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父の3回忌が近づいています。
そもそも法事って何のためにやるのでしょうか?
魂が成仏するとか何とか宗教的な馬鹿馬鹿しい理由があるのでしょうが
今の時代に非合理的・非現実的な考えだと思いますし
死んだ人間はもう死んだのですから,それにお金や時間を掛けても
仕方ないと思うのですが・・・。
(とりあえず「先祖を敬う」とかいう考えは私は持ちあわせておりません)

早い話がお坊さんの収入源になるためのお坊さんサイド都合の
イベントなわけですよね?

大半の方がやっているとは思うのですが疑問は持たないのでしょうか?
「うちはそんな無意味なことしないよ」
っていうお宅があったら教えて下さい。

A 回答 (5件)

 法事が無意味だとおもっていらっしゃるのであれば,止めてしまわれればよろしいのではないでしょうか。

(そのように背中を押して貰いたいのでしょ。)

 でも,私は有意義だと思うので,法事を行っています。
 少なくとも,私の所属している宗派では,魂を成仏させるために法事をするとは説いていません。実際のところ,そのような教義を掲げている宗派はごく少数のように思います。

 齢を重ねてくると,親戚同士が集まる機会って,葬式とか法事しかなくなってしまうんですよ。
 うちの親族は,大金持ちも居なければ,ホームレスも居ず,日々の生活はなんとかやっていけるという者ばかりで,いがみ合うこともなく,仲良くやっています。特に母方親族は,私の家から車で1時間以内(公共交通機関を使っても片道千円以内)の範囲内にみんな住んでいるので,会おうと思えばいつでも会えるのですが,やっぱり何かきっかけがないと集まることはありません。
 そういった意味で,法事というのは良いきっかけなのです。
 法要とその後のお斎(食事会)がセットになったものを法事と言うのですが,うちの場合,メインはお斎(食事会)のようになっています。

 血縁コミュニティーとでも言いましょうか,親戚一同が集まって,酒を酌み交わし,亡くなった方をちょっとばかり偲びながら,近況を語り合ったり,楽しいひとときを過ごせるので,私は法事をやり続けるでしょうし,法事に呼ばれたら,必ず行きます。
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この回答へのお礼

多くの方にご回答いただきありがとうございました。
申し訳ございませんがここにまとめてお礼をさせていただきます。

法事の意味や意義は多様なようで,でもまぁ結局は宗教的なことを
起源としていてやはり合理的な感じは受けませんね。

父の3回忌の主催者は母なのでやるそうですが,母が無くなったら
父の法事も母の法事もたぶんやらないと思います。
親戚のつながりも薄いし,誰も何も言わないと思うし
何か言われても「やっても意味ない」で済むと思います。

お礼日時:2009/05/12 21:35

>死んだ人間はもう死んだのですから,それにお金や時間を掛けても


仕方ないと思うのですが・・・。
(とりあえず「先祖を敬う」とかいう考えは私は持ちあわせておりません)

【死んだ人間は・・・】というのは、そのとおりです。
【仕方がないとおもう】かどうか皆さんで違うから、
法事に熱心なというか、やるべきというやりたいが、できないこと(お金がないとか)を悔やむというかの心情もありです。

>早い話がお坊さんの収入源になるためのお坊さんサイド都合の
イベントなわけですよね?

これはね、一理あります。
どうしてかというと、江戸時代に、今の「戸籍」に相当するものが
「人別」といって、お寺で管理した。
「人別」を外れるということは「生きている人間」ではないということで、
【無法もの】ということにナル。
人は土地に縛られて管理され、生きていたころの名残です。

生まれて、死ぬ(葬式・法事)までを寺で管理したから、どうしても
今で言う役所的な「管理機能」としての「仏事」であったのも事実です。
それに、皆さんが慣れているという。

