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 この質問は 《QNo.4140486:人の業績は 人間そのものですか = http://oshiete1.goo.ne.jp/qa4140486.html 》を継ぐものです。

 さしづめお伺いしたいことは 次のような主題です。
 (1) 意識と無意識との関係が知りたいです。あっても 知り得ないという想定ですか。
 《無意識》と規定すると 無意識という場やはたらきがあると捉えがちになります。記憶という行為において 含まれるであろうとは思います。ですが 実際には その働きは 意識し得ませんし なかなか 理解しがたいものです。想定する場合には どこまでを 捉えているのでしょう?

 (2) 記憶と意志との関係を 無意識説の立ち場から おしえて欲しい。
 人間の行為能力には 三つを想定します。記憶行為(≒司法)は ほかの知解行為(≒立法)や意志行為(≒行政)と どうかかわっているのか これを 無意識野を想定する立ち場では どう説いているのでしょう?

  *  *  *

 なお さらに趣旨説明として 掲げておきます。
 この問いの課題は 一つ あって それに決まっているように考えています。つまり 《意識および無意識なる経験領域》と《それらを超えたさらに無の領域》 これら両領域の互いの関係や如何に? の一点だと思います。その具体的な視点が 上の主題です。

 すでに 質問者も かなり問い求めを進めて来ております。(前の質問の質疑応答を参照されたし)。再掲します。
 人間にとって 表象は 視認にせよ概念の把握にせよ 心の志向性にとって 或る目標を与えます。理想や理念のそれであれば その心の視像は 意志の目的とそこにおける休息になり得ます。
 《記憶そして無意識野〔での出来事だ〕》と想定し規定すれば わたしたちは そこを あたかも探究の途上にありつつ 〔あたかも〕到達点として位置づけてしまいがちです。合点! 合点! 合点! というわけです。
 早い話が 通り魔殺人事件での加害者にせよ被害者にせよ その原因究明に際して ポーンと 《アーラヤ識なる場における記憶行為の積み重なり》の説を出すと 《ああ 犯人は 無意識野だ》という早飲み込みに到らないとも限りません。
 というよりは それでもよいのですが 問題は その先にあって では この無意識野におけるわが生命の息吹きでもあり しかもちょっとよそ道に逸れてしまったこのわが衝動を どうすればよいか これを 同時に 明らかにしてくれたまえ。そうしてこそ この《アーラヤ識》の理論の真骨頂があるのではないか。ということになります。のではないでしょうか?

 《記憶》行為は 《意志(つまり これに色をつければ 愛です)》の行為と そして《知解(知識ないし経験合理性)》と それぞれの内容が 互いに時間的な食い違いをゆるしつつも おそらくは 一定の時系列において・もしくは一つの生涯において 互いの一体性を持つと考えます。わたしたちは それら三つの能力行為のあいだこに 互いの整合性を問い求めようとします。(ホンネとタテマエの食い違いと それの是正のようにです)。
 このような時間的な差延を持った三つの行為能力の一体性に仮りに立つとすれば 記憶にかんする〔知解としての〕科学的な解明のほかに それと並んで 意志としての心の志向性のあり方 これも 大いに 自己主張をしてよいのではないか。こう考えますが いかがでしょうか。

A 回答 (43件中11~20件)

こんばんは、brageloneさん。



【デリダのエクリチュール論とその応用可能性】
http://www.hirokiazuma.com/texts/ecriture.html

【槙原さんと松本さん対立 歌詞、無断使用か自作か】
http://news.goo.ne.jp/article/kyodo/entertainmen …
http://www.tokyo-np.co.jp/tochu/article/entertai …

「時間は夢を裏切らない、夢も時間を裏切ってはならない」

「夢は時間を裏切らない 時間も夢を決して裏切らない」

(*とんちんかんなこと言ってたらスルーしてください。m( _ _ )m )


というのも…

ここまで書かれたものを一通り読みました。

読んでいくうちに近しい出来事がパパパパパ)))))っと浮かんでくる。

うん、上にあげた松本さんとマッキーのかの訴訟記事が…

お歌の世界って、ひとつの括りの中にこの場合この二人属してる。

同じ集団に属する。そして、みため同じ様な歌詞なんだけれど…

時間的差異・方向的差異があるように思うんだ。


・今の時点   ⇒「時間は夢を裏切らない、夢も時間を裏切ってはならない」
《自分にいいきかすように 内へ向かって》

・将来へ向けて ⇒「夢は時間を裏切らない 時間も夢を決して裏切らない」
《他者へ語りかけるように 外へ向かって》

内と外の役割を分担しあったかのようなそれぞれの歌詞

まるで、反目し合いながらお互いがお互いを支えあってるようにも思えてくる。

自己保存。

同じ集団(お歌の世界)に属すれば、歌も無数にある。

ともすれば、無数の歌の中に埋没してしまうかもしれない。

忘れてならないのが、松本氏は漫画家でもある。

歌が忘れ去られたとしても、アニメから歌を思い出すかもしれない。

アニメが忘れ去られたとしても、歌からアニメを思い出すかもしれない。

そして、よく似た歌詞なら、ひとつが思い出されるときに

もうひとつも無意識の海から引き揚げられるんじゃないいんだろうか?

