4月17日はQueenの日!フレディ・マーキュリーの年代別ファッション&ヒットソングまとめ

何回も読み直しているのですがいまだしっくりくる理解にいたっておりません。どなたか解説をお願いできないでしょうか
特に寒山拾得縁起にある「実はパパアも文殊なのだが、まだ誰も拝みにこないんだよ」という表現が?です

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A 回答 (6件)

数年前の質問(2006/11/17 18:29)です。

実質は閉じているのでしょうね。(ghostbuster)さんの(No.4回答ではなく)No.3回答(2006/11/22 17:21)の続きを考えました。 これで、解説になるでしょうか。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
寒山拾得の最終部分との寒山拾得縁起の最終部分は、同じような趣向だと思います。(趣向=色々と工夫して作品に仕上げる)一方は、真の菩薩に礼拝しても自分がわかっていない場合は惨めになる結末、他方は、自称菩薩という人を礼拝する愚を、理屈や論理でなく、物語、例え話で表現しています。 一方の作品だけ読んだのではピンとこない人も、両方を読めばわかるだろうと書かれたのではないでしょうか。
 
No.3回答に書かれているように、この「寒山拾得という作品」は「中間人物」を描いたものです。鴎外は、道に対する態度を3つに分けて人物を見ています。 (1)自分の職業に気を取られて営々と年月を送り、「道」には無頓着な人。(2)意を決して「道」を求め日々の努めが道そのものになっている人。(3)中間の人(「道」はあると思い、そういう「道」の覚人を尊敬しようとするが、自分には「道」は無関係と思い、「道」を求めてはいない人。自分では求めていないから、「道」を求めている人が先行しているか後続かもわからない。もっぱら、他人から聞いた評判やタイトルで尊敬する対象を決めるような思考や行動をする人)。 『盲目の尊敬では、その対象が偶然尊敬に値する人を尊敬したとしても、なんにもならない』と鴎外は断言しています。その断言の後で、「中間人物」の例【閭】の物語が始まります。閭の関心は「道」や「道の追求」にはなくて、閭の関心は「人民を治める立場の自分が、賢者を礼する」という行為・行動の達成にあります。まさに「中間人物」です。その閭が、芝居の役柄などを思い浮かべながら、賢者と思っている拾得と寒山に、恭しく礼をして仰々しく芝居がかった自己紹介します。寒山も拾得もそのような閭を相手にもしません。そして、物語の最終部は、飯炊き係の場所にいる閭に周りの僧がぞろぞろ来てたかるのです。閭の身分を知っている案内人の道翹はこの事態に真っ青になります。
「寒山拾得縁起という作品」は、作者による「寒山拾得という作品」の解説です。原稿を出版社に渡したが、自分の回答に子どもは満足しなかったが、「寒山拾得という作品」に読者は一層満足しないだろうと言っています。満足しない子どもには、色々な説明をしたが納得を得られなかったので、最後には「私は救世主だと言っている宮崎という人を拝みに行く人もいるよ」「お父さんも文殊菩薩なのだよ。実は」と言った。そのようにいえば、『メシアや菩薩、「道」の覚人を自分の目では識別できないのに、他人から聞いた評判やタイトルで尊敬するのは、いかにばからしいことか』子どもにもわかると鴎外は思ったのでしょう。(でもダメだった)
「寒山拾得という作品」では、閭が豐干の名前をしっかり覚えようと努力し、豐干から聞いた偉い人の名前と価値評価のあるラベル(拾得=普賢、 寒山=文殊)を覚えていて、えらい普賢・文殊に礼をするため、衣服を改め輿に乗り数十人の従者を引き連れて日時を掛けて、挨拶したとたんに、周りから炊事係の扱いを受けるのです。
 
『盲目の尊敬では、偶それをさし向ける對象が正鵠を得てゐても、なんにもならぬのである』と言ってその愚を悟らせる記述で終わるのではなくて、鴎外は、言いたいことを具体的に2つの作品に分けて、「パパは文殊菩薩だよ(対象が偽の場合)」、「文殊や普賢を認識できる力がなければかっていなければ、真実の文殊と普賢を拝したところで(対象が真の場合)、具合の悪い事態になるよ」ということがわかる表現にしたのだと思います。
 
