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キリスト教では洗礼を受けていない人は天国に行けないと考えますか?

ふと、疑問に思ったので質問です。キリスト教では洗礼を受けていない人間は天国に行けないと考えているのでしょうか?

よろしくお願いします。

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A 回答 (19件中1~10件)

こんにちは*



天国に行けるかどうかの基準。難しい問ですよね。

『神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを得るためである。』(ヨハネの福音書3章16節)

ひとり子=イエス様
永遠の命=天の国に入ること です。

ここには『信じる者』が永遠のいのちを持つと書かれています。
洗礼を受けるかどうかではなく(本当に信じていなくても、洗礼は受けられますもんね・・・)
『信じる』かどうか。
つまり自分の意思でイエス様を信じる事を選び、イエス様と共に生きるということだと思います。

よく『クリスチャンはイエス様の花嫁』などと表現されますが、
洗礼=披露宴
イエス様を信じる(受け入れる)=婚姻届の提出

に近いのではないでしょうか?
披露宴をあげても夫婦にはなりませんよね?
婚姻届を出して、初めて夫婦と認められます。

ただし、夫婦(クリスチャン)でい続けるには、一瞬だけイエス様を信じるのではなく、
信じ続けるということが何よりも大切です**

洗礼を受ける受けないが基準ではなく、信じるか信じないかの一点のみです。

神様は、信じない人を救わないのではなく、私たち一人一人に選ぶ権利(選択)を与えてくださったのだと思います。

イエス様は全ての方の心のドアをコンコンっと叩いています。
イエス様側のドアにはドアノブはありません。
私達の側にしかドアノブはないんです。
もちろん、無理やりドアを蹴破ることもできます。
しかし、イエス様はそうはされません。
私達がドアを開け、共にお茶を飲みながら、顔と顔を合わせて話をするその日を
ドアの外でいつまでも待っていて下さいます。

誰かを救って、誰かを救わないのではありません。
全ての方を救いたいのです。
全ての方のドアを叩いているのです。
その選択肢は私達の手にゆだねられている。
ただそれだけです。
無理強いすることなく、愛を強制しないこともイエス様の愛ゆえです。


自分にはドアはない。
イエス様は自分のドアは素通りしていると思われる方もいるかもしれません。
そんな時は、イエス様に聞いてみて下さい。
居るか居ないか分からない人に向かって質問することは、本当に馬鹿げて見えるかもしれませんが、家族や友達に言う必要はありません。
寝る前や、お風呂の中でそっと、「イエス様。あなたは本当に居るのですか?私のドアも叩いているのですか?」と小声でいいので(難しければ心の中で)聞いてみて下さい。
あなたのその小さな祈りを、一言も漏らさず、全て聞いていてくださいます。

hallelujah
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この回答へのお礼

こんにちは。
確かに信じていなくても信じた『フリ』をして洗礼は受けられますね……。『クリスチャンはイエス様の花嫁』というのは言いえて妙と感じました。洗礼が披露宴でイエス様を受け入れるのが婚姻届の提出。このたとえは素晴らしいです。これですんなりと納得できました。
そしてイエス様を信じ続けるのが非常に難しいと感じています。信仰は脆いので、離れてしまいがちです。愛を強制しない愛、いい響きです。
駆け足のお礼でしたが、本当に素晴らしい回答でした。ありがとうございました。

お礼日時:2011/04/09 16:48

 では



 幼児洗礼

 これを何故おこなうのか? 多くの宗派で秘蹟(サクラメント)としておこなっていますから その説明が必要になると思います。信仰を宣誓するための水による洗礼という定義であればです。
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この回答へのお礼

確かに、幼児洗礼の必要性は感じない気もします。幼児洗礼では本人の明確な信仰心の有無が分からないと感じます。
信仰を宣誓する為の洗礼が水による洗礼か否かというのも結局、私には分かりません。キリスト教は色々と難しいです。

お礼日時:2011/04/07 12:25

>途上国などでは国民番号制度やICチップなどの管理は非常に難しそうだと感じています。



哲学ですよね。

キリスト教の考えは、プラトン哲学。 だから別名プラトン教とも呼ばれている。

が、パウロ教とも呼ばれている。

ローマ・カトリックの図書館に残っていた文章の中に、「二枚舌のパウロ、神に背信したパウロ」と書かれている文章があったそうです。

彼はヘロディアン。
ヘロデ一族の関係者で、支配者層の人。
ヘロデ大王の父か祖父は、ローマが窮地にたったとき、イスラエル兵を派兵してローマを助けたことで、ヘロデ大王はユデアにおいて王位をローマからもらったんです。