“訴訟”というひとつの出来事が刻印として意識に刻まれたのだから

この回答への補足

 ★ 【デリダのエクリチュール論とその応用可能性】 
 ☆ この著者の議論 そして J.デリダ J.ラカン G.ドゥルーズ これらについては まったく 何を言っているのか 分かりません。批判的な意味を帯びさせて言っていますが 良さをおしえていただければ それについて 勉強してまいります。
 そのほか J.クリステワ゛ ガタリ ほかにもいましたね。もう忘れましたが この種の議論には ついて行けません。残念ながら 意味が取れません。あしからず。

補足日時:2008/07/10 15:09
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この回答へのお礼

 littlekissさん おはようございます。ご回答をありがとうございます。

 歌詞の解釈で わたしは ちがう意見ですね。
 ▲ 松本零士:「時間は夢を裏切らない、夢も時間を裏切ってはならない」
 ☆ 人間の夢というものは 《有効》であれば どれだけ延び延びになっても 時間過程の中で実現する。夢を抱いた人間のほうも なかなかその実現が延び延びになってしまったとしても あきらめてはいけない。時間過程において実現への途中のどこかの一点で 断ち切れにしてしまってはいけない。
 ◆ 槙原敬之:「夢は時間を裏切らない 時間も夢を決して裏切らない」
 ☆ 基本的に意味不明です。強いて解釈すれば:夢を抱くなら 一定の目標を決めて進むからには 実現の時をも決めて それを裏切らないように努めなさい。そうすれば 時間のほうが――つまりは 周りの人びとや社会のほうが―― それについて来るものだ。
 ★ 将来へ向けて / 《他者へ語りかけるように 外へ向かって》
 ☆ 語っているかも知れないけれど あまりにも主観的です。強引です。
 いかがですか。

 * 《あまりにも主観的》という意味は 

  《無意識》をも 自分の味方に 何が何でも つけてやる。
  おれが やると言ったら やるのだ。

という内容のことです。スルーしなくて ごめん。m(_ _)m

お礼日時:2008/07/10 07:39

primeapeです。


A29は、言わば結論を一緒に考えようとして無責任に投げかけた「しきたりの違い」についてなのですが、どうも軽率であったらしく今度はわたしもいじわるされる立場になりそうですね。
せっかくなので鍛えてもらうつもりで再度投稿します。

>これは 自分のではないですよね? 漠然と誰かのですか? 特定の人のものを 想像して 描くのですか?

「絆」も無く既に自己の同一性から離反した心の断片はだれそれと明白にする必要はなさそうです。明白にだれそれに取り付いた死霊らしく振舞うこともありますが、そのような名乗りは偽物であると断定して扱います。まるで世界中の死霊を相手にしているような錯覚を覚えますが、それも半分は本気です。

>一般的に言って わたしの場合 《門前払い》はありません。(一度 みづからを偽ったことがあって その同じ相手が 二度目に来たときには 問い質しますが)。《入城(入場?)を許す》も何も そもそも 《無門》ですし 柵も塀もありません。《その意図に沿った成り行き》を つねに 見守っていました。それが デーモンによる心の庭への侵入ですね。

御見それしました。私もそうです。
私の場合先方のデーモンの持ち込んだ「儲け話」(悪巧み)が本当に儲かるかどうか、行動に移したらどうなるかを実験するんです。

その結果、
>ひょっこりひょうたん島演劇にな〔る〕
んですか? どうも これが よく分からないんです。また これは そこに相手がいるのですか? 自分一人で 《実験》をやるのですか?

悪霊の敗残のうめき声を聞きます。
> 言うならば 掏りや痴漢と同じように 《現行犯》を押さえなければ 相手に 伝わらない問題です。デーモン拡散の実行の場で 指摘してやらないと 伝わらないようです。

これでもありますね。

それにしても このデーモン放射は いわゆる条件反射にまでなっているのではないでしょうか。人がそばにいるというただ一つの条件があれば ただちに 反射的に 動くのではないかと思わせるほどです。いかがでしょうか。

強盗に入りに来ていたようです。
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この回答へのお礼

 primeapeさん こんばんは。ご回答をありがとうございます。

 別に《いぢわる》は 今の時点で ないですよ。それに 今回は 微笑んでいて いいのですよね? そう受け取ったのですが。

 わたしから見ての何の問題も 今回 見つからないのですが。ちょっと思ったことは やはり
 ★ 悪霊の敗残のうめき声
 ☆ は 特定したほうが よいように思います。集団なら集団として 一定のそれを 特定したほうが 話が通じるように思います。ただし もっとも
 ★ 世界中の死霊
 ☆ とおっしゃっているので これなら 特定されています。でも それにしても 《世界中の》ですかぁ。大袈裟なのか それが ふつうなのか。ううーん。たぶん なぜ 《世界中》と受けとめているのか これを 説明されるとよいのではないですか。

お礼日時:2008/07/09 23:21

#30です。



>この物質と こころや意識や あるいはともかく 精神も 何らかのかたちで つながりを持っているというそのような世界の基礎だと思うのですけれど。

「つながり」は持っていますが、因果関係ではないということです。色や匂や音は、物質が持っている性質ではなく、「心(精神)が物質に関係付けて付与している性質」です。物質界は記号の集合体ですから、それ自身に色、味、匂いがあるわけではありません。「赤」という文字が赤いわけではないのと同じことです。すなわち、我々が、ごく日常的に見ている「この世界」というのは、物質界の実像ではなく、物質界という記号世界が心によって映像化(五感化)された世界だと考えます。


>《悪なるおよび善なる天使 あるいは 観世音菩薩》というように 現実世界に対処するときの――どこからの声なのか 究極的には なぞだと言っておきたいと思いますが....

「意識に思いをもたらすしくみ」は、日常的な話です。一言で言うと、「意識は意識自身で意識の対象(思い)を作れない」、すなわち、「意識の対象(思い)は、意識以外のところからやってくる」ということです。その意識以外のところを観世音菩薩と名づけるのであれば、我々は日常的に観世音菩薩の声を聞いているということにもなりますが。


>すなわち こうして 或る種の仕方で 《飽くまで社会全体として一つの精神》のことを 想定している恰好でさえあります。これについて どうお考えになるか お聞きしたいと思いました。

一つの精神が作用する範囲は、「社会全体」というと、人間社会に限定されてしまうので、そうではなく、人間を含めた自然界全体と考えています。


>( a ) やはり《物質・身体の運動・社会の現象》を基体としているということ 

ここでおっしゃっている<物質・身体>というのは、実際には、<実体としての物質や身体>ではなく、<物質や身体>と言われているものの心的イメージのことではないかと思います。 ほぼ繰り返しになってしまいますが、目の前の「赤いリンゴ」は、実体として心の外部にあるものがそのまま心に反映されているわけではなく、記号としての存在に過ぎない心の外部にあるものに、精神が具体的なイメージを付与したものだと考えます。


