これ何て呼びますか

 話し合いが出来ない。
 話をしていても 知識とそれをめぐる意味のない言葉とを並べるだけである。
 意味のある話をすると 逃げて行く。あるいは はぐらかしをしながら 話のすり替えの術にかけては 玄人裸足だと言わんばかりになっている。

 もう死んだのでしょうか? こうやって 死んでいくのでしょうか?
 生きている人は もう いないのでしょうか?

A 回答 (73件中31~40件)

>半ば放っておけば将来は明るい方向へどんでん返しすると分かっていますが



 なるほど、魚の群れがいっせいに向きを変えるがごとく、「全体意識」で判断できれば社会が存続するために間違った判断を下すことはないという意味において、真の民主性 が実現されていれば、人間社会に災禍が訪れることはないと考えられますからね。逆に、一部の人間が愚かな判断を下してしまうとアトランティスが示すような滅びが待っているんでしょう.つまり、そうならない可能性も人間たちの選択次第で十分ありえると言う意味において、
 ☆分かっていますが
  との記述は誤りでしょう.
 むしろ、ほとんの人間に「破滅願望」があるかもしれないというふうに考えると、人間が死ぬことを受け入れ、滅ぶのを待っているのと同じように、人間社会においても滅びによる浄化と再生を 深層意識の中で 真に望んでいると私は考えます.しかし、沈む船であれば、私はそれから下船し、永遠に生き続けます.それはある意味、恐怖と紙一重ですが 芯の強さがあれば耐えられると思います.むしろ充実した生となるのではないでしょうか.

 ☆はてさてこの先 日本人のたましいの行方は 如何あいなりましょうか?
 ◇この問いは、個人が発するものとして正しいですか.
 ☆半ば独り言ですから――と分かる性格の発言ですから―― 反応も自由だと考えます。
 ◇これは少し苦しい言い訳かな
 ☆苦しいも何も 言い訳である以上に 物言いですよ。

 ○そうです、物言いに対しての物言いですから、「わざわざそのように言うなら」それにたいして私の反応も自由と「あえて言います」。いかがですか?

 で、結論から言ってしまえば 個人がおのおの、直面した問題に対してどのように振舞うかが世界に影響を与える唯一のものであり、個人が社会の動向を考えるのは欺瞞であるということです.もちろん、それが自分の切実な問題として目前に提起されているなら、社会の動向を考えた上で、それを実際の振る舞いに反映させるならその限りではないと考えます.

>★ 記紀
 ☆ はご存じのように いわゆる体制の側からの史書であるという揺るがざる見方も 一方につまり主流にあります。でも古事記は 言葉で体制の側に合わせていますが 心意気は スサノヲ市民のものです。

 この「揺るがざる見方」は一般常識、一般論ですね。私の揺るがざる見方を述べれば、どのような書物であろうとそれが後世まで残るようなものに思想、理念が入っていないことなど考えられません.これは他者の揺るがざる見方 ではなく、自分自身の揺るがざる見方です.というか、揺るがざる見方 という表現を使うなら、それは「自分自身の」であり、ほかのいかなるものでもないはずだと思うのですが.そうであってこそ 揺るがざる ものになると考えます.
 特に、古事記はやはり思想書でしょう、質問者さんが記紀を基にして載せた記述を読んでも、そう思います.私は記紀などは全く読んだことがないので.

>《いま・ここなる〈わたし〉としての存在》が それだけで《善》だとしますと

 もちろん、それだけでは「善」とは言えませんね.

 >アマアガリは 病気であり 善からの逸脱として悪です。

 なるほど、自分の力で『自分の世界』を作ったアマテラスやスサノオなど(あるいはイザナギ、イザナミか)は、その行為がアマアガリであって「悪」なんですか.

>その存在形式からの逸脱です。
 先住する神々が創った存在形式から抜け出ることが悪とするなら、人間が親から自立して生活し、自分の世界を作っていくことも悪だ ということになります.まあ、腐母性社会においては、娘が死ぬまで親と同居 あるいは離婚して子供だけ連れて戻るというのが主流になりつつありますね.嘆かわしいことです.

 >《自然と人間と社会》という世界へイリして その歩み( base =基礎)とともに歩むことが善だとすれば その善に損傷を与えることになるヨセは 善が欠落したぶん 悪です。

 善悪の定義がまだまだ 甘っちょろい ようです.自立できていない証拠です. 自然と人間と社会が基盤 ですか... 眼に見えるものだけが基盤であり、それが善だと.

 >★ 復讐
 ☆ する心は 自分の心に イリなる《自然かつ文化》の歩みを築けなかったと告白しています。

 そうです、転生にまつわる理念を受け入れられないでいると そうなります.

 >悔しいからと言って その心をつまり単なる気持ちを 実行に移していいかと言えば いけませんとなります。アマアガリ症候群です。

 悔しい気持ちを単なる憂さ晴らしとして実行すればよろしくありませんが、それと「アマアガリ」とはイコールではない、つまり直接の関係はないでしょう.それに、『今この場所で』自分の世界を築くことは下るわけでもアガルわけでもないと思いますが.

 >つまり われ考えるゆえにわれありの《経験思考とその努力 あるいはそれらの元にある理性》を神とすること またみづからがその神となること これが アマアガリという病気です。

 書物やマスメディアで得た知識(いわば二次情報)とそれに基づいた判断によって人生を生きていくのが真のビョーキでしょう(実際に肉体的にも病気になる)。
 逆に、自分の経験した事象(一次情報)によって思考し、それに基づいた判断によって人生を生きていくのが 真人間 としての在り方ですよね.