ヘロデ大王の政治はローマと友好関係を築くことだった。
ちなみにヘロデ大王はイスラエル人ではない。(レンズ豆でヤコブが兄のエサウから長子権を奪ったので、ヤコブ、後にイスラエルの子孫がイスラエル人。エサウの子孫はイスラエル人ではない。 そのエサウの子孫がヘロデ大王で、本来なら自分たちが王位を継承できたのに、ヤコブが奪ったので継承できず、ヘロデ大王はついにやコブの子孫から長子権ならぬ王位を奪い返したってわけです。)

で、祭祀たちもローマと仲良くしたかったので、自由にユダヤ教をやれる見返りとして、高額の税金をローマに納めていたわけです。 日本もアメリカ政府にガード代としてお金を払っているし、アメリカの基地を各地に置かせていますよね。

ユダヤ教は国民から10分の一税をとっていたわけです。 そういうことをすることをローマ帝国は許した。
祭司たちは集めた税金を到聖所に貯蔵していた。
それをローマ皇帝にあげるからとローマから派遣された提督が奪ったことで、ユダヤ人はついにキレてローマとのユダヤ戦争が勃発したわけです。

そのとき、ユデアの代表でローマとのコネクション役だったパウロにローマ政府は打診したんです。
パウロは抑えきれないので、許可 って返答をした。
その許可を受けてローマ帝国は各地にいた軍隊をユデアに集結させ、一気に攻撃をし、阿鼻叫喚となったわけです。

何故 パウロはローマにイスラエル人を殺させたのか。

彼は2年間空白のときがあった。恐らくですが、エルサレム教会で修行をしていたと思える。
ところが、パウロは自分の考えからして、十戒は納得できず、ほとんどを否定してしまったんです。
エルサレム教会は神に背信したパウロを追放。

そのときの悔しさがパウロが書いた書簡に書かれています。

自分を追放したエルサレム教会のヤコブを亡き者にしようと、神殿の階段から突き落としたが、両足骨折で命は奪えなかったので、今度は大祭司を使い、ヤコブを神に背信したものだとして処刑させた。

それでもまだ恨みつらみは残っていたらしく、自分に服従しないユダヤ教に対し(市民を押さえきれなかった)、もうどうにもならないから暴力でおさえつけろ となり、ローマ帝国によって神殿を破壊させた。

熱狂的な支持を受けていたヤコブを殺したので、市民から恨まれていたパウロは、たくさんのローマ兵の護衛をつけて、ユデアから逃げて、外の地域でマイ宗教をイエスの言ったことだとして布教してまわった。

そしてとうとう 作ったのが パウロ教ならぬ キリスト教。
ギリシャ哲学のプラトンの考えをヘロデアン(ローマ文化に親密)であるプラトンは継承して、人々を支配する方法を宗教によって確立したわけです。

プラトンの考えは、「ごくごく一部の人のみイデア界を知ることができる、その人たちの言うことさえ聞いていれば、まったく罪をおかすことが無い、だからただひたすら上のその人たち(祭祀たち)の言うとおりに庶民はしていればいい」なんです。

だからキリスト教は図書館を閉鎖し、聖書だけ読んでいればいい、私たちの言うことに従ってさえいればいい ってなったんです。

ライラの冒険 黄金の羅針盤では、キリスト教会が猛烈に反発しボイコットしたので2ができなくなった。
登場する教権がキリスト教であり、それに盲目とされた人々の目を開くのがライラだとして描かれているとして、キリスト教に敵対する映画だとして、ボイコットをして、ソクラテスのような映画を押さえつけたわけです。

恐ろしいでしょぉ。。。。
ソクラテスも若者をたぶらかして神に背信させようとしたという罪で処刑されました。
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この回答へのお礼

そう言われてみれば天国と言う思想自体がイデア論と共通する部分が多いです。また、宗教は民衆を操る手段としては最高と言えます。過去を振り返ると、キリスト教やイスラム教も相当悪いことをしてきましたし、日本でも僧侶達はかなり美味しい思いをして生きてきました。ソクラテスの話は知っています。色々と学んで、この世と言うのは善人が迫害されて、悪人が優遇されていると感じます。
何回も回答ありがとうございます。毎回毎回とても勉強になります。表の知識だけでなく、人々が教えない裏の知識が本当に役立ちます。