>つまり このたとえを超えて 人間の場合には 個々の精神が 《CPU》を備えていると思われるからです。

問題は、 個々の精神が 《CPU》を備えているかどうかではなく、《CPU》を備えていたとしても、「自分自身で課題(思い)」を規定できるかどうかです。コンピュータのディスプレー装置がCPUを備えていたとしても、コンピュータ・システムという全体がなくては、「自分自身の課題(思い)」を自分で規定することはできないと考えます。同様に、人間の意識(精神全体ではない)は、意識の背景(インフラと言った方がいいかも知れません)である精神全体がなければ、自分自身の課題や思いを決定できないと考えます。


> ☆ 《道路や信号機や交通法規》は 人間にたとえた《自動車》が つくりだしたものであり その限りで それらを意識するとすれば すでに 自動車本体に収められています。その限りで まだ《より上位の精神システム》を想定することの必然性が ピンと来ていません。

確かに、交通システムの場合は、それを人間が作りました。しかし、意識や精神は人間が作ったものではありません。ここが本質的な差異です。

この回答への補足

 kobareroさん こんばんは。ご回答をありがとうございます。

 現在の課題は 次の一点とその派生事項です。
 ● 大前提:《精神》が 個人を離れて 社会や自然 その世界のすべてをまとめた歴史的な動態として 存在するか。
 ● その内容事項として:(1)この精神は 人間の営為を主なこととして捉えるなら 社会的な行為関係の錯綜と集積であり これが 個々人に 意識としての現実(現実感覚および 果ては そこから世界観)を与える。
 (2)未だ意識せざる部分を中心としてみるなら このもろもろの作用の集積は 無意識と呼びうる。
 (3) 意識として捉えたものごとに基づき 個人精神は これらを記憶しそこから知解し この両者を合わせて社会行為をおこなうべく 判断を選択するという意志行為を持つ。
 (4) もろもろの社会的関係からは 個人精神は 記憶・知解・意志という基軸としての三行為には 必ずしも引っかからないような作用をも受ける。《意識がいろんな思いをみづからに思い浮かべるようにさせる》というときの 心理作用のことである。つまり これは 外から入って 影響を与えているが ほんとうには 内面の基軸には かかわっていない。うたかたである。

 現在の課題は――わたしの側からは―― 大前提のみです。しかも その《精神》の位置づけが 濃すぎるのではないか。この物言いの一点です。

 細かい点を いま少し先に掲げます。
 (あ) 世界にかんする意識 もしくは 意識された世界という現実 これについては 古典的な(?)図式で理解します。赤いりんごを見るというとき その対象と視覚器官と視覚(つまり視像)の三項図式です。微妙に認識の仕方がちがうかも知れません。
 (い)旧い用語で《観世音菩薩ないし天使》が伝える《社会関係のありさま》は 一般に 意識にのぼる現実であり / 基軸となる部分は記憶に収められ / その現象的なかたちでまとわりついているのは 心理作用(デーモン)であり / あるいはまた 観想として・さらには啓示として まぼろしの如く 見させる情報です。
 
 さて 大前提の内容や如何にです。
 ★ 問題は、 個々の精神が 《CPU》を備えているかどうかではなく、《CPU》を備えていたとしても、「自分自身で課題(思い)」を規定できるかどうかです。
 ☆ というのは 問題にはならないと思いますが? 上の(1)~(4)と(い)の事項によります。特には 自由意志の存在です。
 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 コンピュータのディスプレー装置がCPUを備えていたとしても、コンピュータ・システムという全体がなくては、「自分自身の課題(思い)」を自分で規定することはできないと考えます。同様に、人間の意識(精神全体ではない)は、意識の背景(インフラと言った方がいいかも知れません)である精神全体がなければ、自分自身の課題や思いを決定できないと考えます。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ これも 上と同様です。おそらく もし仮りに《大いなる精神》が想定されるとしても その存在と そして個々の人間とは 同時に生じて来ていると考えます。世界の現実を意識したという場合 その個人の精神と 全体なる精神とは 同時に生じて来ており どちらに優位があるかということではないと考えます。
 ここまで伺ってきた範囲では この大いなる精神には 色がついておらず 中立・中性のごとくですが それでしたら 想定しなくても 何の不都合も 起こらないのではないでしょうか?
 ★ しかし、意識や精神は人間が作ったものではありません。ここが本質的な差異です。
 ☆ 個別の精神は 身体を基礎としている限り それだけで(つまりその身体=精神だけで) ほぼ 人間存在のことを言うことができます。意識は そのはたらきです。人間が生まれたということは 同時に 精神をもってということです。それとさらに同時に 大いなる精神をも 見ようと思えば見ることができる。こうではないでしょうか? 差異はないと思います。

補足日時:2008/07/09 23:08
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 brageloneさん 私事になりますが昨夜明け前、最・近親者がみまかかり、失礼しております。



  ○ これは 無意識であるのかも分かりませんが もしそれでしたら たしかに 意識しえず 表象し得ないはづです。ただし経験世界におさまっては いけないとも考えます。
  ○ 接点が 意識においてある ということは あり得ません。あるとするなら それは〔神の〕代理としての表現が そのように当てはまるというに過ぎません。
  ○ つまりは 意識 ということは一般に ことばとしての意識 でしたら それは 神の代理物として そのように 表象しているというのが 実態です。つまり たとえば《唯一者》というのは 代理表現です。
  ☆ このような条件のもとででしたら 基本的に言って おっしゃっていることは これまで対話を重ねて来ていますので 同様の観想を持ちます。
  ◎⇒多分仰せの通りと存じますが、了解しましたと申し上げます。
    以上のことで、今さらに、私のことばで敷衍する意志を発動せよという指令を受けておりません。

