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お経を理解しないで読むことの是非についてご意見をお伺いさせてください。
供養で両親が熱心にお経を読んでいるのですが、
生きている人間本位の供養になっていないのか疑問を感じています。

私の中でお経を読む意味は2つあると思っているのですが、

(1)
ひとつは、お経という説法を読む本人が内容を理解して、
本人の意識を通じて故人に伝えることによる供養。

(2)
もう一つはお経という手段で故人に対して
死の理解をうながし、「いつも想っています」
という気持ちを伝えることによる供養。

お経は釈迦の説法を中国語?に翻訳したものであって
直接の釈迦の言葉でもなければおまじないでもないということを聞いたので、
故人が肉体を離れたからといってお経を急に理解できるようになるというのは
考えにくいことだと思っています。

そういうことを考えた場合、内容を理解できていないまま
お経を読むこと自体の意味がないのではと思うのですが如何思われますか?

A 回答 (7件)

お経は亡くなった方に本来捧げるものではありません。


現代に於いては他者の死を通じてお経というものに触れる機会を作っているのです。
釈迦は悟りを開き、その弟子が釈迦の悟りを広めようと書いたものが仏教聖典です。
昔は食事、病、生存年齢などで生を問う活動が盛んでした。
それに答えを導いたのが釈迦です。
ですので昔の有識ある人は全てが書かれている法律のように読んでいました。これを読むことによりこの世を知ろうと皆必死でした。
ところが現在、食事、病、生存などに畏怖を持たなくなった我々は本来人間が持つべき感覚を麻痺させられました。
釈迦が悪魔の存在を証明したにも関わらず。
悪魔は肉体を持ちます。ですので、我々のすぐ隣の人かもしれません。
あと、亡くなられた方にお経を唱えても、そのお経を理解することは不可能といえますが、死んだということを分かられる為には効果はあると思います。しかし、亡くなってお経を聞くような霊は、この世に未練がたくさんあるとも解釈できますので、また悪魔によって地上に使徒として派遣される可能性があります。
お経は長年読んでいるうちに大体意味が分かってきます。
決して無意味ではありません。この世は地獄界ですので、諸悪魔から身を守る方法、また悪魔に気が付いた時にどの様にすればいいのかということが分かります。仏教聖典に「念念勿消疑(ねんねんもっしょうぎ)」
というフレーズがあります。「読んでいくうちに読む疑問はなくなる、これが本当のことなのだ」と言う意味です。
質問者さんも読んでいくうちに疑問はなくなります。
ちなみにこのインターネットも悪魔の産物です。
我々は現在、麻痺の世界にいます。
今、大切なものは仏教聖典なのだ確信します。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。

「念念勿消疑(ねんねんもっしょうぎ)」
ですか、なるほど・・・
仏教にはそういう考えがあるんですね、理解できました。
皆様のご意見のおかげで未熟な余計な意見を言わずに
済ませることができました。ありがとうございます。

悪魔。たしかに居るでしょうね。
まだ身近で出会った感覚がありませんが。。。
悪魔ほどの力を持っていれば防衛も難しいでしょうけど、
せめて低級な魂・霊には出会わないように自分の学びを高めたいと思います。

ありがとうございました。

お礼日時:2008/08/29 15:22

macky_2003さんこんにちは。

マリア・フワポヨです。

質問文中に“故人”とありますので、故人の供養についてお尋ねという前提で述べます。
なぜ「如是我聞」なのか。これは、あくまでも「私はこのように(仏さまから)聞いた」であり、つまり、聞き手の主観が入って述べられているということです。
聞き手それぞれの受取り方は違うので、結集のときもそれを踏まえてあえて「仏さまはこのように言った」とはしなかったのです。

さて、お寺の本堂でお坊さんが読経するのも、お墓で読経するのも、在家の信者が家の仏壇で読経するのも全て“法要”です。法要の“法”とは“仏の説法(仏法)”です。つまり、仏法の要を読経するのは即ち、仏の説法の場を再現しているのです。
これは、仏に法を確認すると同時に、法を自覚するためです。この法要の場には諸仏・諸菩薩・諸天善神が来臨するのはもちろん、先祖たち故人も参加します。
この法要はたいへん尊い大きな功徳です。この功徳を故人に“回し向ける”ことを“回向”といいます。回向文のはじめに「願わくは、この功徳を以って・・・」とありますね。ですから、故人の供養は“御回向が基本”とされるのです。

