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高校生のサブ教材にとても素晴らしい短編がありました。大変感動して読んでいたら、ところどころに設問があって、「彼はなぜ○○と言ったのか?」とか「要約せよ」とか書いてあります。
この設問を見たとたん、せっかくの感動が粉砕されたような気分に陥りました。

国語の授業でお馴染みの設問ですが、文学作品を細切れにし、分析し、それをもって「解釈」とか「読解」と称し、テストまでしたのでは、文学嫌い、読書嫌いを産み出すだけではないでしょうか。

国語教育ってもっと別のやり方があるのでは、と思うのですが、教育者、文学部の方、先生を目指す方、生徒・学生さんのご意見など、お聞きしたいです。

A 回答 (6件)

私はいわゆる国語の専門家ではありません。

小学校からの国語の授業を振りかえってみると、”日本語”の書き方:正確な単語の使い方、文章の書き方、などを習った覚えがありません。 直ぐに、読んだ物語・作品の感想文を書け、などなど、文学教育=国語教育 だったような気がします。たまたま、ドイツで手に入れた、ドイツ語のドイツ人中学生(?)程度の参考書を見ると、文章で何を主張しているか、内容を読み取れているか、などの設問が多いような気がします。 また、小学威年程度では、文字の読み方、書き方、などが中心のようでう。 文学鑑賞は 国語教育の極一部にすぎないと思います。先ずは、日本語を正確に読み、書き、理解する、ような教育であるべきと考えます。                       鑑賞はその後でよいと思いますが。要約は、内容理解の確認には必要なことと思います。 本当に、短編の内容をご理解されたのでしょうか? 理解無しに、鑑賞/感動は無いのでは。

矛盾するような内容を書いてしまったようですが、文学教育より、言語としての“日本語”教育を受けたかった、と言いうのが、私の本音です。国文科では無理でしょうね。
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この回答へのお礼

ご意見に共感します。
「感想文」や「生活作文」ばかり書かされていたのに、大学でいきなり「論文を書け、感想は要らん」。大いに困惑しました。
「日本語の授業」と「文学の授業」分けて欲しいですね。
ありがとうございました。

お礼日時:2003/07/20 10:40

はじめまして。


国語を教えているものです。国語を教える意義は、日本語の表現力を付けることにあるのではないかと思っています。日本語の表現力があれば、様々な感動を伝え、また受け取ることができます。
文学作品に感動することは、この「表現力を付ける」という点から見ても、大変有効だと思いいます。しかし、それだけでは不十分です。感動を伝えた、味わわせたというだけでは、国語を教えたことには成りえません。
その理由は、授業中に文学作品を味わっても、それが表現力など日本語の能力に結びつくまでに至るには、とうていその量が足りないからです。「好きこそものの上手なれ」で、本ずきの人は授業以外で日本語に多く触れ、その能力を高めていくことができますが、そうでない人が国語の時間内に力をつけようとする場合、「感動」を目指していたのでは、遠回りに過ぎるのです(一部、それで充分な人もいるでしょうが、残念ながら限られています)。
それならばと、日本語好きにすること、本好きにすることを国語の授業の目的にするのでは、「国語の時間外に力を付けてくれ」という姿勢の指導となり、これはあえていうなら「責任の放棄」です。
いま、国語科の指導は「文学作品を味わう」ことの占める割合を低くし、「どんな力を付けるか」という視点から指導する方針に変化してきています。「書く力」「読む力」「話す・聞く力」などがそれにあたります。
授業を通してどんな力を付けられるか。限られた時間の中で、多くの子どもに日本語の力を付けるのが国語教育の目的かと思います。
「設問」が、作品を細切れにしているとお感じのようですが、理解を助け、感動を深める問いかけもあります。何より、子ども自身が抱いた疑問を解いていくことは、彼らにとって大きな喜びになっています。
文学作品を味わうこと、教材として使うことの意義は、変わらず大きいと思います。

「設問によって文学が嫌いになる」「感動がじゃまされる」と思う人は、きっと繊細な感覚をお持ちなのでしょう。その感性に、実際的な日本語の力を付けてあげられればと思っています。

それでは。
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この回答へのお礼

丁寧な回答、ありがとうございます。

国語教育・授業の難しさを考えさせられました。
深く感動すればこそ、大勢の前で感想(心の内)を伝えたい子もいれば、公表したくない子もいますね。それぞれ感性を大切にして欲しいのです。
お礼が遅くなって、ごめんなさい。

お礼日時:2003/07/20 10:25

高校で国語の教師をしている者です。



>せっかくの感動が粉砕されたような気分に陥りました。

>国語教育ってもっと別のやり方があるのでは、と思うのです

お気持ちよく分かりますし、別のやり方をしている実践例もたくさんありますが、長くなりますのでここには書かず、あえて反発されそうなお答えを致します。

それは「文学好き・読書好きほど解答を間違える」ということです。

好きですから、のめりこみます。「私ならこう思う。」「わたしならこうするのに。」
しかし、一般の入試問題でそういうことが聞かれることはまずありません。特にセンター試験では、正に重箱の隅を突つくように「この選択肢のこの部分は本文と違うから×。」「この選択肢のこの部分は本文にないから△。」この選択肢のこの部分は本文と合っているから○、だけどこの言葉が違うから×。」と解いていかないと、正解が出ないようになっているのです。ですから、詩・短歌・俳句などの韻文から出題されることは稀です。「感じ方」を客観的に採点することは難しいので。

もしすべての入試問題が「あなたはこの作品をどう感じましたか?」という設問で、それに対する、ユニークで一級の解答のみ点が与えられるものであれば、国語教育もずいぶん変わるでしょうが。

しかしそうすると「主観的な設問だ」とか「悪問だ、愚問だ」といわれてしまうので、出題者の気苦労も一方では分かるのです。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。
入試問題に適応するための「国語教育」ということですね。ならば、文学作品は教材から除外して欲しいです。
本好きの子達が教科書に出てる作家を次々と嫌いになっています、「一生読まない」と。作家のためにも子供のためにも胸が痛みます。
そうしたこと、先生方はご存知なのでしょうか?

