。記憶という行為において 含まれるであろうとは思います。ですが 実際には その働きは 意識し得ませんし なかなか 理解しがたいものです。想定する場合には どこまでを 捉えているのでしょう?

 (2) 記憶と意志との関係を 無意識説の立ち場から おしえて欲しい。
 人間の行為能力には 三つを想定します。記憶行為(≒司法)は ほかの知解行為(≒立法)や意志行為(≒行政)と どうかかわっているのか これを 無意識野を想定する立ち場では どう説いているのでしょう?

  *  *  *

 なお さらに趣旨説明として 掲げておきます。
 この問いの課題は 一つ あって それに決まっているように考えています。つまり 《意識および無意識なる経験領域》と《それらを超えたさらに無の領域》 これら両領域の互いの関係や如何に? の一点だと思います。その具体的な視点が 上の主題です。

 すでに 質問者も かなり問い求めを進めて来ております。(前の質問の質疑応答を参照されたし)。再掲します。
 人間にとって 表象は 視認にせよ概念の把握にせよ 心の志向性にとって 或る目標を与えます。理想や理念のそれであれば その心の視像は 意志の目的とそこにおける休息になり得ます。
 《記憶そして無意識野〔での出来事だ〕》と想定し規定すれば わたしたちは そこを あたかも探究の途上にありつつ 〔あたかも〕到達点として位置づけてしまいがちです。合点! 合点! 合点! というわけです。
 早い話が 通り魔殺人事件での加害者にせよ被害者にせよ その原因究明に際して ポーンと 《アーラヤ識なる場における記憶行為の積み重なり》の説を出すと 《ああ 犯人は 無意識野だ》という早飲み込みに到らないとも限りません。
 というよりは それでもよいのですが 問題は その先にあって では この無意識野におけるわが生命の息吹きでもあり しかもちょっとよそ道に逸れてしまったこのわが衝動を どうすればよいか これを 同時に 明らかにしてくれたまえ。そうしてこそ この《アーラヤ識》の理論の真骨頂があるのではないか。ということになります。のではないでしょうか?

 《記憶》行為は 《意志(つまり これに色をつければ 愛です)》の行為と そして《知解(知識ないし経験合理性)》と それぞれの内容が 互いに時間的な食い違いをゆるしつつも おそらくは 一定の時系列において・もしくは一つの生涯において 互いの一体性を持つと考えます。わたしたちは それら三つの能力行為のあいだこに 互いの整合性を問い求めようとします。(ホンネとタテマエの食い違いと それの是正のようにです)。
 このような時間的な差延を持った三つの行為能力の一体性に仮りに立つとすれば 記憶にかんする〔知解としての〕科学的な解明のほかに それと並んで 意志としての心の志向性のあり方 これも 大いに 自己主張をしてよいのではないか。こう考えますが いかがでしょうか。

A 回答 (43件中1~10件)

 brageloneさん、大変ですね。


 【神学(瞑想としての実践)と社会行為とを並行しておこなうというありきたりの結論です。】
 ◎⇒その通りですよ、でもありきたりでしょうか?難しい、車の両輪ですね。いつでも、何していても、常に仰せの、奥の方の根幹的意識を生きているということですから、当たり前かもしれないがとても修練を必要とされますよ。これができればアデプト、偉大なるグル、ジーザス・クライストとお話ができますよ。Chrはクリシュナのクリと同じで普遍者という意味の位階を表す、古代言語の敬称なんですが。

 【いちばん極端な話をしましょう。ネコをかぶって キリストに倣う生活を送ったとします。そのようにして 人生を全うしたとします。】
 ◎⇒最初は真似ですしね、なかなか本物にならないのですよ。それでも、いつか本物が全てのご自分を染めてしまうでしょう。つまりその通りですよ、そういう全うだって、すごいのですが、まねやネコちゃんのままではない、というのが面白いですね。恵みでしょうか?
 無理と不自然で、現状での本心とはどうもなんだか違うみたい、分からない。でもそうしていくより仕方ないのですよ。いわば有無を言わせぬ軍律です。平和は戦争のないことではない、とはロマン・ロランの魅せられたる魂でしたか。
 自分に自儘と勝手を許さない。
 まずそれ(タマスという)を自制する、そして野心的活動や名誉や業績心(ラジャスという)を超える。
 そしてどんないいことであれ、努力であれ、精進や信仰であれなんであれ、善悪も超え、それからの報いを自分に帰さない(サットヴァという、いいことの報いを望む心に惑わされない)。
 ということでいくと、本物になります。
 
