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感性を深める方法論の価値を問う哲学や哲学論議は?

心理学のカテでも 心と感性の世界を問う心理学の存在についての疑問の質問をしましたが、

そういう心理学の価値を問うのはやはり哲学の世界と思います。

気持ちや行動を 左右してしまう無意識の世界は確かにあると思いますが、 もし感性が深くなれば その感性によって気持ちや行動のすべてが正されてくるはずですから、 

その探究抜きに無意識を追及しても ほんの部分的にしか人間が生きていくうえでの生活や意識に役立たないと思います。

そのへんを問う哲学が 過去においてはありましたでしょうか?

ありましたら 現在それはどのようにどこまで発展しているでしょうか?

みなさんのお考えをお聞かせください。

よろしくお願いいたします。

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A 回答 (3件)

反面教師という言葉があります。



こういうのはダメということからハジめるのもよいのではないでしょうか?

具体的にダメな諸例)
「感性=環境認識力」としゅちょうしながら、いつもおなかの具合が悪い、健康食品狂信者。味覚異常で、やる気がなく、昔のことしか頭にない自称 「最新の哲学者」

自分は最高とわめきながら、友達がいない。学生運動をやりすぎて、就職できないとわかり、広き直って海外逃亡したのに、自分がなぜつまはじきにされるのかわからない。不確定なものに基づくことは、できないのに「全ての存在は、量子的な不確定性に基づいている」と発言し、優柔不断な「自分中心」こそ宇宙の真理であると信じている。そういう典型的自己中。

宇宙には何もないと妄想し、全ては無だとわけのわからないことを断言、無と有は、「厳密には等しくない」のだが等しいといううそを言う。

認識を物理的に切ることは出来ず、無限のゼリーも存在しない
という ごく単純なこともわからない 鼻くそ。
本当の宇宙が見えず、望遠鏡を見ているだけなのに、自分には「見えない宇宙」が見えると主張するペテン師。

いつも汚い服装をしているので、色覚に鈍く、計測可能な色が存在しないという、変わった人。

「イタイの」「きついの」はいやなのに、
経験や感情、本能や肉体的形質の射影である「ひょろひょろボクチン」が、この世界の本質であるとしんじている自己中。

聞き手はいつも馬鹿だから本当の説明は、おいらの完全最強論理を研鑽・暗記してからにしろ!と叫び、詳しい説明は、次の機会にすると言い逃れる。「精神の内容」・「自我の存在場所」を説明することすら出来ない卑怯者。

唯物論者特有の感謝のない態度をもち、悪いのは社会だとトンでもない責任転嫁をする音速赤軍。「色は存在しない」と主張し、自分が真っ赤であることを隠したい臆病な社会主義者。

精神の幼稚園児(唯物論者)が何人集まってけんかをしても、勝負がつくはずもなく、自分はマッハを改造した最強の哲学者であると信じて疑わない無知な人。

マッハは、マルクスに敵対したという馬鹿な想像をする正真正銘の唯物論者。
馬鹿な唯物論者が二人集まっても、馬鹿であり、かえるの子はかえるで、知識が増えるはずがないのに、なんでも足し算と掛け算で考えようとするが、計算は苦手という自己崩壊。

おや こ ともども、醜い腹を公衆の面前にさらし、くだらないコピペと補完説明でみんなを困らせる高齢者。

一級も持っていないのに教員面するおっさん
こういうお爺さんの感性では何も得るものがないということです。
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この回答へのお礼

御回答ありがとうございました。

Okウェブのリニューアルにともな不具合なのか しばらくログインもできなかったり、お礼欄に記入も出来なかったり  その波の様なものがあるらしく、  

ともかくこの質問には長い間、お礼も出来ませんでした。

それぞれ 私には学ぶところがありますので、  貴重な財産としてこれからも参考にしていきたいと思います。

この場を借りてみなさんにもお礼します。

ありがとうございました。

お礼日時:2010/04/24 17:21

カントの『純粋理性批判』をお読みになると良いでしょう。


我が国での最新の研究は、以下のサイトをご覧ください。
http://d.hatena.ne.jp/ps020070/20100320/1269101415
http://akademeia.info/index.php?%A5%AB%A5%F3%A5%C8
http://www14.plala.or.jp/kesakando/sinjitu3.html
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この回答へのお礼

御回答ありがとうございました。

お礼日時:2010/04/24 17:15

「感性=環境認識力」として良いのであれば、認識こそが宇宙の本質です。


最新の量子論的世界像において、有限な存在性は観測される事によって生じています。
全ての存在は、量子的な不確定性に基づいており、無限につめ込むと存在確率の山が平らになって、無と等しくなります。
この「絶対無=不確定性無限」において、その無限のゼリーの中に、仮想的な認識体の断面を切ると、その認識体にとって、相補的不確定性を伴う存在による宇宙が見えます。
無の不確定性無限の潜在たる「認識可能性(=自我仮説性)」に対する、相補的対発生としての「時空仮説性」。

たとえば、「色」などというのは、物理的には存在しません。
確かに、電磁波の波長と相関はしますが、それは連続的に変化するもので、「赤は青の反対」だとか、「色環」といったものは、物理的根拠はありません。
そうした、経験や感情、本能や肉体的形質の射影が、この世界の本質を成しているのです。
「空間的広がり」も、物理的につきつめれば、感受表面における量子相互作用(五感も全て媒体と感覚細胞との量子相互作用)に還元され、その先行的(視聴覚)相互作用パターンに、過去の五感の相関した経験によって予測されたもの(そこに行くと(生理的に)何が起きるか)が、“遠くの物”になるのです。
しかも、その「感受表面」自体が、仮想的広がりに有限な大きさを有していることで、完全に先入性は否定され、「自我仮説と時空仮説の相補的対発生(=物理とは、あなたが存在するための無にまで遡った補完)」になるのです。
(ここから先は物理になるので、私の過去回答をご参照いただければ幸いです)

進化には、アリ型とヒト型があります。
ヒト型の特徴は、進化における適応(~組織化)を、遺伝子の変異に対する自然淘汰によって行うのではなく、認識の発達=環境認識(自意識の目覚め)による行動パターンのフレキシビリティによって行うところにあります。
(アリやハチは遺伝的に形態や行動の多様化が決定されている)
ヒトの進化は元来、脳の発達による行動の可塑性&多様化による、遺伝子の変化を要しない環境への適応や組織化でした。
ところが、その社会性(=助け合い)の発達の延長上に、工業化における分業化や市場の拡大においてお金を発明し、その“馬車馬の目の前のニンジン”によって操られ、他律的に生きるようになった時から、人の認識の発達は、自己存在の本質の認識による自律的生のための認識(=質の向上)から、お金をもらうためにイヤイヤ働かされる歯車としての知識(=量の増大)へと、変質してしまったのです(感性の鈍化)。

お金は、本来助け合うために集まったはずの社会において、自己チュー的な意識のまま社会行動をとらせるための“矯正具”として発達したものなので(社会生命として生きる事である労働(助け合い)を、お金をもらうために嫌々働く)、当然、自由意志を束縛する機能があります。
本来、社会的生命として助け合うために集まっている人々をして、弱肉強食のジャングルに変える、悪魔のツール。要するに今の人は、自ら喜び(自己存在の本質に根ざした生)に目をそむけ、他律的生=「苦痛から逃げる事による生」に堕しているのです。
(「助け合う喜び」から「奪い合って勝つ喜び(幻想)」への変質)
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この回答へのお礼

御回答ありがとうございました。

お礼日時:2010/04/24 13:02

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