縁起には鴎外が寒山拾得の一幅を掛けていたと書かれています。しっかりと、道を求めるのなら、自分のわかる範囲で先達を尊敬することを、鴎外は認めていると思います。 自分には縁がないけれども、評判の高名者は尊敬しようと自分ではわからないのに盲目の尊敬をする愚を書いたのが、この2作品でしょう。
 
~~~ 寒山拾得縁起 終末部 ~~~
しかし此説明は功を奏せなかつた。子供には昔の寒山が文殊であつたのがわからぬと同じく、今の宮崎さんがメツシアスであるのがわからなかつた。私は一つの關を踰えて、又一つの關に出逢つたやうに思つた。そしてとう/\かう云つた。「實はパパアも文殊なのだが、まだ誰も拜みに來ないのだよ。」
 
~~~ 寒山拾得 終末部 ~~~
閭はかう見當を附けて二人の傍へ進み寄つた。そして袖を掻き合せて恭しく禮をして、「朝儀大夫、使持節、台州の主簿、上柱國、賜緋魚袋、閭丘胤と申すものでございます」と名告つた。 二人は同時に閭を一目見た。それから二人で顏を見合せて腹の底から籠み上げて來るやうな笑聲を出したかと思ふと、一しよに立ち上がつて、厨を驅け出して逃げた。逃げしなに寒山が「豐干がしやべつたな」と云つたのが聞えた。  驚いて跡を見送つてゐる閭が周圍には、飯や菜や汁を盛つてゐた僧等が、ぞろ/\と來てたかつた。道翹は眞蒼な顏をして立ち竦んでゐた。
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中野重治『鴎外 その側面』(筑摩叢書 189)から。


「寒山拾得」に触れて、「実は自分も文殊なのだという鴎外の、子どもにいってきかせた言葉には真剣・・。」と高橋義隆・・。私もそう思います。ただあのとき、鴎外は、自分も文殊なのだが・・拝みにこないまでだと・・。・・文殊・・拝みにこぬことを気にしなかった・・しかし鴎外には・・いくらか淋しい・・[の]・・か[も]。・・あの偉大な鴎外の、後向き気味・・[の]姿・・。
七 勇気
・・にもかかわらず・・鴎外が、おのれを抑えて、勉強して、穴の奥へ奥へと・・仕事をしていった姿・・人間としての極限の姿・・に私に見えてきます。 

以上引用終わり。

こんなに「ライバル」崇拝・・驚き!また中野自身が文殊に照らした鴎外を
自分に引写しているのが窺えて、笑える。

参考URL:http://blogs.dion.ne.jp/ivanat/archives/4754472. …
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おはようございます。


最近ではたまーに回答しても、単なるログの肥やしにしかなっていなかったので、レスポンスをつけてくださって、うれしいです。
とはいえ、以下の回答は『鑑賞 日本現代文学(1)森鴎外』(磯貝英夫編 角川書店)に依拠していますので、ぜひ、図書館に行って本のほうをごらんください。長いものではないけれど、とりわけ『寒山拾得』に関しては、秀逸なものではないかと思っています。

ただ、この本でも「寒山は文殊であり、拾得は普賢である」という点に関する考察はなされていません。なぜ普賢菩薩であり文殊菩薩なのか、というより、そもそも普賢とは何もので、文殊とは何ものなのか、という点に関しては、やはり宗教にお詳しい方に説明していただきたい部分なのです(これは、わたし自身の個人的問題意識でもあります)。
ということで、鴎外が当然含意したはずの宗教的背景抜きに、話を進めていきます。

まず、もう少し磯貝さんの手引きに従ってストーリーを細かく見ていきましょう(大丈夫です。そのうち「パパァ…」にもたどりつきます)。

まず閭が、寒山・拾得に会おうと思ったのはなぜか。
それは自分の頭痛を治してくれた豊干の呪力に敬服したからです。豊干に対する敬意の延長上で国清寺にまで赴く。

まず道翹に会い、豊干の空き家に連れて行かれる。
「道翹は身をかがめて石畳の上の虎の足跡を指さした。たまたま山風が窓の外を吹いて通って、うずたかい庭の落ち葉を捲き上げた。その音が寂寞を破ってざわざわと鳴ると、閭は髪の毛の根を締めつけられるように感じて、全身の肌に粟を生じた。」
ただし、この豊干が虎に乗る、というエピソードはこの話のもとになった『寒山子詩集序』には載っているものではなく、鴎外が『宋高僧伝』からここに持ってきたものです。

