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今年度日本アカデミー賞作品賞を受賞した映画【告白】をご覧になった方に質問します。
中島監督の作品は【嫌われ松子】を見てから注目しており、今回も素晴らしい作品と思います(日本の映画監督では他に誰もこのような作品は作れないでしょう。。。)が、これから、名作といわれ続けるにはやや完成度が低いと思われる部分も見受けられました。理由を下記に列挙しますので、フリーディスカッションをお願いします。

1.最後のエンディング「なんてね」について

主人公である、松たか子が最後に「なんてね」と言ってこの映画は終わるのだが、最後に松たか子が強く自分の信念を主張したにも関わらず、最後にこの「なんてね」を追加することにより、自分の主張が半分ジョークであることを認め、主張を自ら弱めてしまっている。この「なんてね」はやめて、主人公は自分の主張を言いきってほしかった。

2.映像にやたら、スローモーションが多い

人を殴るシーンもスローだし、ガラスが割れるシーンもスローだし、やたらスローが多いのは気になりした。(最初の牛乳パックが飛んで牛乳がこぼれるシーンはグッドでしたが。。。)
スローシーンは映画の中で適度に使うと効果的ですが、使いすぎると、CMを見てるみたいで作品が安っぽくなる気がしました。

3.ストーリーでは爆弾が爆発してないのに、映像で爆発させないでほしい。

ストーリーでは爆弾が爆発してないのに、なぜか映像では爆発シーンをスローで見せていた。
これも、映像をショッキングにしようという意図がありありで、好感が持てなかった。


以上です。

A 回答 (5件)

30代サラリーマン♂です。


 
1.最後のエンディング「なんてね」について
 
この映画は中盤から主要登場人物の
「それぞれの視点」から見るとそれぞれで
まるで違った物語(=人生)を生きていることが
明確に描かれていき、強引な箇所も散見されますが
「誰の主張にも客観的正解はあり得ない」
というのがテーマの一つとして浮かび上がり
それが作品自体のある種の謎解きのような
面白さにも繋がっていると思います。
 
もし、松たか子演じる教師の言っていること"だけ"
が正しく、彼女だけは全く嘘をういていないとすると
作品が綻びだらけになってしまって、これほどの
高評価、ヒットにはならなかったのではないでしょうか。

観客も登場人物達と同じ場を共有したのに、
誰にも感情移入できそうで松たか子を含む
誰にも感情移入できずに不信感を持たせること
そのものが作品の意図の一つだったように
思えます。自分はこの描き方で良かったと
思いますよ。誰にも正当性が無いから誰にも
少なからずの権利があるのであって、誰かの意見
だけが正しければ、それは陳腐でより絵空事
になってしまう危険が高いと思います。


2.映像にやたら、スローモーションが多い 
 
個人的にはそれほど気にならなかったですね。
同じ時間が異なる人物によって異なる視点から
何度も戻ったり進んだりするので、そのままの
速度で展開したら途中で追いてきぼりになる人が
続出してしまうように思います。それが良いか
悪いかは観る人の基準によるので何とも
いえませんが、それほど意味の無い
スローモーションはなかったと思います。
展開をきちんと整理できている人は素直に
映像を楽しめばいいし、物語の構成が頭の中で
追えていない人はスローモーションのシーンで
思い出す時間も作れるという利点もあります。
ただし、この作品のスローモーションの多用を
一方的に肯定するわけではありません。


3.ストーリーでは爆弾が爆発してないのに、映像で爆発させないでほしい。

実際の物語では起きていないことを起きたように見せる
テクニックは映画を悪くする場合もあるし良くする場合もありますね。
この映画の場合は「もし爆発させていたらどうなっていたか?」
を映像で見せる必然性はあったと思います。したがって
爆発させて、それを映像で見せて正解だったと思います。
 
利点1)
・"映画"であるので爆発の過程を微密に描くのは製作者側の
 映像作りの挑戦として当然のことである。映画とは本質的に
 "見世物"であるから、物語を壊さない以上はショッキング映像を
 望んでいる客は少なからずいるので見せるべき。

利点2)
・状況的に爆発させてはならないシーンなので逆に爆発させる
 ことで観客に大きな「?」を突きつけることが可能であるので
 映画的にプラスの効果に働く可能性の方が高い。爆発させたら
 物語は完全に破綻するので、敢えてそのシーンを描くことで
フェイクなのかそうでないのかの選択肢を楽しむことができる。
爆発させてはならないのはどっちに転ぶのか全く判らないという
 緊迫感を楽しむ場合で、その場合は爆発シーンを描いてしまうと
残りのシーンでの観客の信頼を映画が失う。

利点3)
・今の世相を反映させて、爆発シーンを描いた可能性が高いように
思います。つまり、本当に爆発させかねないほどに追い詰められている
若者、人々が現実にいるだろうということです。すなわち、
「もしも爆発させてしまうとこうなるんだぞ」という若い観客に向けた
メッセージだと思います。「人(赤の他人)を殺すとどうなるのか」
「何かを失うとはどういうことなのか」実人生でいちいち体験していては
心が持ちません。簡単に人生は奈落の底に落ちます。しかし、
バーチャルで体験してみたいという厄介な欲望を人間は持っています。
その厄介な欲望を実践してしまう困った事件が多発していることを
受けての映画上(全てが作り物)での爆破を敢行する理由だと思います。