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この回答へのお礼

 krya1998さん お答えをいただきありがとうございます。

 この議論 さいごまで よろしかったら すすめたいと思います。
 
 ★ 本物
 ☆ かどうか これが どうでもよいという結論にはなりませんか。
 皆が にせものです。皆が ひょっとして 本物であるかも知れません。

 あるいは 真贋の問題を一たん別として 指導者になる位というのは どのようにして決まるのか。指導者とて どこまで行っても 指導される者と 同じ境地ではないのか。つまり いまは 数学をおしえるとか 柔道のてほどきをするとか そういうふうに個別の課題について指導するというのではなく 人間形成そのものの問題です。
 おそらく内面は どこまで行っても 大切です。と同時に あるいは それゆえにこそ――その勉強も修行も おこないつつ―― 外面について 自己表現をおこなうようにする。そしてこれは 仕事ということ その共同性というものに 目を向けていくこと。その見方に新しい視点を導入していくこと。そういう方面と場とが 無意識の――もしそれが重大な発見であり人間にとって根源のようにはたらくとするのならば――生きる道だと思うのです。
 無意識は つねに 無意識のままに・つつましやかに はたらく。こう きちんと説明しつつ 言える理論であれば どれだけ よいかと思うのですが!?

お礼日時:2008/07/07 11:06

トントントン)))) トン・テン・カ-ン☆



(*^^*)>゛゛゛あっ、どうも おばこんちはbrageloneさん。

何やってんだ?って???

ええ、日曜日大工をば、、、

取っ手付けとかないとあぶないでしょ-? ばりあふりー

『人生』
http://www.aozora.gr.jp/cards/000148/files/767_1 …

『文芸は男子一生の事業とするに足らざる乎』
http://www.aozora.gr.jp/cards/000148/files/2681_ …


意味がちがう?そらそうでしょー
こっちの方面は先に思い浮かんでなかった

【倒産とはどういうことか】
http://www.ytrd.com/kiki/tousantoha2.htm
【手形】
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%89%8B%E5%BD%A2
【約束手形(やくそくてがた)】
手形の振出人(発行者)が、受取人またはその指図人に対して
、一定の期日に一定の金額を支払うことを約束する形式の有価証券のことである。
略称は約手(やくて)。
手形は、2~3ヶ月程度の中期信用を担う手段として広く利用されていることもあり
、日本国内で流通する手形のほぼすべてが約束手形である。
【手形の裏書とは】
http://www3.ueda.ne.jp/~motomura/tegata.uragaki. …
【約束手形の見本】
http://www.nihonbussan.com/yakusokutegata.html
【手形取引】
http://www.biwa.ne.jp/~yonezu/boki_i/manande/teg …


はじめに見ていたのは、原作者と作詞者という観点から眺めてた。
抜き出しの言葉なのだけれど、どちらもそれぞれの作品のキモ。
作品の一部分であり、尚且つ、その部分が作品全体を要約したもの。
原作者-台詞と作詞家-歌詞-文芸に属し文学に内包される


松本氏-漫画家(原作者) 
槙原氏-シンガーソングライター(作詞家、作曲家、編曲家、歌手、演奏者)
松本氏ー高見沢氏(ALFEE)とタイアップ 主題歌「Brave Love」を依頼
作詞・作曲-高見沢氏(THE ALFEE)
歌い手-THE ALFEE(歌い手の一人に高見沢氏)
槇原氏ーCHEMISTRYへ歌を提供「約束の場所」
作詞・作曲-槇原氏
歌い手-CHEMISTRY
http://www.mpaj.or.jp/whats/management/item01_01 …
印税の配分の話か?


CHEMISTRYのCD『約束の場所』
http://music.yahoo.co.jp/shop/c/10/dfcl1295/

CDをみれば曲が4曲入っている
01: 約束の場所
作詞:槇原敬之 / 作曲:槇原敬之
02: still in my heart
作詞:川畑要 / 作曲:川畑要 nao'ymt
03: YOUR WORLD
作詞:堂珍嘉邦 / 作曲:堂珍嘉邦 谷口尚久
04: 約束の場所[Less Vocal]
作詞:槇原敬之 / 作曲:槇原敬之

それにしても“裏切らない”とは何なんだろう?

【Backing Track】
http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question …

印税の話からすれば、“カラオケ”

歌うだけの歌手には、歌唱印税は入らない

歌唱印税は作詞家・作曲家へ

歌を提供することへのインセンティヴか?

相互協力関係

槇原氏とCHEMISTRYとの間に於いての約束は

『約束の場所』のCDの中に槇原氏のスペースを

確保することと見ること出来ないか?

CHEMISTRYのそれぞれが個別に作詞・作曲をてがけた作品をのせる

のせることでCHEMISTRYの一人一人にも作詞・作曲印税が入る

CHEMISTRYの歌い手グループとしてでは、相乗効果でCDが売れれば

歌唱印税も後からついてくる

こちらもある意味でのマーケティング活動上のタイアップ?



松本氏ー高見沢氏(THE ALFEE)とのタイアップを見てみると

THE ALFEEのCD『Brave Love』
http://music.yahoo.co.jp/shop/c/10/todt5110

CDをみれば曲が3曲入っている
01: Brave Love
作詞:高見沢俊彦 / 作曲:高見沢俊彦
02: Beyond The Win
作詞:高見沢俊彦 / 作曲:高見沢俊彦
03: Brave Love
作曲:高見沢俊彦

映画の主題歌として使用される使用料が印税で支払う恰好?

