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昨今の仏教界って世のため、人のためになることをしていますか。
昔の僧侶は井戸を掘ったり、道を作ったり、救済事業を行ったりしていたようですが。
このごろお寺に行くとやたら「寄付して」と声高に言われたり
(文化財保護のためお金がかかるんでしょうが、あまりに言われるとワーキングプアは参拝しづらい。
拝観料とお賽銭くらいはしますが。)
参拝者を邪険にするような態度をとる関係者がいて
はあ?と思います。

A 回答 (16件中1~10件)

人のためになることをしているのは知らないですね。



私の寺では、檀家の無縁仏をまとめて隅に追いやって、新たに墓を分譲し、豪華鉄筋コンクリートの建物に建てかえました。木造にしてほしかったのに鉄筋コンクリートです。良く見たら車も檀家の私たちが買えないV8の大型高級車になっていました。

仏教徒と仏教ビジネスマンを分けて考える必要があって、仏教ビジネスに邁進している人々は宗教法人の税制優遇を使ったりしてうまいことやっているように見えます。その一方で在家信者や全うな修行僧もいらっしゃいます。この方たちは目先「世のため、他人のため」とは言わないですが、日本に仏教の教えを残すことに貢献されているのでしょう。もし、この方々の無償の努力が無くなれば、韓国の様にみなキリスト教に折伏されてしまうのではないでしょうか。

世を捨てて出家した方々に「世のため、他人のため」を期待してはかわいそうです。
彼らは生涯を掛けて仏教を学び後世に残すことで貢献していただきたいですね。
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この回答へのお礼

早速の回答をありがとうございます。
なるほど、人のためになることをするのが仏教ではないのですね。
仏教を学び後世に残すこと、それは立派なことでしょう。
しかしここでひとつ疑問がわいてきます。
修行僧の方たちが、仏教の理論(この言葉が正しいかどうかわかりませんが)を学ぶのは何のためなのでしょうか。
ただ知識を身につけるというためだけに彼らは学んでいる?
そうであるとすれば、それはとても空しいことのように思えます。

お礼日時:2010/07/01 15:14

都営・戸山団地:僧侶が電話で人生相談 65歳以上の入居者が6割


http://ameblo.jp/syogai1/entry-10529902636.html
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。
とてもいい話ですね。
この方は仏教の教えを実践されておられるのでしょうね。

お礼日時:2010/07/01 15:19

#1です。



舌足らずの回答でしたので、追加させてください。

まず、私個人は仏教が好きなんです。でも坊主が好きというわけではありません。
どうして、私が大昔のインドの御釈迦様に端を発する仏教に出会う事が出来たか、と問えば、それは何千年にもわたって俗世間の欲を捨てて出家し、精進し、研究し、翻訳し、伝承してきた僧侶たちのおかげと思い感謝しています。

目の前にいるAという坊さんに感謝しているわけではなくて、匿名の何千何万という仏教徒全般に感謝していると言えば分かりやすいでしょうか。ですから、今の仏教界が今の私になにか具体的な、井戸を掘ったり、道を作ったり、救済などの役務を提供してくれることを期待する訳じゃないんです。坊主の方はといえば、創価学会などの新興宗教は言うに及ばす、それ以外でも大体嫌いですよ。

ちょうど、数学者や物理学者という人々に感謝するのと同じでしょうかね。フーリエさんと言う数学者がフーリエ変換を考えてくれたおかげで、いま病院でCTスキャンなどの画像診断で私の内臓を観てもらうことができる。アインシュタインさんが特殊相対性理論を考えてくれたおかげでGPSが実用化され、クルマのカーナビで便利なドライブができるようになった。このような人類の進歩に感謝するからといって、目の前にいる数学者Bとか物理学者Cに何か感謝の気持ちで一杯だということでもありません。