自分はこの作品についてのご指摘の爆破シーンでは上記の
利点3) を一番感じました。"良かった"と思いますよ。

 
と、かなり好意的に書きましたが、
私個人としてはもう少し違った展開を期待しながら鑑賞していました。
途中から私の期待は「ない物ねだり」なんだなと素直に思い直して
作品の方向に姿勢を合わせることでそれなりに楽しめました。
点数としては80点くらいでしょうか。
昨今の邦画ではとてもよくやったと思いスタッフ・出演者一同に
拍手とエールを送りたいと思います。
因みに残念ですが海外で賞を取れる類の作品ではないと
思います。"日本的"なお約束を理解して見ないと厳しい点もありますね。
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中島監督はけれん味のある演出が特徴で、ヴィジュアルイメージにもこだわる監督です。


原作小説『告白』はストレートな社会派ミステリではなく、トリッキーなブラックユーモア
で読ませるスリラーです。
だから出来上がった映画も一種非現実的なホラーファンタジーとでもいえるものになっています。

ところで、映画表現では、事実ではない(嘘の)回想シーンというものが使われることがあります。
これをファルスメモリーといい、ヒッチコック『ロープ』などのサスペンスに例があります。
いわば卑怯な手段ですが、うまく使えば、観客の心をつかむことができます。

この映画もファルスメモリーが効果的に使われています。見ているうちに、我々は、どこまでが
本当に起きたことで、どこからが嘘まやかしなのか、一瞬、混乱します。
質問3もファルスメモリーですが、もうひとつ大きな仕掛けとして、最後の松たか子の
スクリーン暗転してからの「なんてね」は、この映画のすべてが実は嘘でした、という
ブラックユーモアにもなっています。

本当にこんな話があるわけないから、逆に虚構の世界の不自然さ、奇妙さが意味深く思えてしまうのです。
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 1.「なんてね」について



 この映画全体について、黒板に「命」と大きく書くわりには、命の重みが全然感じられない、という思いはずっとあったのですが、よく考えると、二人の生徒のやっていることはそうとうひどいし、先生も、牛乳にエイズの血とか、「ドッカ~ン」とか何なんだよって思うと、その狂気を全体的にポップで軽いノリの感じの映像で押し通したのは逆に良かったのかなって思いました。命とか殺人とかってそんなに重いことなの?というある種の無感覚な問いかけを普通の人間も持っていることは、あの「透明な私の存在」という言葉への共感の拡がりからも推察されてきたし。その象徴が「なんてね」というはぐらかしの表現であるとすると、徐々に重いテーマへと持っていきつつ、最後の〆の台詞として「なんてね」ではぐらかしたのは的確だったかもしれません。
 
 最後の「なんてね」を、母を爆弾で殺したと思い込んでワンワン泣いている生徒Aに言わせるのもおもしろかったのになと思いました。
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まず、そういうご質問は「ネタバレ注意」と書いたうえでしていただきたかったです。

次に、議論(ディスカッション)は当サイトで禁止されているので、質問者さんのご意見に対してどう思うかというご質問であると解釈して回答します。

さて、劇場で観た印象とテレビ画面で観た印象は、たいてい変わるものですが、私は公開時に劇場で観ただけなのでご了承ください。

そのうえで申しますと、私はそのどれもが、むしろ良いと思いました。まず、映画と原作は基本的に常に別物ですから、ファンの心理として、原作に忠実であってほしいと感じることもあるでしょうが、原作と同じものを求めても仕方がないと思います。

そして、映画である以上、作り手は「映像」で何かを訴えようとするわけですが、この作品ではCM映像っぽさやPV映像っぽさを敢えて出していると感じました。テーマが中学生なので、中学生が好きなMTV的なノリを狙ったのかもしれません。

さらには、あいにくと映倫はこの作品をR15+に指定しました。そしてMTV世代をゆうに超えている私にとっては、そのMTVすぎず、そこそこMTVっぽさを狙っている感じが、「大人世代から垣間見た中学生の世界」という感じで興味深かったんですよね。

そのどこまでが本当で、どこまでが白昼夢なのかわからなくなるような全体の雰囲気に、「なんてね」は合っていましたし、爆弾シーンがスローなのは、「ショッキング」にしようとしたというよりは、むしろ「微妙な非現実感」を出そうとしたのだと感じました。ちなみに、あそこで「なんてね」がなかったら、いきなり正統派熱血教師になったようでクサすぎたと思います。圧倒的な正しさが存在しないのが、あの作品のポイントなのですから。

あくまでも私の感想ですが。

参考URL:http://blog.goo.ne.jp/oshietegoo/c/2fd47a0436464 …
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>1.最後のエンディング「なんてね」について



>最後にこの「なんてね」を追加することにより、自分の主張が半分ジョークであることを認め、主張を自ら弱めてしまっている。

私はそうは思いませんでした。

爆発のように、全てを失うことにもなりかねないよ?という意味で「なーんてね」と言っているように解釈しました。
すなわち、「なーんてね」という発言によって、爆発のシーンさえも「想像してみろよ」という見せしめのように感じました。
というわけで、主人公の主張は一貫していたのではないかなー、と。

うる覚えで申し訳ないのですが、投稿させていただきました。
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