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森 ?外(もり おうがい、文久2年1月19日(1862年2月17日)- 大正11年(1922年)7月9日)は、明治・大正期の小説家、評論家、翻訳家、戯曲家、陸軍軍医、官僚(高等官一等)。陸軍軍医総監(中将相当)・正四位・勲二等・功三級・医学博士・文学博士。第一次世界大戦以降、夏目漱石と並ぶ文豪と称されている。本名、林太郎(りんたろう)。石見国津和野(現・島根県津和野町)出身。東京帝国大学医学部 卒業。

Wikipediaより

この人ってまさに世界に誇れる日本のレオナルド・ダ・ヴィンチじゃないですか?

A 回答 (4件)

仰ることの意味がよく理解できないのですが、要するに政府のお抱え医師として年功出世の階段を極め、趣味として書き物もしたドイツ語に堪能なひとだったということでしょうか。


若いころは結構遊びすぎ、左遷もされていますし同期よりもよほど出世は遅かったようです。そんな人間くささに同感するひとも多いようですが。
ダヴィンチの多芸多才とは比較できないのではないでしょうか。
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下記URLのようなものを読むと、また別の意味ですごいな、と思いますよ。



http://www.amazon.co.jp/%E7%8F%BE%E4%BB%A3%E6%97 …
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パン食を導入した海軍では脚気患者はごく少なく、鴎外が仕切っていた陸軍では203高地の死者を超える脚気死亡者が出ました。

もっとも、当時の軍隊は次男三男の口減らしと体のよい就職先、死んだら遺族年金がもらえるという意味での入隊者も多く、「俺たちは白い飯うを食うために軍隊に入ったんだ、こんなもん食えるか」と、横須賀港にはパンがいっぱい浮いていたこともありましたが。いまの医療制度のほとんどの基本を作ったのは鴎外ですが、『伊沢蘭軒』は脚気=病原菌説の為にムキになって書いたもので、鴎外は相手がいや気がさすまで論争を辞めない偏屈者でした。
ダ・ヴィンチは徴税官だった頃、悪名高いチェザーレ・ボルジア(妹ルクレツィアへの父と兄弟ぐるみの近親相姦でも有名)の元で働いており、「ボルジアさまに金を払え!」と棍棒を振りまわして町を練り歩いたといいますから、たしかに悪どさではどっこいどっこいですか。
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私の印象では教育ママに激励されて猛勉強をした秀才だったのではないかと思います。

特に脚気の原因に対する判断を誤り、陸軍の将兵を意味もなく死に至らしめたように、当時のドイツ医学を盲信して海軍のすぐれた対策を無視したように権威主義の秀才だっただけだったように思います。文学における位置づけは分かりませんが、ダビンチとは比較できるような人ではなかったと思います。
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この回答へのお礼

彼はドイツ留学経験があったそうですね。それにしてもそうだったんですか~

お礼日時:2009/05/15 20:46

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