さて、現在、世の中のために電話相談をしている坊さんが居ます。立派な行いだと思います。
でも、これで仏教界が現世に貢献しているかどうか議論するのは間違いです。プロ野球選手でチャリティーに貢献する人がいたり、医者で難民救済に頑張る人が居たりするのと同じで、個人の社会奉仕活動なのですから、プロ野球選手会とか日本医師会とかに感謝しなきゃならない事項ではないのと同じですね。

で、仏教ビジネスですけど、これはこれで上記とは別の次元で現実的な社会の効用を担っていただいている。すなわち、先祖の墓をまもり、仏事に際しては御経を読んでくれる。現実世界のサービスですから、これにはこれで対価を払わないと坊主の生活ができないですから、ある程度の対価を払う事は当然ですよね。ただ、行きすぎて、税制の盲点を利用したり、檀家にも手の届かない高級車に乗りまわすのはどうかと思います。

修行僧や在家信者も自分の興味だけで知識をまなんでいるのではなく、仏教の言うところの救済を考えて色々と活動されているともいます。
===参考===
仏教は元々、個々人の輪廻の鎖を断ち切り悟りを得ようとする営みから始まったものなのだが、大乗仏教が興ると自分のみならず他者(衆生)も救済しようという方向性が現れた。(Wikipedia)
=====

つらつらと長くなってしまいましが、行政サービスが充実している現在、仏教徒は本分に立ち返って、衆生済度を目指して精進していただきたいと思います。

===衆生済度===
仏道によって、生きているものすべてを迷いの中から救済し、悟りを得させること。▽仏教語。「衆生」は生きとし生けるもの。人間を含むすべての生きもの。「済度」は迷う衆生を悟りの境地に導くこと。
====
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この回答へのお礼

再回答をありがとうございます。

こちらこそ、回答者さまの意図しているところを十分にくみとれず失礼いたしました。

どうやら回答者さまと私が感じていることはおなじのようですね。
私は仏教がどういうものか、よくは知りませんが
宗教というものが人の生き方をとくものであるならば
人々を導くための僧侶やお寺の関係者の人は人格者でいてほしいのです。
いや、人格者でなくてもいい。
普通に気持ちよく参拝者に接してくれさえすれば。
ところが、世の中にはイジワルな僧侶や関係者がいます。
百貨店やスーパーの店員さんでももっと親切ですよ。

トイレさえ貸してくれないお寺がありました。
私は俗人ですが、他人にトイレくらい貸します。

またあるお寺では「銀杏の実をとらないでくださいね。防犯カメラつけてますから」といわれました。
「私は銀杏の実をとったりはしていません。感じの悪いお寺ですね。もう二度とこない。」
と言い返すと
「最近の若い人は注意するとすぐ逆切れする」
とこうです。あきれました。

スーパーで客に「万引きしないでくださいね。防犯カメラついてますから。」と言うところはないでしょう。
店の商品を持ったまま店外に出たところで万引きの現行犯として捕まえます。

お寺というところがもう少し、心の通ったところであってほしい、と思うのです。

>現在、世の中のために電話相談をしている坊さんが居ます。立派な行いだと思います。
でも、これで仏教界が現世に貢献しているかどうか議論するのは間違いです。

私はこういう僧侶の方が増えてほしいなあ、という気持ちを書いたまでで
仏教界が現世に貢献している、と書いたのではありませんので
ご理解願います。

>ただ、行きすぎて、税制の盲点を利用したり、檀家にも手の届かない高級車に乗りまわすのはどうかと思います。

同感です。
お釈迦様が質素な装いをしておられるのはなぜか、ということをよく考えていただきたい。
僧侶に妻帯が認められるようになったことが仏教をダメにしているのではないか、と思ったりもします。
世襲になってしまっていますでしょう。
それで自分はエライと勘違いしてしまっているのでは。

