砂漠の狐、ロンメルの実像

ナチスは大嫌いですが、
最近、ロンメルの存在を知り、
ロンメルだけはすごく好きになりつつあります。

頭がいい、ヒトラーの命令を無視してまで捕虜を大切にする、
部下、兵卒をいたわる、最後までナチ党に加入しなかった……
などなど。

これらのロンメルの姿は史実なのでしょうか。
美化されたものでしょうか。

ロンメルの非人道的行為や悪徳があれば教えてください。
(戦争自体、非人道だと言われればもとも子もありませんが……)

逆にロンメルの美徳や人道的行為があれば教えてください。

ロンメルの悪徳、美徳、両方を知りたいです。
ノンフィクションのみでお願いします。

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A 回答 (4件)

ロンメルの非人道的行為・・・


・ロンメルの「地雷好き」は敵味方にはよく知られており
 彼の担当する戦線では巧妙かつ大量に敷設されました。
 イギリス兵にはロンメルの地雷原を「悪魔の花園」と呼んでいたそうです。
 ノルマンディでは、ある日部下数人と防衛施設の視察に出かけた際
 広々とした草原に咲き乱れる花々を見て、部下の一人が
 「閣下。ご覧ください。なんてのどかで素晴らしい景色ではありませんか。」
 と言ったところ、ロンメルは
 「そうだな。・・・少佐、メモしたまえ。ここに地雷5000個を埋めるんだ。」
 と冷静に言ったそうです。

今でこそ地雷は悪評高いですが、当時は「最も安くつく効果的な防衛兵器」として
見られていましたので、こんな事を彼の非人道的行為に挙げるのは無理がありますし
戦争ですからね・・・。
彼の非人道的行為は、おそらくほとんど挙げられないでしょう。
ただ、戦後に地雷除去作業に強制労働させられたドイツ兵捕虜たちは不満だったでしょうが。

詳細は忘れましたが、1980年ごろドイツのテレビ討論会で「ロンメルの評価」が
行われたことがあります。
そこでは、
「ロンメルが反ナチ活動や政権転覆、ヒトラー暗殺にどのくらい加担していたかは不明だが、
あまり積極的では無かった様である。
彼が最後までヒトラー心棒者だった可能性も捨てきれない。」という意見もあったそうです。

いじわるな見方をすれば、ロンメルの神格化されたイメージは意識的に作られた面も
あります。
それを行ったのは
・ナチスの宣伝省や当時の軍広報。
・チャーチルや英米のマスコミ。
・『ロンメル将軍』の著作者デズモンド・ヤング
・戦後の西ドイツ陸軍再建とNATOの幹部職にも就いたシュパイデル。
・戦後ドイツの長期政権与党CDU
ナチスの宣伝省は、
死傷者が増大する東部戦線の悲惨な実像を国民に覆い隠すために
ロンメルの戦果や騎士道的な振る舞いをことさら大げさに報道した節がある。
チャーチルは、
ロンメルを神格化することによって、それに勝利すればイギリス軍の評価はもっと上がるし、
ひいては自分の評価も上がる結果になることを狙った。
実際、戦線の英軍将校たちからは「チャーチルはロンメルをほめすぎだ。兵士たちは
ロンメルが現れただけで勝てないと思ってしまう」と嘆いたそうです。
デズモンド・ヤングは、
捕虜としてロンメルに丁重に扱われた事に感激し、戦後に非常に美化された話ばかり
集めて『ロンメル将軍』を出版した。これが戦後のロンメル評価の出発点になった。
シュパイデルは、
戦時中ヒトラー暗殺の首謀者として、戦後西ドイツ首相のアデナウアーに重用された将軍。
ロンメルの参謀もしていた時期があった。
彼は、ロンメルを「反ヒトラーの隠れた指導者」として宣伝し、新しいドイツ国防軍の
精神的支柱にそえた。
CDUドイツキリスト教民主同盟は、
現在まで長くドイツの政権与党として、反ナチスを党のスローガンに掲げており、
ロンメルを「正しいドイツ人」として扱った。
同党には、ロンメルの息子でシュトゥットガルト市長を20年も努めたマンフレート・ロンメル氏
も属している。

イギリスの歴史研究者デイヴィッド・アーヴィングは、著書『狐の足跡-ロンメル将軍の実像』で
戦後ドイツで、ロンメルがナチス抵抗派の英雄に祭り上げられた事や
ヒトラーとの親密な関係、政治的にも戦略家としてもロンメルは有能では無かったと批判しています。
また、専門家の間では
「ロンメルの有能さは、師団長レベルの話であり、エルアラメイン以降のロンメルはノルマンディ
 も含め全く精彩に欠ける。
 戦況の悪化や、英米軍の物量、ロンメル自身の健康悪化という要素もあるが、
 彼は戦術レベル以上の総合的な戦力(制空権、制海権、補給、情報力)の運営には不向きであった」
という評価もあるのは事実です。