>大半の方がやっているとは思うのですが疑問は持たないのでしょうか?
「うちはそんな無意味なことしないよ」
っていうお宅があったら教えて下さい。

先祖を敬うという気持はありますが、これは特定される個人(大好きなオジーチャンとかいう感じ?)であって、みたこともない、そのまた先祖という感じではないです。
特に、血縁的には、3代前にさかのぼると、不明な部分もアッテネ。

更に、個人的には、モシ、日本中の人が、葬式と、法事とお墓に熱心に
なると、死んだ人はどんどん増える、お墓も減らない。
デ、生きている人は、お墓の管理に熱心にならざるをえないし、
日本中がお墓だらけに・・・・という恐怖心が子どものころからあります。
実際に、幼いころに、母に質問したことになります。
「こんなにすごい、お墓をみんなが作って、大事にしたら、・・・・(父方の祖父の墓のことですが)」

どんなお墓も、いずれは、誰も見なくなるから、新しいお墓の為に
どかされるのよッテ・・・。
どかされないために、がんばるのか?っておもいましたが、なんだか、
オトナになっても、私は納得できてません。

なくなった、人をしのぶ、というのに、「トムライ」というのと、「ホカヒ」というのがあるそうです。
トムライというのは、いわば法事・年忌のようなもので閉ざされたもので、
ホカヒというのは、その日の最初の水を、すべての「霊」にささげるというような開かれた、誰にとでもなく、ジャァ、乾杯、イタダキマスのような、最初の一杯をささげると言うようなものを言うそうです。

デ、トムラワレル対照から、ホカヒの対照に人は霊的に変身?していくというようなでしょうか?

私は、「ホカヒ」が好きだなって、この話を本で読んだときにしみじみおもいましたので、なんとなく、弔いをすっ飛ばして、ホカヒ派です。

本を書いた人はそういうつもりではないでしょうけど。
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法事は生き残ったもののために行うのです。



集まって死者を偲び、生きていることを感謝する。死者は残された生者に「はやくこっちに来い」などとは言いません、少しでも幸せに生きてくれることを願っているのです。生者にはわからなくとも、そう仮託して集まることに意味があるのですよ。

宗教は、普遍的には死んだ者のためにあるのではありません、生きている者のためにあるのです。葬儀だって、生き残った者がどう送って、心に区切りを付けるかということでしかないのです。それが出来ないことが妄執であり、宗教はそれを整理する助けです。

質問者様のやりたいようになさってください、年忌というのは区切りが良いから設定しているだけで、日々、亡くなったお父様と語り合っていれば年忌など不要です。ただ、お父様を心にとどめてくれている方は他にもいませんか、いるのであれば、その方々を招いて何らかの語らいを持つのはお互いによいことだと思います。別に坊主を呼ぶ必要はありません。皆で集まって、美味しいものを食べながら(お父様の分も忘れずに)楽しく語らえばよいのです。
私のような俗人にはそこまで割り切れないので、仏式の年忌を行ってしまいますが
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質問ではなく、


あなたに同調する人を探しているように思えますが。

17回忌あたりから、省く人も居るでしょうけどね…。
3回忌で既に省きたい取り止めたいという人は
まず居ないのでは?

第一に法事は、坊さんの都合ではないです。

寺の檀家も辞めて、自分たちだけで葬儀から法事まですれば?
って思っちゃうぐらいですよ。

でも、死んだ人への思いも無く、
葬儀(前の法事)からの日々を恙無くやってきてるかどうかの
節目としての捉え方も無く、
親戚一同の顔合わせという捉え方も無く、
辞めたい一心なら、
周りに後々後ろ指差されることを覚悟した上で辞めればよい事です。
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身近な人が死んでいなくなったという事実に基づいて、


自我を組みなおすためにするんです。
儀式というのはそういうものです。
たとえば、入学式や卒業式をしなくても勉強はできます。
でも、これからこの学校でやっていくんだと自分に
言い聞かせ、覚悟を決めるんです。
卒業式も同じです。
状況の変化に適応できるように、精神を組み直すのが
儀式の目的です。
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