お礼日時:2003/07/10 23:54

大学で、日本語教育学を専攻している学生です。


日本語教育と国語教育の違いを授業で話し合ったことがありますので、文学の読解を中心に、その時のことを書かせて頂きます。

日本語教育ではテキストで文法や語彙を学ぶので、読解をする時には、教師が幾つか候補を出し、その中から生徒に読みたい本を挙げて貰います(生徒のレベルなどを考慮して、こちらで指定することもあります)。読解が出来るようになるのは、中級から上級レベルの生徒です。初級ではハードルが高いので、困難です。基本的には短めの作品を最初から最後まで読み、その作品中で使われている語に新出のものがある場合は、その都度調べます。一度で読み終わるわけが無いので、毎回数行の感想を書かせ、その感想文で明らかに使い方のおかしい文がある時は直しますが、その内容については直しません。
大体このような感じで教えることが多いと思います。

一方の国語教育では、教科書にある作品を順番に読んでいくため、生徒が作品を選ぶことは基本的には出来ません。さらに、教科書は作品の一部しか載っていませんから、作品を通して理解する事も難しいです。先生にも依りますが、毎回感想を書かせる授業は少ないでしょう。さらに「こういう解釈でないと正解とはいえません」という考えがあるので、先生と違う解釈をしたら減点されるのです。文学作品は読む人それぞれの解釈があって良いはずですが、そうではないのが現状です。
また、現在の国語教育は、文学に親しむことよりも、聞く・話すほうに力を入れています(実際に聞くことが出来る子は少ないと思いますが)。読み書きについては、それほど重要視されていません。子供たちに作文を書かせると、言いたいことがあるのにも関わらず、なかなか書き出せない子が多いですよね。作品を読んで貰って感想を聞くと、「別に何も感じない」と答える子も多いのです。

こう考えると、確かに他のやり方はあると思います。ただし、国語の授業時間は削減される方向にあり、その短い時間でどれだけのことが出来るかを考えると、作品を細切れにせず最後まで読むということは困難です。もし一つの作品を読ませるとすれば、他ジャンルの作品をフォロー出来るかどうか疑問ですし、多様な解釈が可能な文学作品の場合には、本当に実力のある先生でないと意見の調整が出来ないでしょう。結局は、今の状態が一番効率よく、楽ではないでしょうか。

長文失礼致しました。参考になれば幸いです。
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この回答へのお礼

興味深いお話、ありがとうございます。

「国語教育」が何を目的とし、何を学ばせようとしてるのか解らなくなりました。
いっそ「日本語教育」のようなやり方の方がすっきりするような・・

お礼日時:2003/07/10 23:43

私は、大学の文学部文化学科国文学専攻の学生です。



私も、「彼はなぜ○○と言ったのか」という設問はどうかと思います。
でも、「要約せよ」という設問は良いと思います。 
それは、読解力(特に、長い文章から要点を見つける力)がつくと思うからです。そして、読解力がつけば文章を読むことも好きになると思うからです。
また、文章力もつき、これは後々の論文を書く時にも役立つと思うからです。

しかし、やはり、私の高校もそうでしたが、高校の国語の授業は、大学受験のための機械的な勉強で、好きになるための勉強ではないような気がします… 

つたない意見ですみません。
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この回答へのお礼

>高校の国語の授業は、大学受験のための機械的な勉強で、

それが現実なのですね、残念なことです。
ただ、読解力・文章力の訓練は文学作品ではなく、論理的な文章の方が適してると思います。
回答、ありがとうございます。

お礼日時:2003/07/10 23:29

テストって、その人の国語の力がどれほどあるか診断するためのものでしょ? つまり、文学好きにすることが目的ではないのだからしかたがないのではありませんか?



学力診断が目的ではなく、文学好きにするのが目的だったら、そういう設問ではなく、また別の方法があると思いますが。

文学作品を絶対に細切れにせず、分析もせず、質問もせず、それで全ての生徒が文学がよくわかって好きになるような指導、って、そりゃできる先生もいるとは思いますが、かなり難しいでしょうね。

世の先生たちはみな、日々指導法を研究していらっしゃって、それぞれその先生にできる最も効果的な指導をなさっているのだと思いますよ。

この回答への補足

>文学好きにすることが目的ではない
そうでしょうか?
国語教育(義務教育も含めて)には、文学と言う芸術を学ぶ(?)味わう、継承する、といった目的もあると思うのですが。

文学を好きにするどころか、文学を嫌いにさせてることを憂えてるんですが。

補足日時:2003/07/10 08:52
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。

あえて言わせていただくと、生徒がその科目を好きになるような授業をするのが、先生という職業の義務だと思います。研鑽を積み努力していただきたいです。

お礼日時:2003/07/10 23:35

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