丁寧な回答をありがとうございました。
大変参考になりました。

お礼日時:2010/07/02 11:07

木造大工さんは、酸いも甘いも十分経験為さって、そんな経験から学ぶ素直な素養をお持ちの方の様で、何時も説得力のある回答を楽しんでいます。

そんな事情があるので、横道にそれることを質問者さんに前もってお詫びしておきます。

互いに年寄り同士ですので、言いたいことを言っても若い方程には叱られないと思います。大工さんの言葉の彩を読み取っていると、大工さは苦労をして来たとは言え、多分それなりに恵まれた環境にいたのではないかと思えました。私は柳田國男のファンなのですが、日本民俗学の性質上、この学問は外国物を勉強してその翻訳をしていれば学者だと認められるような学問ではない。従って、嫌でも外国物の受け入れでない独自の意見を述べざるを得ない訓練を知らず知らずのうちにやっている。そこのところに惚れているのです。さて、柳田が言うには、表向き一見不合理に見える物でも、どこかに合理的な物が無いもので皆さんに受け入れられて来た物は存在しないとのことです。私も賛成です。

じゃあ、何であれだけ多くの人達に毛嫌いされている創価学会がこんなにも多くの信者を手に入れることが出来たのか。大工さんに取って大変良い練習問題では在りませんか。これから、不出世の天才、猪突だか、衝突だか訳の分からないこの金粟如来もどきが、糞土の中に大道を探しておられる米虫もどきの大工さんに、その模範解答を伝授致しましょう。

少なくとも一昔前までは、日本人は自分自身の同定(私の嫌いな片仮名によるとアイデンティティと言うそうじゃ)を、集団への帰属として認識していたようです。私は、三菱系列の一員である、トヨタ系である、清水建設系である、なんて言うことで心の安定を得ていたようです。職業を聞かれ、「私は三越に努めています」なんて答えて、外国人の目を白黒させた話は有名ですね。運に見放されずそこそこに生きて来られた殆どの方は、大抵どこかの系列に入っていられた。ところが、そんな系列に入ることができない方も結構居られたのです。特に戦後は、戦争未亡人、紙芝居屋のおじさん、畳屋のおじさん、ラーメン屋のおじさんやおばさんたちは、どこの系列にも属せない。ところが、上に述べた日本人の独特の帰属意識は、そのような、社会の一般的な枠から外された方達を不安にしてしまいます。そんな時に、そのような系列と言う笊から漏れた方々を上手にすくい上げて、「はい、私は創価学会です」と言えるようにしてあげた業績は大変な物だと思います。

私の見方が的を射ていそうだと言う傍証は、系列会社の頂点に立つ本社の連中で創価学会員を捜すのが至難の業だと言う事実です。苦労してきたとは言へ、運良く社会の一般的な組織に所属でき、運命に翻弄されてズタズタになってしまうような経験をして来なかった方の中に創価学会を毛嫌いする方が多く見かけるようです。米虫大工さんも、もしかしたら、そんな適度に恵まれて来た方のような気がしています。どうですか、当たっていますか。金粟如来もどきのこのご高説は、田へしたもんだよ蛙のしょんべんでしょう。

私も、池田大作の俗っぽさはどうも好きになれません。しかし、運命に見放された人達に、

 ひとりじゃないって~~
 すねきなことね~~
 いつまで~も~~
 どこまで~も~~

って言いながら、創価学会が救った社会の底辺の人達が一杯いたということもお忘れなく。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。

ああ、なるほど信者になることで連帯意識を持てる、ということはあるでしょうね。

うちの義母も創価学会ではありませんが、新興宗教の信者になっています。

多額のお布施を強要されるわけでもなく、信者さんの友人もできて
旅行に行ったりすることもあり
高齢の義母にとってはプラスの面が大きいと思います。
私に信者になれ、ともいいませんし。(宗教は信仰していませんので。)

