ハマっている「お菓子」を教えて!

阿弥陀なる仏は、釈迦死後数百年もたったあと、ある自称大乗という信仰集団が創作した仏教小説、フィクション中の主人公です。
ということなので、生前の釈迦は阿弥陀のことなんぞ一言も語っていません。
このフィクション仏教小説の主人公、いわばハリーポッターやウルトラマンをいまだに信奉し続ける理由・根拠はなんでしょうか?
学べば学ぶほど、むなしさはこないのでしょうか?

A 回答 (11件中1~10件)

 こんにちは。



 ★ 生前の釈迦は阿弥陀のことなんぞ一言も語っていません。
 ☆ ということで もし創始者がいてその説いたおしえが絶対であるとなれば あなたのおっしゃっているように 浄土系のおしえは
 ★ 学べば学ぶほど、むなしさはこないのでしょうか?
 ☆ と問われなければならないでしょう。

 それに対してふたつ添えることがあります。
 1. 浄土系の信仰は けっこうその内実は無根拠にかかわる非思考として普遍性があるようですが このことはおまけで言ったのですが そのとき《釈迦》を出さなければいいということになります。
 ○ つまりは 《生前の釈迦が説いたおしえ》を借りてつくったとはっきり言えば――信教・良心の自由にのっとって――成り立つと考えられますし そう考えなければならないでしょう。

 2. 上と同じようなことですが そもそも《信仰》は その非思考としての信仰動態から得られた観想を言葉にして表現した内容は――つまり一般に おしえは―― 
 ★ フィクション
 ☆ ですよ。ですから 擁護すべき部分もあると考えますので 述べますが
 ★ このフィクション仏教小説の主人公、いわばハリーポッターやウルトラマンをいまだに信奉し続ける理由・根拠はなんでしょうか?
 ☆ とおっしゃるとき まづ第一に
 ○ 信仰は 非思考であり 無根拠です。
 ○ おしえ(つまり 非思考のものをわざわざ思考に合うかたちに表現してしまったもの) これは 信じるの対象ではありません。
 ○ 思考に合うように表現したものなのですから 思考の対象ではあっても 信じるの対象ではありません。
 ○ つまりちなみに 親鸞はそこのところを 《絶対他力》と言い表して説明していると思います。おしえを信じるのではなく たとえば親鸞を信じるのでもないと。
 ○ 師匠の法然とのつながりを言うために 法然ないしひとを信じるというような表現を交えているでしょうが 信じると考えるとは きちんと分けて世界と無根拠(阿弥陀仏)とを捉えているようです。
 ○ そしてそれは 生前の釈迦のおしえよりもずっとすぐれていると考えられるようです。
    • good
    • 0
この回答へのお礼

とても面白い意見ありがとうございました。
つまり釈迦の意見を借りて創作したのだと断定した上での信仰。
あるいは、それをも思わない無根拠なる信仰。

信じる人が信じているから間違いなく信じていい信仰だと言える信仰だということでしょうね。信仰としてはすばらしい信仰だといえると思います。

ただ、これは、もはや釈迦の教えとは別物の、別の宗教じゃないかと思うのですが・・仏教といわないほうがいいと思います。ユダヤ教(釈迦の教え)とキリスト教(浄土教系)のような関係でしょうか・・キリスト教はユダヤ教の経典もいまだに聖書として扱っていますから。

お礼日時:2009/07/24 19:53

またまた、書いてしまいました。


このサイトはご自身の疑問を解決する場です。
なぜ、「阿弥陀如来」に対する信仰が生まれたのか、という「哲学的」な疑問に皆さんは応えようとしています。

この場は、あなたの主観的な考えを、主張するものではありません。

出直しなさい

この回答への補足

私の質問は、「フィクションを信じ続ける根拠」

です。

主観的ではございませんで、一連のあなたの回答が、主観であり、的外れであり、専門家とは言いがたいものです。
議論をふっかけたいお気持ちは分かりますが、それに乗りますと、管理者に質問ではなく議論をしたいのかと思われ削除されてしまいますので、それは控えさせていただきます。純粋に質問に答えてくださるときに記述してくださいませ。

なお

出直しなさいというのは名誉毀損的発言です。

補足日時:2009/07/24 19:54
    • good
    • 0

追伸:


>>しかしながら、おっしゃる浄土三部教は仏の晩年の説法ではなく、2000前くらいに創作されたフィクションでしょ?