この回答への補足

 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ◎⇒多分仰せの通りと存じますが、了解しましたと申し上げます。
    以上のことで、今さらに、私のことばで敷衍する意志を発動せよという指令を受けておりません。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ 了解いただきまして ありがとうございます。さらに 一般的な説明表現のできるように 進めていきたいと思います。
 ★ 私のことばで敷衍する意志を発動せよという指令を受けておりません。
 ☆ その《指令》が 究極において krya1998 さんのお心であるとすれば そのとおりに承りたいと存じます。
 観想・瞑想を 普段の日常語で表わせ得たなら どれほどよいかと存じます。

補足日時:2008/07/09 10:24
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この回答へのお礼

 krya1998さん 悲しいできごとのお知らせに ただただ どのように 大先輩に お言葉をおかけしてよいやら みづからの心のまとまらない様子をかかえて 少し入力しては また 落ち着かせ 気持ちをお伝えすることのおぼつかなさを どうしてよいやら 悲しみをわたしも持ちます。思いの途絶えた状態にさえ いられることでしょう。
 どれほど 修行を積んでおられるとは言え ご無念のお気持ちをわたしも受けとめさせていただきます。
 それでも お力落としのないよう 少しづつ これからも 将来へ向けて お進みになっていかれるよう お祈り申し上げます。
       つつしみまして bragelone

お礼日時:2008/07/09 10:16

#28です。



> でも 近代人の合理性に立つものは みながみな 個体・個人を 基礎としていると思うのです。《身体と精神》としての一個の存在。そうではなく 一定の社会にしろ世界全体にしろ その動態が まるまる《精神》だというのでしょう?

精神が一つの全体ではなく、60億個の分離体であるとの認識は、「人は自分の意識しか直接には意識できない」ということと、「その意識は個々の肉体と結合している」という実感から生まれるのだと思います。この場合、「精神=意識」なのかという疑問が沸きます。意識されないものは、精神ではないのかということです。意識の内容は、意識されないものによって規定されています。意識されないものも含めて精神なのではないでしょうか?


>個人の精神には 記憶と知解と意志との三つの能力行為があり それらで 広義の自己表現の構造過程が いとなまれている。おおむね そういうことだと考えるのですが そこへ 人類としてのまとまりを持った一つの《精神》を 大前提としてのごとく 持ってくるのですね。

「記憶と知解と意志との三つの能力行為」を行う個人の精神は、「記憶と知解と意志との三つの能力行為」を可能せしめる”しくみ”を自らが生み出したのでしょうか? そのような”しくみ”は、個人の精神と言われるものが生まれる前から、既に用意されていたのではないでしょうか? 自動車は、道路や信号機や交通法規がなくても走れるのでしょうか?自動車は、道路や信号機や交通法規を含むシステムの一部として、初めて機能するのではないでしょうか?同様に、個人の精神は、より上位の精神システムがあって初めて機能するのではないでしょうか? 


>無意識については もし 上の理解がゆがんでいないとすれば それは つねに必要に応じて 単に意識されていなかったことが 意識に上るという性質であるように思われます。

ここで「必要に応じて」というとき、それは、「誰の」あるいは、「なにの」必要に応じてなのかが問題になります。少なくとも、「意識」は、「意識されるもの(意識の内容)」を勝手に選ぶことはできません。「今ここ」で意識に上るものを意識自身の必要性で決めることはできない。それは、意識の外の必要性で決まってくると考えます。すなわち、精神は意識されるものと意識されないものの複合体であると私は考えます。確かに、意識されるものは、60億に分離されていますが、意識されないものは、一つの全体であると考えます。

この回答への補足

 kobareroさん ご回答をありがとうございます。

 今回も 申し訳ないですが 質問を続ける結果になります。個別に 細かくお聞きしてまいります。

 (1) 《さまざまな作用》は すべて 物質(げんみつには 質料)を基体としているという見方を まだ 捨てるわけには行きません。神経細胞やその組織あるいはつまり脳みそですね この物質と こころや意識や あるいはともかく 精神も 何らかのかたちで つながりを持っているというそのような世界の基礎だと思うのですけれど。
 その基礎の上で そのあと さまざまに空想や虚構の世界を築き上げるのも 精神といえば 精神なのだと考えます。
 (2)★~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 精神はあくまで一つで、分離しているのは個々人に現れる「意識」だと思います。その「意識」に、様々な「思い」が浮上してくるわけですが、その「思い」がどこからやってくるか、その出所を「無意識」と名づけているのだと思います。(ANo.28)
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ 《飽くまで一つの精神》 これについて まだ どこかしら冗長であるように感じています。
 回答者に primeape さんを得て 二人の間では 《メチャンコ悪魔君 / デーモン作用》などと言って 《個々人に現われる意識や思い》のことをも扱っています。《悪なるおよび善なる天使 あるいは 観世音菩薩》というように 現実世界に対処するときの――どこからの声なのか 究極的には なぞだと言っておきたいと思いますが――ある種の声を聞いたり 同じく現実世界の《世音を観る》というのですから kobarero さんがここで触れておられる《意識や思い》の拠って来たるありさまを 類型的には同じかたちで 扱っていると思います。つまり (1)の《さまざまな作用》にかかわった《こと》(一般に ものごと)です。
 すなわち こうして 或る種の仕方で 《飽くまで社会全体として一つの精神》のことを 想定している恰好でさえあります。これについて どうお考えになるか お聞きしたいと思いました。
 (3) 以上の(1)(2)を考え合わせて 《さまざまな作用の集積(しかも 《こと》である)》としての《無意識》 これは わたしの仮説の線で考えるならば まづ( a ) やはり《物質・身体の運動・社会の現象》を基体としているということ そして( b )身体が互いに分離している限りでとしても 個人の精神に集められるようにして 起きているコトであると思われる。さらに( c ) この個人の精神において 一方で 《一たん記憶に入ったなら 二度と想起し得ない》ところの無意識があってもよいと思いますが 他方では あとは 個人の内外の総合的な《必要に応じて》 想起し得るものごとである。つまり この後者のほうは 一般に 《未意識》と《意識》 あるいは 潜在と顕在とのそれぞれの意識 を含むかたちとなります。
 (4)★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 例えば、コンピュータ・システムを考えた場合、CPU、メモリ、ディスク、ディスプレー、キーボード、マウスが、それぞれ独立していて、「社会性・関係性」によって互いに相互作用していると考えるべきか
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ これについては 《構成要素を含む「一つの全体」》という見方を 上の(2)の議論にもとづいて 受け容れていますが そうであっても また同時に いわば 《メモリ、ディスク、ディスプレー、キーボード、マウス》が それぞれ 独立・自由を主張すると思うのです。つまり このたとえを超えて 人間の場合には 個々の精神が 《CPU》を備えていると思われるからです。