ただ創価学会は「信者のため」にはなっているかもしれませんが
「世のため人のため」とはいえないのではないでしょうか。

宗教が信者のためになることと
宗教が世のため人のためになることとは
別だと考えます。

例えばNo.2山の回答にある電話相談ですけど
信者でなくても相談に応じておられるのだと思います。
こういうのを世のため人のためだというのだと思います。

信者さんは「世のため人のため」になっているというでしょうけれど。
近所の学会の人は「あそこの街灯は公明党のおかげでつくられたんですよ」
などと言っていますので。

選挙前になると何年も音沙汰のなかった人が急に「友達じゃない」などと言い出し
「公明党に投票してほしい」とうるさいです。

※中には訪れるたびにいいお寺だなあ、と思うところもあります。

お礼日時:2010/07/02 11:27

こんにちは。



>昔の僧侶は井戸を掘ったり、道を作ったり、救済事業を行ったりしていたようですが。

かつては昨今とは比較にならないほどの「寺社勢力」が存在していたわけで、それを背景として相応に諸々の社会的な救済事業を盛大に行っていたのかなと思いました。

>昨今の仏教界って世のため、人のためになることをしていますか。

先日のワールドカップのPK戦、本当に惜しかったですね。
観戦し終わったあと、ふと、過去のアメリカ大会決勝PKにて、ロベルト・バッジョ(当時のイタリア代表でファンタジスタの代名詞)がボールをふかしたシーンを思い出してしまいました。
あのシーンはね、いまだに忘れられません。

彼は創価学会に信仰を置いているらしく、池田大作をつかって「バッジョを日本代表に!」なんていう願いをこめた噂も当時飛び交ったくらいです。
少なくとも、バッジョに関して言えば、その信仰は彼の「ためになった」らしい。

>参拝者を邪険にするような態度をとる関係者がいて
>はあ?と思います。

なるほど。
自分にストイックだと、自然と他人にも厳しく節制を求めてしまうという、そんな宗教関係者も中にはいるのかもしれませんよね。
まあ、あまり気になさらずに、豊かで実りあるライフ・ワークにこれからも邁進なさってくださいね。
(ちなみに私は創価学会とは無関係です、念のため。)
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この回答へのお礼

こんにちは。
回答をありがとうございます。

ああ、そうですね。
かつての大寺院は荘園を増やすことで莫大な富を得ていたのでしょう。
慈善事業を行っていたのも当時の怨霊信仰と無関係ではないでしょうし。
(つまり自分たちの罪が許されるために慈善事業を行っていた・・・とも考えられますね。)
もともと日本の仏教は鎮護国家のためのもの
(というと聞こえはいいのですが、実は天皇家と一部の貴族のためのもの)
だったので、世のため、人のためという考え方などなかったのかもしれません。

質問の書き方が悪かったかもしれません。
世のため、人のためにならずとも、もう少し世間一般の常識が通じるようにできないのか、
と思ったわけです。

>少なくとも、バッジョに関して言えば、その信仰は彼の「ためになった」らしい。
つまり、宗教とは信者にとって役にたつものだということですね。

信者でないものにまで役にたってほしいとは思わないですが
せめてスーパーマーケット以下の対応をして不快な気分にさせないでほしい
と思います。

信仰心のない私でもみほとけと対話したいと思うことがあるんです。
そんなときに隣で寄付寄付とがなられたらうるさくて仕方がない。

まー、ちょっと不快なことがあったので愚痴りたかったんです。
すいませんでした。

お礼日時:2010/07/02 16:26

 こんにちは。



 いくつか 反応するところを持ちました。ただし諸回答を読んだ結果ですが 質問の趣旨に沿って投稿します。

 (1) 基本的なこととしてわたしは 次のわたし自身の質問をつうじて 次の命題を得ることができました。

  質問:【Q:慈悲は 人間にとって行為しうる経験現実か?】
   http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa5764972.html
  命題:慈悲とは 基本的に 存在論である。(《わたし》の境地の問題に還元される)。

