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灼熱の地球が誕生した時には生命はなかったと思いますが(おそらく)、その後
数十億年をかけて、生命体は絶滅するものはし、進化するものはし、現在の生
態系がつくられました。
また、ずっと身近な話では、我々は生まれてから現在に至るまで性格は不変と
しても、肉体的に、精神的に、知性的にも変化をし続けこれからも変化をし、
死に至るわけです。

この「変化」ということについてですが、「どのように」変化してきたか、は
科学や経験から人類は様々認識していますが、「何故」そうなったか、つまり
「変化」というものの本質は何か?という問いについて、次のような考え方が
あると思います。

①「変化」という形而上的な、法則のような、実在がある。
②物質の中にそういう性質がある。
③すべて、偶然の産物である。

その他にも色々な考え方ができると思いますが、皆さまはどのようにお考えでし
ょうか?
また、その結論に至った経緯を教えていただけると嬉しいです。

質問者からの補足コメント

  • 生命体の進化的変化ということだけでなく、宇宙のあらゆるものの変化という風に
    捉えていただいて結構です。

      補足日時:2020/01/13 07:09
  • 生命の誕生ということも「変化」と考えてよいかと思います。

      補足日時:2020/01/14 03:18

A 回答 (43件中1~10件)

自然科学が「前提」の学問について


質問者さんが仰っているように「公理」と言う前提が必要な学問です
何故か言えばそうしないと「先に進めない」からです
例えば「時間」
「時間が存在し時間が流れている」と言う前提で時間に関わる事柄に関して理論化されています。
しかしながらそもそも人類は未だ「時間」を直接観測したことはありません。即ち実証されたことはありません。
更に言えば「時間」が存在すると理論的に証明されたことも無いのです。
その他についても実証されておらず理論的に証明されたのでは無い事柄でもそれを正しいと前提して理論が構築されている例があります
だからこそ自然科学において物事の説明において「正しいと証明されていない事柄」を前提としている場合、その前提それ自体「論理的に正しいのか?」と問わるれとその問には答えられないのです
例えば哲学者「ハートランド・ラッセル氏」が提唱した通称「五分前仮説」です
この仮説は自然科学では反証出来ません。
なぜなら「過去の時間」が存在したと前提していますがそもそも誰一人過去の時間を観測したことは無いのです。
理論の根底となる重要な事柄が正しいとの前提せれている以上それによって構築された理論をいくら積み重ねてもそれでは「真理」にたどり着くことは無いでしょうね
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この回答へのお礼

例えば「平行線公準」が何故「公理」足りうるのか、さっぱりわかりません。
しかし、こういうものが遥か昔に考えられたことであるということは驚きです
し、科学というものの論理の厳密さというものに、尊敬の念を感じます。

将来は、科学と哲学が相互補完的に発展してゆくといいと思っています。

お礼日時:2020/02/18 22:55

自然科学における「第一原理」に関して


ウィキペディアによると自然科学における「第一原理」とは
「近似や経験的なパラメータ等を含まない最も根本となる基本法則をさす」
とありますので自然科学における「第一原理」を端的に言えば「物理法則」となります。
その点を踏まえて質問にある
「物理学者の中にひたすら「第一原理」を追求する人たちがいる」に記されている「第一原理」をひたすら追求する物理学者の事を「理論物理学者」と言います。
今まで発見された「物理法則」は数多に存在しますが多くの「理論物理学者」はそれらの数多に存在する「物理法則」は本来一つの物理法則が分化したものと考えています。
ですから数多に存在する「物理法則(物理理論)」を統一しようと試みている理論物理学者がいます。
とは言え自然科学における「第一原理」が一つの物理法則(物理理論)に統一されたとしてもその統一された物理法則(理論)では生命現象の物理的な説明は出来ないでしょうね
それ以前に自然科学は「前提」の学問ですから「前提」それ自体を説明しうる理論は構築し得ないでしょう
「前提」自体を論理的に説明するとしても自然科学における理論の構築方法ではそれに適さないと言えるのと考えられます
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この回答へのお礼

>自然科学における「第一原理」が一つの物理法則(物理理論)に統一されたとしてもその
統一された物理法則(理論)では生命現象の物理的な説明は出来ないでしょうね

おそらくそうであろうと思います。私の今の知識では、そう言うより他はないですね。

>自然科学は「前提」の学問

「公理」という前提が必要な理論体系ということですか?