 以上のようです。しつこく食い下がります。どうぞよろしく。

 * ★ 自動車は、道路や信号機や交通法規がなくても走れるのでしょうか?
 ☆ 《道路や信号機や交通法規》は 人間にたとえた《自動車》が つくりだしたものであり その限りで それらを意識するとすれば すでに 自動車本体に収められています。その限りで まだ《より上位の精神システム》を想定することの必然性が ピンと来ていません。

補足日時:2008/07/09 11:21
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primeapeです。



>わたしは 精神分析については その科学的な解明の部分は別として あとは どうも 馴染めません。アーラヤ識説にしても 入って行くと こちらが みづから はじき返って来ます。それは 経験世界とそれを超えた世界との関係が あいまいだと思われるからです。精神分析のほうは 無意識と意識との関係が しっくり来ないか あるいは その説明事例を聞いてみると しっくり来すぎか に思われ 馴染めません。
 この点を明らかにしてくれる理論があれば おしえて欲しいと思います。

論理とまでは行きませんが考察してみました。
いわば仮説に伴った論理を実験してみることです。
弊害の大きい噛み付いてくる心の断片を例にとりましょう。
それは何らかの意図又は「望み」を持っています。
門前払いにしないで入城を許してその意図に沿った成り行きを心の中で実験するんです。
そうするとひょっこりひょうたん島演劇になって大笑いする結果になります。
自らの心から生じる真摯な願いも同一です。
実際に実験するんです。

論理で説得できて実証する必要のないなら選択の必要の無い方法ですが、この実験重視の姿勢なら判例が出来るので免疫になります。

この回答への補足

 primeapeさん こんばんは。ご回答をありがとうございます。

 心の交流 なのだが その中でも 単なる心理作用を相手に以心伝心する場合 かと思って読むと どうも違うらしい。ということで 今回 理解が届かないところが多いです。
 ★ 弊害の大きい噛み付いてくる心の断片
 ☆ これは 自分のではないですよね? 漠然と誰かのですか? 特定の人のものを 想像して 描くのですか?
 ★ それは何らかの意図又は「望み」を持っています。 / 門前払いにしないで入城を許してその意図に沿った成り行きを心の中で実験するんです。
 ☆ 一般的に言って わたしの場合 《門前払い》はありません。(一度 みづからを偽ったことがあって その同じ相手が 二度目に来たときには 問い質しますが)。《入城(入場?)を許す》も何も そもそも 《無門》ですし 柵も塀もありません。《その意図に沿った成り行き》を つねに 見守っていました。それが デーモンによる心の庭への侵入ですね。でも
 ★ その意図に沿った成り行きを心の中で実験するんです。
 ☆ か?
 ★ そうするとひょっこりひょうたん島演劇になって大笑いする結果になります。
 ☆ ですから その心の庭への訪問者に対して 《不法侵入だ!( You are an Invader ! )》と言ってやると 外国人の場合 笑い飛ばして 去って行きます。つまり かれら・かのじょらは 自分のおこないを認めたということだと思います。むろん その侵入はやみます。
 そうではなく
 ★ ひょっこりひょうたん島演劇にな〔る〕
 ☆ んですか? どうも これが よく分からないんです。また これは そこに相手がいるのですか? 自分一人で 《実験》をやるのですか?
 たしかに こういう事例の場合には
 ★ 論理で説得できて実証する必要のない
 ☆ ものではなく 言うならば 掏りや痴漢と同じように 《現行犯》を押さえなければ 相手に 伝わらない問題です。デーモン拡散の実行の場で 指摘してやらないと 伝わらないようです。
 精神の分析だけでは 何を言っているのかと思われるでしょうし いまでも こういうふうに言葉で説明するだけでは 何を言っているのかといぶかしがられるかも知れません。そして この場合 わたしの経験する限りでは 無意識を持ち出して来なくても かまわない(大丈夫)だと思うのです。
 それにしても このデーモン放射は いわゆる条件反射にまでなっているのではないでしょうか。人がそばにいるというただ一つの条件があれば ただちに 反射的に 動くのではないかと思わせるほどです。いかがでしょうか。

補足日時:2008/07/09 00:43
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この回答へのお礼

 追記です。
 ★ 門前払い
 ☆ ではないかと わたしの態度が 思われたとすれば 《弁明》致します。基本的には 《ピンポン・ダッシュ》の場合だと考えます。そして 訪問が 二度目です。
 sh・・・さんの場合 まさしく 訪問の合図があったのち もうその玄関にはいないという問いかけだと考えます。わたし(bragelone)の質問は 成り立たない。ここまで追って来い 来れば おしえてやろうと言っています。仮りにそうなら なぜ成り立たないかを 説明すればいいのです。ピンポン・ダッシュです。
 ri・・・さん ta・・・さんは 回答として 噛み合ってはいますが ご自分の見解に対して 疑問や批判をこちらが寄せると もう 凍ってしまうという場合です。おれの意見を そのまま 鵜呑みにしろという主張です。飲めなければ 地獄行きだとまで のたまわります。
 tu・・・さんの場合 ほとんど ふつうの回答なのですが 玄関を開けて 出てみたら チラシが置いてあった。という性格の文章だと受け留めます。チラシの中身にも たしかに内容があるのですが  まづ チラシを相手にして 話をするのは おもしろくありません。その批評の中身としては (1)まだなお 身体と精神との二元論に基づくところがあり (2)疾患の状態をまづ扱っており そこから ふつうの精神の状態へと つねに 移ってくるという議論の構成となっている。先にマッチを擦って そのあと火を消すのではなく その順序ではなく すでに初めに 火の消えた状態から出発していて欲しいと考えます。
 ほかに no・・・さんの場合がありました。これは 込み入っています。あたかも ピンポンダッシュする以前に すでに お茶の間に上がって来ていて ああだこうだと言って それに対して何らかの応答をこちらが返すと もう どこにもいない。おまえの質問は 質問じたいが 消えてしまえと言っています。たぶん ご自分が わたしの考えに似た見解を持っていて あたかも おれが その質問をしたいのだと言っているのではないでしょうか。
 ほかにも いくつか あります。ただ あとは 見解の相違という問題だと思います。自分の見解が いくらか 揺らいだのだけれども まさか おまえ(=bragelone)の見解を採用するわけはないだろと言っています。放っておかざるを得ません。
 弁明は いかがだったでしょうか。