 もちろん《慈悲》は 《友がら》の意味の言葉から来ていますから 関係性をも問題にしています。あるいは 人間の社会的な交通(まじわり)についてです。それもこれも ただし――犀の角のごとくひとり歩めではありませんが―― ひとりの人間としての境地にすべてはかかっているといった意味合いであろうと考えます。
 ですから どなたかもおっしゃっていましたが 慈善事業や救済を がむしゃらにおこなうというのとは 微妙に違うということのように捉えられます。
 ぎゃくに言えば
 ★ やたら「寄付して」と声高に言〔う〕
 ☆ ことが 存在論としての慈悲であるとは思えません。

 (2) 上の主題ともかかわりますが 《仏教界》というようにそれとしても《世界》をかたちづくるかどうかは ブディズムとは何の関係もないとさえ言えることではないでしょうか?
 あるいはそもそも 存在論が――そして きちんと言えば 非思考としての個人の信仰のもんだいが―― 組織としての教義のもとにいとなまれるようになるということや あるいは社会集団にとって付き合いの様式(シヰ゛リザシオン)にその教義の内容が 倫理的な規範となって有力であるようなこと これらの社会表面上の現象となってしまうことは むしろ〔存在論や信仰の〕自殺行為であると考えるべきではないでしょうか?
 規範は 社会的な慣習のちからによってのみ有力である――つまり 早く言えば その教義の内容が間違いでありインチキである――ということも 一面ではよくあることです。
 いえ もっときちんと説明します。《世間虚仮 唯仏是真》などというのは ただの現実逃避であり 間違いです。
 《和を以って貴しと為せ》という――ゆるやかなでしょうが 時には有力となる――道徳規範は なるほどその中身は 誰もがうなづく命題であるようですが そこにも問題はあります。その規範命題を誰が言うかというもんだいです。組織においてなり社会的な身分関係においてなり 権限や権力を持つ者がそれを口に出す場合には 当然のごとくすでに出回っている社会的な力学関係が その発言の効果形成にあずかります。
 言いかえると 間違った判断や命令を擁護し弁解し貫き通そうとするそのためにこそ 《和》が大事だという宝刀が抜かれることがあるというものです。

 ゆえに 《仏教界》という世界に信頼を寄せるわけにはまいりません。

 (3) 新興宗教が 会員の獲得に成功したという歴史についてですが これは ひとえに社会(国)の社会政策が無策であることを物語るのみです。それ以外の問題は取るに足りません。
 なぜか? 社会においてバラバラの個人となってしまっていた人びとに所属(帰属)意識をあたえたという功績は その反面で あぁ おれはこの組織の奴隷になってしまったのかという嘆きとちょうど拮抗しているようなのです。
 奴隷というのは もっとはっきり言えます。支払わなくてはならない会費こそないのだけれど 会合やイベントや政治活動への参加(それも ただ出席するのではなく 裏方として仕事をし 自分の職業としての仕事を放ったらかしにして奉仕するという意味です)あるいは出版物の購入等々(これは ひっきりなしです) この奴隷状態は 帰属意識(つまりは 社会から自分の存在を承認されたいという欲望が満たされる)のメリットと相い半ばするもののようです。
 したがって 新興宗教がよくやったとか いや それはただのインチキだとか議論する問題ではなく 国家としての社会政策の無さだけが問題だと考えます。つまり 仏教界も どうするすべも つもりもなかったのでしょうし 実際なにもせずに来てしまったようです。ひとの自由を踏みにじる反社会性をなじっても ひとは 自由意志で行動することになっているのですから 余計なお世話になります。それなら 存在論としてまた人の境地の問題として もっと――もしブディズムを保つことについて自信があるのなら――発言をしつづけなければならないでしょう。わたしから見ればどうも《マッポウ》のようです。

 言いたい放題でしたが。
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この回答へのお礼

こんにちは。回答をありがとうございます。
なにぶん、私は学のない人間なもので、せっかく回答いただいたのですがよく意味がわからないところも多々ありまして・・・

勘違いがありましたらご指摘いただけたら幸いです。

>その教義の内容が間違いでありインチキである――ということも 一面ではよくあることです。
これはそのとおりと思います。
先日法事の際に僧侶の方からお話を伺ったのですが
三宝(仏法僧)を敬え、という考え方が仏教にはある、ということでした。
僧であるからというだけで敬うことが、一般常識のない僧侶を増やす原因になっているのではないか、と思いました。