しかし、それまでのドイツの将軍たちに多く見られた「後方でふんぞりかえって指揮する貴族的な司令官」
のイメージではなく、常に前線に立って兵士たちと共に戦い、少ない戦力で敵を翻弄したロンメルの姿は
やはり「英雄」に値する存在だとは思います。
先に記したロンメルに批判的なデイヴィッド・アーヴィングも、
さすがに戦場指揮官としてのロンメルの有能さは認めているようですし。

陰惨で過酷さを極め虐殺を繰り返したロシア戦線と異なり、明るくまぶしいばかりの風景が広がる地中海と、
中世の十字軍遠征にも似たエジプト遠征。
騎士道精神にあふれ敵味方から慕われ殉教者となったロンメルには、そうしたイメージがどうしても重なります。

あまり質問には沿わない内容の回答になりました。

ちなみに、ドイツの他の将軍にはロンメルに匹敵するような有能な将軍も何人かはいます。
マンシュタインもそのうちの一人でしょうが、なんとなく彼には
「後世の歴史を意識した貴族的なプロシア軍人」の臭いがします。
個人的には、モーデルが挙げられると思うのですが、不幸なことに彼の軍歴のほとんどは
過酷なロシア戦線であり、クルスクでの失敗やオランダ戦線とアルデンヌ攻勢での恨みも英米側に強いですから
あまり評価が高くならないのでしょう。
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美点は他の回答者さんがいっぱい書かれてらっしゃいますので、私は意外に知られていないエピソードをいくつか。



ロンメルが対仏戦で指揮した第七装甲師団はその神出鬼没な戦いぶりから「幽霊師団」と恐れられ、それは現在のドイツ軍の第七装甲師団にも引き継がれていますが、当の第七装甲師団は対仏戦で飛びぬけて高い損害率を出しています。これは、ロンメルが進め進めと部下の尻を叩きまくって部隊が必要以上にバラけ過ぎた(だからどこにでも神出鬼没に現れたのでフランス軍からは幽霊のように見えた)その側背をフランス軍戦車部隊に反撃されたためです。88ミリ高射砲で戦車部隊をやっつけるというあの有名な反撃方法をとっさに行えたたためフランス軍を食い止められましたが、もしそれができなかったらほぼ全滅に近い損害を受けていたことでしょう。

北アフリカで数に勝る英軍を打ち負かしましたが、英軍の規模を完全に読み間違えて過小評価し自分たちより数が少ないと思っていました。もし英軍の規模をほぼ正確に知っていたならかのロンメル閣下といえども反撃をためらったといわれています。

イタリア軍の将軍たちとの初めての夕食会で、あるイタリア軍の将軍から「そういえば、閣下は第一次大戦でブルーマックス(ドイツ軍で最高の勲章)を得たと聞きましたが」と話を振られ、「それはどこの戦いで得たのですか?」と聞かれて仕方なく「カポレットの戦いです」と返答しました。実はカポレットの戦いはイタリア陸軍の歴史で最も大きな敗北である屈辱的な戦いで、当時イタリアで「カポレット」といえばそれだけで「敗北」という意味になるほどでした。大敗北のきっかけは、たったひとつの中隊が八面六臂の大活躍をしたせいですが、その中隊長が他ならぬロンメルでした。夕食会はとても重苦しい空気になったそうです・笑。

ロンメルもいいけど、マンシュタインも名将ですよ。
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順不同で