つぎに紹介されるのは拾得です。
拾得の逸話も同様に、『寒山子詩集序』ではなく、『宋高僧伝』に載っているもので、鴎外がわざわざここに記したもの。
しかも『宋高僧伝』には逸話が三つある。ひとつはこの鴎外がとりあげたもの、残りのふたつは拾得の超人的な側面を伝えるエピソードです。鴎外は超人的なエピソードを捨て、むしろ「奇行」とも見えるものを選んでいる。
そうして、道翹らは仏の尊さも知らぬ愚か者、と考えています。
けれども、豊干を尊敬する閭は、まだまだよくわからないまま神秘的な感覚を持っています。

つぎに寒山です。
寒山は石窟に住み拾得から残飯をもらって生きている。拾得はまだ寺に住み、エピソードもありますが、寒山にはそれもない。まさにゼロの存在なのです。

つまりすばらしいものを見せてもらおうとした閭の期待は、豊干→拾得→寒山とまっすぐ落ちていってしまった。
ところがこのゼロの寒山ですが、特殊能力を信仰する閭は、まだまだ期待していますから、最大限の挨拶をするわけです。その結果、笑い飛ばされる。

------(p.284からの引用)----
 すでに指摘したように、寒山には、特筆すべきことがなにもない。そのかわりに、かれはなにを持っているかと考えて、人は、「かれは覚者だから……」などと思案をはじめる。しかし、実は、それが迷妄なのであって、その答えは決して得られない。作者は何も書いていないからである。書いてないものを求める愚は捨てて、なにも持たないのがすなわち寒山だと、見極めればよいのである。寒山は、世俗的な地位はもちろん、どんな能力も持たない、ただの人――はだかの人間それ自体なのである。
(略)
作品は、もっと端的に、はだかの人間それ自体を仏としているのである。

 そういうふうに考えれば「寒山拾得縁起」における、作者のなぞめいたことばも、ほぼ氷解する。鴎外は、決して、自分が拝まれないことの不平をもらしているのではない。文殊なのは「パパアも(※原文では「も」に強調)」であって、文殊は、鴎外や宮崎虎之助の専売特許ではない。すべての人間が本来文殊なのである。閭丘胤も、道翹も、文殊なのである。この作品で笑いとばされたのは、そのことを悟らない迷妄であろう。
-------

この作品は鴎外が陸軍生活からの引退の直前に記されたものです。
寒山のありようは、引退後の生活の夢ともいえる。

やがて鴎外は「余ハ石見人森林太郎トシテ死セント欲ス」と遺言を書きます。この「石見人森林太郎」は、寒山に通じていくのではないか、そうしてこの作品は、鴎外の生涯において、そのような作品として見ることができる、と磯貝は指摘します。

以上の論考を下敷きに、

> 「実はパパアも文殊なのだが、まだ誰も拝みにこないんだよ」

という部分を、もう少し考えてみましょう。
磯貝さんはあんまり「道」の部分にふれていないので、わたしはそこがちょいと不満で(なんだかめちゃくちゃえらそうですが)。

当時、宮崎虎之助なる怪しげ(?)な人物が、「メシア」を自称して現れたらしい。その自称「メシア」を拝みに行く人も多くあったわけですが、それは「特殊能力」に対する信仰、あわよくばそういうものの一端を拝ませてもらいたい、という気分であるわけです。閭と同じですね。

一方で鴎外はこんなふうに言っています。

「日々の務めは怠らずに、たえず道に志している」人が「深くはいり込むと日々の務めがすなわち道そのものになってしまう」。
つまり、鴎外は「日々の努め」を実際にそのようなものとしてとらえていたともいえるわけです。