>シヰ゛リザシオン
申し訳ない、この言葉は何を意味しているのかわかりません。
ご教授いただけたら幸いです。一応、ググってはみたのですが。

>《世間虚仮 唯仏是真》などというのは ただの現実逃避であり 間違いです。
 《和を以って貴しと為せ》・・・間違った判断や命令を擁護し弁解し貫き通そうとするそのためにこそ 《和》が大事だという宝刀が抜かれることがあるというものです。

同感です。
《和を以って貴しと為せ》というのは聖徳太子の言葉だったと思いますが、この時代の仏教は鎮護国家のために存在しています。
聖徳太子は為政者にとって都合がいいので、こういったのでありましょう。
阿修羅と帝釈天の説話があります。
正直の神・阿修羅の娘を力の神・帝釈天が力づくで奪った。
そのため阿修羅は勝つことのない戦いを永遠に続けている。
仏教的には執着心をもった阿修羅が悪い、と説かれるようですが、これなども鎮護国家的な考え方で、現代の道徳感にはあいません。

>新興宗教が 会員の獲得に成功したという歴史についてですが これは ひとえに社会(国)の社会政策が無策であることを物語るのみです。

新興宗教については質問の主題ではなく、深く考えたことがなかったのですが、おっしゃるとおりかもしれませんね。

ちょっと腹のたつことがあったのでここに書き込んでしまいました。申しわけありません。
まー、世のため、人のためとは言いませんが、一般常識をもって参拝者には接してほしいものです。
このごろは文化財には罪はないのだから、と自分に言い聞かせて参拝しているほどですので。

お礼日時:2010/07/02 16:55

 No.6です。


 おぎないます。


 ☆☆ (No.6) 諸回答を読んだ結果です
 ☆ と書きましたが それは No.4までのものを言っています。(物理的に言って そういう事実であると 念のために)。
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この回答へのお礼

わざわざ補足をありがとうございます。

お礼日時:2010/07/02 16:56

#1です。



Cyototu先生から「なぜ多くの人達に毛嫌いされている創価学会がこんなにも多くの信者を手に入れることが出来たのか」という練習問題を頂きましたので、この場を借りて回答を試みたいと思います。

まず、集団への帰属の問題に関しては私も賛成ですが、帰属の対象に関しては大企業、企業系列を例示するだけでは不十分と思います。

人が所属する社会は
利益社会(ゲゼルシャフト [ Gesellschaft ])と
共同社会(ゲマインシャフト [ Gemeinschaft ] )のふたつです。

共同社会が十分機能していた時代には、大企業に所属しない事の不満足感、不安感は一般的ではなかった。祖父母がいて、両親がいて、兄弟がいて、親戚付き合いと近所付き合いが濃厚で、生まれ育った町に住み続け、同級生、同窓生などの繋がりも途切れることがなかった。冠婚葬祭は昔ながらの菩提寺や街外れの神社で実施していた。日蓮宗か浄土真宗かなど、教義はあまり関係無くて、共同社会の寄り合い機能として寺があった。箱ものとしての集会所機能に加えて、何々家の二男坊もそろそろ嫁を貰らわにゃいかん年頃だが、などと住職に見合いの相談をし、結婚が成立することもある、たいへん価値のあるものでした。

戦後の核家族化、それを推進した鉄筋コンクリート2DK公団住宅や賃貸アパートの乱造によって、大きな家族は維持できなくなり、最小限の核家族でさえ離婚・再婚、未婚母の増大で機能不全になった。共同社会の崩壊ですね。そこにこそ「創価学会がこんなにも多くの信者を手に入れることが出来た」土壌があった。
「系列会社の頂点に立つ本社の連中で創価学会員を捜すのが至難の業」という見方も、「系列会社の頂点に立つ本社の連中」は同時に古き良き共同社会に対しても所属意識を満足できる階層の人達である(正の相関関係がある)と考えると矛盾はありません。

