14歳の自分に衝撃の事実を告げてください

デカルトの、神の存在証明で
神は完全であり、存在も含まれていなければならない
したがって神は存在するとあります。
この 存在 というのは、どいう事かという疑問です。
そこで
(1)存在
(2)認識
(3)知覚
は現象として何を意味していて、何が違うのかをしれば
神の存在の 存在 の意味が分かりそうです。
知覚は、赤いものが脳にうつった事
認識はそれを既存の考えでとらえた事
存在は、、、共有?
わからんです

A 回答 (6件)

折り紙の「帆かけ舟」をご存知でしょうか?


『帆を持っている』と思ったら舳先で、『舳先だ』と思ったら帆を持っている、ていう。
そのように、『存在がある』と思ったら認識は見当たらず、『認識がある』と思ったら存在は不明になる、という補完的な関係にあります。

そこにおいて、そうした「『存在』の『認識』」は全て、感受表面における量子相互作用に還元されます。
時空的広がりは、その「相互作用パターン」における情報的作用に対して、生理的作用を(過去の五感の相関した経験の蓄積により)予測することによって生じます(「そこ」で何が起きるか)。

そして、その「感受表面」そのものが、その“空想的時空的広がり”に有限な広がりを持っていることによって、それは確定的な先入条件から、「自我仮説」になります。
そうした時空的広がり=有限的存在性が、相補的不確定性(不確定性原理)に基づいていることによって、その【知覚】=感受表面での量子相互作用パターン(光速=現在)から、【認識】=自我仮説(経験=時間=過去=超光速)と、【存在】=時空仮説(予測=空間=未来=光速下)」は相補分化している、と言えるのです。

実は、相対性理論にしても、量子論にしても、認識体との相対によってしか存在は無い、という帰結を潜在的に持っています。
客観的時空や絶対的存在というものはなく、認識性を除外した存在は、無=無限不確定性になる、というものです。
その無限の闇に、認識体の仮定断面の運動(プランク定数hの収束(相対的には宇宙膨張)の時系列化)を想定すれば、相対的に無の風は光になり、認識体はその光の向うに、自我仮説の補完としての時空仮説=宇宙を認識します。

換言すれば、最新の量子論的世界像において、有限な存在性は観測される事によって生じており、自我仮説に対する相補的な時空仮説における、他我性こそが宇宙なのです(無の無限の闇に対する自我の射影)。
全てのものは、あなたが存在するための(物理的根源にまで遡った)補完なのです。
    • good
    • 0

>神は完全であり、存在も含まれていなければならない


したがって神は存在するとあります。
この 存在 というのは、どいう事かという疑問です。

デカルトには存在を説明する必要があったのでしょう。何のためかは判りませんが。自身の信仰上の存在だけならば、自分だけの答えで良いのでしょうが、他のヒトにも判るようにとなれば大変です。現代社会が神中心でなく人間中心になって来た事も大きいと思います。

今は法則や証明の時代です。デカルトの時代とは違う事は確かです。

それでも人間は神の存在を肯定する事があるので、デカルトの疑問は解決したとは言えない様に思います。人間は何故死ぬのか?死ぬという事実があるからです。同じように考えてみると、人間には神を求める現実があるからでしょうか。

人間の造った社会の中に居ると、神の存在に否定的になるかもしれません。でも超自然的な環境(宇宙など)に置かれたら、自然に神の存在を求める事も起こるのでは無いだろうか?
    • good
    • 0

 こんにちは。



 もう正解は決まっています。神は表象しえないものです。表象しえないものを証明するも何もないでしょう。
 次のような定義で捉えてください。字数制限で全部を載せられないので 参照していただけるとさいわいです。

 【Q:魂の存在について】 その回答No.5です。
  http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa5762930.html

 《感性・感覚》というところを 《知覚》としても読んでください。

 なお《神は死んだ》というときの《神》は 観念の神のことです。人間の精神による想像の産物としての神のことです。これは 初めから作りものの観念であり 初めから死んでいると言えば死んでいます。
 ほんとうの――と言っても ただの想定ですが――神は 死ぬも死なないもありません。経験事実ないし経験思考としての《有る・無い》を超えているところに 想定されるものです。
 つまりじんるいは その言語習慣の上で ふつうに自然に 《かみ》という言葉を持ち その自己表現に用いて来ています。これは そういう想定であると捉えるのが もっとも妥当なことだと考えます。人間の存在についての条件といったところではないでしょうか。相対的で朽ちるべき限りある存在なのですから。
    • good
    • 0

デカルトの後、ニーチェは「神は死んだ」、サルトルは「仮に神が存在するとしても、無力である」(存在するかどうか証明できない)と述べています。

デカルトの思想をもじって、「神はすべての属性を有するのだから、不存在という属性も有する」と言った人がいるそうです(誰か思い出せませんが)。
    • good
    • 0

デカルトが正しいという前提で考えるのが間違いです。


デカルトの説は神が完全である(=存在する)という前提なので
存在するから存在する、とにかくそうなってるんだと
言い張っているにすぎません。
また、
「存在」は日常使う言葉で意味は常に通じており問題になりません。
「認識」「知覚」も同様です。
また、いずれにしても
認識と知覚はあなたが独自に持ち出したのであって、
それらをなぜそこに組むかにぜんぜん根拠がありません。

つまり真相は、
単にあなたが何も考えていないだけです。
答を得ようという意志がないのだから
何もわからないのはあたりまえです。
    • good
    • 0

頭が割れるほど考え、悩んでください。


そのうち思考の無力さを知ります。
それまでは、どうしても思考に頼ってしまうのは仕方ないことです。
    • good
    • 0

お探しのQ&Aが見つからない時は、教えて!gooで質問しましょう!

関連するカテゴリからQ&Aを探す


おすすめ情報