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神様は魂の崇高な人物ほど多くの試練を与える、というのは事実だと思いますか。

ちなみに私は、自分で言うのもなんですが、日本一酷い目に遭ってきたと思えるほど、滅茶苦茶酷い目に遭ってきた者です。

試練と酷い目に遭うこととは同じことだと思いますか。

A 回答 (17件中1~10件)

どんなひどい事ですか??



私は、、
母親の実家の金目当てに結婚した父親に、子供の頃から木刀で殴られ、食事を一週間なしという日が続きながら道の草を食べたり、社会から食べ物を頂いたりしながら(書けませんが)高校中退を求められて、青春全部潰してバイトで学費を作り、卒業したら年中無休で徹夜で働いて、下の兄弟を養うために金を家にいれましたが、20歳で300万の借金背負って、裁判を二つ抱えながら生きています。
今は借金200を切りましたが、独立をして始めたとたんに、仕事先でチンピラに軟禁されたり、この大不況で経営困難。。。

そんな私は、型落ちの元高級車をフルスモで高速をかっとんで居ます。
今の車が鬱陶しくなって、だれかに高く売りつけたいなぁと思っている毎日です。

自分自身、魂が崇高だなんて、絶対思えません。

よって、事実だと思いません。

この回答への補足

寄附を募ってます、で検索してください。そこに載っている以外にも山ほどあります。

補足日時:2010/05/18 00:08
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全ては確率の問題であり、全ては平均値に収まる。


宝くじだろうと、死ぬまで買い続けて、さらに次の人生でも買い続ければいずれ当るように、無限は平均へと収斂していく。
運が悪いのはたまたま平均から外れたくじを引いたから。

ただし試練は自分から甘んじて受ける物。
運だけで試練が与えられるなら、
偶然だけで大統領や総理大臣になっている人間がいても不思議ではないし、
何の努力もしていないのに、
何十年も続いている大企業があっても不思議ではないから。

こんな感じ。
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私は神様がこの世に存在すると仮定するならばそれはわれわれの脳内に存在すると思ってます。


認識はできるのに感覚では感じ取れない(見えないし聞こえない、におえないけど認識はできる)ので。
そしてその考えに順ずれば「神様が魂の崇高な人物に多くの試練を与えている」のではなく「魂の崇高な人物ほど、しっかりと目標・試練を定めてそれを乗り越える」のだと思います。そして乗り越えるから更に崇高になるといった。。
なので質問者様も「酷い目にあってきた」と悲観するのではなく「これほどのことに耐えてきた。だからそれだけの報酬が訪れるはず」とポジティブに考えればいいと思います。
私自身、「思い」の影響力が絶大なことを身をもって経験しました。
試練と酷い目は同じだとは思いませんが、考え方によって「もたらす結果」を同じにすることはできると思います。
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有ると思います。

神は乗り越える力が存在する人物にそれを与え乗り越えるのを見てます。いつまで続くか解りませんが…ただ、それが自分自身乗り越えた、と思っていても神から見てまだまだと判断された場合又同じ様な試練が与えられます。
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大切な事を忘れてしまいました。

試練も酷い事も乗り越えると言う面から見れば同じです。
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原因と結果が逆なんじゃないかと思います


試練を乗り越えることでそこに何かを見出し成長する
それを幾度となく繰り返した結果崇高な人物になるんだと思います

そこから辛い目にあってる人をなぐさめたり発破をかける時にそう言うようになったんでしょう
崇高なんていわれたら悪い気しませんからね
「よし!もう少し頑張ろう」とか「あの時の苦労は無駄じゃなかったんだ」って思えるでしょ?
最もそういわれるとかえって重荷になっちゃう人もいますけど…

だから試練と酷い目に遭うこと別物
試練を乗り越えそこから何かを得た成功者にはとっては試練ですが
そうでない敗者にはただの辛いだけ出来事
何かを見出すのは別に自分の経験じゃなくてもよかったりもします

試練と呼べるようになるかただ辛いだけかはあなた次第です
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試練と酷い目に遭うこととは同じことだと思いますか。



○試練の中に含まれるものですね。だから同じです。
神は背負えない荷物は課さないですから、あなたはそれが背負えるということですね。
背負いきってくださいね。立派な試練ですから立派な魂なんでしょうね。
疑問はなくなったでしょうから楽しんで背負えばいいんですね。
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 神様が試練を与える事はないと存じます。


 自分に必要だから、試練のある選択をしていくように自分の内奥の意識が指導しているのだと存じます。
 ただただ徒に、苦労やトラブルのある生活、人生は滅茶苦茶に生きているだけのことであると存じます。それは克服して当たり前であり、もっと勉強と進歩につながる試練であるように自分の生活をきちんとするべきだと存じます。
 崇高な人って知りませんが、高い人は無用な自分のトラブルや試練よりも人のそういうことを取り除いたり、克服できるように協力や援助をしております。
 イエスや孔子、釈迦も確かに試練はありましたが、意味が違います。
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神様がいるとは思えないので、「与えられる」という事はないでしょう。


ただ、向上心があれば、困難な状況に挑む、という事はあると思います。
(しかしそれは克服する喜びにつながるもので、「困難を与えられた」という性質のものではないでしょう)
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事実ではありません。



神は自然界の摂理を決めただけです。
人間界の個人ごとの魂が崇高か低俗かなどに興味は無いはずです。
いわんや、その高低によって自然界の摂理の適用不適用を匙加減するなんて事は考えられません。

これは、宗教という名の集金マシンを構築・運営している人間が、集金マシンとしての効率を最大化しようとして日夜考えているキャッチフレーズのひとつではないでしょうか。
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