お礼日時:2011/04/07 12:23

質問は、キリスト教における洗礼の意味を問うているんでしょうか。

もしそうであるとするならば、

新教においては、洗礼は広く世界に、”私はイエスの言葉を信じ、彼の教えに従います”という宣誓するという意味があり、信者にとっては重要な事象ですが、それ以上でも、それ以下でもありません。

大変に簡単かつ明確なものなのです。

洗礼を受けていないと天国にいけないのでしょうかとの問いに対しては、正直なところ”死んで見ないとわからない”、としか言えないのではないでしょうか。
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この回答へのお礼

洗礼とは世界に対しての信仰の宣誓、ということですね。洗礼と天国との関係は仰るとおり、死んでみないと分かりませんね。

お礼日時:2011/04/07 12:13

 No.14を承けます。



 ★(No.14お礼欄) 逆に洗礼を受けないと天国へ行けないという記述もあるのですか……。
 ☆ たしかに 次の聖句は 《神の国》と言っています。

 (B-1)ヨハネ3:5 イエスは答えた。《はっきり言っておく。だれでも水と霊とによって生まれなければ ≫神の国≪ に入ることはできない。》
  ≫神の国≪:  βασιλεία   τοῦ   θεοῦ ( he basileia tou theou );
         kingdom of heaven

 あるいはまた 次の場合には 《楽園》です。

 ・ルカ23:43 あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる
  ≫楽園≪: παράδεισος (paradeisos); paradise

 ちなみにマタイには マタイに限って《天の国》という表現が出て来ます。多くの例がありますが:

 ・マタイ3:2 (洗礼者ヨハネの言葉) 天の国は近づいた
  ≫天の国≪ ἡ   βασιλεία   τῶν   οὐρανῶν ( he basileia toon ouranoon );
        kingdom of heaven

 ☆ これら《神の国 / 天の国 / 楽園》は 同じことを言っていると思われます。別の場所(?)だったら おかしなことになります。

 なぜ水による洗礼が 導入されたのか?
 旧約の時代には 信仰のしるしとしてアブラハムに割礼がほどこされるにようになりました。それ以来 ユダヤ人はみなそうしています。でも 新約に到って 異邦人にも福音が伝えられると ペテロも容認したようにこの割礼はあってもなくてもよいことになります。
 そう考えると 洗礼も なくなってもよいのではないかと勝手に考えています。
 それによると イエスは 洗礼者ヨハネに義理立てしたのではないか。
 つまりあるいは 割礼に代わる儀礼をしばしの間――その過渡期において混乱のないようにと――洗礼つまりこの場合は水による洗礼を 用いることにした。こうではないか。

 むろん 水による洗礼の場合にも あくまで聖霊による洗礼が重要なのだと思われます。
 ただし 一度儀式に使われたなら それだけのコトとして受け留められたものと思われます。じっさい サクラメント(秘蹟)として 水による洗礼が捉えられた。つまりは 理由や根拠はない。しかも 秘蹟としてそれによるのだと。
 わたしは 水による洗礼は 要らないと考えます。
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この回答へのお礼

要らない、とまでお考えですか。意外な意見が出てきて驚いています。確かに聖書に割礼という言葉はたいぶ出てきました。割礼と言う儀式が新訳にでは水による洗礼へと変化したのは興味深いと思います。何度も有難うございます。

お礼日時:2011/04/06 20:25

 いえいえ 聖句はあります。



 A: 聖霊による洗礼と思われるもの
 B: 特に水による洗礼を言っていると思われるもの

 (A-1)ヨハネ福音1:13

 この人びと(《ことばを受け入れた人・その名を信じる人びと(1:12)》)は 血によってではなく 肉の意志によってではなく 人間の意志によってでもなく 神によって生まれたのである。

 (A-2)ローマ書10:9-10

 口でイエスは主であると公に言い表わし 心で神がイエスを死者の中から復活させられたと信じるなら あなたは救われるからです。実に 人は心で信じて義とされ 口で公に言い表わして救われるのです。

 (B-1)ヨハネ3:5

 イエスは答えた。《はっきり言っておく。だれでも水と霊とによって生まれなければ 神の国に入ることはできない。》

 (B-2)マタイ28:19

 《・・・ あなたがたは行って すべての民をわたしの弟子にしなさい。かれらに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい。・・・》

