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 ハードとしての脳や身体と機能としての心理などの諸機能を連絡する
ものは分っているのでしょうか?
 両者を繋ぐものは何なのでしょうか?

A 回答 (3件)

No.1です。



>すべてはメカニックにことが運んでいるということで説明がついたり、終始させうるのか、現代知的心理学には、その辺を応えて欲しいですね。
まったくですね。心理学はいわば想像上の心についての学問です。それゆえ心理学史を振り返っても心というものの実体は決まってません。最初は連合主義といって、刺激とそれに対する反応が心であると定義されました。次に行動主義、精神分析、ゲシュタルト心理学が現れます。行動主義は単純に客観的に観察される行動のみを心として扱おうという考えです。行動主義では厳密に刺激と反応のみを扱います。つまり、刺激がなければ人は行動しないという考えです。精神分析はそれとは逆で、人の心はリビドーという性的なエネルギーが関わっているんだと考えました。つまり、内面的な意思が心を動かすという考えです。ゲシュタルト心理学は人は受動的に刺激によって支配されるのではなく、それを能動的に理解しようとするものです。
 現在は行動主義に生体の認知を加えた新行動主義と心をコンピュータの情報処理過程に見立てた情報処理アプローチによる認知心理学が優勢です。心理学はソフトばかりを考え、ハードはないがしろにされている感じがしますが、krya1998さんがおっしゃるようにこの関係は生理学と心理学の役割の境界なのかもしれません。

この回答への補足

 skylark_02さん 真にありがとう御座います。百三も欧米的に探求を地道な甲虫に比喩しており、私自身の経験と私たちの精進でも、とても雲雀や草ひばりにも追いつかない事を知っておりました。
 先日、筑波なる高等師範学校でも魂の云々なる学会というものがあり、真に前途遼遠を感じ、会長さんと事務方(私自身が46年以上そういう事務方)に心の中では同情しました。
 所詮、創造や人間、心理や魂、知性の出自ということについては忠誠やルネッサンスを経ている、そして古代の欧米の手法では届かないものであるという実感を確認しております。
 だからといって、ヒンドゥや、かのシルク・ロードと中国、そして私たち日本人を誇大妄想することは、グルが戒めるところであります。

 ハードをないがしろにしているというより、ソフトの生活と典拠の自己分析が、出自がどうも欠落しているかの感です。
 いたしかたないことであると、存じました。
 ありがとう御座いました。
 「お礼欄に続きます」

補足日時:2009/12/25 14:25
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この回答へのお礼

 skylark_02さん、最初のご回答教えにより、二元主義化一元主義化を自己に問いました。

 二元主義って、そして多神のヒンドゥでも八百万でも、多神っていうのはないんですね。
 一なるものの外見的多様、創造の原理はそれに尽きる。極く単純。
 それにまどう多なる我ら。そんなものですね。
 我らをどう見るか。どうみても同じですが。
 物か精神か、価値か、当為か。
 それはどこからどう来るか。変化したか、接続したか。
 それは偶然というか、メカニズムというか、無意志のプロセスか。
 その辺が、物象科学野中のストイズムを遵守するか。それとも見切るかの岐路でしょうか。
 どこから精神性、心が出るか。その事をどう現今の心理学が問題意識をお持ちかのお教えを乞うものでした。
 やはり、問わずもがなということでしたね。

 ありがとう御座いました。

お礼日時:2009/12/25 14:50

補足していただきありがとうございます。

No.1です

実は現代科学では意識というものの正体はほとんどわかっておりません。一つには定義の問題があります。一体何を指して意識と言えばよいのか。人が起きている状態を意識と呼べばよいのでしょうが、睡眠の中にはレム睡眠という覚醒時に良く似た脳波を示す段階があります。レム睡眠は別名疑似睡眠と呼ばれていますが、これを考えると覚醒が意識というのは的はずれな感があります。一つはっきりしていることは、脳幹網様体というものがどうやら覚醒と睡眠にかかわっているらしいということです。脳幹網様体は大脳と脳幹の間にある網のような神経群です。これを破壊されたマウスは覚醒する能力を失うという研究があります。意思決定などは大脳皮質の前頭葉という場所が担っています。感情は大脳辺縁系という場所が担っています。