お経の意味がわかって読経するのも、わからずに読経するのも功徳には変わりません。大切なのは、仏や故人に供養させてもらっていると観ずる事です。意味がわかろうがわかるまいが読経させれているのですから、意味がないと思うのは執着です。「読経させられている」と自覚し、感謝することが何よりの功徳です。

そのように遺族たちが供養しながら一生懸命生きることが真の供養です。つまり、故人を思いながら遺族がシッカリ生きるために供養するのであり、故人のために供養するなんて勘違いしてはなりません。遺族のために故人を供養するのです。

ナムナム・・・
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。

故人の供養ではなくやはり生きている人間のための供養なのですね。
なんとなく理解できてきた気がします。

レベルはまったく違いますが。
「親鸞」が「法然」に読経の意義や疑問をぶつけていたというのを知り、
私なんかが、悩んだり疑問に思っているのも当然だと安心しました。
これからも悩んで悩んで学びます。

お礼日時:2008/08/29 15:11

 こんにちは。



 私は経典に詳しくはありません。
<(仏教の)お経を理解できないまま・・・>
 
 現在日本で使われている経典の文字は。もともとサンスクリットの音を中国を経由する時、その音に該当する当時の中国で使われていた漢字を当てかめたものです。
 当時は、印刷する機械があったわけではないので、全てが写経になり、その時点でも変化があったと考えられます。サンスクリットが漢字に置き換えられた当時の原典が残っていれば別ですが、2~3千年の間にこの繰り返しで、完全な形の、限りなく原典に近いものは、今となっては無いと考えられます。
 その様な意味で、限りなく古い石に彫られたものの拓本が重要なのだと考えられます。

 その語日本に伝わった時点で、同じような事が繰り返されたはずで、音も日本語の方言(?)言い回しに合わせて変化していると考えられます。
 そして日本の中で、次の者に継承する時点で、各寺院においても長い間に音が変化していると思われます。

 最初に書いたとおり仏教には詳しくはありませんが、現在日本の中に存在する仏教の経典の何巻が(おおよそ)何を語っているのかは分かっていても、その文が意味することを読み解くことは不可能と思われます。

 私の個人的な意見です。
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この回答へのお礼

とても新しいご意見ありがとうございます。

何か、煮詰まっていたものにすっと新しい風を
入れていただいた気分です。

私自身は霊的世界はもちろんのことあらゆる宗教を一切否定する
つもりもありませんし、むしろ理解したいと思っています。
キリスト教での「神」
イスラム教での「アッラー」
仏教での「大日如来」
スピリチュアルで言うところの最高級霊とその世界を理解するための
宗教は人間が作り上げたものですので、その実際と宗教的視点
のずれがいかほどあるのか、またそれが故人の供養で
誤ったことをやっていないかどうかという疑念をずっと
持ち続けています。
この疑問に正解があるのかどうかもわかりませんが。。。

お礼日時:2008/08/29 15:00

私がある老師から教わったことです。


位牌を前に読経するので「故人に向かってお経を唱えている」と誤解しがちだがそうではない、と。
故人とともに読経し、そして共に聴聞しているのだ、と。

以下はその老師の言葉です。

経典の始まりに「如是我聞」とあるが、これを多くは「私はこのように(仏から)聞いた」と過去形でとらえるが、それでは不十分である。「私はこのように(仏から)聞いている」と現在進行形で観よ。そうすれば読経がなされている場所は、今まさに霊鷲山での釈尊説法の場であり、また法界宮殿における大日如来の説法が行われている。
自らが発する読経の声は仏の声であり、己は、また故人は説法の聴聞者。そして同時に自身は仏と一体となって声を発している。

そして供養には理念と事象の二つがある。
例えば読経をするのは日々に仏の教えを忘れず、それを心する。それが理念の供養。
そしてその経典に説かれる教えを知り、学び、そして普段の生活に実践する。これが事象の供養。
理念のみでは単なる形式主義に、事象のみでは単なる独善主義に堕する。理事が一体となって供養することが重要である。

と、このような教えでした。
故人への供養としての読経は、子孫が「正しき道」を歩み「良き生き方」をするための一つの入り口です。回向文に「我らと衆生と皆共に仏道を成ぜん」とあるように、すべての衆生、まさに生者も死者も、有縁も無縁もすべて隔てなく正しい生き方ができるように願い、またそれを誓うものだと思います。
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この回答へのお礼

お礼がおそくなり申し訳ございません。

なんともすばらしいお言葉ありがとうございます。
「理念と事象」理解できました。

私はここでいう独善主義でいいのではないのか?という
立場でずっと考えていたことを客観的に見ることができました。
ここで言われる独善主義がもっとも重要な故人への供養であると
いう考えでいるのですが、その良し悪しが少し強引過ぎるのかも
しれません。