二点目の原因分析として「帰属意識の喪失」という土壌においてなぜ創価学会が覇者となったかを考えましょう。私は、創価学会が覇者となった最大の要因は「創価学会が日本の宗教団体中で最もアメリカ的であった」からだと思います。

商売=ビジネスを考えます。
ビジネスマンとは、アメリカでは基本的にセールスマンです。売る人。
ドイツではカウフマンと呼びます。買う不満ではなくて、Kaufmann、つまり「買う人」ですね。売る側面に注目する米国と買う側面に注目するドイツでは、同じ欧米、同じ大陸文化ではあっても逆の発想ですね。

元々の日本はどうかと言えば、明らかにドイツ型です。
老舗、大店(おおだな)は商品を買い付け、在庫して、お客が買いに来るのを待つ商売です。大手の材木問屋などは良質な原木を何年も保管しており、どのような注文にも応えられる体制になっていながら、決して先方から売り込みなどはしない。大工の方が良く調べてお願いしなくちゃ取引はできないのです。施主と棟梁の関係も同じで、棟梁がお客を探すのではなくて、施主が棟梁を探して「お願い」したもんだそうです。日本の商人はみなカウフマンであった。昔の日本にセールスマンという職業はなかったのではないでしょうか。これは商人だけでなく、日本社会全体のことでして、仏教も神道も基本的に「待ちの商売」で良かった。キリスト教と違って日本の教団にはエヴァンジェリストも居なかった。そこに、米国的セールス、宣伝、売り込み、折伏(しゃくぶく)を重視する“マーケティング教団”が現れたらどうでしょうか。

セールスにも上品なセールスと、競合を非難・排斥する下品なセールスとがあります。最もアメリカ的なのはアグレッシブセールス(攻撃的売り込み)です。自分を売り込むだけでなく競合をたたき落とすことに注力します。創価学会が採用したのは日蓮宗本体をも非難するような下品なアグレッシブセールスだった。
蛇足ながら、アグレッシブなどという品性の無い言葉が日本でも頻繁に聞かれるようになりました。英語偏重、日本語軽視が厭だというだけじゃなくて、仕事の進め方に於いて、攻撃的、侵略的な発想を良しとすること自体、品性が卑しいと思います。

共同社会の崩壊による帰属意識の飢餓感と従来の日本の教団に無かったアグレッシブセールスと呼ぶべき宣伝と折伏。この二つによって多くの信者を手に入れた創価学会は、同じ手法にて、同じ土壌が有る米国でも成功すると思いますし、仏教を一旦捨てた中国でも活動の自由さえ認められたら爆発すると思います。

最後に追加しますが、こうして組織的発展を遂げる創価学会が「世のため、人のため」になっているとは思えません。仏教はあくまで衆生済度を追求していただき、社会の問題としては壊れた共同社会を再構築することが「世のため、人のため」と思います。
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この回答へのお礼

何度も回答をありがとうございます。

たしかに今の世の中共同社会は崩壊してしまっていますね。
私は最近引越ししたんですがここはごみ出しのときに近所の人とあっても挨拶もしないようなコミュニティーです。

義母ももっとコミュニティーの繋がりがあれば新興宗教に入らなかったかもしれません。

アメリカではセールスマン、ドイツではカウフマンですか。
面白いですね。
私もかつての日本にはセールスマンはそんなに多くはなかったのではないか、と思います。
酒造メーカーの中には営業という職種がない会社もあるそうですね。
営業なぞしなくても売れるんだそうですね。

しかし今は日本もアメリカ型になっていますね。
私もかつて営業や販売の仕事をしていたことがありますが
売れない物をいかに売るか、というテクニックが要求される嫌な仕事でした。
売れる工夫をすることはいいのですが、私としては売れるものを作ったほうがいいのではないかといつも思っていました。