高見沢氏へ一人へ帰属するとする

THE ALFEEの歌い手のグループとしてでは

歌う歌が映画の主題歌として用いられると

CDが売れれば歌い手への歌唱印税も見込める

大きな宣伝効果が期待できる。


相互協力関係。




【漫画原作者に絵の著作権?(1999.2.26掲載)】
http://www.net-b.co.jp/jbox/C1/9609C101.htm#032
漫画「キャンディ・キャンディ」の著作権が漫画家だけにあるのか、ストーリーを考えた原作者にもあるのかが争われた民事訴訟で、東京地裁は2月25日「絵についても原作者に著作権がある」とする判決を言い渡した。
判決では、漫画は原作原稿を翻案して創作された二次的著作物とし、原作者の著作権を認めた上で、漫画家の主張である「現行は参考資料に過ぎず、ストーリーの骨子は自分で考えた」を退けた。
更に判決では、「漫画はストーリー展開、人物のせりふなどが不可分一体となった一つの著作物で、絵だけ取りあげて漫画家の専権に属するとは言えない」とし、「新たに漫画家が書き下ろした絵でも、原作者の許可なく複製したり配布したりは出来ない」とした。



漫画の分野同士の間では上記の著作権の定義が用いられるのだろうけれども

分野を越えた場合においても同定義を用いることは可能だろうか?

著作権侵害と投げかけた真意はどこにあるんだろう?

音楽の分野と漫画の分野の著作権の保護のありようのちがいを

問うているのか?はたまた、著作権の非親告罪化への抗議?

詞の意味…意味…意味のない言葉はない…意味…

「時間は夢を裏切らない(未来)/夢も時間を裏切ってはならない(現在)」

名を得て、権利を得たものにのみが受け取ることができる報酬

どんなに時間と労力を費やしても一向に道が開けてこない日々の暮らし

疲れ果て、投げ出しやめてしまえばどんなに楽か、そんな気にもなることだろう


名を得るとはなんと果てしない旅だろうか…

“されど、あきらめるな。”


いままさに旅を続けている名もなき旅人(かつての自分)へ向けて送るメッセージ。

~原作者であり漫画家でもある者もかつて名もなき旅人だった~


 “今、僕にできることを僕はしよう ”


― 名もなき旅人の君が 旅を 終えたとき ― 


 “ この旅が 無駄では なかった ” と、いえるように


【QNo.3784454 日本政府が霊魂の存在を認めたら】 ANo.18
http://oshiete1.goo.ne.jp/qa3784454.html

【著作権制度に関する情報】
http://www.bunka.go.jp/chosakuken/index_2.html
【著作権Q&A ~著作権なるほど質問箱~】
http://bushclover.nime.ac.jp/c-edu/question.asp
【ドゥルーズ『フーコー』 】
http://literaryspace.blog101.fc2.com/blog-entry- …
http://takekuma.cocolog-nifty.com/blog/2007/07/1 …
http://takekuma.cocolog-nifty.com/blog/2007/07/p …