・一次大戦から有能な山岳兵将校で、当時の帝政ドイツ最高の勲章を受勲しています。戦後に書かれた彼の著作は無名の元伍長も読みました。あと、スキーが達者でした。
・カメラ好きです。ライカをつかっている写真があり、製造番号がキリ番のライカをライツ社がロンメルに贈ったそうです。
・機械がすきで、オートバイをバラバラにしてガレージに部品をひろげてながめたあと、組み立ててエンジンかける趣味があります。
・奥方とはオートバイの二人のりして、いろいろなところにでかけています。
・ヒトラーの護衛隊隊長時代、ヒトラーから、自分の車に随伴する車は6台にしてくれと命令され、ナチス高官の乗った7台目をストップさせ、当然のことながら通せ通しませんとなったのですが、これがロンメルの人となりをヒトラー自身が知った最初のことだそうです。
・ポーランドのときもヒトラーの護衛をしていましたが、前線に行きたいと直訴して、7装甲師団師団長になります。
・マンシュタインという元帥がいます。マンシュタインとロンメル、それに誰か(失礼失念)が丘の上で3人たっていたときの立ち話に、マンシュタインが決心したら、自分は従います、という旨のことを言っています。これは、ヒトラーを国防軍で失脚させマンシュタイン政権をつくろうという密談で、戦後になってマンシュタインの副官が明かした事実です。
・ノルマンディでミソをつけましたが、なぜ当日現地にいなかったかというと、6月6日が奥様の誕生日で、フランスの靴をおみやげにドイツに帰っていたからでした。
・1940年のフランス侵攻のとき、第7装甲師団長でしたが、川に仮説橋をかけている時、自分も川に入って手を貸しました。師団長が足を濡らした、と大いに師団の士気が上がったそうです。
・北アフリカで名を馳せましたが、当初は劣勢なイタリア軍のフォローとして、仕方ないから師団2個だけ派遣、しかも1個は軽師団という本来より編成の少ない師団でした。なのでロンメルは戦車を陸揚げした港町でパレードさせるとき、大通りを通らせたら裏道通らせ、もう一回大通りをパレードさせるということをして、大軍団が来たように見せたかけたりしました。イギリスのスパイがこれにひっかかり、イタリア領リビアに進入していた英国は、逆にエジプト国境まで押し戻されます。
・なので、アフリカでは当初、在リビアドイツ軍部隊、という組織の長にすぎず、指揮系統でいくと、イタリア軍の指揮下にありました。後にアフリカ軍団になってもイタリア軍の指揮下にあったのですが、そのイタリア軍がドイツ南方総軍の指揮下にあるという、ややこしいことになりました。イタリア兵にも人気があったそうです。
・アフリカでは捕獲したイギリス製指揮トラックが気に入って、3台つかいました。
・一回車の運転手がまちがえて、単身英国の野戦病院に迷い込んでしまったのですが、周りを占領したようにふるまい、英国の軍医に薬品を手配すると言って、立ち去ることに成功しています。
・ロンメルが下手に成功したので、スエズ運河まで、そしてその先のソ連まで侵攻して、油田を確保する、といった方針ができてしまい、本来なら「イギリス軍をおさえているだけでよかった」はずが、アフリカにも本格的に兵力を割いてしまったことは、負の部分でしょう。
・ユンカーでもなく、陸軍大学も出ていないのに元帥になったので、相当ねたまれたそうです。自決させられたのは、これが遠因という人もいます。
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ヒトラーの命令を無視してまで捕虜を大切にする、


部下、兵卒をいたわる、最後までナチ党に加入しなかった……
などなど。
これらのロンメルの姿は史実なのでしょうか?
本当です。
美化されたものではありません。
ロンメルは、ヒトラー暗殺の濡れ衣を着せられ、ヒトラーに処刑されました。
もしロンメルが処刑されず、生きて西部方面司令官でいたなら、連合軍は、ノルマンジーで苦境に立たされていた事でしょう。
違った展開になったかもしれません。
最終的には、ドイツ軍は負けますけど・・・
ご参考まで
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http://www.shinchosha.co.jp/plinivs/about/

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 彼は、街頭や広場、ビヤホールへ積極的に出かけ、ずば抜けた演説力で大衆を魅了しみるみる党内で出世していきました。

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 ドイツの歴史家、ヴェルナー・マーザーは、ヒトラーは1913年ごろのウィーンでの青年時代にル・ボンの『大衆の群集心理』(La psychologie des foules)を熱心に読んで社会を観察していたこと。また、1920年代の初めにはマクドゥガルの『群集心理』(The Group Mind )を研究していたことは確実である。とのべています。

 さらに、ヒトラーは第一次大戦に兵士として参戦して「プロパガンダを正しく利用するとどれだけ巨大な効果を収めうるか、ということを人々は戦争の間に初めて理解した」と『わが闘争』( Mein Kampf)の中に書いているように、彼が宣伝や大衆心理に関してすでに格別な関心を持っていたことがわかります。

 ヒトラーが一国のトップに上り詰めたのは、単に強権だとか陰謀に頼った、あるいは大衆に媚びたからではなく、天性の才能とともに綿密な観察と研究という基礎があったからでした。

 したがって、ヒトラーにライターは必要がなかったといえます。

 ゲッベルスはナチス党が政権を取ったのち、宣伝省大臣として党大会、新聞、ラジオ放送、映画、演劇、音楽、美術、デザイン、出版などの全般にわたって統括し、かつナチズムに反するものへの検閲、弾圧、追放を精力的におこないました。

 
資料:W・マーザー『ヒトラー』村瀬興雄ほか訳 紀伊国屋書店 72年
  :A・ヒトラー『わが闘争』(上) 平野一郎ほか訳 角川文庫 73年

  :R・マンヴェルほか『第三帝国と宣伝』樽井近義ほか訳 東京創元社 73年

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