 >むろんアマクダリしてくるのは ことの必然です。

 社会全体の部分、部品としての必然という訳ですね.破滅、消滅していく運命の中での.結論を言ってしまえば、クダルのもアガルのも病気です.

 個人的なアドバイスとしては独身であれば、母親との癒着を止め、一人暮らしすることをお奨めします.既婚であったとしても同様です.いかがですか.

この回答への補足

 owlsjp さん ご回答をありがとうございます。

 何やら雲行きがあやしくなってまいりました。一つづつお応えしてまいります。
 ★ 《政権を担う者が自民党だけなら 社会は将来必ずどんでん返しをつうじて明るい世界に出ていく》ことが《分かっている》と言ってよいか?
 ☆ すでに前提条件が架空の話になっています。次につづく疑問とともに考えます。
 ★ 人間には《破滅願望》がある。これの影響はちいさくない。どう考えるか?
 ☆ たぶん 一時期にこの願望がいわば過半数を超えたとしても 起き上がりこぼしのように立ちあがるでしょうというのが 前問でのわたしの答えでした。これは いまの段階で 非武装中立をなお掲げているとしてその社民党がもし政権を担ったなら 振り子がその極としての破滅の方に振り切ってしまうかも分かりませんが そうでなければ(自民党政権であれば) そう心配することもないだろうという意味です。
 ただし今は 自民党単独政権ではなくなっています。

 ★ この「揺るがざる見方」は一般常識、一般論ですね。
 ☆ そのとおりです。《揺るがざる見方》という言葉が ここではまづかったようですね。特に反論はありません。

 ★ 善悪の定義 また悪に属するという病気の定義
 ☆ これは 想定です。《人間存在が 善であるとすれば》という想定です。
 善である《存在》には したがってその自然本性としての特には《自由意志》があります。意志の自由――そうすると おのれの自由とそして他者のそれとの関係の問題になります。
 自分の自由意志が善であれば ひとのそれも同じくです。もしひとの自由意志を無視して ひとをおのれの意志のもとに従わせようとするなら――《寄せる》なら―― それは 善を無視しており傷つけており その傷ついた部分として 悪が発生します。つまり悪は 最初に想定した善の部分的な欠落という意味になります。
 以上のような定義において 善悪という言葉を使っています。この悪を伴なうものを 特に精神にかかわらせて 病気と言いました。
 ひとを寄せるためにアマテラス公民になるならば――つまりアマアガリするならば―― それは 病気であり アマアガリ症候群と言ってよいと考えます。

 ★ 復讐
 ☆ も 相手の自由意志を踏みにじるなら 善に損傷を与えますから 悪であり それをおこなおうとする精神は病いにあります。

 《自然と社会》に入りして 一人ひとりの自由意志のもとにその歩みをいとなみ見守ろうとするのは はじめの想定の善を活かすことだと考えます。この自由意志を 社会の二階からその上からのまなざしによって人びとを寄せるという思想は すでにその《ヨセ》という発想において 善から逸脱しています。(むろん想定においてです)。

 ★ 一次情報と二次情報
 ☆ につきましては どちらでもその得た情報内容について 《イリ》の知性のままに活用するなら 問題はないと考えます。善から逸脱するようなかたちで寄せるために利用すなわち悪用するなら 問題です。

 ★ 独身・既婚 独り暮らしかどうか 親とのつながりの濃い薄い
 ☆ これらは ふつうのイリなる歴史知性にとって 影響は受けたとしても それによって左右されるものではありません。むしろおのれのこの歴史知性を曲げてしまう――つまりは 自己の神格化というアマアガリに向かってしまう――なら そのことによって 善が欠落していきます。
 このような悪の状態に陥るときには 生活環境なり親との関係なりが 問題の原因なのではないかとの見方が出されることがあります。表層的な見方です。

補足日時:2009/06/18 07:34
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>今回のわたしの挫折は 《避けてしまう》どころか 二度三度 五度六度と同じ理屈で姿を現わすという事例だったのです。


成る程、かなりのご苦労がありますようで…。
しかしこういった事はなかなか…、そう簡単に改善されるものではございませんね、しかし私も五度六度はさすがにいやになると思います。

>★ あえて非合理をつきつけるべきではないでしょうか
 ☆ この種のやり方は 検討してみる余地がありそうです。あまり考えていなかったからです。話が分散するかにも感じます。
非合理はインパクトはありますが確かに話が分散しかねませんね、このあたりの表現はとても難しいです。
あとはあえてユーモラスに笑いをこめてみるとか、なかなか私はいい表現が思いつきませんが…。

bragelonneさんの目的とは外れてしまうところがあるかもしれませんが真面目なテーマでの話し合いの中で無意味な表現というのはかなりの存在感があると思います。

機能的な場での無意味、遊びというのはとても目立つ。
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この回答へのお礼

 w1k2g3 さん ご回答をありがとうございます。

 全体として おしえていただいた内容に沿ってすすみたいと存じます。
 ★ 機能的な場での無意味、遊びというのはとても目立つ。
 ☆ これは そう出来れば もう言うこと無しなのでしょうが たぶんそれは 或る程度馴染みになってきて 互いに間合いよく かけ合いのごとく質疑応答がすすむといったときに出てくるかも知れません。そして
 ★ ユーモアと非合理と。
 ☆ タモリが いいともの書道のコーナーで 師範のようになって添削をしたとき おまえは何さまだ!との投書が来たそうです。これを受けかれは そりゃあへこんだよと言って おまけにつけ加えた言葉は おまえは何さまだ? って言ったって お互いさまだよでした。
 ユーモアは 受け身でしかも追い詰められたときに発したものは たしかにおもしろいと思います。まぁ 度量ですかねぇ。こちらは とぼしい限りです。いづわるは かなりうまいのですが。