この回答への補足

 ★ 【ドゥルーズ『フーコー』 】
 ▲ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 246ー7「〈神〉が存在するかぎり、つまり〈神〉という形態が機能するかぎり、人間はまだ存在していない。しかし、〈人間〉という形態が現われるとき、それはすでに人間の死を、少なくとも三つの仕方で内包しながら、現われるのである。まず、〈神〉が不在であれば、人間はどのようにして同一性の保証者を見つけることができようか。また、〈人間〉という形態は、それ自身、有限性の襞においてはじめて成立した。つまりこの形態は、人間に死をもたらすものである(・・・)。結局、有限性の力それ自体は、生命の組織平面の拡散、言語の分散、生産様式の不均衡、などを通じてはじめて人間が存在するようにするのである。」
http://literaryspace.blog101.fc2.com/blog-entry- …
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ 
 ☆ (1) 良心の自由において抱かれる個人の信仰(それは 生きるという動態であり 次の事項との兼ね合いでは 自己表現としての生活態度につながるのが 基本である)と 
 (2) これを表現=外化=疎外する言表(語り述べたその文章)と (3) その分析(神学的・哲学的・社会学的など)
これらは きちんと分けて扱う必要があります。たとえば はじめの一文
 ★ 〈神〉が存在するかぎり、つまり〈神〉という形態が機能するかぎり、人間はまだ存在していない。
 ☆ (あ) いかに憑依の原始心性であるとは言え 人間は 自己が存在しているなら 《ヨリ(依り憑く)》なるアニミスムの心性としてでも 信仰を抱き 神を頂く。
 (い)★《〈人間〉という形態は、それ自身、有限性の襞においてはじめて成立した》という如く この有限で相対的な世界に 人は 《イリ(入り)》したのである。その成果は ★《つまりこの形態は、人間に死をもたらすものである》という如く 有限の生を自覚するということであり これは 《イリなる歴史知性》の自然本性に属するものである。
 (う) もし上に引用の一文に合わせて捉えるなら 人は この《イリヒコ / イリヒメ》なる存在として立ち 《神のもとに・神とともに――神との一定の関係を自覚して それに依り憑くのではなく そうではなく この関係(つまり 信仰)を持ちつつ――生きる》ことが起きた。 
 (え) この信仰を抱いたあと 生きている自分と生きた神とを 観念に変えるという超歴史知性が出た。人間の知性・理性こそが 自己をも神をも包む力であると唱え始めた。これは 死ぬまでは 権力を握れば われこそが全知全能であるという理論である。
 (お) このとき ★《つまり〈神〉という形態が機能するかぎり、人間はまだ存在していない》。権力者が 神であり さらにその上なる神は 権力者を通じてのみ あがめることが出来るという社会的な宗教形態が機能するかぎり 人間は死んでいるという意味である。(わたしの見るところ 日本人は すすんで そのように自殺しようとして生きている=つまり死んでいる様子である)。
 ★ まず、〈神〉が不在であれば、人間はどのようにして同一性の保証者を見つけることができようか。
 ☆ (か) こういう幼稚な議論が いまだに続いている。《イリ歴史知性》において 神は《不在》であるからこそ 生きているし それゆえ 自己が生きている。《不在なものの現在》 これが 信仰であると知っている。《顕在》させたのは 一方で 神の側からのはたらきであったか 他方で 上の(え)の《スーパー・イリ歴史知性》が勝手に押しつけたかである。
 (き) 超歴史知性のなせるわざは 個人の主観におさまる信仰を 社会的に政治的に 顕在化し たいていは 押しつけたところにある。神の側からのはたらきかけは 一方で 個人の主観・こころにはたらきかけた側面と 他方で これを集団・組織・社会制度さらには上の政治的な顕在化と同じように 国教とした側面とに分かれる。後者は 人間の行為であると考えられる。
 ★ 結局、有限性の力それ自体は、生命の組織平面の拡散、言語の分散、生産様式の不均衡、などを通じてはじめて人間が存在するようにするのである。 
 ☆ 自然本性が そもそも《有限性の力それ自体》なのである。いちいち ほかの要素を持ってくる必要はないと思われる。はじめから人間は存在している。(字数が尽きました)。

補足日時:2008/07/14 10:06
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この回答へのお礼

 こんばんは littlekissさん。ご回答をありがとうございます。

 ★ 漱石:『人生』 ▼ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 若し人間が人間の主宰たるを得るならば、若し詩人文人小説家が記載せる人生の外に人生なくんば、人生は余程便利にして、人間は余程えらきものなり、
 不測の変外界に起り、思ひがけぬ心は心の底より出で来る、容赦なく且(かつ)乱暴に出で来る、海嘯と震災は、啻(たゞ)に三陸と濃尾に起るのみにあらず、亦自家三寸の丹田(たんでん)中にあり、険呑(けんのん)なる哉(かな)。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ 前半は 反語形式で言おうとするところではなく そうではなく 文字どおりが 正解なり。(漱石先生 あやまてり)。後半も――同じく漱石先生の負けなるものにて―― だからと言って 現在為すべきことを避けるための理由にはならざるなり。

 ★ 漱石:『文芸は男子一生の事業とするに足らざる乎』
 《QNo.4140486 人の業績は 人間そのものですか =http://oshiete1.goo.ne.jp/qa4140486.html 》⇒《A:さにあらず。〈ただいまそこにいる人・その存在〉が 人間である。それゆえ 職業は どれもみな同じ。つまり貴賎無し》。

 あとは 前回・前々回へのお応えにて お応えするかたちです。

 カンカンカァーン。ギーコギーコギーコ。トントントン。
 本棚をどうぞ。(自分が欲しい)。

お礼日時:2008/07/13 23:30

ANo.41の中で誤りがありました。



出ませか?←「ん」がぬけていました。→出ませんか?へ訂正します。

誤)と、しないと 《時は巡りくる そこに あなたが いるから》  は、出ませか?

正)と、しないと 《時は巡りくる そこに あなたが いるから》  は、出ませんか?

*************************************************************************** 


 ☆ ということでしょう。けれども 《人》にせよ《夢》にせよ
 《時間を裏切る / 裏切らない》ということには 馴染みません。


馴染みませんとは…


『人のこころは何ものにも束縛されない自由さ』を
もっていることをおっしゃっているのでしょうか?

『融通無碍(ゆうずう‐むげ)』
考え方や行動にとらわれるところがなく、自由であること。
また、そのさま。 「―な(の)考え」「―に対処する」



時間はずっと流れてる 止まることなく

時計の針 元の場所から離れても 

時の流れの中で 巡り来る




皿に乗った寿司 

目の前を通り過ぎて行く

穴子が二貫 

目の前を 通り過ぎて行く

過ぎ去った 皿の寿司 穴子

行き過ぎても 時が経てば 

巡り回って 回って来る

その時 どの皿を 選びとるか

それは 自由だ!