心と神経系の活動の関係は現代科学でなお議論の的です。ご質問者様の神経の活動=心の活動となることが理解しにくいというのは良くわかります。少なくとも神経系の最小単位であるニューロンが活動するとそのニューロンが担う認識が発生します。質問者様の疑問に答えられているでしょうか。

この回答への補足

 skylark_02 さん度々ありがとう御座います。
 意識ということばはたしかconsciousnessというヨーロッパ語の置き換えなんですね。
 日本や東洋ではその前にはどんなことばが当てはめられていたのでしょうね。
 仰せのように定義の問題ということになれば、言葉はあっても実体は対応していないのですね。
 覚醒というか、通常意識は本当に仮そめ、スポットで、内容と結果しかなくて、照射の主格はみとめられていない、意識されていない。ということですね。 
 レム睡眠の状況は夢を後付けに紡いでいる、編集している、意味づけしている状況でしょうか。そうだとすると、確かに覚醒意識の経験や知覚、認識と差がないという面もあるのでしょうね。
 覚醒意識における脳幹網様体の働き。
 意志と前頭葉。そして感情と大脳辺縁系。
 それらを機能させているものは何なのでしょうね。

  【お礼欄に続きます

補足日時:2009/12/23 14:39
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この回答へのお礼

  【補足欄より】
 現代科学の手法では最小単位がやはり、ニューロンなのですね。
 そういうものが価値的世界とまでいわなくても、意志や自律・自立世界での働きを自立的にしているというのか、すべてはメカニックにことが運んでいるということで説明がついたり、終始させうるのか、現代知的心理学には、その辺を応えて欲しいですね。
 何も信仰をしてくれとはいいませんが。
 私はここまできて、現代生理学と心理学の役割の境界ではないかと存じました。
 研究されている方は無論、万能とか最後を答えることができるとは思ってはいらっしゃらないでしょうが。
 心というものを、意志というものを肉体に見出す事はでき得ないということであり、研究の空しさを感じます。
 昔、中原(中国)の権力者が聖者には背骨に七つの穴があるということらしい、なればあの聖者を殺して背骨を調査しろ、と命じましたが、結局背骨に七つの穴はなかった、ということでした。
 私たちは五つの中心点が脊柱にある。しかしそれは肉体の脊柱ではない、という教えを受けておりますが。
 話が逸れてしまいましたが、心理学はそのたいしょうとしている現象の根っこをどこに持とうとしているのでしょうね。
 結局、趣味人の道楽なんでしょうかね(すみません)。

お礼日時:2009/12/23 14:50

質問者様の疑問は心身二元論の視点からのものでよろしいでしょうか。

心身二元論は心と身体を別の機能をもつ別のものであると理解します。つまり、心と身体をつなぐものはありません。
最近は心身一元論での理解が一般的で、身体の活動=心の動きと理解します。つまり、脳が心の座であり、その活動=心の活動ということです。

この回答への補足

 質問に対する補足の要求投稿と理解申し上げます。
 心身一元論二元論についての意識はありませんでして。
 心の座も活動の座も一つであると存じてきております。
 しかし、脳や身体というものが一定の活動に入ると自然に意識や意志、或いは感情や心理の活動になるということが、どうも理解しにくく、そのメカニズムか機構仕組みのようなものがあるのか、分らないだけなのか、という質問でした。
 私たちヒンドゥ哲学のアプローチでの創造論や意識論では、その開明をしておりますが、そういう直観と経験修行の世界でない、間接知、つまりインテレクチュアルな近代欧米心理学などではどのような理解になっているのかを教えてもらいたかったのです。
 どうぞよろしくお願いします。

補足日時:2009/12/23 08:09
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