その結果、軍医総監・陸軍省医務局長の地位まで、のぼりつめてしまった。
おそらく周囲から尊敬を集め、あるいはまた「特殊能力」に対する信仰すらも集めていたのかもしれません。

ところがそんなものはその道にあるものからすると、まったく意味がないものです。ちょうど、寒山・拾得にとって閭の肩書きに何の意味もないように。
文殊菩薩も、その道にあるものが「進んでいるもの」と尊敬するのなら意味があるけれど、道も志さぬままにただありがたいからと尊敬することは、閭と同じで、笑うべきものでしかない。

> 実はパパアも文殊なのだが

というのは、道そのものを日々の努めとして、「進んでい」った自分自身のことを言っているのではないか。
そうして、人は、自分の肩書きを尊敬するだけで、寒山のように何も持たぬものとしては
「まだ誰も拝みに来ないのだよ」
というように理解はできないでしょうか。

さて、この作品はわたし自身、最初に言ったように

> 最も窮したのは、寒山が文殊で拾得は普賢だと言ったために、文殊だの普賢だののことを問われ、それをどうかこうか答えるとまたその文殊が寒山で、普賢が拾得だというのがわからぬと言われたときである。(『寒山拾得縁起』)

がよくわかりません。
「縁起」にこのように書いてあるということは、おそらくその答えを鴎外自身は持っていたということでしょう。そうして、ここで読者に問いかけているともいえる。
これを知りたいなぁ、と思っているわけです。
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背景的な知識に欠ける者ですが、読解という観点から、回答をしてみたいと思います。



『寒山拾得』を読む上で、絶対に読み落としてはならないのが、この最終節です。

-----(青空文庫から引用)------
この無頓着な人と、道を求める人との中間に、道というものの存在を客観的に認めていて、それに対して全く無頓着だというわけでもなく、さればと言ってみずから進んで道を求めるでもなく、自分をば道に疎遠な人だと諦念め、別に道に親密な人がいるように思って、それを尊敬する人がある。尊敬はどの種類の人にもあるが、単に同じ対象を尊敬する場合を顧慮して言ってみると、道を求める人なら遅れているものが進んでいるものを尊敬することになり、ここに言う中間人物なら、自分のわからぬもの、会得することの出来ぬものを尊敬することになる。そこに盲目の尊敬が生ずる。盲目の尊敬では、たまたまそれをさし向ける対象が正鵠を得ていても、なんにもならぬのである。
-------

つまり、この作品は、この「中間人物」を描いたもの、と考えることができます。
「閭」がそれにあたります。
閭は「道」の存在を客観的に認める。そうして、「道に親密な人」を尊敬しようとします。
「道に親密な人」とは、寒山と拾得です。

豊干から寒山と拾得のことを聞いた閭は、ふたりに会いに行きます。
そうして「衣服を改め輿に乗って、台州の官舍を出た。従者が数十人ある。」というものものしい出で立ちで赴き、さらに
「袖を掻き合わせてうやうやしく礼をして、「朝儀大夫、使持節、台州の主簿、上柱国、賜緋魚袋、閭丘胤と申すものでございます」」
と挨拶する。

この閭の出で立ち、立ち居振る舞いは、描かれる寒山と拾得の
「一人は髪の二三寸伸びた頭を剥き出して、足には草履をはいている。今一人は木の皮で編んだ帽をかぶって、足には木履をはいている。どちらも痩せてみすぼらしい小男で、豊干のような大男ではない。」
とまったくの対照をなしています。

寒山や拾得からみれば、閭の出で立ちも、肩書きを名乗る挨拶もおかしくてならない。
閭の態度こそ、鴎外の言う「盲目の尊敬」なのです。

果たして「道」というものを、客観的に認めることに意義があるのか。
「道」というのは、
「こういう人が深くはいり込むと日々の務めがすなわち道そのものになってしまう。つづめて言えばこれは皆道を求める人である。」
このようなものではないのか。

そこに入りこみもせず、尊敬することなど、まったく意味がない。
その道のはるか先にいる寒山や拾得からすれば、そのような尊敬など、おかしくてならないのです。

さて『寒山拾得』のテキストだけで、とりあえずここまではわかりました。
本来ならば、知識がないわたしが講釈をたれるよりも、もっと適任の方がいらっしゃると思うのですが、とりあえずもう少し、『鑑賞 日本現代文学(1)森鴎外』(磯貝英夫編)(角川書店)を頼りにこの作品を読んでみましょう。