 (B-3)使徒行伝2:38-39

 すると ペトロはかれらに言った。《悔い改めなさい。めいめい イエス・キリストの名によって洗礼を受け 罪を赦していただきなさい。そうすれば 賜物として聖霊を受けます。・・・》

 (A-3)使徒行伝8:16 

  〔サマリアの〕人びとは主イエスの名によって洗礼を受けていただけで 聖霊はまだだれの上にも降っていなかったからである。

 (B-4)使徒行伝22:16

 〔アナニアからサウロ=パウロへ〕《・・・今 何をためらっているのです。立ち上がりなさい。そのかたの名を唱え 洗礼を受けて罪を洗い清めなさい。》

 (A-4) コリント前書1:17

  なぜなら キリストがわたしを遣わされたのは 洗礼を授けるためではなく 福音を告げ知らせるためであり しかも キリストの十字架がむなしいものになってしまわないように 言葉の知恵によらないで告げ知らせるためだからです。

 (A-5)ヨハネ3:22-4:2 

 イエスは弟子たちとユダヤ地方に行って そこに一緒に滞在し 洗礼を授けておられた。・・・洗礼を授けていたのは イエスご自身ではなく 弟子たちである・・・

 (A-6)使徒行伝1:5 

 (復活のイエスの語るには)《・・・ヨハネは水で洗礼を授けたが あなたがたは間もなく聖霊による洗礼を授けられるからである。》

 (A-7)ルカ3:16 

 〔洗礼者ヨハネの語るには〕《わたしはあなたたちに水で洗礼を授けるが わたしよりも優れた方が来られる。・・・その方は 聖霊と火であなたたちに洗礼をお授けになる。・・・》

 (B-5)ローマ書6:3 

 それともあなたがたは知らないのですか。キリスト・イエスに結ばれるために洗礼を受けたわたしたちが皆 またその死にあずかるために洗礼を受けたことを。

 (B-6)ロ―マ書6:4 

 わたしたちは洗礼によってキリストとともに葬られ その死にあずかるものとなりました。それは キリストが御父の栄光によって死者の中から復活させられたように わたしたちも新しい命に生きるためなのです。

 (B-7)エペソ書5:25-27

 ・・・キリストは教会を清められる。・・・ことばを伴った水の洗いによって。・・・水が欠けても ことばが欠けても それは洗礼ではない。
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この回答へのお礼

逆に洗礼を受けないと天国へ行けないという記述もあるのですか……。洗礼は聖霊によるものであり、イエス様の弟子自体が洗礼をしていたということに驚きました。ありがとうございました。

お礼日時:2011/04/06 15:17

プロテスタントのクリスチャンの間では聖書が述べているか否かということがすべての根拠になりますので、そのような記載はないはずですので、洗礼を受けていなくても天国に行けます。



もっと正確に言えば、キリストを知っているならばあなたはすでに生きながら天国にいるように思われることでしょう。ただしここで「知っている」という意味を考えてみる必要がありそうです。もし現在あなたが見ているコンピュータの画面にカウントダウンする数字が現れて、10秒後にコンピュータが爆発することが判明したらどうするでしょうか。

1)爆発すると「知って」コンピュータを表に放り投げますか。あるいは自分で外に飛び出しますか。

2)画面に数字が現れて、10秒後に爆発するとの表示が出ても本当に爆発するとは「思わない」でそのまま作業を続けますか。

上の質問に1)と答えた人が、同様にイエスキリストを「知ると」即座に人生が変わり、行動に起こします。2)と答えた方は爆発するとは「信じなかった」わけですから、おなじような「知り方」でイエスキリストを知ってもなんの変化もないと思います。

つまりあなたがイエスキリストを知れば、洗礼の有無に関わらず天国にゆくことができるということになります。洗礼を受けたけれどもイエスキリストを知らなければ天国に行けない2)のような方も多くおられると思います。

神様は無礼な方ではないので、あなたの首をひねりながら私を信じなければ首をひねるぞというお方ではございません。あなたが知ろうとすることを尊重されます。知りたくないのであればそれも由とせざるをえないのが神様お立場です。

話がそれましたが、洗礼はあくまでも象徴であり、儀式ですので、直接的にも間接的にもあなたの救いとは全く関係ございません。
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この回答へのお礼

