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ちょっと引っかかることがあるので質問します。
仏陀は『慈悲の心』というものを実践しています。
しかし彼はこの世の苦しみとは何なのか?と考えるとき
それは四苦八苦(生・老・病・死・愛別離苦・怨憎会苦etc)を断つ
諸行無常・諸法無我を知らないこと(無明)
だいいます。

そこで質問なのですが
(1)慈悲の心を他人に施しなさい、というのは時に他人に対して愛情さえも抱いてしまうことがあると思うのですが(人間なら)、そうすると四苦八苦で言っている愛別離苦という言葉に反してしまうと思います。
(2)また諸行無常というのはこの世の無常を言っているのですが、もしこの世が無常ならば、なぜわざわざこの世に住む人間(他人)に対して慈悲を施すのでしょう?それで救われるのはなぜでしょう?
自分はほんのちょっと教科書を読んでみて(自分の理解が間違ってる可能性も大)感じたことなのですが、どうなのでしょうか?

A 回答 (17件中11~17件)

<<(1)慈悲の心を他人に施しなさい、というのは時に他人に対して愛情さえも抱いてしまうことがあると思うのですが(人間なら)、そうすると四苦八苦で言っている愛別離苦という言葉に反してしまうと思います。

>>

慈悲と言っても、仏陀が勧めるのは慈悲喜捨です。確かに慈悲喜だけでは対象(どちらかの立場にたつ)を取るので捨のクールで理性的な思考が必要になりますね。

あと「施し」は喜捨だと思います。

喜んで捨てるんですw

<<(2)また諸行無常というのはこの世の無常を言っているのですが、もしこの世が無常ならば、なぜわざわざこの世に住む人間(他人)に対して慈悲を施すのでしょう?それで救われるのはなぜでしょう?>>

無常だから施行を勧めるのでしょう。変わるからこそよりよいように変わる施行を勧めるのでしょう。

救われるのではなく、因果法則によって、執着から離れ、善行を積み、その報いとして支援と福楽を得るのでしょう。

教科書としてはサンガ出版の「仏法」や、スマナサーラ長老の書籍をオススメします。
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> もしこの世が無常ならば、なぜわざわざこの世に住む人間に対して


> 慈悲を施すのでしょう?
そのロジックだと慈悲を施すことに対して
何らかの見返りを期待していることになりませんか?
救われるために慈悲を施すのでは
救われたいという思いが「執着」になってしまいます。
慈悲の施しの実践は、それがイイと思うことだからやっているのであって
それ以上の理由はないと思います。

> 慈悲の心を他人に施しなさい、というのは時に他人に対して
> 愛情さえも抱いてしまうことがあると思うのですが
その考え方にも、慈悲を施すという行為に対して
見返りを求める気持ちがあると思います。
諸行無常・諸法無我という強い自覚がないと
人は無意識のうちに「イイことをすれば、(自分にも)イイことがある」といった
期待をしてしまうが、その期待が執着となり苦となる、というようなことが
仏陀の考え方なのではないでしょうか。
無意識に見返りを求める自我を「始末」することが仏教の目的だと理解しています。
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この回答へのお礼

この場を借りて皆様にお礼を申し上げたいと思います。
丁寧な解説でとても分かり易く、理解することができました。
本当にありがとうございました。
教科書は買い換えてみます。

お礼日時:2008/08/25 12:03

失礼ながら、、その教科書はダメです。



仏教では、人間が「とらわれ」がちな、あらゆる事について、
その本性を明らかにしようとします。四苦八苦・諸行無常などの言葉も、
この世は苦しみである、この世は無常だ、と説くことによって、
人間が気づかずに「とらわれ」ている部分を解きほぐそうとしています。

そしてその結果、人間がおそらく最も「とらわれ」ているであろう
「自分という存在」が解きほぐされると、自他の区別が無くなり、
分け隔てのない、偏りの無い心が生まれます。

慈悲の心というのは、そういった「分け隔てのない心」の事です。

したがって、仏陀の言う慈悲とは、質問の (1), (2) のように、
他人に何かをしてあげようという話ではなく、
「そもそも自分とか他人とかそんな区別は無いのだ」という視点
に立ったおこないの話なのです。
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仏教の宗派はおおよそ次の2つに大別されます。