(*ただし、インターホン押して注文した品なら とらねばならぬ)



『裏切りの街角 』
http://music.goo.ne.jp/lyric/LYRUTND828/index.html
『らせん階段』
http://music.goo.ne.jp/lyric/LYRUTND54999/index. …
『季節の中で』
http://music.goo.ne.jp/lyric/LYRUTND1469/index.h …

『異邦人の視線』
http://www.kyoai.ac.jp/college/ronshuu/no-07/nis …

この回答への補足

 7月19日の記です。

 新しい続編の質問に移ります。
 よろしかったら どうぞ そちらでご回答をつづけてくださるようお願いします。 

補足日時:2008/07/19 10:21
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この回答へのお礼

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 人がいるとするなら その 人が 存在する 場所が あるはず
 夢は 人が 見ることやもの 描くことやもの
 だとすれば 《夢はーーーーー裏切らない》は
 《人はーーーーー裏切らない》と、おくことできませんか?
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ できません。理由は そのあとに あなたが書いておられるとおりです。
 ★ 還る場所、存在する場所を人は守る(願望)
 ☆ カッコ内の《願望》が それを表わしています。《裏切らないこともあるし 裏切ることもある》というのが 一般です。あとの句ですが 《決して》という言葉をつけて 言うことではありません。つまり
 ★ “裏切らない”という言葉がやけに目に付く
 ☆ ということでしょう。けれども 《人》にせよ《夢》にせよ 《時間を裏切る / 裏切らない》ということには 馴染みません。しかるべき文脈と条件を得て 何にしても 表現しようと思えば できると言える場合が ありますが それにしても そういう場合というのは 詩作品であればこそゆるされるというのが ほとんどだと考えます。
 ですから 乱暴に言えば そういう意味の解釈を確定しないまま 歌っているのは
 ★ 無責任です。 
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ 《なじまない》というのは 合わない・適合しないという意味です。

 ひとつのことについて きちんと処理できないということは すべてのことについて だらしないということになります。一つのことが終わらないのに 次の話へ飛んではいけません。いくらでもよそごとをしゃべろうと思えば できますけれど。

お礼日時:2008/07/10 23:08

● 意味がちがうと言っただけです。


 その結果は どうなんですか? どうなったんですか?



★ 夢はみたいと こころにえがけば いつでも描ける どこにいても
 ☆ という意味を出そうとするなら
 ▲ 夢は時間を裏切らない 
 ☆ ではなく 
 ● 夢は時間を選ばない 
 ☆ になるでしょうね。次の句も 同じようです。
 ▲ 時間も夢を決して裏切らない
 ☆ ではなくて
 ● 時間も〔どの〕夢を〔も〕決して選ばない(=差別しない) 
 ☆ と表現したとき 
 ★ 時は巡りくる そこに あなたが いるから
 ☆ という意味合いが出ます。ただ――ただ です ただ―― 《時は巡りくる そこに あなたが いるから》という判断は 乱暴に言ってしまえば 無責任です。《そういう場合もあるだろうし そうでない場合もある。でも楽観的でいましょう》と言っていませんか。



「夢は時間を裏切らない 時間も夢を決して裏切らない」

仮に ↑ このなかに 
   ↑
《時は巡りくる そこに あなたが いるから》 いるとします。
 
●夢は時間を選ばない 時間も〔どの〕夢を〔も〕決して選ばない

と、しないと 《時は巡りくる そこに あなたが いるから》  は、出ませか?

そうでしょうか?

夢を見るにも こころに描くにも

夢を 見る人 描く人 

人という存在が いないことには はじまらない

人がいるとするなら その 人が 存在する 場所が あるはず

夢は 人が 見ることやもの 描くことやもの

だとすれば 《夢はーーーーー裏切らない》は

《人はーーーーー裏切らない》と、おくことできませんか?

《人》という言葉が来て、後に《裏切らない》と来ると

“裏切らない”という言葉がやけに目に付く

しかし、“裏切らない”の前には“時間を”というこ言葉がおかれている

つなげて読めば、“時間を裏切らない” と

言い換えれば、守る、約束…還る場所、存在する場所を人は守る(願望)

歌は世につれ、世は歌につれと様変わりしても

なお歌い継がれてゆくのではないでしょうか

無責任ですか?