ここが間違ってますね。フィクションではなくほぼノンフィクションなのですね。
釈尊晩年の霊鷲山での説法の描写の解釈で間違いないんですよ。浄土三部教や法華経に描かれた霊鷲山説法がいかなるものであったかを知っているからお経の内容は表現の差こそあれ正しいといっているのですよ。
霊鷲山での説法はその場にいた弟子でさえ全容が到底理解できないほどの荘厳でかつ壮大で神秘にあふれるものだったのですね。お経はそれを描いたものですからあってますよ。といってるのですね。たとえ、現在の法華、浄土、真言、禅系の坊さんや学者がそれを理解できないとしても、またあなたが到底理解できないとしても、あってるものはあってるとしか言いようがないということなのです。霊鷲山説法を目の当たりに見たものがそういっているのですから信じるしかないと思いますよ。そこにいた摩訶不思議な仏を無量光、久遠仏、ビル遮那仏、阿弥陀仏、永遠の仏陀などといかように表現したかは、そこにいた弟子の見たまんまの違いだけですね。
お経というものは事実そういうことがあったから存在するということなんですね。ナーガール竜樹、善無畏三蔵、不空三蔵、玄奘三蔵などの高僧が伝えた仏教経典にフィクションなどないんですよ。
あるとすれば、道を外した外道の心にあるということですね。
    • good
    • 1
この回答へのお礼

そこにいた弟子たちは一切言わなかった阿弥陀のことを500年も経って、ある集団が突如に言い始めたことが!!??
ある意味、結集や十弟子たちを愚弄する考えかたですね。
なるほど、いいご意見ありがとうございました。

お礼日時:2009/07/24 19:42

続投、失礼・・・


妙なところから突っ込まれといけないので、真面目な回答も言っておきますね (^^ゞ

原始仏教と釈迦没後の部派仏教とは違います。また部派仏教と小乗仏教とも違います。そして大乗仏教と密教とも違います。仏教はインド国内に於いても「進化」しているのです。
そして、阿弥陀三部教を中心として中国で「浄土教」が成立しました。これは、インドの風土では考えられないことでしょう。なぜならインド人が求めているのは、「輪廻」からの開放であるからです。ただ、中国人や死後の安寧を求めました。とくに日本人はその傾向が強うので「死後の安寧」だけの宗教が広まったのではないかと思います。
中国では、浄土教のような情緒的な宗教は流行りませんでした。かれらは論理的ですからね。しかし、日本人の体質として「阿弥陀の誓願」という死後を約束してくれる「教え」は力強いものとなったのでしょう。

宗教は「対費用効果」です。悩む人のニーズやシーズを探って浸透していきます。「極楽」に生きたいと思う人が多いので、その教主である阿弥陀如来の人気が高いのでは・・・・
ただ、昨今では、死後よりも生きることが難しいので、現世に効力のある「密教系」が流行っても良いような気がします。

たしかに・・・死後を気にするよりも今が空しいですよね。
また、哲学のカテから外れてしまいました。

あっ・・・一応、専門的に印度哲学を学びました
ということで、専門家に○を付けておきます。

この回答への補足

dulatourさんの1回目の返事として書いたものをご覧ください。

ですから、発言は控えてください。
ちなみに、「進化」というのは完全に間違っていますでしょ。
南伝仏教より大乗仏教のほうが勝っているし、その中でも密教が勝っているというゆゆしき発言ですよ。
専門家に○ですか・・・・・

補足日時:2009/07/24 19:35
    • good
    • 0

仏教って、「仏」の宗教(おしえ)であって、釈迦(ゴータマシッダルタ)という歴史上の人物の偉業を讃える宗教ではありません。


「仏」、つまり「仏性」とでもいうのでしょうか。たまたま、シッダルタ君が永遠なる「仏性」を明らかにしただけであって、シッダルタ君が偉いのではなく、「仏性」がシッダルタ君を導いたのです。多分、シッダルタ君の前にも「偉い」仏がいたけれど、初めて我ら人間は「仏性」というものの存在に気付いたということが歴史的な事実でしょう。
釈迦自身の言葉というのは、あまり確実なものは知られていませんが、古いものということでは、「スッタニパータ」や「パリニッバーナスートラ」を信じる他はないでしょう。この中に、しかと「仏性」というものを獲得し、「悟りを得た」というようなことが書かれています。

あなたの比喩は最高です。釈迦(シッダルタ)は初代のウルトラマンなのね。ウルトラマンには実は、ウルトラの父も母もウルトラ一族は一杯いるよね。あなたの憤りは、ウルトラマンゾフィーは偽物だと言っているような気がしちゃいます。