小乗仏教と大乗仏教

小乗仏教は個人の悟りを重視する。
VS
大乗仏教は大衆の救いを重視する。

四苦八苦や諸行無常は共通の教えだと思いますが、
それをどうするかで二つの宗派はスタンスが違うようです。
小乗仏教の立場では、釈迦は自分と同じ人間であり、自らも悟らないとダメなんでしょう。
この考え方からは(1)と(2)の疑問も出てくると思います。
大乗仏教の立場では、釈迦は大衆を救う仏であり、自力では救われない凡夫の信仰の対象です。
この考え方からは、教義や修行よりは信心や利他行が大切になり、仏のような慈悲の心が重視されると思います。
これは仏教の発展した考え方という評価もありますが、
一方では仏教の根本から飛躍がありすぎて、もはや釈迦の教えではないという評価もあります。

あくまで、素人の個人的な意見なので、参考程度に受け止めて下さい。
以前、自分も同じような疑問をもったことがあるので、回答しました。
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>>(1)慈悲の心を他人に施しなさい、というのは時に他人に対して愛情さえも抱いてしまうことがあると思うのですが(人間なら)、そうすると四苦八苦で言っている愛別離苦という言葉に反してしまうと思います。



慈悲の心は、例えば人間的愛情が「自宅の花や木などの植物への愛として、水をやって育てること」だとすると、「自分の庭と他人の庭、他国の山の木」なんて差別なく梅雨時の雨みたいな規模で水をやることが慈悲の心ですね。なので、愛の量が質量ともに高く、大きくないと難しいですね。
また、No.1さんの回答にあるように、仏陀は、「人間の本質は霊」と知っていたわけですから、たとえ死んでも、霊(魂)は永遠の生命を持つので、別に「愛する人と死別しても、しばらくしたら、あの世で再会できる」と確信していて悲しむ必要はないわけですね。

>>(2)また諸行無常というのはこの世の無常を言っているのですが、もしこの世が無常ならば、なぜわざわざこの世に住む人間(他人)に対して慈悲を施すのでしょう?それで救われるのはなぜでしょう?

この世だけが全てではないからです。いわば、修学旅行で「この世」に来ているのが人間です。しばらくすると、「この世」という「無常」な世界の旅は終わって、本来の「霊界」に戻ります。
ただし、単に「旅行して楽しかった」ではなく、生きるのが苦しいこの世で、他人に慈悲を施すまでに、旅行期間中に成長すれば、「あなたは成長した。いやおうなく、この世に投げ込まれてきた転生輪廻の輪から抜け出しましたよ」ってことで、無理やり、この世に投げ込まれることから救われるわけですね。
もちろん、転生輪廻の輪からはずれても、「地上では、科学技術が発展して面白そうだ。ちょっと産まれてみようかな」って、自発的に、この世に生まれることはありです。
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1)についてだけ


壮大な問題なので私にも正解がわかりません。
ただ私が今考えて理解している所だけお話します。

まずここで言われている「愛」とは何でしょう?
子供を愛する親を愛する夫を愛する妻を愛する・・・・の愛ですね。

親や子を愛する→血が繋がっているから。
夫や妻を愛する→自分の世話をしてくれる人、自分の安らぎになる人。
つまりここで言う「愛」は自分にとって都合の良い人を大事に思う事なわけです。
これは愛というより「差別」です。
自分の大事な人と大事で無い人を分けているのですね。

そうではなく総ての生き物を見守り慈しみ愛しなさいと言うのが
慈愛の心では無いでしょうか。
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(自分の理解が間違ってる可能性も大)感じたことなのですが、どうなのでしょうか?


おそらく教科書が間違っているのでしょう。
四苦八苦を断ってしまったのでは生まれてくる意味もないですよね。四苦八苦からは誰一人逃れられないということですよね。地上に生まれた仏陀にしても同じですね。だから絶つことができるものではないでしょう。仏陀は全ての人に向かってくる「四苦八苦」の意味を悟ったという意味ですね。要約すれば人間は本来、霊的存在で肉体を持って生きるのは魂の修行目的のためだけである。そのためにのみ「四苦八苦」があるのだといってるんですね。それを知ると「四苦八苦」は乗り越えられるでしょう。といいたいわけですね。それを教えることが慈悲ですね。だから矛盾はないんですね。
諸行無常・諸法無我 も霊的人生観が本当なんだよということを言っているだけです。みんな修行のためにがんばって生まれてきたのにこの世が全て、見える世界が全てと勘違いするから苦しくなるんですよということですね。
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