そういえば聖書には洗礼を受けないと天国に行けないとの旨は書いてありませんでした。言われてみて気付きました。洗礼は象徴、救いとは関係ない。ありがとうございました。覚えておきます。

お礼日時:2011/04/06 14:57

他の回答を今読んで、あっ 笑 って気づいた。



洗礼は洗礼者ヨハネがやっていたもので、イエスがやっていたとは書いてない。
イエスも洗礼を受けた側となっている。

イエスが弟子の足を洗う場面がありますが、あれは洗礼じゃあない。

日本語でも ヤクザから足を洗う という慣用句?がありますよね。
悪いことをやめる って意味として聖書でも使われている。

足は地面に近いので 汚れやすいわけです。 一番汚い部分と考えられ、その汚れを取ることで、精神的な穢れも取る、行いを正す みたいな意味ですね。


で、インドは沐浴のメッカですが、沐浴をして体についた菌を洗い流す他に 精神面も清める役割を古代からしていたと思えます。

その一派がパレスチナ地方に移り住み、大工と呼ばれていた。
思想を建築するので大工。

そのマネをしたのが、、、、、えっとぉ エッセネと呼ばれる人たち。
さらに クムランってユダヤ教の原理主義的な派閥ができあがってきて、沐浴をさかんに推奨した。
悪いことを考えただけでも、沐浴をしなければならないという規律があった。

他にも「右の頬を打たれたら左の頬を出せ」などの教えがあった。
侮辱するものの相手をするな って意味であって 無抵抗とは意味合いが違う。

そしてその教団は 二人のメシアの出現を予言していた。
単純に考えれば、イエスと洗礼者ヨハネ。

ただ、私は二人とも実在の人物じゃあないと思うし、クムランの書物にも現れたとはかかれていない。

クムラン 地震で壊滅的な打撃をこうむって 今は存在していないが、そこから旧約聖書のほとんどの写本がでてきた。
死海文書と呼ばれるものです。
そこにはイエスのことも、洗礼者ヨハネのことも 書かれていない。

彼らにとって 天の国とは 上層階級の12人のことだった。
この上位12人に入るのが難しい。
それを「らくだが針の穴を通るより難しい」と表現されていた。
らくだとは、宗教学校の卒業真近のランクのこと。
学校を卒業したら、実践で聖職者になり、のぼっていって、上位12人のランクに選ばれたら、天の国に入った となっていた。
ユダヤ教の宗教の階級ランクで、そういうシステムだったんです。

なーんだぁぁぁ って謎 解けました?
天にあるのではなくて、ユダヤ教の祭祀のランクのトップ12人で構成されてるものが、天の国。

今は無理、だってエルサレム神殿が崩壊したので、神殿が無い以上祭祀がいない状態。
だから、エルサレム神殿を再建しない限り、祭祀の仕事は無く、機能しないので、天の国を構成する12人のグループは構成できない。
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この回答へのお礼

足が一番汚れやすいから『足を洗う』。教えてもらって気付きました。だから『足を洗う』のですね。イエスは大工として働いていたと書かれていた本(聖おにいさんという漫画)がありました。確かに大工は思想を建築するので大工と言えます。金持ちが天国に行くのが難しい、というのはそういうことだったのですか。また、謎が解けました。
以前に紹介してもらった動画、長かったですが、全部観ました。ついでに英語のリスニングの勉強にもなりました。ありがとうございました。ヨハネの黙示録にあるように、本当に統一政府が出来て個々人にICなどが配られて完全に監視される時代が来るのか心配になってきました。今でも既に実現が近付きつつありますが、途上国などでは国民番号制度やICチップなどの管理は非常に難しそうだと感じています。

お礼日時:2011/04/06 20:21

 別回答です。



 ▲ (ルカによる福音書23:39-43)~~~~
 ・・・十字架にかけられていた犯罪人の一人が、イエスをののしった。

   「お前はメシアではないか。自分自身と我々を救ってみろ。」

 すると、もう一人の方がたしなめた。

   「お前は神をも恐れないのか、同じ刑罰を受けているのに。
   我々は、自分のやったことの報いを受けているのだから、当然だ。
   しかし、この方は何も悪いことをしていない。」