と思ったんですが、少し長くなりそうです。
今日はちょっと疲れたので、明日またつづきを書きます。
さしつかえなければ、もう少しこの質問を開けておいてください。

この回答への補足

お答えありがとうございます。とても解りやすく参考にしたいので是非続きをお願いいたします。質問欄にある寒山捨得縁起の部分にも触れていただけたらありがたいです

補足日時:2006/11/22 19:04
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あれは、茉莉さんか、否奴さんに、話した、実話ということではないんですか。


てっきり、そう思っていました。
お医者さんでもあり文学者でもある、鴎外は、ひそかに自分の知能は、文殊菩薩にも匹敵する、と、思っていることかと思っていました。
パパアというところも洋行帰りっぽくていいなぁと。
そして、父親から、こう言われたら、なんとなく、納得してしまいそうです。
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あれはですね、禅問答を小説にしたようなものです。

南泉斬猫の話がありますが、ある禅寺で猫の本質について坊主たちが議論していたら、帰ってきた和尚の南泉が、問われて猫を斬ってしまった。その後高弟が帰ってきて、南泉が問うたら、草履を頭に乗せ、南泉が「お前がいれば猫を切らずに済んだものを」と言ったという、わけの分からない話です。要するに、はっきりした答えを求めようという姿勢をはぐらかすのが禅問答ですから、「寒山拾得」も、読めば読むほど意味が分からなくなるのです。
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Q中島敦の名人伝について

中島敦の名人伝についてよく分からないことがあります。

まず、名人伝の舞台は趙の邯鄲の都ですが、この舞台が選ばれたのは何か理由があったのでしょうか。「邯鄲の夢」という故事成語(故事成句)がありますが、それと結びついていることはありますか。栄華を極めた邯鄲がはかなく崩れ去ったように、「真の名人は世の中に存在し得ない」とほのめかしているのでしょうか。

紀昌は、死ぬ一二年前に友人宅で、弓がなんであるか三回も尋ねますが、これに何か深い意味があるのでしょうか。いくら天下の名人とはいえ、死ぬ一二年前ともなれば、単にぼけてしまっただけなのではないでしょうか。
『木偶のごとき顔は更に表情を失い、語ることも稀となり、ついには呼吸の有無さえ疑われるに至った。「既に、我と彼との別、是と非との分を知らぬ。眼は耳のごとく、耳は鼻のごとく、鼻は口のごとく思われる。」というのが、老名人晩年の述懐である。』
とあります。相当老い果てていたのではないでしょうか。それとも、普通に、弓の名も忘れるほど名人の域に達していたと解釈するべきなのでしょうか。

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Aベストアンサー

> まず、名人伝の舞台は趙の邯鄲の都ですが、この舞台が選ばれたのは何か理由があったのでしょうか。

この作品には典拠があります。新潮文庫版『李陵・山月記』の瀬沼茂樹による巻末解説によると、『列子』湯問篇にある射術の師弟関係をもとに、さらに黄帝篇、仲尼篇で補強をしたもの、とされています。

わたしは『列子』は読んでないのですが、検索してみると、湯問篇にはどこにも「邯鄲」の文字はない。つまり、「邯鄲」という設定は中島敦がしたものである、と考えることができます。

ここで、質問者さんは「邯鄲の夢」をあげていらっしゃいますが、「邯鄲」には「邯鄲の歩み」という成句もあります。
http://www.geocities.jp/kurogo965/kotowaza3/page44.html
を見ると
「中国、燕の田舎者が、趙の都邯鄲の人々の洗練された歩き方を真似ようとして身に付かず、その上自分の歩き方を忘れて、腹這(はらば)って帰った。」
とあります。
これを見るとおもしろいことに気がつきます。
「歩み」では、田舎の人間が、歩き方を身につけようと、邯鄲に行く。
『名人伝』では邯鄲の人間が、射術を習おうと、山ごもりする。
つまり、表裏の位置関係にある。
おそらくこの「邯鄲」は偶然ではなく、この「邯鄲の歩み」から来たものでしょう(あくまでもわたしの解釈です)。