お礼日時:2008/07/09 14:49

#25です。



>☆ 《内蔵などの器官が 身体の神経組織において 共同にはたらき 相互作用をおこなうこと》 これが 《様々な作用の集積》になるでしょうか。精神においても 最初に前提を出しておられるかのように

「様々な作用の集積」というのは、ある事象Aに影響を与える全ての事象(作用)のことで、事象A自身をも含みます。内臓の場合は、神経組織は当然その一部ですが、それ以外に、重力、精神状態など、非常に多くの作用が影響を与えると考えます。


> ☆ とすれば 相互に精神が 共同体を形成しているかのごとく はたらきかけ合って 《様々な作用の集積》をもたらしている。それは 意識され得ないものであり 《無意識》と名づけるのだとなるでしょうか。

個々に分離された精神が共同体を形成しているのではなく、精神はあくまで一つで、分離しているのは個々人に現れる「意識」だと思います。その「意識」に、様々な「思い」が浮上してくるわけですが、その「思い」がどこからやってくるか、その出所を「無意識」と名づけているのだと思います。しかし、「出所」とは言え、その「無意識」は、ここにある、あそこにあるというような「もの」ではなく、「こと」であるのだと思います。すなわち、様々な作用の集積という「こと」なのだと思います。精神は様々な作用の集積を通して、個々の「意識」に「様々な思い」を浮上させていると考えます。


>☆ 脳みそを基体として 精神は成り立っているのではないでしょうか。

脳みそは物質ですから、幾何学的構造と数量的情報しか扱うことができません。意識が直接感知する、色、音、匂い、味、感触などは、物質に属する属性ではなく、意識(心)に属する属性です。これは、電磁波に色が付いているわけではないこと、ましてや、外界から脳細胞に直接「色」が取り込まれているわけではないことから明らかです。脳みその物質的状態と精神の間には、「相関関係」はありますが、脳みそが意識の「原因」ではないと考えます。


>それでも なぜ 《精神は 人びとにとって 互いに 分離しているわけではない》と言えるのか。なぜ――言えるとしても―― わざわざ 言わなければならないのか。単純に 《社会性・関係性》と言うだけでは足りないのか。こういう素朴な疑問です。

例えば、コンピュータ・システムを考えた場合、CPU、メモリ、ディスク、ディスプレー、キーボード、マウスが、それぞれ独立していて、「社会性・関係性」によって互いに相互作用していると考えるべきかということです。確かに、そのように見ても良いかも知れません。しかし、コンピュータ・システムはそれらの構成要素を含む「一つの全体」だと考えた方が、よりよく現状を説明できるのではないかと考えます。精神についても同様です。

この回答への補足

 kobareroさん ご説明いただきました。ありがとうございます。
 これが 《精神》の理論だったのですね。

 まづ 初めて こういう説をうかがいました。共同体の理論。そして それが あまりにも 情感の側面に重きをおいているとするならば 近代人の思い描いた 精神の共和国。あるいは ひょっとして ルウソの一般意志。あるいは コスモポリタンというのも ありましたね。
 でも 近代人の合理性に立つものは みながみな 個体・個人を 基礎としていると思うのです。《身体と精神》としての一個の存在。
 そうではなく 一定の社会にしろ世界全体にしろ その動態が まるまる《精神》だというのでしょう?

 ★ 精神は様々な作用の集積を通して、個々の「意識」に「様々な思い」を浮上させていると考えます。
 ☆ 個々の人が 身体=精神なる存在としてあり 特には精神活動をつうじて 現実のもろもろの行為関係の錯綜する世界を捉え これを意識する。これが 知解行為であり そのとき その過去の蓄積としての記憶があり(その秩序化としても 記憶があり) この記憶といま意識した知解行為の結果とを合わせつつ みづからの意志のおもむくところを勘案し その判断結果を意思表示する。このように 個人の精神には 記憶と知解と意志との三つの能力行為があり それらで 広義の自己表現の構造過程が いとなまれている。
 おおむね そういうことだと考えるのですが そこへ 人類としてのまとまりを持った一つの《精神》を 大前提としてのごとく 持ってくるのですね。
 もう一点 繰り返しになるかも知れませんが わたしの仮説としましては 《人は あたかも孤独という言葉が現実に適合している限りで 社会的に独立した主観を持つし その主観において生きる。と同時に その主観が 他の主観との相互の関係においてはたらくと見る限りで 社会的な関係性として生きる存在である》とします。
 その上に と言いますか それ以上に 関係性は 人びと全体の《ひとつの精神》のもとにあるとするし 独立性は この精神が あたかも配電盤のごとく 個々の人に配分するかのような《意識》のことであり 主観は この意識にさらに 《さまざまな思い》を起こさせているその多様性におけるあり方である。ここで精神が《思いを起こさせている》というとき 媒介となるのが 《社会的な行為関係の錯綜と集積》であり これを称して 《無意識》と言うと。