また、仏教とは、非常に柔軟性のある宗教である。大乗ということ自体、小乗を乗り越え、つまり周辺部を取り込んで拡大した考えである。この融通性は、一神教のキリスト教やイスラム教に見られないものでしょう。なんでも自己の中に取り込んでしまうんですね。
中国に伝搬した仏教は、孔子も老子も仏の化身にしてしまいました。
日本においては、天照大神は大日如来の化身です。徳川家康の東照大権現は薬師如来です。タヌキが仏であると聞くと、「インド人もびっくり!」でしょう。(このギャグはお子ちゃまには難しいかな)

脱線しました、「仏性」は遍在するということが仏教の教えなのです。
仏教は、「釈迦教」でも「シッダルタ教」でもありません。たまたま釈迦族のシッダルタ君が感得した「仏」の教えです。

あ・・そうそう・・・「釈迦」ってどういう意味か知っていますよね。
正式には「釈迦牟尼」というのでしょうか。「シャーキヤ族(釈迦族)」の尊者という意味です。つまり、釈迦族出身の「仏」ということで大勢の「仏」の中の一つです。日本に渡って徳川家康になった薬師如来もいれば、天照大神の大日如来もいる。
仏教って、凄いアイドルを一杯抱えたジャニーズ事務所のような・・・
いかんいかん、飛びすぎた 

この回答への補足

ええっと、あなたと議論する気はさらさらありません。
みなさんに言っておきたいことがあります。
ここは、議論をする場ではなく「私の質問に喜んで答えていく場」です。
すなわち、フィクションだと明らかになった阿弥陀伝を現在なお信奉する根拠はなんなのか?ということです。
それにお答えいただきたいのです。
議論をふっかけられたらそれに応じざるを得ず、仏教のことを知らない管理者には、私は、答えを求めているのではなく議論がしたいのだと、とられてしまい、ここ全体を削除されてしまうのです。これは私の本意ではございません。
ですから、どうぞ、議論をふっかけたり、違う話題をもちこんできたりなさらないでいただきたいのです。お願いいたします。

なお、仏性というのは釈迦自ら一度も言ったことではなく初期大乗仏教の法華経でさえ一度も述べられたことがない語です。
釈迦が直接述べたというのを前提にしたあなたの考え方は根本的に間違っています。お疑いなら、法華経から「仏性」という語を見つけてくださいませ。

補足日時:2009/07/24 19:25
    • good
    • 0

門徒でもない別宗派の一在家信者です。



一度「方便」について考えてみては如何でしょうか?

貴方がツアー旅行に行った場合、ツアーコンダクターの旗に付いていくと思います。
ならば貴方が目指しているのはツアコンの旗でしょうか?ツアコンを信奉しているのでしょうか?
違いますね。目的地は観光地であり、ツアコンは手引をしているだけですね。

ツアコンの旗について行かなくても、自力で目的地にたどり着く手段もあるでしょう。
でもそれで道に迷い、最終的に目的地にたどり着けない場合もあります。
ツアコンの旗について行き、容易に観光地に辿り着けるのならめっけものです。

つまり阿弥陀如来などの存在は人々を悟りへ導くための「ツアコンの旗」であり、フィクションであることなど「端から判ってるだろ」ということです。
ただ最初に阿弥陀如来を想起した人がどのような意志を持ってこの仏様の姿を作り上げたかに思いを巡らし、
偶像としての阿弥陀如来が体現する仏教の教えを如何に理解するかが要点なのではないかと思います。

そういったことに思いを巡らすことなく
「なんだただの偶像か、んじゃ考える必要も無いよな」
と断じてしまえば、質問者様のように「空しくなる」と思っても仕方ないのでしょうね。

「方便」についてWikipediaへリンクを張っておきます。

参考URL:http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%96%B9%E4%BE%BF
    • good
    • 0
この回答へのお礼

ありがとうございます。
つまり、あなたの意見では、阿弥陀なんぞ関係なく目的にいければいいのだと・・・
しかしながら、少々質問内容と趣旨が違うように思えます。そんな阿弥陀なんぞどうでもいいという考えは阿弥陀信仰者にはないと思いますので。
しかしながら貴重な意見ありがとうございました。

お礼日時:2009/07/24 19:23

先ほどの回答で「専門家」は誤りで信仰もない一般人です。

単純ミスで
した。

それとお節介にも、人は信仰の何をよりどころにしているか考えてみま
した。お金や知識か名声か??など。ウルトラマンとは上手いです。ヒ
ーロー者の矛盾をここでは割愛しますが、幼稚園時代より疑念を持てていました。