もうすこし適度・ちょうど良くという緩やかな目で見て
自分で再度内観してみます。
良いアドバイスありがとうございました。

お礼日時:2008/08/29 14:50

お経は書写、読誦、講説それぞれに功徳があり


分からずにとなえるよりも
勉強して理解してお唱えするほうが
より功徳があると言われています
しかし、中途半端な勉強では
もう分かってしまった
お坊さんは必要ない
自分が供養している
と言った間違った考えに
とらわれてしまいます
お経はまた、聞くことに功徳があります
私はこのように聞きました(如是我聞)
ですべてのお経がはじまっています
お経は聞くものなのです
あなたがご先祖さんにお説教をしてはいけません
理解する範ちゅうを超えていますので
あなたが理解できないからと言って
意味がない、ご利益がないものではありません
本当に不思議なご利益がありますので
CDなどでお経を聞くのもいいですし
現代語になったお経を読んでも
解説書を読んでもいいのです
意味がないことなどありません
死んだ人も急にお経は分かりませんが
あっ!ありがたいお経があがっているな
と言うことは分かります
お経をありがたいものだと認識する練習
それが日々の読経です
お経はすべて「金口直説」です
おしゃか様の黄金の口から
お説教されたものですから
宗旨宗派を超えて
すべてのお経がありがたいお経なのです
一切経や大蔵経とよばれる
お経の百科事典があります
ブルース・リーも
「考えるな!感じろ!」
って言っていますが
仏教も感じなければ分からないですヨ
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。

私自身は霊的真理は何の疑いもありませんが、
霊的真理を理解するための宗教としての手段に
ついては疑念が多く皆様のことばを一つ一つ
咀嚼して理解するのに時間がかかってしまい
お礼が遅くなり申し訳ございません。

まだまだ勉強途中ではありますが、
私自身も学んでまいりたいと思っています。
ありがとうございました。

お礼日時:2008/08/29 14:39

 こんにちは。



 以前,お寺での説法で聞いたことの受け売りなのですが…

・『お経』は釈尊の説法なのですが,『経』という文字は織物の「たていと」の意味なのだそうです。
 
・織物は縦の糸と横の糸をしっかりと組み合わせて作りますが,縦糸は目に見えません。見えているのは全部横糸です。
 しかし目には見えないけれど,『たていと』がゆるんだり,切れたりすると模様がたちまちゆがんでしまうだけでなく,すべてが台無しになってしまいます。
 お経の意味をすぐに理解できる人々もそうでない人もいます。でもどんな人でも,お経を唱和することによって『見えないたていと』によって結ばれ一体感を持つという意義があるそうです。

・ちなみに,チベットには,「マニ車」という仏具があります。どのようなものかといいますと,お経が書かれている円形のもので,それを一回まわすと,そのお経を一回読んだのと同じことになるそうです。
 お経は,意味を理解して読めれば最もいいのかもしれませんが,お経をあげたいという気持ちだけでも意味があるということなのかもしれませんね。
http://www.tibethouse.jp/culture/mani.html

参考URL:http://www.tibethouse.jp/culture/mani.html
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この回答へのお礼

親切なご回答ありがとうございます。

想念を合わせて送るために言葉にしてかつ
メロディーを乗せて唱えるのですね。

お経をあげたい気持ちはとっても大切で、むしろそれが一番
大切だとも理解しているのですが、どうもミーハーというか、
本人の自己満足でやっているようなので、本来の形とあまりにも
かけ離れているようであれば話をしなければと思ってご相談しました。

ありがとうございました。

お礼日時:2008/08/24 23:31

基本的に宗教は生きている人間のみに対してのものです。


故人に対して経を読むことで、安心を得ることが大きな目的です。
故人が経文を理解するかしないかは、確認のしようがないのですから。
ですから、生きている人間本意でかまわないんですよ。
読む人が理解しようがしまいが、かまいません。
坊さんがそんなことを言いましたか?理解して読めって。

宗派によって経文は違います。
じゃあ、宗派によって極楽浄土は仕分けされているんでしょうかね?
経文を理解していない人は死んでも浄土には行けないのかな?
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。

そうですね、宗教もそしてお経も生きている人
のためにあるものであると理解できました。

半端な気持ちでやるならやらないものと一緒だと
いう考えが少しありましたので冷静になれました。

ありがとうございます。

お礼日時:2008/08/24 23:09

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