 そして、

   「イエスよ、あなたの御国においでになるときには、わたしを思い
   出してください」

 と言った。
  するとイエスは、

   「はっきり言っておくが、あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる」

 と言われた。
 ~~~~~~~~~~~~~

 《楽園》と《天国》とは同じだとすれば この犯罪人は おそらく水による洗礼を受けることはできず そのまま息を引き取ったでしょうから 聖霊による洗礼のみを受けたのではないかと考えられます。どうでしょう?
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この回答へのお礼

確かにその犯罪者は洗礼を受けられませんでした。しかし聖霊によって洗礼を受け取ったと言えます。と、なると聖霊による洗礼が一番大事なのかもしれません。

お礼日時:2011/04/06 15:07

私は漫画も読みますが、文献も読むんですね。



理論で説明してある論文を読めないと、主張しているものがわからない。
それで1000ページ上段 下段にみっちり小さい文字で書かれてあるものも読むのですが、さすがに興味が無いものは、読めないです。

で、私は知らないことがあると、知りたいと強く思うので、ぶあつい辞書みたいな本も読んでしまうんです。

一言では説明できないので、ぶあつい本になるわけです。
それを全部読まないと理解できないものが、私が知りたいと思うものなわけだから、知りたいという欲求があるので、読んでも疲れないばかりか、ぐいぐい 引き込まれていく。

「なーるほど そうか」とわかったところで、質問があると、「えっと 確か・・・ あーたら こーたらで・・・」と思い出しながら回答しているんです。

なんとか相手に理解してもらおうとするので、長文になる。
興味が無い人は うんざりすると思う。
だけど、「知りたい」という欲求が強ければ、解説を読めるはずです。

「結局 yesかnoか どっちなんだよ どっちかって質問だから どっちがだけで答えろ」と質問者に言われたことがある。

「ん? 私の文を読めば、質問そのものが間違えているとわかるから、yesでもnoでもないとわかるはず、、、回答を読んでないしーー」って思う。

せっかくのチャンスなのに、結論だけ求めるわけで、結局 理解しないまま 間違えたことをずーーーっと思っているわけで、読まないから、その後も 勘違いのまますごして「わからない」となり、同じ質問を繰り返し続けるしかない。

まあ、結局 質問者が 「 知りたい 」という強い欲求が無いから、ずっと「わからない」で今まできたわけで、その後も「わからない」のまますごすことになり、回答したものがまったく無駄になってしまうわけですが、「まー いいかー 書くことで私のおつむの中の知識も整理されていくから」って思います。


洗礼は 人間が編み出した通過儀礼の一種だと わかっていただけたら幸いです。

気持ちの問題だとわかっていただけたら幸いです。

洗礼をやったところで、持って生まれた人格は変わることはありません。
ただ、表向きのふるまいを変化させることは可能になります。


お祓いってありますよね。
プラシーボ効果が関係する。
「悪い霊は除霊したので、もう消えました。」と言われた人が、健康を取り戻すことがある。

プラシーボ効果で、実際医療でプラセボというものがある。
気持ちの持ちようで身体機能が低下してしまう人に、「この薬を飲めば落ち着く」とビタミン剤を薬だといって与えると、不思議なことに血圧が落ち着き、心拍数も正常値にしゅーっとなる。

プラシーボ効果なわけで「楽になりました よく効く薬です」と言う。
頭痛もそう。 緊張が原因で頭痛を頻繁に起こす人には、プラセボを与えると、頭痛が消えてしまうことがある。

このようにプラシーボ効果を洗礼は利用していると思える。
「過去の悪い行いはすべて消えた」と言われたら、安心するでしょ?
緊張がほどければ、結構がよくなり、息苦しさも消えるでしょ?
ガラっと体調がよくなり、体が軽く感じるでしょ?

プラシーボ効果。


だから、病的なほどの人には 結構この洗礼は効果があるかも。
プラシーボ効果により、生まれ変わったと、心を軽くする人もいると思う。
そういう意味では まあ あってもいいとは思う。

そうやって プラセボが必要な人も確かにいる。
だけど、要らない人もいる。

プラセボは無害なので、精神的なもので体が不調にならない人が飲んでもどうってことないのですが、「この水を飲まないと毒が体にまわる」的な売り込みはいただけないですね。

害あって一利なしですから。
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この回答へのお礼

仰るとおり、単刀直入に『回答』という手もあります。しかし1つの理論を導き出すのに回り道が必要です。そういう意味で答えだけでなく他の事柄まで書いていただいて嬉しいです。