 人類全体が ひとつの精神であるという説は まだ どう対応してよいか わかりません。考えをつづけます。
 無意識については もし 上の理解がゆがんでいないとすれば それは つねに必要に応じて 単に意識されていなかったことが 意識に上るという性質であるように思われます。《未意識》のすべてを言うのであって どこまでも無意識として そのまま継続するような事柄ではないと理解しますが それでいいでしょうか。
 とりあえず こういうお応えになりました。

補足日時:2008/07/08 13:47
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primeapeです。


本日は予感めいた心が働いたのでコメントです。
brageloneさんの言うデーモン君には以前聖書の引用と同時に自己紹介を受けたことがあります。
私の場合のメチャンコ悪魔くんほど世慣れしてすさんだ感じが無く、教養と礼節あるよい子でした。
さっぱりした性格のようです。
こういうことは自分自身で伝えるのが難しいようですね。
かたや天使にまで持ち上げてくれたメチャンコ悪魔君からのお礼です。
個人的見解ですがデーモン君はもう少し尊重したあげても言いようですよ。
「悪」は、気取っているだけです。
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この回答へのお礼

 primeapeさん こんばんは。ご回答をありがとうございます。

 ★ 個人的見解ですがデーモン君はもう少し尊重したあげてもいいようですよ。 / 「悪」は、気取っているだけです。
 ☆ これには 一本 まいりました。
 その昔 わたしは 針ねずみとは言いたくないですし 言っていなかったのですが 全身が 金平糖でした。とにかく 議論では 一歩もうしろへ退かない男でした。
 デーモン作用が やってくるというのは けっきょく わたしの心の庭への不法侵入なんです。絶対 ゆるさないという剣幕で 抵抗し対抗していました。その悪を自覚させる つまりは 元の善(=存在もしくは自然本性)を回復させてやるのだというゴーマンな男でした。
 《そこは わたしのこころの庭だ。勝手に入るな》と言ってやると きょとんとしています。

 いったいぜんたい 人びとは どういう料簡で そんなデーモン飛ばしをやっているのでしょう? あたかも かの国が握手で 挨拶をするところを この国では デーモンどうしのお見合いか何かで 挨拶をしているのだろうかと考えたことがあります。

 ★ かたや天使にまで持ち上げてくれたメチャンコ悪魔君からのお礼です。
 ☆ 悪魔も 天使ですよ。(こういう話は あまり好きではないのですが)。善なる者も悪なる者も 天使には いるようです。
 でも 天の使い 神の み使いですから いいことも どしどし 伝えてくれるとも思われます。観世音菩薩といったところでしょうか。つまり 世音を観るという字面の意味を採っていいとすればです。
 9.11 ブッシュ フセインらの内面の消息 これは 観世音ということでしょう。(ただし 分かりやすいですが 突飛であることを まぬかれては いません。これは 一般の場では 認めなければいけないと思います)。
 Ciao! とでも いきましょうか。

お礼日時:2008/07/07 23:49

★ 本物


☆ かどうか これが どうでもよいという結論にはなりませんか。
 皆が にせものです。皆が ひょっとして 本物であるかも知れません。
◎⇒本物かどうかについて、どうでもよくはありません。本物でない間はうそ者です。偽りです。ひたすら我慢が続きます。無理が続きます。ことばと論理、思考、観念の世界です。
☆ 指導者になる位というのは どのようにして決まるのか。指導者とて どこまで行っても 指導される者と 同じ境地ではないのか。つまり いまは 数学をおしえるとか 柔道のてほどきをするとか そういうふうに個別の課題について指導するというのではなく 人間形成そのものの問題です。(この後に続く文章【そういう方面と場とが 無意識の――もしそれが重大な発見であり人間にとって根源のようにはたらくとするのならば――生きる道だと思うのです。】までにおいて仰せの意味は理解できませんでした)
◎⇒唯一意識の任命です。唯一意識の命令です。唯一意識と受任者との間の境界がなく、個体意識しかありません。他者の命令ではなく、存在根源の命令です。イエスが敢えて十字架を受忍した命令です。

☆意識は つねに 無意識のままに・つつましやかに はたらく。こう きちんと説明しつつ 言える理論であれば どれだけ よいかと思うのですが!?
◎⇒理論ではありません。根幹のありかたです。ご自分でそうなっている、そしてそのように維持されている。ということをお分かりいただいていると存じます。仰せのように根幹的に、目立つことなど、権力などを主張せずに、brageloneさんの唯一の、最大の友人であり、父であり、母であり、導きの方であると、お分かりになっているから、bragelone様はそうしておられるのでしょう。bragelone様として本当に経験し、行為し、認識しているのはその、いわゆる無意識の意識ではないでしょうか。意識を意識する事をbrageloneさんは自分でできると思っておられはいないでしょうね。意識とは無意識でしょう。自分自身なのでしょう。ちがいますかね。意識の意識というのがあるとすれば、この現象世界を照らす、おこがましい、サーチライトでのスポット、フットライト世界で、そう見たいからそうみているにすぎない、bragelone様の存在の中では、髪の毛の断面よりも狭隘な作られた世界でしょう。 違いますか、bragelone様がどうしてそれに気づかないかのように仰せになるのは理解できませんよ。そうではないですか?ちょいと日常を考えれば、納得できるでしょうが。そんな当たり前の次元のことでしょう。
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この回答へのお礼

 krya1998さん 問題点が さらに 明確になりました。ご回答をありがとうございます。このような質問にて わずらわせ申し上げて まことに すみません。

 はっきりしてまいりました。
 ★ 本物でない間はうそ者です。偽りです。ひたすら我慢が続きます。無理が続きます。
 ☆ これを受け 焦点は 次にあるのではないでしょうか。 
 ●うそ者から本物へと転換する時点あるいは局面 これが では どういうふうに 分かっているのか。
 ☆ わたしの回答は 
 ○ ある日ある時 本物を目指した時点 これだけで決まりです。無条件に 大きくは その時から 本物の世界に入ります。
 ☆ たしかに 理論であるいうよりは これは そういう実践だと思います。そういうものだと考えます。

