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文化人類学の授業で、軽く文化相対主義と普遍的人権主義について講義を受けたのですが、自分のとったノートや資料を見ても、いまいちその2つの葛藤について理解できていません。
できれば、キプシギスの女性婚の話も交えて、文化相対主義と普遍的人権主義について説明してもらいたいです。

A 回答 (2件)

すいません、チャールズ・テイラーではありませんでした。

テイラーの『マルチカルチャリズム』のことを考えてたら混ざってしまった。

ここでわたしが参照しているのはジェームズ・レイチェルズの『現実をみつめる道徳哲学 ―安楽死からフェミニズムまで』(晃洋書房)です。
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キプシギスの「女性婚」というのはどういうものか、もうすでに調べましたか?


わたしはそれについてはあまり詳しいことは知らないので、それに関してはご自身で調べてみてください。検索するだけで、あるていどのことはわかるように思います。

ここでは「文化相対主義」と「道徳的実在論」(普遍的人権主義)の対立ということについて説明します。

まず「文化相対主義」というのは、「文化が異なれば、その社会での道徳規範も異なる。どちらがより正しいとは言えない」という考え方です。

たとえば、日本では、人が亡くなると火葬することが一般的で、それがわたしたちにとって「あたりまえ」であり、「正しいこと」のように思えています。
けれども、欧米では土葬の方が一般的で、さらにアメリカでは「エンバーミング」といって、亡くなった人に防腐処理を施し、まるで眠っているようにお化粧を施して埋葬することが「あたりまえ」というふうに考えられています。けれども、防腐処理を施し、きれいな服を着せ、男性にまでほお紅や口紅を塗るというこのエンバーミングは、わたしたち日本人にしてみれば、ひどく違和感を覚えるものです。
さらに、チベットでは、「鳥葬」が行われています。この「鳥葬」というのは、遺体をハゲタカやワシなどに食べさせます。

日本人であるわたしたちの目には、おそらくエンバーミングというのは「不自然」な、「気持ちの悪い行為」に映るでしょうしし、「間違ったこと」「正しくないこと」のように感じる人もいるかもしれません。さらに「鳥葬」ともなると、わたしたちの多くの目には、ひどく残酷な行為であるように映るのではないでしょうか。

けれどもそれぞれの埋葬法が取られてきた背景には、固有の自然環境があり、社会慣習があり、人びとの文化があるのです。

それぞれの文化的背景を尊重する「文化相対主義」の考え方を採用すると、わたしたちは、ほかの社会の習慣がわたしたちの社会の習慣に比べて、「劣っている」さらには「間違っている」とは言えなくなります。

ある文化においては、死者に敬意を持っての行為である「火葬」は、在る文化においては「死者への冒涜」とみなされる。同じように婚姻においても「一夫多妻制」「一夫一婦制」、キプシギスの「女性婚」のように、それぞれの社会において「正しい」とされる婚姻はあるけれど、「道徳」というのは社会や文化によるもの、相対的なものだ、という考え方です。

質問者さんのいう「普遍的人権主義」というのは、おそらく道徳的実在論のことだと思います。すべての社会が共通に持つ、道徳規則というのが存在するはずだ、という考え方です。「文化的相対主義」が、「道徳」を「その社会における慣習・法律」ととらえるのに対し、道徳的実在論は、すべての社会が共通に持つ、道徳規則というのが存在するはずだ、とう考えるのです。

「普遍的人権」もそこから導き出せる概念です。
人間が人間であること自体によってもつ権利として、文化や社会に先んじて、あらゆる人間に平等に認められるべきもの、とするのです。

さてここで、文化相対主義と人権の概念が対立するケースがあります(キプシギスの「女性婚」がそれに当たるのかどうか、わたしは知りません。ご自身で調べてください)。

それは、ある社会における文化的慣習が、その民族にとって伝統的なものでありながら、一方で、その社会に暮らす一部の人の基本的な人権を侵害するものであるような場合です。
ここではチャールズ・テイラーの論の進め方に依拠しながら、「女性器切除」を例にとって考えてみることにします(※参考文献『現実を見つめる道徳哲学』)。

まず、前提として、テイラーは、先に挙げたような「埋葬」における各文化の「ちがい」に、もう一歩踏み込んでいくことを求めます。「死者を悼む」という観点から見るならば、さまざまな埋葬の方法があるけれど、あらゆる文化は、死を畏れ、死者を悼むという根本においては同じ「価値観」を共有しているのではないか。そう考えていくと、見かけほどのちがいはあるとは言えなくなります。文化的不一致の程度は、見かけよりはるかに小さいと主張するのです。

それに対し、女性器切除という習慣は、人間全体のいったいどのような「価値観」に基づいていると言えるのか。
さらに、道徳的実在論のなかでも功利主義者として、彼はこのように問いを立てていきます。

「この習慣は、それによって生活に影響を受ける人々の幸福を、促進しているかそれとも妨害しているか」

という問いです。
もし妨害しているのなら、その習慣は欠陥があると、その文化の外にいる人であっても結論づける、とするわけです。

文化相対主義から学ぶべき点はある。
「我々が自然だと見なす多くの行為や態度は、本当は単なる文化の産物に過ぎない」という洞察です。そうして「この洞察は断固として保つことが大切である」とも。

けれども、「嘘や殺人を禁じる規則のように、集団の成因の幸福はあらゆる存立可能な文化に内在する価値」であることを認めるなら、文化相対主義は受け入れられるものではない、ということになるのです。

話の筋道はだいたい理解できましたか?
その上で、この文章の中でのわからない点、さらにもっと知りたい点などがありましたら補足します。
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