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栗林忠道中将についてこのように証言がかかれていました。
「彼は陸大専科(専門兵科のみの教育期間が短い)卒、少候(少尉候補生?)出身者を極度に嫌っていた。」
これは他の本でも見たことがありますが、なぜ嫌っていたのですか?又はなぜだと思いますか?

あと、陸軍大とか士官学校とか騎兵などなどの学校の区別がとてもわかりづらいです。wekipediaで調べましたが理解しにくかったです。この時代の軍の学校について違いがわかる方や簡単に説明ができる方いましたら教えてください

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A 回答 (4件)

(1)栗林中将に関して



 栗林中将が陸大専科や少候出身者を嫌っていた理由はわかりません。同中将が陸士、陸大卒でしかも陸大では恩賜の成績というエリートであったからというのは理由として抽象にすぎるでしょう。

 そこで、その理由を個人の推測と断って記述することにします。
 まず、栗林中将が第109師団長に親補されたのは、同中将が戦略家として見込まれたのではなく留守近衛第2師団長のとき、不審火による火薬庫爆発事件が起こったためその責を問われた左遷人事であったという事実は殆ど知られていません。

 つまり、この事件により陸士(陸軍士官学校)、陸大(陸軍大学校)を優秀な成績で卒業した栗林中将のプライドが傷つけられたわけで、おそらく中将は第一線に出陣するにあたり、なにより名誉挽回を誓っていたとおもわれます。

 ところが着任した師団というのは、指揮官や兵の殆どが高年齢の予備役将校や召集兵で編成されており、しかも司令部の幕僚も参謀長以下、陸大をまともに修めていない専科出身者が占めていました。

 本来陸大の教育は三年を要するのに、専科の場合には約一ヵ年で卒業するという速成教育でしたから、その能力に疑問を感じる向きがなかったとは言えません。他の方面でも専科出身者が冷遇された例はありました。

 例えばN中佐は、陸士予科を恩賜卒で本科37期卒だったのが、陸大は専科卒だったため、関東軍参謀から第13師団高級参謀に命課されたにもかかわらず、作戦主任はF少佐(陸士45期・陸大53期))が務め、N氏はのちに「単に私が陸大専科出身なるが故にこの命課となったのであろう」と回想しています。

 通例、作戦主任は高級参謀が務めるのであって、しかもF少佐が陸士生徒時代においてN中佐はその区隊長だったのです。

 もと同師団参謀であった堀江芳孝著『闘魂硫黄島─小笠原兵団参謀の回想』(光人社NF文庫)によると、栗林中将が専科出身参謀長以下の指示を悉く修正した為に参謀たちが腐ってしまう様子を記述しています。中将はさらにH参謀長の髭まで攻撃し、ついに参謀長が交代する事態に至っています。但し後任の参謀長も専科出身。

 また少尉候補者(少尉候補生とはいわない)というのは、二等兵から累進してようやく下士官になった時に選抜されて約一年間陸士で教育を受けた後に将校となった者で、一般に高齢の人が多かったのです。

 例えば、同島に派遣された中迫撃第2大隊長N少佐のごときは、同制度の1期生で年齢は七十歳ちかくという方でしたから、火山島に穴倉を掘って徹底抗戦するという作戦に従事させるには酷だったでしょう。栗林中将が、何度も中央に対して陸士出身の気鋭の指揮官の派遣を要請したのも当然でしょう。
  
 つまり、栗林中将としては、汚名挽回のため決死の覚悟で、わざわざ師団司令部があった父島から硫黄島まで進出してきたのに、頼みとする部下が、自分の考えるレベルに達していないと思ったのではないでしょうか。
 
 じっさい栗林中将は、第109師団長(小笠原集団長)となるまで騎兵旅団長や南中国で参謀長を務めたぐらいで実戦の経験は少なく、またその頃の師団の戦力からみると第109師団の戦力は唖然とするほど低いものに見えたでしょう。ゆえに、何につけても自らが陣頭に立って指示して軍人としての最期を飾りたいと考えたのではないでしょうか。