 あと 一点 用語の定義で 食い違いがあるようです。
 つまりほかのことで 基本的なお話をされている内容は そのとおりに承知いたしておりますが 《無意識》という言葉の用い方は ちがっております。その点 相違を確認します。
 ○ 神を 《意識・唯一意識》というふうには 捉えていません。《わからないもの・表象しえぬもの・非対象》です。
 ○ また あたかもそれとの接点としてのような《無意識》 これは 特別に そういうふうに規定しているわけではありません。接点というなら 身体=精神の全人格が 接点になります。
 ○ これは 無意識であるのかも分かりませんが もしそれでしたら たしかに 意識しえず 表象し得ないはづです。ただし経験世界におさまっては いけないとも考えます。
 ○ 接点が 意識においてある ということは あり得ません。あるとするなら それは〔神の〕代理としての表現が そのように当てはまるというに過ぎません。
 ○ つまりは 意識 ということは一般に ことばとしての意識 でしたら それは 神の代理物として そのように 表象しているというのが 実態です。つまり たとえば《唯一者》というのは 代理表現です。
 ☆ このような条件のもとででしたら 基本的に言って おっしゃっていることは これまで対話を重ねて来ていますので 同様の観想を持ちます。

 * 実践や修行を ヨガなど 或る種の苦行をふくむというかたちの場合には 本物の世界に入るために きびしい条件を課しておられるのかも知れません。

お礼日時:2008/07/07 20:09

精神は物質ではないのですから、肉体が一人ひとり分離しているように、精神も一人ひとり分離しているという考えは成り立たないと思います。

そもそも精神は時空間に存在しているわけではないし、「脳みそ」の中に存在しているわけでもないので、分離する事自体が不可能ではないかと思います。

肝臓は心臓がなければ生きれませんが、そうであっても、肝臓は心臓の存在を知らないと思います。それは、肝臓には肝臓の課題と役割、心臓には心臓の課題と役割があるからだと思います。人間は肝臓とは違いますから、勉強すれば、他の人間の課題や役割を学ぶことはできますが、それでも、直接、他の人間の意識の内側を認知することはできません。なぜなら、もし、認知そのものを他の人間と共有できてしまうと、全ての人が、同じ課題と役割を持たざるを得なくなるからです。

それでは、個々人の意識に立ち現れる課題と役割はどこから来るのかというと、心臓や肝臓の課題と役割が、人間の身体全体から来るように、精神全体から来るのだと思います。そして、肝臓の課題や役割が、肝臓自身にとって、どのように立ち現れるかというと、それは、様々な作用の集積として現れるのだと思いますが、同様のことは、人間の個々の意識にも生じているのだと思います。個々の人間の意識に現れる課題は、様々な作用の集積として立ち現れるのだと思います。

その様々な作用の集積のことを「無意識」と呼んでいるように思います。精神全体は、この様々な作用の集積を通して、個々の意識に、課題と役割を立ち現れるようにし、その結果として、個々の意識はその課題の創造的解決を促されるのだと思います。

何故、創造的解決かと言うと、もし、創造的解決ではなく、機械的解決を求められているのなら、精神全体は何も「意識」などというものを持つ必要はないからです。精神全体は、意識など持たずに、ただただ、機械的に問題を解決すれば、それで済むわけです。

個々の意識が存在する本質的根拠は、個々の意識が個々の課題と役割を与えられ、精神全体の進化を推進するために創造的に問題を解決することにあると思います。進化とは方向性を持った変化のことであって、進歩とは違うと思います。と言うのは、進化には、進歩のように予め物差しの決まった方向性が決定されているわけではない、まさに、創造的なものだからです。
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この回答へのお礼

 kobareroさん こんばんは。ご回答をありがとうございます。

 今回のご回答は 中ほどで 分かったという感覚に入りましたが 全体として まだ 少々 抽象的すぎると思います。
 用語が抽象的で 具体的に どう理解してよいのか まだ 思案しなければなりません。
 ★ 《様々な作用の集積》として現れる
 ☆ 括弧にくくった言葉の内容が知りたいのですが これは 
 ★ 肝臓の課題や役割が、肝臓自身にとって、どのように立ち現れるかというと、それは・・・
 ☆ というかたちで その問いの答えとなっている箇所です。つまりは この言葉をまさに用いて 無意識が説明されます。いわく。
 ★ 個々の人間の意識に現れる課題は、様々な作用の集積として立ち現れるのだと思います。 // その様々な作用の集積のことを「無意識」と呼んでいるように思います。
 ☆ 《内蔵などの器官が 身体の神経組織において 共同にはたらき 相互作用をおこなうこと》 これが 《様々な作用の集積》になるでしょうか。精神においても 最初に前提を出しておられるかのように
 ★ 精神も一人ひとり分離しているという考えは成り立たないと思います。
 ☆ とすれば 相互に精神が 共同体を形成しているかのごとく はたらきかけ合って 《様々な作用の集積》をもたらしている。それは 意識され得ないものであり 《無意識》と名づけるのだとなるでしょうか。

 ★ 創造的解決 / 〔それゆえ 自由な展開としての〕進化
 ☆ については 分かりました。
 ですが 《様々な作用の集積》が 上のような解釈で もし よいとしても もう一点 なんとも 反応しがたい事項があります。
 ★ そもそも精神は時空間に存在しているわけではないし、「脳みそ」の中に存在しているわけでもないので、分離する事自体が不可能ではないかと思います。
 ☆ 脳みそを基体として 精神は成り立っているのではないでしょうか。仮りに その点をいわゆる唯物論ではないのですから 深追いされないとして それでも なぜ 《精神は 人びとにとって 互いに 分離しているわけではない》と言えるのか。なぜ――言えるとしても―― わざわざ 言わなければならないのか。単純に 《社会性・関係性》と言うだけでは足りないのか。こういう素朴な疑問です。
 以上は 今回は いわゆる補足要求になりますね。

お礼日時:2008/07/07 20:35

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