 まぁ これまで《挫折》のあいだ 一度も起死回生の逆転打は打てずじまいです。この場合は へこんだというのとも違いますけれどね。

 この質問も おかげさまで かなり広くご回答を得られました。もうしばらく開いていて締めようかと思います。
 積極的な方策のことなどですね 次の一手は。

お礼日時:2009/06/17 11:10

 >半ば独り言ですから――と分かる性格の発言ですから―― 反応も自由だと考えます。



 これは少し苦しい言い訳かな(笑

 >はじめから理論として賛同してくれたひとは 少なかったですね。

 まあ、自分としては賛同というよりも自分で導き出した理念が、アマテラス スサノオを始めとする神話と対応していたというわけで、思想が先にあったんですけどね。記紀もそのような思想から作られたものだったのでしょう。

 >人間の弱さを考慮に入れて 事実経過としては おっしゃるようなことなのでしょう。

 転生にまつわる思想、理念を受け入れることのできない弱さ のある人にとっての世界は憎しみに満ち、どんな教育者、親の元で生まれようとそれは運のめぐり合わせであり、そういった人間がどんなに復讐しようとそれは自分の心に正直であるから 悪(不正)ではない という意味で「おっしゃるようなこと」だというのはもちろん、その通りです。
 そのような世界においてはもちろん「善悪」などはありません。

この回答への補足

 owlsjp さん ご回答をありがとうございます。

 ★ これは少し苦しい言い訳かな(笑
 ☆ 苦しいも何も 言い訳である以上に 物言いですよ。自民党は もともと《ヨセ(寄せるべし 知らしむべからず)》の政党ですが 半ば放っておけば将来は明るい方向へどんでん返しすると分かっていますが 公明党のようなまともを装う政党が 政権に寄って行っているとなると 苦しい言い訳を重ねても 物言いを言いたくなります。小沢は二十年も昔のひとです。

 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 まあ、自分としては賛同というよりも自分で導き出した理念が、アマテラス スサノオを始めとする神話と対応していたというわけで、思想が先にあったんですけどね。
 記紀もそのような思想から作られたものだったのでしょう。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ 《思想が先にあった》――みなさんもそうであったなら 社会の三分の一は 旧い言葉で言えばすでに《同志》であると言えると思います。
 ○ アマアガリ症候群 / アマテラス予備軍シンドローム
 ☆ なども 言葉の問題だとすれば 現実を反映していると思ってよさそうです。
 ★ 記紀
 ☆ はご存じのように いわゆる体制の側からの史書であるという揺るがざる見方も 一方につまり主流にあります。でも古事記は 言葉で体制の側に合わせていますが 心意気は スサノヲ市民のものです。

 ★ ・・・そのような世界においてはもちろん「善悪」などはありません。
 ☆ この一文は 勇み足になりかねないと考えます。やはりどう考えても
 ○ 悪は悪です。
 ☆ 《イリ(自然と世界への入り)》というふつうの思想(生活態度)に立ち続けられなかったことは その存在形式からの逸脱です。
 《いま・ここなる〈わたし〉としての存在》が それだけで《善》だとしますと 自分の・人間のちからだけで《イリ》歴史知性を超越しようとする《ヨセ》なるアマアガリは 病気であり 善からの逸脱として悪です。
 勤勉思想と その勤勉を自己目的とする超勤勉つまりガリ勉キャピタリスムとは 別です。後者は 病気です。《自然と人間と社会》という世界へイリして その歩み( base =基礎)とともに歩むことが善だとすれば その善に損傷を与えることになるヨセは 善が欠落したぶん 悪です。
 ★ 復讐
 ☆ する心は 自分の心に イリなる《自然かつ文化》の歩みを築けなかったと告白しています。悔しいからと言って その心をつまり単なる気持ちを 実行に移していいかと言えば いけませんとなります。アマアガリ症候群です。
 つまり われ考えるゆえにわれありの《経験思考とその努力 あるいはそれらの元にある理性》を神とすること またみづからがその神となること これが アマアガリという病気です。むろんアマクダリしてくるのは ことの必然です。

補足日時:2009/06/17 07:34
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 詳細な解説をありがとうございます。

 
 ところで、補足とお礼欄にかいた思想は、主に記紀に書いてあったものを総合的に統合した思想でしょうか.

 >初めから受け容れられたわけではありません。
 受け入れる過程はどの様なものでしたか?始めからそれが正しいから理解しようとして受け入れることができたのか、それとも私のように実生活での人間関係とそれに基づいた思考洞察によって実感したものでしょうか.

 >いわば仕返しの道に入った。
 現代社会においても、このサイトにおいても、あらゆる分野にて超人のような知性を持っている人がいますが、そういった人達が仕返しの道に入ったのなら、それは当然の成り行きであり、善悪いずれでもないのでしょう。これは書物を読んでいても解らないことだと思いますが。

 >人びとをおのれの知性により寄せてやれと。

 ある意味、依存的であるが故に無智である人間を教育するために、自立独立を旨として生きてきた人間が復讐的な心情になり、その結果多数の信者、信奉者が集まるのは、多分、成るべくして成っていると言えるものであり、彼らが「社会のため」と言うのも、半分は正しいのです。その気持ちだけは理解できます、真ん中の道を歩いている人間として.