【QNo.157010 「あなた」と呼ぶのは失礼なのですか?】ANo.6ANo.10 ANo.21
http://oshiete1.goo.ne.jp/qa157010.html
http://www.cscd.osaka-u.ac.jp/user/rosaldo/05072 …
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この回答へのお礼

 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 人がいるとするなら その 人が 存在する 場所が あるはず
 夢は 人が 見ることやもの 描くことやもの
 だとすれば 《夢はーーーーー裏切らない》は
 《人はーーーーー裏切らない》と、おくことできませんか?
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ できません。理由は そのあとに あなたが書いておられるとおりです。
 ★ 還る場所、存在する場所を人は守る(願望)
 ☆ カッコ内の《願望》が それを表わしています。《裏切らないこともあるし 裏切ることもある》というのが 一般です。あとの句ですが 《決して》という言葉をつけて 言うことではありません。つまり
 ★ “裏切らない”という言葉がやけに目に付く
 ☆ ということでしょう。けれども 《人》にせよ《夢》にせよ 《時間を裏切る / 裏切らない》ということには 馴染みません。しかるべき文脈と条件を得て 何にしても 表現しようと思えば できると言える場合が ありますが それにしても そういう場合というのは 詩作品であればこそゆるされるというのが ほとんどだと考えます。
 ですから 乱暴に言えば そういう意味の解釈を確定しないまま 歌っているのは
 ★ 無責任です。 

お礼日時:2008/07/10 13:47

#36です。



>☆ そのあと 《「より自由に、より創造的に、より楽しく」生きること》が 個々の人の意志の問題として 来ます。

「意志の問題」を唯物論で考えると、交感神経と副交感神経のような相対立する働きを持つ物質的組織間の確執を経て、やがてどちらかに均衡して、結論は自動的に決まってしまうことになります。そうすると、唯物論では、自由意志は存在しえないのか? 唯一考えられるのは、「乱数発生装置」を設けて、外部の条件とは無関係に、乱数に基づいて意思決定をするようにすれば、見かけ上は、自由意志を持っているように見える。これは、進化論の考え方と共通します。

人間は、自然状態が何万年もかけて生み出して来た進化のプロセスを脳内の物質でモデル化することにより、数千年、数十年、場合によっては、数分で実現するシステムを持つに至ったのだと思います。この結果、唯物論によっても、自由意志や創造を説明することはできるように思います。

ただ、この説明には、致命的な欠陥が一つあります。

それは、この説明だと、そもそも人間は「意識」などというややこしいものを持つ必要が全然ないということです。意識を持つ必要はなく、「情報処理機能」さえ持てばそれで十分だということです。要するに、「創造的機能を持ったロボット」で十分だということです。にもかかわらず、何ゆえ人間は意識等という楽しくも厄介な働きを持ってしまったのでしょうか、とても不思議です。
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この回答へのお礼

 kobareroさん まづ第一に 理論は 価値自由の内容を持ち得て 初めて理論となります。このことの確認は いいですか。
 (完全な価値自由性は 望むのが無理でしょうが かと言って はじめから 自分の課題の解決に いい道具として立てるというのは むつかしい問題をはらみます)。

 第二に わたしは 自分が 唯物論に立つとは言っていません。解釈がややこしく感じるようにわたし自身が述べた箇所があったこと それも知っていますが そうだとしても まづは 《ものすごく乱暴に仕分けすると》という条件をつけておられたのではないですか。

 意識は 環界そして自身を含めた世界のすべてについて 知覚し表象したなら  その心像のすべてのことです。記憶におさめられたり 知解として取り出され 意志行為の要素となると考えられます。

 そして 唯物論は ほんとうには 無神論という神学のことです。無神という神の信仰のことです。世界は もの(質料)のみから成るというのは 質料主義のことですが これが すべては――つまり意識は もとより 知解も意志行為も すべては―― もののあり方を反映したものだとなります。この思想は 放っておいても よいと思われます。貧困のひとかけらも ないようになるまで 平等を唱え続けるでしょうが 一部に そう言い続ける人びとも 自由意志でそうする限り いても 仕方がないと思います。

お礼日時:2008/07/10 13:06

brageloneさん、細かいこところ見ていただいて 



どもm( _ _ )m お手数をおかけします。


●松本零士の文句の解釈は 同意見なんですね。


この場合は、同意というよりも協調を念頭において書いてるから⇒治める方向


ただ、この話(“訴訟”)とは別に


モノ・コトの関係性が違えば話も変わる解釈も変わる

【ウロコアイザメ】
http://oldworld.ameblo.jp/oldworld/entry-1002761 …
【『海 知られざる世界』】
http://www.nhk-ecatalog.com/_3068.html
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この回答へのお礼

 littlekissさん おっしゃっていることが分かりません。

 まづわたしは 《訴訟》のことなどは まったく 別として 歌詞の意味だけを問題にしました。
 意味がちがうと言っただけです。
 その結果は どうなんですか? どうなったんですか?
 ★ モノ・コトの関係性が違えば話も変わる解釈も変わる
 ☆ 《モノ・コトの関係性》がどう違ったのか 分かりませんが とにかく《話も変わる解釈も変わる》ということで うやむやにするという意味ですか?
 意味を確定しないことには 訴訟も何も この無意識の問題も何も 始まらないでしょう。わたしの解釈が妥当であるから もう引っ込めたということですね。《話》は変えようと思えば いくらでも変わるかも知れませんが 《解釈は 可能性の範囲内で 変わる》のであって 可能性の範囲を超えて変わるわけがないではないですか。
 槇原氏の歌詞を大事に思って 歌っていることは 考えられません。おかしないか。意味がないのですから。さもなければ わたしの解釈を反駁するか 別の解釈を 明らかにすることだと考えます。