お礼日時:2020/02/16 17:28

「科学的発見はもう限界」と言われた事があったのですか。


それに関しては技術の発達によってクリアしています。
最近では「ブラックホールの撮影」・「ヒッグス粒子の観測」などがあります。
「真理」については前にもお話させて頂いたように科学は真理を追求する学問ではありません
「生命(命)」は正に「科学の壁」になっています。
未だ「生命(命)」は科学で解明されていませんし、物質の塊である「遺伝子」が生命現象を示した物理的な理由が判明していません
加えて科学(物理学等)は普遍的な事柄から法則性を見出すことを目指す学問ですから、レア現象である「生命現象」を解明するのには適していない可能性があります
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この回答へのお礼

物理学者の中には、ひたすら「第一原理」を追求する人たちがいるということを
聞いたことがあります。

自然科学の「第一原理」と形而上学の「第一原理」との違いを、私はまだよく理
解してはいませんが。

>レア現象である「生命現象」

なるほど。生命現象は「奇跡的現象」と言えるから、そうなるのかなとも思いま
した。

お礼日時:2020/02/11 10:06

この世界には、この宇宙には変化しない物はないものですから



変化しないと考えられるのは真理だけでしょうね。

真理も変化して来たのかどうかも分かりませんが

変化しないもの 確かに目標、指標となるものを求めるなら 神よりも真理ということになるでしょう

何れは。
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この回答へのお礼

昔の賢人たちが洞察したものは「真理」であって、それを「神」と
名づけたのだと思っています。
キリスト教、イスラム教、ユダヤ教の話です。

お礼日時:2020/02/09 20:05

オマケです


私は幼い頃に「幽体離脱」した記憶があります。
記憶自体が間違っているかもしれませんし幻覚かもしれません
ですがもし自分で自分が見えたとしたらどうして見えたのか?
その答えをずっと探してきました。
量子論を学んだことによってその答え(自分なりの)が見つかりました
とは言えその答えを理論化したわけでは無くそれが正しいと言える実証方法も見いだせていませんので私が出したその答えが理論的に正しいとは言えません
因みに私は「魂」が体から抜け無い前提です
それはそれとして「幽体離脱」のカラクリを量子論で説明しうる事から「幽体離脱」が事実なら科学(物理学)で説明可能と私は考えています
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この回答へのお礼

科学的発見はもう限界にきている、なんて話を聞いたのはもう何十年か前
のことですが、確かに「宇宙の真理」の解明に進んでいるかと言えば、グ
ルグル回っている感じがしています。
また、哲学も、かなり昔に限界がきているようです。

科学のやり方が変わる必要がある、ということを聞いたことがありますが、
私にはよくわかりません。

お礼日時:2020/02/09 20:02

訂正です


飲める→☓
の→○
です
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この回答へのお礼

了解。

お礼日時:2020/02/09 19:53

脳科学等脳の研究によって脳がどのように反応(機能)するのかについては科学的にある程度判明しています。


それでもなお科学的に判明されていないのが「感覚」=「五感」です
因みに「クオリア」とは簡単に言えば「感覚」です
視覚・聴覚・味覚・嗅覚・触覚です
生物が「感覚」を持ち得た物理的な理由がわからないと言うことです。
数多の物理現象を観測し数多の物理法則を発見してきましたが、現在知られてるすべて飲める物理法則では「感覚」を物理的に説明出来ません。
更に言えば「感覚」を物理的に解明しうる「取っ掛かり」する無いのが現状です
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この回答へのお礼

「感覚」の物理的な説明ができない、ということですね。

うむ、素人考えでもできそうにないと思いますね。

お礼日時:2020/02/09 19:53

オマケです


意識と認識に関してある実験関して行われましたのでご紹介させて頂きます。
その実験とは
白いユニフォームの白チームと黒いユニフォームの黒チームとでバスケットの試合をします
その試合を観戦している複数の被験者に対して
「黒チームは試合中何回パスを出し合ったか?」
とのテーマを与えて観戦してもらいます
試合中に黒チームのメンバー一人を「黒いゴリラ」と入れ替え、試合終了前に元に戻しました。
試合終了後被験者に対して「黒チームが試合中に出し合ったパスの回数」を質問したところ被験者全員正解しました。
次に試合中にゴリラ(黒いゴリラ)がいたかどうか質問したら被験者全員「いない」と答えたそうです
この事から導き出された答えが「意識しなかったから認識出来なかった」です。
言い換えるなら「意識するから認識出来る」と言うことです。
視界に存在しても「見えない」場合がありますがそれはそれを「意識」してなかったからと言うことです。
この事からも「意識」がとても重要な働きをしている事がわかります
前の回答でもお伝えさせて頂いたように「意識」を解明する事はとても重要な事になります
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この回答へのお礼

どこかで聞いた話ですね。

なかなか興味深い内容があると思います。
意識していない、あるいは何らかの思い込みがある場合、目の前のものも
見えないし、大きな声で言っても、聞いていない、などということはある
もんですよね。経験上言えます。

お礼日時:2020/02/04 21:27

仏教哲学をご教授して頂き有り難う御座います。


私には「仏教」で用いられる言葉(色心不二論や依正不二論争等)難解で理解し得なかったのですが、質問者さんに教えて頂く事で多少ですが理解出来るようになりました。
それはそれとして
「観測問題」は量子論だけでは無く「脳科学」でも解決されていない問題です
「何故見えるのか?」哲学で論じられている「クオリア」に関する事柄で未だその「物理的理由」が判明していません。
よって「観測問題」は物理学(量子物理学)と「脳科学」とを踏まえて科学的に解決する事が望まれるでしょう。
両方の学問(量子物理学・脳科学)に共通する事があるとしたらそれは「意識」です
であるならば「意識」を解明すれば「観測問題」は科学的に解決しえますしそうなったならば哲学で論じられている「存在論」や「認識論」双方共に新たな方向に進むかもしれません
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この回答へのお礼