 >はてさてこの先 日本人のたましいの行方は 如何あいなりましょうか?

 この問いは、個人が発するものとして正しいですか.

この回答への補足

 owlsjp さん ご回答をありがとうございます。

 そうですね。
 今回は きちんとした答えがないと思います。だらだらと世間話になるかと思います。
 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
   >はてさてこの先 日本人のたましいの行方は 如何あいなりましょうか?

 この問いは、個人が発するものとして正しいですか.
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ 半ば独り言ですから――と分かる性格の発言ですから―― 反応も自由だと考えます。

 ★ ところで、補足とお礼欄にかいた思想は、主に記紀に書いてあったものを総合的に統合した思想でしょうか.
 ☆ そのとおりです。
 ★ 受け入れる過程はどの様なものでしたか?
 ☆ たぶん 経過を振り返ってみますと このところのアマテラス公民側のちょんぼが いちばん受け容れられるのに影響しているのではないですか。ちょんぼは 昔からあったとすれば その受けとめ方が 変わってきたのでしょうね。年金の破綻がいちばん大きいでしょうか。
 ですから はじめから理論として賛同してくれたひとは 少なかったですね。

 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
   >いわば仕返しの道に入った。
 ◆ ・・・超人のような知性を持っている人・・・達が仕返しの道に入ったのなら、それは当然の成り行きであり、善悪いずれでもないのでしょう。
   >人びとをおのれの知性により寄せてやれと。
 ◆ ・・・多分、成るべくして成っていると言えるものであり、彼らが「社会のため」と言うのも、半分は正しいのです。その気持ちだけは理解できます、・・・。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ ま 人間の弱さを考慮に入れて 事実経過としては おっしゃるようなことなのでしょう。社会としての――個人個人のための社会としての――観点から行けば 将来の課題であるでしょう。そのために わたしは アマテラス主導の《A‐S》連関体制ではなく そうではなく
 ○ インタムライスム すなわち
 ○ スサノヲ(S)圏つまりムラ(市町村)主導の《S‐A》連関制――要するに 民主制――
 ☆ を提唱しています。これはあくまで ひとつの情報としてです。《日本人は 死んだのでしょうか》から引き出される課題と政策を問うた場合としてです。
 その意味では 優秀な人たちも 第二階のスーパーアマテラス公民としてではなく 平屋建てのムラではたらく普通のアマテラス公民が 増えてくるでしょう。

補足日時:2009/06/16 10:35
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 >男女の規定をきちんとしなくても 構わないくらいだと思います。



 そうですね、文献などあてにならないし、悟性で考えれば、光を発する という能動性を考えると太陽は男神であるとも言えますしね。

 いずれにせよ、アマテラスさんには反省してもらわないと困ります.

 スサノオはもうすでに十分悪役にされていて、反省を促されているではないですか.それでこそバランスが取れるというものです.

この回答への補足

 owlsjp さん ご回答をありがとうございます。
 またひとり日本人に出会えて うれしい限りです。

 このわたしの《スサノヲ‐アマテラス》連関という視点は 初めから受け容れられたわけではありません。しかもまだきわめて少数の方々が賛同してくださったか まぁいいだろうと言ってくださった情況です。

 いつも一言多いのが わたくしです。付録です。
 大地の子――その意味で 《ねこ(根子)》――とみづからを呼んだ日本人は みづからの自然本性の中に 光り輝く能力を見出しました。こころ(精神)のことです。それゆえ 根子でありつつ同時に ひとは 《ひこ(日子)》でもあると自覚しました。
 このネコとヒコとがそれぞれ スサノヲとアマテラスとにつながって行きます。
 そして このいわば《ネコ‐ヒコ》連関としてのひとという存在は この世界に《イリ(入り)》して 世界観を打ち立てました。ネコ・ヒコのほかには 《モノはコトである( e = mc^2 )》と捉えていたようです。

 §1 まづ ひとのあり方をどのように捉えたか。
 心のあり方として こうです。狩猟・採集・漁労というように自然界にあるモノを そのまま取る作業に従事して生活するときには モノに取り憑いた心でした。《ヨリ(寄り・依り・憑り)》なる原始心性と言います。
 やがて その心の中に 時間が流れ出します。稲であれば 野生の稲を採集するのではなく みづからが季節とともに栽培するようになった。育てるという作業とともに 時間の経過を伴なうことにより 歴史知性を獲得します。おそらく子どもを育てるという仕事が役立っているのでしょう。これを 《イリ》知性と言います。
 その後 この歴史知性であれば 何でも出来るという超知性も現われました。
 これら三つはまとめて 順番に 
  ヨリ原始心性(自然への寄り・依り・憑り)
 →イリ歴史知性(自然と歴史への入り)
 →ヨセ超歴史知性(イリ知性を嵩にきてその光り輝きに酔ってしまい
   もはや如何なるものの下にも立つまいとする寄せの知性・痴性)
というあり方です。