お礼日時:2008/07/10 11:25

おはようございます、brageloneさん。




●歌詞の解釈で わたしは ちがう意見ですね。

ちがってていいんです。(*^^*)

 ▲ 松本零士:「時間は夢を裏切らない、夢も時間を裏切ってはならない」
 ☆ 人間の夢というものは 《有効》であれば どれだけ延び延びになっても 時間過程の中で実現する。夢を抱いた人間のほうも なかなかその実現が延び延びになってしまったとしても あきらめてはいけない。時間過程において実現への途中のどこかの一点で 断ち切れにしてしまってはいけない。



槙原敬之:「夢は時間を裏切らない 時間も夢を決して裏切らない」

夢は時間を裏切らない :夢はみたいと こころにえがけば いつでも描ける どこにいても

時間も夢を決して裏切らない:時は巡りくる そこに あなたが いるから


・時間は夢を裏切らない
・夢は時間を裏切らない

このふたつが成り立つには…

断ち切れにしてしまってはいけない~時は巡りくる、とすると

ふたつあることで、ふたつがひとつにつながるでしょ?

どちらの要件も満たす


“ 焉んぞ一に帰す ”
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この回答へのお礼

 littlekissさん ご熱心ですね。ご回答をありがとうございます。

 松本零士の文句の解釈は 同意見なんですね。

 その前に 細かいことを。
 ★ “ 焉んぞ一に帰す ”
 ☆ 正確には 《焉んぞ一に帰さざらんや》でしょう。

 ★ 夢はみたいと こころにえがけば いつでも描ける どこにいても
 ☆ という意味を出そうとするなら
 ▲ 夢は時間を裏切らない 
 ☆ ではなく 
 ● 夢は時間を選ばない 
 ☆ になるでしょうね。次の句も 同じようです。
 ▲ 時間も夢を決して裏切らない
 ☆ ではなくて
 ● 時間も〔どの〕夢を〔も〕決して選ばない(=差別しない) 
 ☆ と表現したとき 
 ★ 時は巡りくる そこに あなたが いるから
 ☆ という意味合いが出ます。ただ――ただ です ただ―― 《時は巡りくる そこに あなたが いるから》という判断は 乱暴に言ってしまえば 無責任です。《そういう場合もあるだろうし そうでない場合もある。でも楽観的でいましょう》と言っていませんか。
 それと 松本零士の文句のばあいもそうなのですが やはり《その夢が 妥当で有効なものであれば》という条件がつくと思います。

 ★ ふたつあることで、ふたつがひとつにつながるでしょ?
 ☆ 微笑みたくなるようなフレーズですが ちょっと無理があると思いますが いかがでしょうか。

お礼日時:2008/07/10 09:52

>《この質問は 哲学のカテゴリにおいて 質問にはならない》という投稿があったことに基づき 判断した



(笑)その「判断」なるものが、そもそも、おかしいのですよ。だから私に対する返答内容全体が、言ってもいないことを言ったことにしたうえでイチャモンをつけたに過ぎないような、お粗末極まりないものに堕してしまっている。後を続けるのもバカらしくなるというものです。まあ確かに、仏教を敵視しつつ、いつ果てるとも知れない遣り取りを延々と続けたくてウズウズしているあなたにとって目障りな投稿ではあったのでしょうよ。
とにかく!誰であれ他会員のネームを一部であろうと引用して誹謗的発言に及ぶということ自体が規約違反に相当します。こうした発言のどこに哲学的見地からの必要性があると言うのでしょうか。

あなたという質問者の返答内容自体は私にとって正直、興味が薄いものですが、例の規約違反相当にしてズレまくった(もっとも質問者に自覚が乏しいからでしょうが。いや「確信犯」かな?笑)以前のあなたの質問以来、精神病理的見地からの興味と或る予想を持って、おりおり観察させていただいておりました。
いやはや大変な自惚れやでいらっしゃるというか、その反面に、これまた大変な劣等感がおありになるように察しておりますが(これも一種のバランスを保つためなのでしょうか)一言で言って、思い込みが激し過ぎるために傾きも甚だ大きい、そのため自分で真っ直ぐ立っていられる自信もなく、むやみやたらと他者の肩にすがるだけでは飽き足らず、しまいに相手の頭のてっぺんにまで攀じ登らないと安心できない、そんなようすに見受けております。
私の周辺にも、あなたに似た暑苦しい「構ってちゃん」タイプの人がいますが、実際、その執拗さ粘着性が日常生活でも周囲の人たちから鬱陶しがられているのではありませんか?それを怨みに思うばかりで自己を検討するなどは考えもしないのでしょうね。自己愛のカタマリでいらっしゃるから!
聞けば60歳代とか。自分の先々こうはならないようにとの戒めにさせていただいてます。その面で、あなたといえども世のなかのために役立っていると言えなくもないですよ。弊害も大きいとは思いますが(笑)

