No.9
- 回答日時:
これを言った人にとって、
「生きる」のは何で、
「死ぬ」のは何なのでしょうね。
「本質が」「生きる」ために、
「一時的に身につけたものが」「死ぬ」、
とも考えられそうです。
「本質」については心得ておりませんので
お話しすることができなくて残念ですが、
「一時的に身につけたもの」について
少し思いついたことをお話ししてみます。
たとえば、欲・本能にしたがって能動的に手に入れたもの、
着るもの・おうち・お金・仕事・地位・配偶者・恋人などですが、
それたち自身や、
それにまつわって発生した感情・記憶というのは、
「消えていくことができる」
ということなのではないかと思います。
「さよならだけが人生だ」という言葉が好きです。
No.8
- 回答日時:
意味深なことを言っているようでなんでもでない単純で答えることも馬鹿らしい矛盾発言です。
No.7
- 回答日時:
僕も考えが浅いのですが、
今このとき生きていますが、それはもう今生きています。
でもそうじゃなく、死ぬことで生きられるのだ、という主張は、
つまり生きるために死ぬ、と言うときの生きるは、今現に僕は生きている、の生きるとは意味が違う、ということです。
つまり今当然生きてる、とは違う意味で、つまりより本質的な意味で生きるためには、死ぬ必要がある。
本質的な意味で生きることに対して、今普通に生きてるのを偽りで生きてる、と表現すれば、
本質的に生きるためには、偽りの生を殺して消滅させる必要がある、と解釈できるのではないでしょうか?
それは、人格の階層の問題として考えることもできます。
人格が消滅することは、死の感覚を必ず伴います。それは肉体の死とは別の、消滅感覚の話しです。どんなに浅い薄っぺらい人格でも、消えるときには、無がついて回ります。
ただ一つ引っかかるのは、結果論として、本質的に生きるようになって以前の薄っぺらい私は死んでしまった、ということはあるとしても、ある意味自殺をにおわすようなこの表現は、あんまり好きじゃないんですねー。結果論としてこの言葉は考えたいです。
本質的に生きる、とは、生と死、という対比のない状態だと思います。
下手な説明ですが。
No.5
- 回答日時:
これは古い言葉です。
古い教えです。私は次郎物語(下村湖人)が朝倉先生になった、語るので始めてであり、二十代のハタ(ヒンドゥ哲学と行)、三十代から七十代まで拙くkも精進勉強している、ラージャ(ヒンドゥ哲学と行)の中で同じ哲学をに出会いました。
少し文句を逆にすると、「死ぬために生きる」となります。
人生は何のために ということの終局は、良き死を死ぬためにということである。
生きることは死ぬために ということである。
良き死によって、良よき人生となる ということになります。
山本常朝の、肥前鍋島論語、葉隠れ武士道は歴史的には、武士階級にむけての観念的哲学となっておりますが、下村湖人先生場合はこれに関してのお話です。
目立つ必要も、えらくなる必要もない。白鳥という真理を体した魂が白い花、蘆花に入り、元の蘆原は外見は変わらず、されど変わる。調和と融和のなかで己を生きる。
己を前にだすぎらぎらの人生よりも樹木の葉の後ろにありて、一体化し支える葉隠れであれ。
利己と険しさ、そして派手派手の己を死して真の己として生きよ。主のために死ね。これが良き生命である、人生である。というものです。
イエスが派手派手のイチジクの樹木に花も実もひとつも無いのを見て、悲しいかな、と枯死させる教えと通じるかもしれません。
ヒンドゥは世界観、思索、そして透徹した精神真理の分析、人生と人間の成り立ち、始まりの認識と理論であり、そのための精進と行を以ってなりたっています。
呼吸の仕方、呼吸とは、生理活動とは、そのコトロールと支配、自己が自己の主となるためには、・・・という哲学と行法です。
そして呼吸の一々において、自己を死ぬ方法を、そして生きる方法を教えます。
正に生きるためには死ぬことが必要だということを教えます。
その生理と行、統括のしかたの哲学と実際の行です。
それが生きるために死すという仕方です。
実際の行法(日本語では、真言宗の発音として、ぎょうぼうといいます)です。
これは集大成していく過程での論語にもあるのですが、以上で説明とします。
キリスト教の密教的伝統でははイチジクという生命の樹木(脊柱的に生命を象徴しているのは、ほんとうはアシュヴァッタという菩提樹ではりますが)、これの意志下の統括を教えています。
立派な顕教となっている宗教の背後には、少数の人から少数の人へと伝わる密教がやはりあるということです。
武士道とは死ぬことと見つけたり
これは正に生きるという事は、死ぬことである。
日々死ぬことにより、日々生きることができるのである。
という原理を教えているのが、「生きるために死ぬ」です。
No.3
- 回答日時:
是は自我意識に黙らせると言う意味です。
自我意識は左脳に在る意識です。何事も分別で処理しようとしています。左脳の機能は分別する事と言い訳をする事です。是は行き詰まりを意味しています。どういう事かと言いますと、思考が自由に働かない、或いは心が縛られてしまうと言う意味になります。どういう事かと言いますと、自我意識には限界が在ると言う意味です、何故ならば「分別」という言葉に良く顕れています。分別という言葉は有限という意味だからです、或いは、限界という意味でも良いと思います。その反対が永遠というものです。割り切れないものを「無限、永遠」と定めてあるからです。
従って人間が人生に矛盾を感じて行き詰まると言う事は、有限の身が永遠に憧れると言う意味になります。永遠が有限を覆い尽くそうとしてそれを拒んでいる姿が「自我意識が、生きようとしている姿」と言えます。自我意識には人生の矛盾を解決できる能力は有りません。そういう機能しかプログラムされていないからです。
そのために自我意識には「出来ないと言う諦め」が必要となります。それが「大死一番」と言う事になります。是は自我意識が、右脳に在る意識に対して折れると言う意味になります。その事を「死ぬ」という表現にしています。
生きるために死ぬと言う事は本当の人生に目覚めると言う意味です。それは自我意識で生きて行く生活を捨てて、自分自身の働きに任せて行くと言う生き方の事です。それは分別を捨てて、右脳に在る「仏性、神」と共に生きると言う意味になります。この事を「神の御心のままに」と言います。神仏というものはお寺や教会に存在している訳では有りません。誰でも持っているものです、つまり、右脳に在る意識です、無意識を働かせている意識です。自我意識が計らわなくても人間はうまく生きて行けます。返って自我意識を捨てた方がうまくゆきます。自我意識を捨てた生き方は、心が自由となります。又、安心できます、悩みも無くなります。
その反対に人間の苦しみとは、自我意識が出しゃばってしまって、右脳の意識に脅かされている状態です。その事が分からない事から、何時も不安におびえています。「精神疾患になった状態とは、自我意識が、右脳を無視して、単独で生きている状態の事です」絶えず苦しい状態が続くからです。その状態をお釈迦様は「一切皆苦」と表現しています。
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