 §2 イリ歴史知性は 世界をどう捉えたか。
 モノおよびコトとして認識したようです。結論として こうです。

 モノ(物)―――もの(者)―――――オホモノヌシ(大物主)
 コト(事・言)―みこと(美言・命・尊)―ヒトコトヌシ(一言主)
  ↓       ↓            ↓
 自然・社会・・・・ひと・・・・・・・・・・・・・かみ

 この範式において 次の図式も得られます。

 モノの木――――――ねこ(根子)――――――生命の木
 日の移り行くコト――ひこ・ひめ(日子・日女)――日(光源)

 モノは どちらかと言うと 質料・身体であり コトは エネルギ・精神にかかわります。
 記紀には おほたたねこ(大田田根子)や みまきいりひこ(御真木入彦)が登場します。同時代の人物であり 後者は 市長を務め 前者は 一市民で オホモノヌシのカミの子であったと言います。《イリヒコ歴史知性》の古代人における霊性のしからしめる認識でした。

 §3 ネコ・ヒコらの生活とその後
 つまり オホタタ(田田)ネコが 田を耕し(田返し) イリヒコが その知性をもって 世界に《入り》するということは 精神を耕すというものでした。植林あるいは薬草による医学にも 精を出しました。
 つまりは 一人のひとが 《根子(身体)‐日子(精神)》の連関から成る存在であり あるいは《根子(市民)‐日子(公民)》の連関構造なる社会的存在のことです。
 やがて そこへ ヨセ超歴史知性が出現し――たとえば オキナガタラシヒメ(息長足姫=神功皇后)は 《神を帰(よ)せたまひき》とある―― 日子は もっぱらの公民として立ち そのスーパー歴史知性にものを言わせて やしろ(社会)を 二階建てとしたという歴史につながっていくわけです。《オホタタネコ(市民)‐ミマキイリヒコ(市長)》連関としてのいまだ平屋建て社会の上に スーパー日子が立つという構造です。一般市民=イリ歴史知性は かれらに道をゆづり 好きなようにさせました。

補足日時:2009/06/15 07:35
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この回答へのお礼

 木から木の実を採る仕事が 稲から米を育てる仕事に移るにつれ 今度は 木の実や稲の実のほうから ものごとを捉え考えるに到ります。あたまの中で 利潤が先行するわけです。
 実りを 《まつり(かみとの共食)》において いただく生活から すでに二階建てになったその第二階にあって 《まつりごと(天の神との添い寝)》のもとに まつりごと(政治)をとりおこなう。ネコ市民はこれに従うという社会生活になった。やがて巨大古墳として《結実》しました。
 《まつり》のときのふつうの和の生活を 《まつりごと》は やまと(大和)の国として 上から 号令することになりました。まぁ 高度成長もしましたし ゆたかになったわけですけれどね。
 うんぬん。うんぬん。

 このように ネコ市民が ヒコ(いや スーパー日子)公民に 道を一歩ゆづるというとき もっともネコ市民の中には もっぱらのヒコ公民に寄っていき ゆする・たかるという習性を会得したものもいるようです。

 アマテラスの悪口ばかりではいけないとすれば このスーパー歴史知性は じつは じつに それはそれは並大抵の努力ではなく その心の光を身につけようと精進したものです。これでもかこれでもかと ますます人間的となるようみづからをきびしく仕付けました。いよいよ人間的になったというとき まわりを見渡すと だれもこのことに気が行っていない。がっかりして いわば仕返しの道に入った。自分ひとりでは その徳の高さ・思いやりの深さを保つことが出来なかった。ならば 人びとをおのれの知性により寄せてやれと。(あぁ これも悪口になってしまいました)。むろん自分たちとしては 社会のためという思いです。もっぱらの公民は みな初めの志には目を見張るものがあります。

 はてさてこの先 日本人のたましいの行方は 如何あいなりましょうか?

 * ヒトコトヌシ(一言主)のかみ:雄略ワカタケが葛城山で出会ったという。かれに対して 一言主の神は こう名乗ったとある。

  《あ(吾)は悪事(まがごと)も一言 善事(よごと)も一言 言離
  (ことさか)の神 葛城の一言主の大神ぞ》

 《言離(ことさか)》は 言い放つの意という。《とおざかる(遠・離る)》∽《さく(離く)》(他動詞形)だそうです。ヒトコトヌシとオホモノヌシとは 同一であろうという見立てです。

お礼日時:2009/06/15 08:39

 太陽は女神ですか。

何を根拠に。「書物に書いてあったから」ですか?

 >(3)は 女性で伝わっているようです

 いつからですか?よく調べてみてください。勘違いではないですか.
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この回答へのお礼

 owlsjp さん ご回答をありがとうございます。

 ★ 厳密を期せ
 ☆ というところでしょうか。
 研究史といったことについて触れるのは そしてたしかに 最近の情況についてなどは特に わたしにはむつかしいです。
 ○ 問題は アマテラスとスサノヲが 血のつながった兄弟姉妹であるということです。
 ☆ そして詳しいことを言えば その誕生は 複雑ではあります。
 ▲ (古事記・上つ巻) ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ここに 〔イザナキは〕左の御目を洗ひたまう時に成りませる神の名は 天照大御神(アマテラスオホミカミ)。
 次に 右の御目を洗ひたまふ時に成りませる神の名は 月読の命(みこと)。
 次に 御鼻を洗ひたまふ時に成りませる神の名は 建速須佐之男(タケハヤスサノヲ)の命(みこと)。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ じつはすでに死んだ妻イザナミの逝った黄泉(よも)つ国から帰って来た男のイザナキが ひとりで上のように生みます。
 アマテラスは スサノヲがこの国を追われて 暇乞いに来るというとき 男装をしたと書いてあるので 女性であるらしい。そして スサノヲのことを 《わがなせのみこと》と言っている。《な》も 《わが》と同じ意味のようで 《せ(背・夫)》は男性ですから スサノヲは男です。
 あと その後 アマテラスは 天の岩屋戸に隠れる記事があり これは 日食のことだと考えられ 太陽のことを喩えたものだと捉えて差し支えないでしょう。