さて、「歩み」での「燕の田舎者」歩き方を忘れたように、『名人伝』で紀昌は弓を忘れます。これは同じことなのか、それとも表裏の関係にあるのか。
ここが読みの焦点となってきます。

紀昌は飛衛に学ぶ。
 ↓
飛衛から学ぶもののないほどに上達する。
 ↓
甘蠅のもとで学ぶ。
 ↓
山を下りてくる。

この流れから行くと、超人的な名手になっていなくてはなりません。
そうでなくては『名人伝』というタイトルにもそぐわない。
問題は「紀昌はほんとうに弓の名人になったのだろうか」ではなく、「どうしてこれが名人なんだろうか」です。

ふつう「技を身につける」というように、わたしたちは技術の習得を、いまある自分に何かをつけ加えていく、というメタファーを使って理解します。
けれど、はたしてそうなんだろうか。
ピアノを練習して、指がどんどん軽やかに思い通りに動くようになっていく。これは何かを身に「つけ」たから?
けれど、「軽やか」ということに注目すると、いらないものを取り払ったから、と考えることもできます。

技術や知識を「身につける」系の思想に対して、技術を高めていくために「いらないものを取り払う」系の思想というのも、古来からあるのです。非常に大ざっぱに言ってしまえば、「身につけ」系の思想が西洋思想、「取り払い」系の思想が東洋思想と言えるかもしれません。
たとえば「雑念を払う」みたいな言い方は、日常的にありますよね。

紀昌もある段階までは「身につけ」系の技術の磨き方をしていきます。
それがある段階を境に「取り払い」系に転換する。
そのターニングポイントはどこか。
これを見逃しちゃいけません。

> 弓? と老人は笑う。弓矢の要る中はまだ射之射じゃ。不射之射には、烏漆の弓も粛慎の矢もいらぬ。

甘蠅は弓も矢も使わず鳶を射落としてしまう。
何もかも取り払ったあげく、弓矢すらも必要なくなった。これぞ名人、というわけです。

さて、この甘蠅のもとで修行した紀昌、甘蠅から何を取り払うことができるのか。なにしろ甘蠅は弓矢すら持っていない。

そうなると、意識です。

「名人」が「名人」であるためには、誰かにそれを認めてもらわなくちゃなりません。
「名人」であることを求める限り、それを承認してくれる人をかならず必要とするのです。
けれど、ほんとうに「承認してくれる人」は必要なんだろうか。
ほんとうの名人というのは、承認してくれる人さえも必要ではないのではないか。

甘蠅には紀昌がいます。紀昌が、すごい技だと承認する。
つまり、徒手空拳の甘蠅にも、「持ち物」はあるのです。
だから、作者は紀昌から、さらにこの「承認」ということを取り払ってしまう。
取り払って、取り払って、残ったのはただのなんでもない老人です。
この老人には何も承認など必要ない。何かを証明して見せる必要もない。
だからこその「名人」なんです。

「邯鄲の歩み」がきれいにひっくり返った、と思うのですが。

この「取り払い」系の思想が現れた作品として、ほかにも鴎外の『寒山拾得』があります。
寒山も何も持っていません。
http://oshiete1.goo.ne.jp/qa2545658.html
ここで引用している磯貝英夫の読解はこちらにも参考になるかと思います。

なお、「身につけ」系、「取り払い」系というのは、あくまでわたしの便宜的な用語であることをどうかお含みください。

> まず、名人伝の舞台は趙の邯鄲の都ですが、この舞台が選ばれたのは何か理由があったのでしょうか。

この作品には典拠があります。新潮文庫版『李陵・山月記』の瀬沼茂樹による巻末解説によると、『列子』湯問篇にある射術の師弟関係をもとに、さらに黄帝篇、仲尼篇で補強をしたもの、とされています。

わたしは『列子』は読んでないのですが、検索してみると、湯問篇にはどこにも「邯鄲」の文字はない。つまり、「邯鄲」という設定は中島敦がしたものである、と考えることができます。

ここで、質問者...続きを読む


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