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不可知世界、形而上学世界はここでは知性のわからない世界と定義します。
では知性にはわからないことすらわからない、知らないことすら知らない世界、ありそうだとか、あるかもしれないはわからない世界に含めます。
知性がわからないことすらわからない世界、知らないことすら知らない世界は存在する可能性はありますか?

A 回答 (4件)

こんにちは。



定義をめぐって わたしからは別の見解を提出します。

1.★ 不可知世界
☆ は ≪知るべからず≫・すなわち この場合の≪べし≫は可能の意味ですから
≪知ることがかなわない≫だと思います。

2. つまり これだけでは まだはっきりしません。不可知世界が
★ 形而上学世界
☆ だと言うためには ≪知り得ない≫ということが確定する必要があります。

3. すなわち ≪知り得ないと知り得た(つまり 証明し得た)≫という説明
になるはずです。

4. つまり:

 不可知とは じつはこの経験世界に属する。

なぜなら ≪知り得た(証明し得た)≫対象であるからです。

5. ★ 形而上学
☆ も じつはややこしいところがあります。
まづ:
▲ (コトバンク:形而上 ) ~~~~~~~~
http://dictionary.goo.ne.jp/jn/66493/meaning/m0u/

《「易経」繋辞上から》
(1)  形をもっていないもの。
(2) 哲学で、時間・空間の形式を制約とする感性を介した経験によっては
認識できないもの。超自然的、理念的なもの。⇔形而下。
~~~~~~~~~~~~~~

6. ≪超自然≫は すでに≪経験を超えている≫ので時空間なる世界をも――
そこで≪有る無しを問うたり 因果関係のもとに捉えたりする≫ことをも――
超えています。

7. ですが ≪形を持たない;理念≫というのは 精神であり得 精神が認識
するものであり得ます。つまり この経験世界に属するものであり得ます。
≪認識≫の問題だというものです。超自然は 認識を超えています。

8. 形而上学は ≪物自体≫や≪世界霊魂(アニマ・ムンディ)≫やその意味で
の≪イデア≫であれば けっきょく≪超自然≫なる≪神≫を扱うものとして・つまり
は神学のごとくして 成り立ち得ます。 

9. いま 経験世界と超経験とを分けてみましょう。

 非経験の場:超経験;絶対・無限・永遠・不可変性
 --------------------------
 経験世界:時空間;相対・有限・可変性
      (そこで 可知および不可知なるものがある)

10. つまりちなみに ≪形而上〔学〕≫は 両方を意味し得ます。

11. ★ 知性のわからない世界と定義します。
☆ これも あいまいです。

12. たとえば ≪無限≫。これは 二で割っても三で割っても 答えは やは
り元の無限です。そんなものは この地上世界のどこにもないし またわれわれ
には 理解不可能です。

13. しかも 不可知のように≪知りえないと証明し得た≫のでもありません。

14. つまり ≪非経験:絶対・無限≫は われわれが≪知り得るか知り得ない
か それが知り得ないナゾ≫であることになります。これは ≪非知≫と呼び得ま
す。


15. 世界についての認識のあり方:

  経験事象
    可知
      既知
      未知
    不可知
  非経験の場
    非知

☆ つまり ≪知性の分からない世界≫というのは ≪未知≫であり得ます。また
≪不可知≫であり得ます。

16. ≪知性の分からない世界≫しかも≪分かるかも知れない。どちらとも言え
ない≫と言い添えるなら これは ≪非知≫であり得ます。

17. ★ では知性にはわからないことすらわからない、知らないことすら知
らない世界
☆ ここは 込み入っています。これは もし≪分からなかったが分かるように
なった≫そのあとそういう説明をしたのなら すでに≪知られている≫世界です。

18. つまり:
★ 知性にはわからないことすらわからない、知らないことすら知らない世界
☆ と単純に容易に言えるものごとは あり得ません。

19. ≪知らない≫ということがまだ知られていない段階で そのことを≪知
らない≫とは言えないからです。

20. 以上のような前提に立って 最終の問いに答えることになると思いま
す。
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「知性にはわからないことすらわからない、知らないことすら知らない世界」というのは、私たちの認識とは没交渉の世界という意味でしょうか。


だとしたら、そのような世界は存在する可能性はあると言えるでしょう。しかし、あっても無くても私たちの認識とは無縁なので、そのことに言及することはたいして意味のあることとは思えません。そのような世界は最初から最後まで、「あるともないともいえない」世界でしかないでしょう。
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全ての存在は、量子的な不確定性に基づいており、無限につめこむと存在確率の山が平らになって、無と等しくなります。


この「絶対無=不確定性無限」において、その無限の闇に認識体の仮定断面の運動を想定すれば、相対的に無の風は光になり、認識体はその光(量子相互作用パターン)の向うに、自己の補完(相補的不確定性)としての宇宙を認識するのです。

しかしその「存在」は、認識される階層的現象の表面的に生じるもので、根源的に絶対化しようとすると、元の無限不確定性に発散します(不確定性原理)。
実は、相対性理論にしても、量子論にしても、認識体との相対によってしか存在は無い、という帰結を潜在的に持っています。
客観的時空や絶対的存在というのはない、というものです(認識性を除外した存在は、無=不確定性無限化)。

我々は「過去は既に終わっている」「未来はまだ来ていない」ので、「存在するのは現在」と考えますが、真の『現在』とは、認識体の感受表面での量子相互作用(光速)のみであり、その経験(過去=超光速)による予測(未来=光速下)として時空的広がりは発生しているのです。
無の不確定性無限の潜在としての、「自我仮説性」の相補としての「時空仮説性」。
「相補」というのは、絶対時空を否定し、認識体との相対においてしか時空は計量できないとする相対性理論や、同じく認識体が現象表面的に物事を捉え、本質的に決定しないことにより有限的存在性は生じるとする不確定性原理といったものを伴う時空、ということです。

即ち「自我仮説」が、宇宙膨張=光速の低下=物体収縮=不確定性(h)の収束における、hの減少の時系列化である時、それが架空の時間軸となって、空間的確定性としての無限不確定的空間性が、超光速(過去=経験=時間)と光速下(未来=予測=空間)に相補分化する受け皿となり、同一軸の延長が仮説的に直交基底をなす事によって、相補的不確定性を生じ、経験による予測=現象表面的定性化における、有限的存在(=非光速)を幻出しているのです。

即ち、「何か有るんじゃないの?」という疑問(自我仮説)の相補として生じた時空仮説に対して、「本当はないんだけどね」という無の射影として、存在は生じていると言えます。
無いとは分からない事が有なのです。
「不可知世界、形而上学世界はここでは知性の」の回答画像2
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知性がわからないことすらわからない世界、知らないことすら知らない世界は存在する可能性、とありますが、


可能性のレベルではなくて厳に存在します。
イエス先生はインドに学びに渡ったとされています。仏陀先生はインド哲学から学んでいます。
ヴェーダあるいはウパニシャッドではっきりと分からないものは分からないと記されています。
なんと記されているかを知るのは、あなた次第、すなわち縁です。
この他を語っても理解できないです。
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