 変なことをつけ加えますが この場合 兄弟姉妹であることが重要です。男女の規定をきちんとしなくても 構わないくらいだと思います。

お礼日時:2009/06/14 22:58

 アマテラスが女神だと、誰が言い始めたのか?アマテラスは男神でもあるはず。



 母なる地球? 父なる地球でもあるはず。生命を生み出しているのは母性か? まったくそんなことはない。

 まだまだ、欺瞞が見られます。
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この回答へのお礼

 owlsjp さん ご回答をありがとうございます。

 批判は 大歓迎です。
 少しでもよりよいものにしていきたいと願います。

 ★ アマテラスが女神だと、誰が言い始めたのか?アマテラスは男神でもあるはず。
 ☆ わたしの場合は イザナキとイザナミとの子供として 長女がアマテラス 長男がツクヨミ そして末っ子が スサノヲという古事記の記事にのっとって ものを言っています。
 神話としては アマテラスは (1) 雷などの自然現象 (2) 太陽(つまり ツクヨミ〔月読み=暦=こ(日)読み(数える)〕との対比である) (3) 天皇←スメラミコト←オホキミの家系の祖先神であろうと見ます。
 (1)は 男神と言いますか 性はないと言いますか。(3)は 女性で伝わっているようです。(2)は (3)に引き寄せられて女であるでしょう。

 いづれにしましても アマテラスとスサノヲは 兄弟姉妹でしょう。
 また 神話ではあるものの わたしの場合は 日本人の祖先という意味で つまり 人間として 引き合いに出しています。
 つまり 万世一系は わたしたち一人ひとりが まったく誰も例外なく そうです。側室による血筋が多いか少ないかの違いはあっても 結局 同じでしょうし どちらの家系も イザナキ・イザナミ夫婦に行き着きます。神話の言い伝えとしてはです。

 ★ 母なる地球? 父なる地球でもあるはず。生命を生み出しているのは母性か? まったくそんなことはない。
 ☆ これはわたしは言っていません。ことばの綾ではないですか?
 
 ちょっときざに言えば 夜明けを待ちましょう。少しはその扉を わたしたちの手でも開ける工夫も必要でしょうか?

お礼日時:2009/06/14 21:59

 意見や意思を伝えることで現状を変えることができない場合、最悪でも自分の理念だけは守らねばなりません。

自分が持っている真理を把持していさえ居れば良いのでしょう。そういう意味で、善を自負し、裁く神々たちが反省し、自ら気づくまで我慢し続けなければならない、というのは その通りだと思います。

 しかし、それは「最低自分を守るため」の処世術であり、自分の目に見える世界を変え、創っていくならどうすればよいか、という事になると「話は別」と考えます。
>挫折あるいは犠牲の問題ですね。
???これはよく意味がわかりません。考えすぎかも.

 原初のエネルギー体ではなく、人格を持った神々に自覚してもらうためにはどうしたらよいのか。

 その言葉と態度振る舞い、そして何より認識力と感受性が上がることで発露する感情を主には言葉でなく、心的態度、雰囲気によって波動として伝播させる。「態度で示し続ける」。特にそれを、直面している人間関係を通して伝播させる。善悪いずれにしろ、人間も神の一部ですから。いかがですか?

 もしお二階さんたちがダダをこね、それをしぶしぶ認めることで混乱した社会になったのであれば、それは例えば目の前にいる人間を「精神が子供なんだ、ほっとこう」と思って自己処世術を自らに施すような腐母性社会の反映でしょう。「包み込む」ことによる優越感を得ている人間たちが多いのであれば、ぶった切って父性を現すことでバランスが取れるかも?と思います.しかし、それをするとスサノオのように新しい世界を作ったとしても、「悪い事をした」とされて後で裁きを受け、管理されることになるのでしょうか?それは日本の戦後とも重なり合います。これは暴れる父性の象徴でしょうか。しかし今は腐りすぎています。押さえ込まれた父性が暴発しているように見受けられる.平和と肉体生命の維持存続の名のもとに.

 とにかく、No.25を理解するならそれだけで完結できるわけで、それ以上語ることで、結果として話が反れたり、ねじれることもないかと。

 今までの文章も含めて書いたことが理解できない場合、バラバラに切り取って考えないで、ひとつのつながったものとして全体の文面から考えればわかると思います。

 理解しようとするときはバラバラにして考えるのではなく、むしろ全体で考えればよいかと.

 他の人の場合は知りませんが、私が書いた文章、発した言葉は私の体の一部分、分身です。それを分解して部分的に取り上げられるのは気持ちよいものではないし、なにより真に本質をつかむための妨げとなると思います.なにより分解されたものには興味がおこらず、理解できない(しづらい)ので、返答に困ります.