(2)日本陸軍の学校について

 まず陸軍の組織を理解する必要があります。そこは典型的な縦割り組織でありました。

 陸軍は、三官といって陸軍省、参謀本部(戦時は大本営)、教育総監部からなり、陸軍省は、軍務局・人事局・兵器局・経理局・医務局・法務局などからなっており、そこで陸軍大臣の隷下に陸軍兵器学校(旧工科学校)、陸軍経理学校、陸軍軍医学校、陸軍法務訓練所、陸軍憲兵学校などの諸学校がありました。

 参謀本部はその名の通り参謀総長以下参謀からなり、参謀を養成する陸軍大学校、参謀本部第2部の情報・謀略に関連してスパイ養成の陸軍中野学校がありました。

 教育総監部は航空部隊専門の教育以外の教育全般を担当しており陸軍幼年学校、陸軍士官学校、陸軍歩兵学校、千葉陸軍戦車学校(旧戦車学校)、陸軍騎兵学校、陸軍野戦砲兵学校、陸軍重砲兵学校、千葉陸軍高射学校(旧防空学校)、陸軍工兵学校、陸軍輜重兵学校、陸軍通信学校、陸軍習志野学校(化学戦の研究教育)、陸軍科学学校(旧砲工学校)、陸軍戸山学校(体育・軍楽など)、陸軍自動車学校、陸軍予備士官学校(各地)などの諸学校がありました。

 教育総監部から分離した航空総監部は航空部隊専門の教育を担当し、陸軍航空士官学校、陸軍少年飛行兵学校、陸軍飛行学校(各地)、陸軍航空通信学校などがありました。

 字数に限りがあるため、簡略な説明となりましたが、分類の仕方としては、いわゆるゼロから教育して将校(下士官)まで育てる幼年学校、士官学校、経理学校、戦車学校の少年戦車兵課程などと、軍人となったのちにさらに専門知識を教育する歩兵学校、憲兵学校、軍医学校、習志野学校などの実施学校(海軍は術科学校)にわけることができますし、内地のほかに関東軍第1幹部教育隊や南方軍憲兵教育隊、北支那獣医部下士官候補者教育部など軍単位で編成された教育部隊が多数ありました。

 ともかく陸軍教育関係部隊の全貌が膨大なものであることは確かです。
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詳しくありませんが、士官学校を出て、陸軍大学を出るのが、エリートコースでした。



質問文から栗林が、エリートを嫌っていたか、非エリートを嫌っていたかは分かりませんが、エリート嫌いならば、堅い考えが嫌いであり、非エリートが嫌いならば、柔らかい考えが嫌いだったのかも知れません。

栗林は、士官学校、陸軍大学、陸軍省、参謀長、近衛師団長と進み、最年少で大将となったはずなので、エリートだと思います。

後方の勤務が多く、本格的な前線での実戦は硫黄島が初めてのように思います。


質問文は、ある参謀の証言だと思いますが、栗林と互いに対立していたようなので、栗林を悪く言った場合もありますし、栗林が本当に部下を嫌っていて参謀は真実を証言したかも知れません。


エリートと非エリートの対立で、どちらが悪いとは言い難い面があると思います。
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知性派であり、殴りあう格闘家向きではない。


ですね。(読み方の意味ははっきりと書かれましたね)

国立大学の工学部と専門学校ではレベルが違う。
高等物理科学や外国語などの幅広い教養がない。

外の大学から受験してきて急に少尉候補生となる。
2等兵の苦しさも知らない。

なので「全員」使えないです。

作者が言いたい事は分かります。
が、自分同様の見方、認識の仕方、判断方法、判断能力であったと記載されては困りますね。

この回答への補足

ありがとうございます。質問ですが、彼は2等兵からの下積みをしてきたのですか?現場や実践でコツコツとしてトップに上がってきたわけではないのですよね?勉学や学歴や考えなどで評価されてトップにあがったのですか?
もしそうなら、彼も同じような気がするのですが。。。。2等兵からコツコツと士官以上へのぼりつけた人なんているのですか?もししってたらそれも教えてください

