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霊魂がお浄土に往くわけではないですよね?
もちろん肉体がそのまま往くわけでもない。
となると私達の何がお浄土に往くのか気になります。

宜しくお願いいたします。

A 回答 (3件)

この世が浄土でしょ。



つまり自力で不安や苦しみから逃れられないそれが人間の業である、あみださまにお任せするしかない。

なみあみだぶつ 南無とは帰依、従う、降伏する あみだぶつとは無明

不安や苦しみを人智で無くそうとしたがそれを明らかにはすること無理であった。不安苦しみに降伏する=なむあみだぶつ=浄土

安心を欲しがり不安を嫌がる穢土

安心不安を二つに観る普通の人々或は生死   安心不安を一元に観るこれ悟。


自力宗のさとりも他力宗のなみあみだぶつも本質は一緒だと思います

さとったかさとってないかであり、悟ろうが悟るまいが人間は不安苦しみは逃れなれない=浄土


  合掌。
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 《わたし》と自称する人間存在が 社会的な関係としての存在であるならば その《わたし》は すでにこのいま・ここにおいて 浄土にあるということではないでしょうか?


 どこでも・いつでも すでに 一人ひとりが ブッダであるということではないでしょうか? すでに往生して 帰って来ているのではないでしょうか?
 これくらいのことを言うひとが どうして 出ないのでしょう?
 言えばいいとは思いませんが――つまり 正しいと主張するためでは必ずしもなくて その点 おことわりしなければならず しかも すれば 分かっていただけると思ってのことですが―― 右から左へ 横から縦へ よくも二千数百年も 同じことを 言い続けていると思いませんか?
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。

>すでに往生して 帰って来ているのではないでしょうか?

興味深い意見です。すでに悟りを開いてまた娑婆に戻ってきてると言う事ですか?
よく分かりませんがこれが悉有仏性と言う事ですか?
bragelone様はすごく立派な仏教徒だと思いますし勉強もなさってると思います。またお話を伺えればと思います。

私が仏教を好きな理由も、仏教は唯一人の心を問う教えだと思ったからです。あくまでも自発的に且つ私の心を変えてくれる教えだと思いました。信じるものは救われると逆に言えば信じないものは救われないといった了見の狭い教えとも違いますし、人間の欲望を助長するようなご利益信仰でもない。そんな仏教が大好きです。

このような教えが2千数百年前に生まれたなんて驚愕に値します。
また色々教えてください。

お礼日時:2008/10/31 19:33

 なかなか難しい質問ですねぇ。

私は浄土真宗の人間ですが、ずいぶん悩まされました。少しばかりお話させていただきます。
>>霊魂がお浄土に往くわけではないですよね?
 そうですね。仏教では霊魂や魂または自我や本体は「アートマン」と呼ばれ否定的な立場にいます。ですから、たとえ浄土教であってもその考えを否定するものではありませんから、霊魂が往生するということにはなりません。
 ではまず仏教で言う「私」とは何か??分かりやすくいえば「因縁によって成り立つたくさんの要素の集合体」ということになるでしょう。因縁の「因」とは直接原因をあらわし「縁」は間接原因(条件)をあらわすといわれますが、仏教では「魂」という本体があるわけではなく、因と縁とが絡み合って私達はたくさんの要素を持って構成されていることになります。これが通仏教的には「空」なんて呼ばれたり「縁起」と呼ばれたりしています。
 ですから、往生するさいには、
>>もちろん肉体がそのまま往くわけでもない。
 確かに娑婆世における肉体という要素はなくなるでしょう。
 では、そういったことを踏まえたうえで、
>>浄土真宗の方、私達の何がお浄土に行くの?
 ということを考えて思い出すのは、浄土宗さんの偉いお方(なんて人だったかは忘れてしまいました。申し訳ない。)が、「私の魂が往生するのではない、私が往生するのだ」おっしゃっていました。この言葉の中の「私の魂」というのはアートマンであり、「私」と呼んでいるのは因縁によって成り立つたくさんの要素の集合体としての私ということではないかと思います。
 浄土宗にしても浄土宗にしても、極楽浄土は聖人のみがいける世界ではなく、なかなか悟りを開くことができない悪人であるからこそ阿弥陀様は極楽浄土を建立してくださったと説かれます。普通であれば浄土という仏様の世界には煩悩という要素をなくしたものだけ往生することが許される世界です。しかし、浄土の中でも極楽浄土はそうではありません。煩悩という要素をもっていながらも往生が許される世界です。これは「凡入報土(ぼんにゅうほうど)」といわれます。「凡夫」が「凡夫」のまま往生できると説かれているわけです。
 確かに人はその命尽きるとき肉体という要素は失われます。また、極楽浄土に往生しますと『無量寿経』に説かれる四十八願の中には悉皆金色の願(金色の肌)・天眼智通の願(仏教を聞くための超人的な聴覚)・神足智通の願(人々を救うためや仏教を聞くために好きなところにおもむくことができる力)等々多くの要素が与えられることになります。つまり、往生する主体は「私」であるけれども、その「私」も変化し続ける「私」ということになるのではないでしょうか。

 急ごしらえの文章ですのでなかなかまとまらないものになってしまいました申し訳ありません。参考にしていただければ幸いです。
 合掌 南無阿弥陀佛
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この回答へのお礼

「私」がお浄土に往く、だけのお答えでしたら正直分かりにくかったのですが、ありがたい事にこの「私」という者をいったい何者なのか優しく解いてくださってますので非常に分かりやすかったです。

私の生まれ育った地域はユタやノロがいて神道や儒教の影響が強く仏教(その中でも浄土教)の影響がほぼ皆無のところですので、ついつい人間が亡くなってその肉体を失ったときは何か目に見えない霊魂のようなものが残ると考えてしまいがちになります。
仏教的な生き方をしていこうと思ってますが何年も積み重ねた「我」というものはなかなか抜けてくれないみたいです。

ご回答ありがとうございました。

お礼日時:2008/10/31 19:14

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