そして、学会の人を見たときに、
ああ、この人はいいセールスマンになれるだろうな、と思う人が多いのは確かですね。
彼らは臆することなく、だれかれとなく声をかけて選挙よろしくお願いします、と言います。
どこかの公園でお弁当食べているときに、知らない学会の人にそういわれたこともあります。

学会の人がほかの人と異なるのは、目的があって人に近づいてくることです。
純粋な好意をもって近づいてくるのではない。
そのあたりが個人的には気持ち悪いです。

>仏教はあくまで衆生済度を追求していただき、社会の問題としては壊れた共同社会を再構築することが「世のため、人のため」と思います。

そのとおりですね。
大変興味深く拝読させていただきました。

お礼日時:2010/07/02 17:23

印象深いのは、アンベードカルさんや佐々井さんが、インドで法的には解消されたものの根強く残る下位カースト差別の対象となる不可触民の開放運動をしていることでしょうかね。

一億人ぐらいかな?仏教徒になって差別から逃れられているようです。

まぁ、仏教といってもいろいろですからね^^;
変なのもいるでしょう・・・

最低限、本職である矛盾なき法を説き、実践し、実践者を支援する。
という仕事をがんばってしてほしいものです。

在家としては・・・

在家も広い意味ではサンガの一員ですし、
いろいろ困った方々に寄付やら学校建設やら皆でいろいろやってますよ^^b

本来、具体的な事業は出家の仕事というより在家の仕事のように感じます。

~生きとし生けるものが幸せでありますように~

この回答への補足

>少なくとも一般常識から外れたような態度で参拝者を迎えて欲しいと思います。

すいません・・・
これじゃ意味わかりませんね。

一般常識から外れないような態度で・・・と修正させていただきます。

補足日時:2010/07/02 19:22
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。
仏教徒になって差別から逃れることができた人がおられるのですね。
そういう活動を行っている人々は心より尊敬します。

まあ、どこの寺でもそういうことをするべき、などとは思いませんが
少なくとも一般常識から外れたような態度で参拝者を迎えて欲しいと思います。

在家の方もいろいろ活動されている方もおられるのですね。

寄付を呼びかけるのも悪くはないんですが、全ての人が寄付できるほど金持ちじゃないし
今の世の中不景気で就職口が決まらない学生も多い、ということを
頭のすみにでもおいといて、ほんのすこしだけ気をつかっていただきたい。

お寺の人は寄付してください、といえますが、
一般人は就職口がなくて経済的に行き詰まっていても
寄付してください、などといえませんのでね。

大変参考になりました。

お礼日時:2010/07/02 17:34

 No.6です。



 すみません。《シヰ゛リザシオン》は civilization のことでした。文明を 人びとの交通の様式だというふうに捉えてみたものです。


 ★ 阿修羅と帝釈天の説話
 ☆ なるほど。生活日常に即しているように思いました。そういう事例ですね。そういうふうに話をすすめていくとよいようだと思いました。

 要するに 人びとの《交通》の橋渡し役を いろんなかたちで 仏教徒は 積極的にしてもよい。こう思われるというところだと思います。

 一部のお寺が 駆け込み寺であった時代もあったようですね。
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この回答へのお礼

何度も回答をありがとうございました。
そういう意味でしたか。
どうもカタカタ語が苦手でいけません、
せっかく回答いただいた内容が理解できないようでは。
大変勉強になりました。

>人びとの《交通》の橋渡し役を いろんなかたちで 仏教徒は 積極的にしてもよい。こう思われるというところだと思います。

確かにそうですね。
そして一部の寺ではそういうことも行われているようです。
「人生相談いたしております」という張り紙のある寺や
戦争反対のための法要を行った寺もあります。

しかしその一方で、全く徳の感じられないお寺があることも事実ですね。

お礼日時:2010/07/04 01:41

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