この回答への補足

 owlsjp さん ご回答をありがとうございます。

 そうですね。No.25のご回答をいただいてから そこに持たれている実践への志向性というものはわたしも受けとめていましたが 今回はっきりと述べておられるようですね。
 ただし それが No.25の実践的な提案に尽きるとおっしゃるなら それはまだ わたしには分かりません。
 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 とにかく、No.25を理解するならそれだけで完結できるわけで、それ以上語ることで、結果として話が反れたり、ねじれることもないかと。
 ★★ (No.25)~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 生き返るためには駐留米軍の撤退と、日米安保条約の解消をしなければなりませんね。

 そうすれば、些細なことで「警察呼ぶぞ」という人間も少なくなり、正直に生きられるようになるんでしょう。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ 安全保障の問題ひとつ取っても そんな簡単なことではないでしょう。言い過ぎだと思いますよ。
 ★ バラバラに切り取って考えないで
 ☆ ではなく その問題ではなく 付随するいくつかの課題を一つひとつ取り上げてさらに対処策を考えていくという問題です。
 わたしの場合 この質問の性格から 抽象的な事柄のほうへ議論を持って行ってしまいましたが それにしても 細部も重要です。そしてそれは おっしゃっているように 段階を踏む必要があります。
 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 【第一段階=つねなる基礎】 しかし、それは「最低自分を守るため」の処世術〔* もしくは 哲学・世界観ないし生活態度〕であり、
 【第二段階=応用・実践】 自分の目に見える世界を変え、創っていくならどうすればよいか、という事になると「話は別」と考えます。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

 ☆ そこでまづ 次のわたしの発言は まだ曖昧なものだったことを確認しておきます。そのとおり《考えすぎ》でした。
 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
    >挫折あるいは犠牲の問題ですね。
  ???これはよく意味がわかりません。考えすぎかも.
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

 ☆ 今回 新たに問題提起されていて回答そのものだと主張なさっている事柄は 人間の心意気や人びとの息吹きであるようです。わたしの解釈を勝手にはさんでいます。
 ☆ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 原初のエネルギー体〔* に基づくならよいのだが そう〕ではなく、人格を持った神々〔* として人間の科学的な思考能力に絶大な自信を持ってしまった現代人たち〕に自覚してもらうためにはどうしたらよいのか。

 その言葉と態度振る舞い、そして何より認識力と感受性が上がることで発露する感情を〔* 一般には言葉を通じて表現し訴えるのであるが〕主には言葉でなく、心的態度、雰囲気によって波動として伝播させる。
 「態度で示し続ける」。
 特にそれを、直面している人間関係を通して伝播させる。善悪いずれにしろ、人間も神の一部ですから。いかがですか?
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ たぶん――わたしの考えでは―― それは自分自身の意図にはないのでしょうね。意識しておこなうものではないでしょうね。はからいは あまり気持ちのいいものではないように心得ています。
 まして 安全保障が この心意気だけで解決がつくと――言ってはいないですが 誤解としてでも思われてしまっては―― 良策だとは思いません。
 もしここで それならおまえの策を具体的に示せと言われるなら わたしはなお 最初のときのご返答を再確認したいという考えに傾きます。
 ☆☆ (No.25お礼欄) ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
  たぶん 外からの そして お二階さんという一部の人たちからの 横槍は 単にわたしたちに心理的な影響のみを与えているに過ぎないと考えます。精神(つまり こころ)は もっと大きくて 心理は その心の大海の表面での波風に過ぎないと言うべきでしょう。
 つまり まづは このわたしたちの心を互いに確認してからではないでしょうか? と思いました。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

補足日時:2009/06/13 09:17
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この回答へのお礼

 ☆ こうするならば――そしてそのような新しい人びとの自由に集まる井戸端会議を活気ある日常の活動として実現させていくならば―― もうスサノヲの筋をとおそうとするものでありながらも暴走・暴発である実践方法から自由になって 一歩一歩しっかりと土台を踏みしめて固めていく方法で 都へときざはしの歌をうたってのぼっていくのではないでしょうか?
 ★ むしろ全体で考えればよいかと
 ☆ とおっしゃるのは そういう社会にとっての基礎・基盤のことだと考えます。

 早るお気持ちは分からないでもありませんが たぶんこういう順序なのだと考えます。それは ひとつに スサノヲ(実際にはオホクニヌシ)は 姉のアマテラスに対して 国ゆづりをして まづは好きなようにさせてやったといういきさつがあるからだと考えます。
 姉の側が行き詰ったのなら そのアマテラス公民の人びとがまづ ごめんなさい 弟よ 社会をおまえたちにゆづり返します わたしたちも心を入れ替えますと 言ってくるのが筋でしょうね。土下座などをしなくてよいのだから 旧き人を脱いで新しき人を着て欲しい。そうすれば
 われわれも ねえさん 乱暴をはたらいてごめんなさい 姉さんたちのように人格を磨くことに億劫でいるなどという到らなさを反省しています。ともに手を取り あらためて このくにを たのしいくににつくり直しましょう。
 と答え返すでしょう。いつでもその用意は出来ていると思います。そうぢゃないですか? みなさん!

お礼日時:2009/06/13 09:32

No.33です、成る程、かなりの数議論されていて難しいのですが、今回の質問はなんとなく理解できたような気がします。



掲示板の類ではかなり本題とそれているというかワザとそらしてる?みたいな人とかそういう人?