「意識とは、脳細胞の電気信号である」と言った人に対し、「この人馬鹿じゃないの」
と、茂木健一郎博士は思ったそうです。ああ、そうなんだと思いました。

その脳内の電気信号が、何故見えたり、聞こえたり、臭ったりして意識に上ってくるの
かが解明されていないということでよいのでしょうか?
または、見えたりしたもの、つまり、視神経に受けた刺激が何故電気信号になり、脳に
届くのかが解明されていないということなのかな?

仰るように、科学の発展が哲学の画期的な発展に繋がる可能性があると私も思います。

お礼日時:2020/02/04 21:21

オマケです


仮に観測する前の状態が「全て波(波動)の状態」で「物理的な存在」が無いととすると何故に観測すると「物理的な存在」が観測されるのか?
この問題(観測問題)は未だ解決されてません。
以上は既にご説明した通りです
話を更に進めます。
「観測する」とは「意識を向ける」となります。
以上を「見るから物がある」に当てはめると
「意識するから物がある」となり「(人の)意識」が深く関わっていると示唆されました。
このことから物理学者の中で「意識」を科学的に解明しようとする物理学者が現れました。
それが理論物理学者ロジャーペンローズ氏らが提唱している「量子脳理論」であり「意識は粒子の未知の属性」であるとする理論です
この理論は現在科学的に実証されていません。あくまで仮説です
ここから先は私個人の考えです
「意識をするから物がある」が正しいのなら「意識」と「観測結果」は切り離せない=一体であると考えられます。
更に言えば観測前の状態が「全て波(波動)」なら観測後の状態も「全てなら(波動)」である可能性があります。
その可能性が正しいなら「意識するから物が有る」のではなく「意識するから物が有るように見える」であると言えるのです。
とするなら「人が見ているこの世界は実際には存在してはおらず、見てる人自身が投影された結果に過ぎない」かもしれません。
そうであるなら見えてる世界と見てる人をが一体である可能性があります。
このことを観測者自身に当てはめた場合、観測者自身(肉体)も実は物理的に存在してはおらず、観測者自身(精神や心など)を投影された結果過ぎないかもしれません。
とするなら肉体として存在しているであろう観測者自身および観測者が見ている世界と観測者自身(精神やここ等)が一体であるかもしれないと言うことです。
以上を踏まえて「一体不二」の「一体」とは上記の「一体」の事だろうと私は考えました。
質問者さんは「一体不二」をご理解されていないと仰っていますが、「一体不二」が求めている事は「理解」では無く「認める」事では無いのか?と私は考えました。
以上が「一体不二」の「一体」に対する私個人の考えです。
「認める」がとても重要な事だと私は考えています。
「認める」からこそ「理解」し得るからです
その為には「2極思考」を改める必要があります。
何故なら「2極思考」即ち「○☓思考」では「否認」が生じそれでは「全体」を認める事=「理解」する事ができないからです。
「全てを認める」には「評価」をしないことが必須条件です
「評価」しないようにするには「己の考え」に執着しないことです
その為に私は常に「ニュートラルな状態」であるべきと考えています
「当たり前の事を当たり前に考える」
これは「常にニュートラルな状態」でいられるようにするために常日頃から意識していることです。
今回のお話は以上です
今回は勝手ながら私の個人の考えご説明させて頂きました。
私個人の考えの中で質問者さんが参考される事があれば幸いです
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この回答へのお礼

ふーむ、面白いですね。

観測しようとして意識を向けるから、モノがあるように見える(実際はないのに)、
のではなかろうかということですね。

仏教哲学の「色心不二論」では、私なら私の存在は、肉体もある、精神もある、
量子なら粒子の状態もあり、波動の状態もある、二つの状態が「同時にある」と
ということ以外には解釈ができないのです。

このことを、認めればいい、と思いますが、どうしても理解しなければ認めきれ
ない、のです。正直なところ。

>見えてる世界と見てる人が一体である可能性があります

このお考えは、やはり仏教哲学の「依正不二論」に近いと思います。
依報(客観)と正報(主観)が一体不二であるとする考え方ですが、これは対境である
モノを意識し「信ずる」ことによって認識することができる、ということが真意で
はないかと思っています。

UFOとか幽霊の目撃談のうち、嘘や勘違いがないとするならば(私は本物があると
信じていますが)、その現象をこの「依正不二論」で説明が可能になってくるであ
ろうと思います。

いずれにしましても、西洋哲学の存在論と認識論をもう少し深く理解をして、その
論理の延長として論じてゆかねばならないだろうと考えています。

お礼日時:2020/02/02 13:19
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