今回の「無意識」云々に関して、この方面の知識がおありで明瞭的確な回答能力をお持ちであるはずのかたたちが一人として参加されないのもフシギなことですが(と言うか一貫して、あなたの質問自体に参加されない)
相手してもらうことを期待されたまま、こちらの事情で参加できないでいると、それだけで気分的に負担を感じます。そのくらい、あなたの発言は他罰的で期待マンマンで、ガツガツと物欲しげです。そのうえ、まわりくどくクダクダしく、一通り読むだけにも骨が折れる。何人もの人から指摘されてるじゃないですか。しかもズレてることを指摘しても、それを理解できないのか認めたくないだけなのか、よりいっそうネバ~と絡んでこられる。結局、同じことを何度も何度も説明させられるハメになる。時間と体力を奪われる。世のなか時間の有り余ったエネルギッシュな人ばかりではないですし、あなたの相手をするよりも重要なことなんて、いくらもありますので。何度も削除されれば自分の問題点に少しは気が付きそうなものですけどね!
現に何人の親切な回答者たちが寄り付かなくなりましたか。最後まで残るものが、あなたのレベルを示すものです。それで満足していれば宜しいでしょうに何様のつもりかしりませんけど自分の気に入るままに付き合ってくれなかったからといって偉そうに、落ち度のない他会員を断罪するかのような発言に及ぶことは慎んでいただけませんか?
私に言わせれば、あなたが餓鬼的「人間以前(まったく、言うに事欠いて!笑)」です。
滅多にしないことですが、一応、運営サイドに連絡しておきます。
                                
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この回答へのお礼

 次の箇所は 事実であり 省みなければならないかも知れません。
 ★ 誰であれ他会員のネームを一部であろうと引用して

 ▲~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ソクラテスの「産婆術」です。イロニー(皮肉)によって相手のドクサ(臆見)を打ち壊していき、相手がエピステーメ(叡智)に到達する手伝いをするという「対話術 dialektike techne」。弁証法。めちゃめちゃ人に嫌われるやり方です。嫌われちゃって嫌われちゃって、最後には毒杯をグビグビあおぐことにもなりかねません。
(《QNo.68425 独我論と日常感覚 http://oshiete1.goo.ne.jp/qa68425.html 》 ANo.8)
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

お礼日時:2008/07/10 09:09

#32です。



結論です。

ものすごく乱暴に仕分けすると、brageloneさんは唯物論者で、私は、唯心論者だということだと思います。このギャップを埋めるのは、容易なことではなさそうです。

ただ、私は、唯物論も唯心論もこの世界を見るための「モデル」に過ぎない、すなわち、道具に過ぎないと考えています。ですから、宇宙を見るのに、屈折望遠鏡を使うか、反射望遠鏡を使うかの違いと同じです。

要は、自分の課題解決に、どちらの道具が役立つかということです。私の場合、「より自由に、より創造的に、より楽しく」生きることが課題ですので、それには、唯物論より、唯心論の方が「役立つ」との判断です。
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この回答へのお礼

 たぶん 問題は 次の一点にあるでしょうね。

 ● 理論というものは それ自体において 《自分の課題解決に、・・・道具〔として〕役立つかということ》から自由であるのではないか。
 ☆ そのあと 《「より自由に、より創造的に、より楽しく」生きること》が 個々の人の意志の問題として 来ます。

お礼日時:2008/07/10 07:11

>たぶん ご自分が わたしの考えに似た見解を持っていて あたかも おれが その質問をしたいのだと言っているのではないでしょうか。



「似た見解を持っていて」「おれが その質問をしたいのだと言っている」
誰が
「見解が似ている」「したいのだと言っている」
と思いたいのですか?
あなたの質問のようなことは私は一度たりともしたいと思ったことがありません。
見解が似ているともサラサラ思いません。

恐らく、以前に、どなたかとの見苦しい規約違反丸出しの長い遣り取りがあったとき私がそれを注意したおり、あなたが、カン違いが原因の往生際の悪いイチャモンをつけてきて私にピシャッと遣り込められてしまったことをいまだに根に持っておられるかと見受けます。

「自分に見解が似ている」「自分と同じようなことをしたがっている」と言いたがるのは心理的精神的な或る種の深い問題を抱えている人が、よく言いたがる典型的なコトバです。あなたと同じようなセリフを吐く人に、過去に、このサイト内でも付きまとわれて大きな迷惑を被ったことがあります。

構ってもらいたさの余り、下劣な手段を使わないことです。他者も損ないますが、御自分のためになりません。
                   
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この回答へのお礼

 解釈にかかわる事項は別として 事態にかんする注目点が 違っています。
 《この質問は 哲学のカテゴリにおいて 質問にはならない》という投稿があったことに基づき 判断したわたしの見解を述べたまでです。

お礼日時:2008/07/10 07:15
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