話というのは日常生活(人と人の生身の会話)も含めるということなんでしょうが私はあんまり日常生活ではそういう人見ないんでネット上での話し合いについてのことしかあまり経験がないです。
ですので勝手ながらネット上での経験交え、申し上げさせていただきます。

それで戻るんですが、掲示板上で痴話げんかが起こってるようなね、あれにはかなり怒りを感じる人がいるかもしれませんが、実は私、あの滑稽なやり取りみるのはそんなに嫌いじゃないんですが…。

でも問いかける側からしたら確かに迷惑かもしれません。

でもああいう人ってなんであんなことをするのか?
姿が見えないということと匿名性みたいなことも関係してるんですかね。日常生活より姿が見えない分余裕があるというか、でも姿が見えない、これってまさに幽霊ですね。

ほかに考えられることとしては自己喪失とか、今の時代かなり多いと思います。生活が標準化されてくるとおこる精神的空虚の最中にあるのではないでしょうか。

何がしたいのかわからないという不自由ゆえ何か鬱憤晴らしに他人をつつきたくなるとか、難しい概念とか質問がたくさん出てくると面倒だから避けてしまうとか…。

不自由は孤独で不安なので何か人とかかわりを持ちたいが難しくなると避けてしまうというようなところがあるんじゃないですかね。

でも面倒だからというのは私もけっこうありますね。
しかし、関わっといて途中で面倒になって投げるみたいなことはあんまりしないですよ。

あとどなたかもおっしゃってましたがbragelonneさんと同じレベルで話をしつつ、進めていくにはそれなりに知識とか必要でないと厳しいと思います。

そしてbragelonneさんのおっしゃる「死んだ」からその類の人を復活させるにはあらゆることを自覚させる必要があると思います。
自分を喪失してはこの手の話はまともに話すことは困難でしょう。

私もけっこう困難してます。

多分質問をたくさんなさっているし難しい話もたくさんでているので、かなりの意図、目的がありそうですね。
でも本当に自覚させるのであれば素朴な言葉を用いて合理的にわからせるのではなくあえて非合理をつきつけるべきではないでしょうか。
本質的な問いと答え(意見)は矛盾させることで浮き上がるでしょう。

この回答への補足

 w1k2g3 さん ご回答をありがとうございます。

 前向きで建設的なご見解を寄せていただき重ねてありがとうございます。
 何か回答情況に関連して 変なことになっているかのようですが 質疑応答に徹します。
 まづ
 ★ あとどなたかもおっしゃってましたがbragelonneさんと同じレベルで話をしつつ、進めていくにはそれなりに知識とか必要でないと厳しいと思います。
 ☆ これは問題にならないと思います。わたしに分からない分野がいくらでもありますし 知識の有無にかかわらず 基本的な考え方――たぶんそれは 基本的な生活態度から来る――の点で 多少の推理や直観を交えて答えを寄せてもらえば 何も問題ないです。これまでもそうして来ましたし そういう場合にも 時としてひらめきが授かるものです。またそれが哲学だと思います。それに 井戸端会議だとも言って来ています。

 それにしましても とにもかくにも 話が通じないのであれば あれもこれも それもかれも すべて台無しです。
 日本人は 案外 議論好きではないか。それなのに 話がかみ合わないのは なんだろう? ひとつには 《絶対》の概念を理解していないからか。あるいは 最近では 《独我論》の影響が大きいのか。などと進めて来ました。まだよく分かりません。
 でもそうして 再出発というときに――すでにお伝えしたかと思いますが―― ふと 不吉な予感がよぎり この質問にあい成りました。いまでは 元気になったと感じつつ 答えは出難いようだとも思っています。
 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 でも本当に自覚させるのであれば素朴な言葉を用いて合理的にわからせるのではなくあえて非合理をつきつけるべきではないでしょうか。
 本質的な問いと答え(意見)は矛盾させることで浮き上がるでしょう。
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 ☆ これはですね。面と向かってなら そうするかも知れないのですが ここでは むつかしいように感じています。たとえば 罵りを吐く回答に対して
 ○ わたしのような大ばかになりなさい。そうすれば あなたのようなばかを包むことができる。
 ☆ というようなことも書いたことがありましたが 効果半ばですね。そしてこの類いは そうざらには言えません。
 ★ あえて非合理をつきつけるべきではないでしょうか
 ☆ この種のやり方は 検討してみる余地がありそうです。あまり考えていなかったからです。話が分散するかにも感じます。
 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 何がしたいのかわからないという不自由ゆえ何か鬱憤晴らしに他人をつつきたくなるとか、難しい概念とか質問がたくさん出てくると面倒だから避けてしまうとか…。
 不自由は孤独で不安なので何か人とかかわりを持ちたいが難しくなると避けてしまうというようなところがあるんじゃないですかね。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ なのですが――そうなのですが―― 今回のわたしの挫折は 《避けてしまう》どころか 二度三度 五度六度と同じ理屈で姿を現わすという事例だったのです。
 あと
 ★ 掲示板上で痴話げんかが起こってるようなね
 ☆ これは 放っときます。まったく相手にしません。のでだいじょうぶだと思います。むろん邪魔ですけれどね。

 いやぁ ありがとうございます。そのつど 新しい段階の舞台に みなさんと共に駆け上がって またやり取りをすすめていければよいと考えます。たぶん それしかないのでしょうね。

補足日時:2009/06/12 14:30
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maimai.susです。



まるで、ご自分の事を言っているような質問ですね。

んー、実例ですか?今までのbragelonneさんと私の質問回答ですかね。

でもそれって、日本人とか外人の問題ではないと考えますが・・・。
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