やはり平常時には安心感、豊穣や子孫繁栄を願う親心、危機一髪ピンチ
の時には神を「信じてやってる」恩を着せて借りを作って保険のような
縁を持ちたかったのと思います。

この回答への補足

個人的な意見を述べる場ではございません。
お控えくださいね。

補足日時:2009/07/21 23:27
    • good
    • 0

仏教に精通してはいませんが、、人間の精神性は古代からそう変わって


いなくとも、社会に「福祉」や「ボランティア」という発想が浸透する
までに家事労働が合理的に簡略されたことで「人間関係の親密なのが善
で、疎遠は悪」とする固定観念で動いてませんね。そして昔と今じゃ人
間の位置より速度が違ってます。

昔は2千年先を予見することも出来たかも?ですが、近年で100年先
まで見越せるかどうかも大問題ですよ。

この回答への補足

仏教に精通していない方が、勝手に述べる場ではございません。

補足日時:2009/07/21 23:26
    • good
    • 0

浄土三部経では無量寿仏、法華経(如来寿量品 第十六)では久遠仏のことが書かれています。

これは釈尊晩年の霊鷲山での説法をお経にしたもので間違いはないのですね。阿弥陀経もしかりですね。
後代の僧がどのお経をよりどころにしたかだけのことで、本質的に間違いはありませんよ。
これは、真理を知れば知るほど、学べば学ぶほど、わかるものです。
「むなしさはこないのでしょうか?」はもしそうであれば、真理に到達できない、道を外した学びとしかいいようがないのですね。
信解脱の法門をくぐり、八正道を行じ、慧解脱の法門に達すれば仏のお経がまぎれもなく真実であることがわかるはずですよ。
何を信じ、何を学び、何を行じるかを間違えば、到底お経の意味はわからないでしょう。ということですね。例え多くの宗教家や宗教学者が邪命外道の道に入っていようが仏の説く真理は2500年前も現在も変わらないものですよ。仏は人それぞれの気根にあわせて八万四千もの法を説いているだけですから仏への信仰さえあれば気根に合った解釈でも良いというだけなのですね。仏への信仰が信解脱の法門ですね。まずここに入れないと外道ですからわかるはずもないのですね。わけのわからん者やその言葉を信じれば邪命外道ですね。
仏を徹底的に信じて、お経を読み直して御覧なさい。見えてくるものが違ってきますから。

この回答への補足

仏の説く真理は2500年前も。。
そのとおりだと思います。
しかしながら、おっしゃる浄土三部教は仏の晩年の説法ではなく、2000前くらいに創作されたフィクションでしょ?
ここではそういう議論はすべきところではなく、ご回答いただきたいのは、そのフィクションだったという事実が眼前に迫ったとき、何をよりどころにしているのでしょうか?ということが聞きたいのです。

補足日時:2009/07/21 18:06
    • good
    • 0

一真宗門徒です。



>阿弥陀なる仏は、釈迦死後数百年もたったあと、ある自称大乗という信仰集団が創作した仏教小説、フィクション中の主人公です。

う~ん、こういう「小説」を前提にする以上、No.1さんのような回答を誘発するのは、ある意味当然のことですよね。
それとも、これは予想外のことだったのでしょうか?

>このフィクション仏教小説の主人公、いわばハリーポッターやウルトラマンをいまだに信奉し続ける理由・根拠はなんでしょうか?

う~ん、言葉を操り、言葉に操られる人間である以上、たとえそうと自分で意識しないにせよ、誰しも自分の身丈に合わせた「小説」を語ったり、語られたりしながら生きているはずですし、その源泉にしてもそれぞれの生き方に応じてさまざまな姿形や泉質をしているのではないでしょうか。

ですから、もし、あなたが「このフィクション仏教小説の主人公」を「信奉し続ける理由・根拠はなんでしょうか?」という疑問に対する正解を心底から欲するのなら、まずは、あなたがこの問いを立てた真の動機、意図、狙い、目的等々の正体を徹底的に検証することから始めてみてはいかがでしょうか。

その後、阿弥陀仏信仰の成立事情をテーマにした「小説」と、あなたがここで披瀝した「小説」とを比較してみれば、いずれの「小説」の方がより多くの人々の支持を集めるかについても、その理由についても難なく理解できるのではないでしょうか。

>学べば学ぶほど、むなしさはこないのでしょうか?

まずは、あなたがこういう問いを立てた内的必然性についてきちんと検証してみることです。
あなたの立てた問いの中にしか、あなたの求める答えも見出せないはずですから。
    • good
    • 1

お探しのQ&Aが見つからない時は、教えて!gooで質問しましょう!

関連するカテゴリからQ&Aを探す