補足日時:2009/04/22 06:35
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学歴だけを見て人を判断していましたよ。


決して手柄などの結果で見ない人でした。
彼の下では見えない努力は愚行でしかありませんでした。

理論だけはさすがに立派でしたよ。
ただ、彼に戦線を指揮させれば3日で大敗走しますね。

将官向きではないので。
戦争はそんなに甘くないので。

こう間違いなく公言してます
何か、ネジが相当緩い方の分析結果に見えます。

この回答への補足

なるほど。ありがとうございます。質問なんですが、彼はその時はトップにいたけれど、下積みでこつこつやってきたというわけではないのですか?彼がトップに慣れたのは、現場や実践での評価ではなく、勉学や思想で、評価されてトップになれたのですか?

補足日時:2009/04/22 06:32
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Q戦前の大学の難易度

概ね昭和初期の日本の大学の、

東京帝国大学
陸軍大学校
海軍大学校

では最も難関だったのはどれでしょうか?

Aベストアンサー

軍人の学校というものは、時代によってかなり人気が上下します。

その昭和の初期は大不況の最中ですから、経済的に厳しい人にあっては、東大以上の値打ちのあるところとなります。
逆に、東大を始め、帝国大学に進学する学生は、大げさに言えば、生まれついた時からそういうコースを選べれる人生だったのです。

今は、農業高校からでも東大でも受験できます。しかし、戦前の学制はもっと若い年齢のうちに振り分けられているのです。
旧制中学から旧制高校にいくこと、これが帝大に行く絶対条件でした。旧制高校に入学できれば、ほぼ(どこでもいいなら)帝国大学には進学できました。さすがに東大は少々難しかったにせよ、そういうものだったのです。ですから、大学受験での受験地獄はありませんでした。むしろ一番の関門が、高校受験でした。
そして、同じく、中学卒業時に海軍兵学校や陸軍士官学校の受験資格がありました。どこの中学からでも相当な秀才が行ってます。東京帝大も十分射程距離の学生です。

それと、学力だけでない難易度もあります。体格や体力もですが、特に海兵においては、海外に出る機会が多く、欧米先進国の士官に見劣りしないようにという考えが働いたようで、男前が多かったですよ。
男ぶりに自信がないから陸軍にするという人もいるくらいでしたからね。

ということで、海軍兵学校というのは、当時の女学生から絶大な人気がありましたよ。

それでも、東大の法学部は当時の高等文官試験の合格率が高く(高文は単なる公務員試験ではなく色々と特典もありますから)別格だったでしょう。
それが崩れたのは、第2次世界大戦の最中、大学生も徴兵免除がなくなった頃からでしょう。このときは文科は免除なし、理科は免除でした。それで、徴兵逃れに医者になるものが増えたんですよ。帝国大学でなくてもいいと、地方の医科大学の進学者が増えました。(戦前は国民保険制度がないので、かならずしも医者が儲かるとは限らない)

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Q陸大と陸士について

陸軍大学校では同期なのに、陸士では期が異なるのはどういう理由なのでしょうか。

たとえば陸大19期(荒木貞夫の期)には陸士6期から10期まで混在しています。

陸士卒業後、すぐに陸大に入るも者もいたし、数年後に入る者もいたということなのでしょうか。

試験に不合格になったためとも考えたのですが、「恩賜の軍刀組」に(ストレート合格?の)陸士10期の学生はわずかにひとりです。

どんなことでも結構です。そのあたりの事情について教えてください。

Aベストアンサー

陸軍大学校は士官学校からそのまま進学するものではなく一度隊付勤務を経てから受験しましたので、優秀で早く採用される場合もあり、あるいは年齢制限ぎりぎりで採用されるものもありで、陸士の期の違う卒業生が陸大では同期になるということは珍しくはありません。
なお、いちど隊付勤務を経ないと受験資格がありませんでしたので、陸士卒業後すぐに陸大にははいれませんでした。


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