洗礼はむしろプラシーボ効果という意味で大事なのかもしれませんね。そういう意味で納得しました。

お礼日時:2011/04/06 14:54

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キリスト教の洗礼を受けたい軽度の境界性人格障害者(20代後半、女)です。

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前置きが長くなって申し訳ありません。

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酷い告白で大変恐縮ですが、ご指導ご鞭撻をどうか宜しくお願い致します。

キリスト教の洗礼を受けたい軽度の境界性人格障害者(20代後半、女)です。

長く、また苦労自慢で恐縮ですが、私の背景をお話させてください。
幼少時は両親のネグレクトに耐え、ずっといい子 で成績もよく生徒会長もやり難関校への中学受験も余裕の判定を得ていましたが、両親の離婚からそれは叶わず、離婚直後精神の限界で3年間引きこもりになったものの、そこから死に物狂いで勉強し社会復帰をして、ある医療系の国家資格の全国模試の日本一位をとったり、自分の人生の苦労談の作文で県の文化勲章を貰ったり、勉...続きを読む

Aベストアンサー

気になってもう一度来てしまいました(^-^;

神父さんに『周りの教徒と共に生きることなのに人を見下している。洗礼を与えることは出来ないと言われました。』
とのことですが、人を見下している、という問題は、洗礼を受けるに当たって、関係のある問題とは思えません。

他の回答者様も仰っていましたが、洗礼は、人との約束ではなく、神様との約束であると考えています。

質問者様は『私に非がある』と仰っていますが、私にはどうしても、質問者様に非を認めることが出来ません。

神様は、人の罪を裁かれる方ですが、同時に憐れんでくださいます。

憐れみ(質問者様にとっては、病気を神様に委ねる、ということ)を受けることに、何の非があるというのでしょうか。

私は、神様に誓って言います。
神様の憐れみを受けてはいけない人間など、この世にはいません。

そして、その憐れみを止める権利を持っている人間、聖職者はいません。というか、現実社会に居たとしても、神様はそれを許されないと思います。

使徒の働き8章26節ー39節の注釈では、宦官は、
『私がバプテスマを受けるのに、何かさしつかえがあるでしょうか。』
とピリポに話すと、ピリポは
『もしあなたが心底信じるならば、良いのです』
と答えると、宦官は
『私は、イエス・キリストが神の御子であると信じます。』
と言って、バプテスマを受けました。

聖書は真実の書です。
聖書に書いてあることを否定することは、私たちキリスト者には、出来ません。

よって、質問者様が洗礼を受けてはならない理由は、どこにも見つからないのです。

今日は教会へ行かれましたか?

私は質問者様のことを、神様にお祈りしてきました。

質問者様がいつまでも、神様と共におられることを願い、祈ります。

気になってもう一度来てしまいました(^-^;

神父さんに『周りの教徒と共に生きることなのに人を見下している。洗礼を与えることは出来ないと言われました。』
とのことですが、人を見下している、という問題は、洗礼を受けるに当たって、関係のある問題とは思えません。

他の回答者様も仰っていましたが、洗礼は、人との約束ではなく、神様との約束であると考えています。

質問者様は『私に非がある』と仰っていますが、私にはどうしても、質問者様に非を認めることが出来ません。

神様は、人の罪を裁...続きを読む

Qオナニーは、キリスト教では罪になりますか?

宗教のカテゴリーがないので、こちらで質問させて頂きます。

キリスト教では、オナニーは罪になりますか?
もし、罪になるとしたら、その根拠として、聖書のどの箇所にどの様に書かれているかも含めて教えて頂ければ、有難いと思います。

Aベストアンサー

こちらをご参照ください。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AA%E3%83%8A%E3%83%8B%E3%83%BC

私はカトリック信者ですが、
神父さん曰く、「そんなもん罪なわけないでしょ」とのことです。

Qカトリックの洗礼を受けたいと思うようになりました。

まだミサや入門講座に通い始めて1~2ヶ月ですが
聖書を読むにつれて、神様の愛というものが分かり始め
自分にはこういう思いや世界観を持つことが必要だと思うようになりました。

聖歌もほぼ毎日聞いて、新約聖書も外に持ち歩くほどになりました。
でもまだわからないことも沢山あります。
神父様は入門講座の中で洗礼を受けたくなったら三ヶ月でも半年でも・・。
と言っていて、先日は講座の中で洗礼は強制しないと言いながらも洗礼受けるしか無いですね!と
冗談交じりで他の入門講座の参加者さんに言ったりしています。

まだ、勉強途中ということで分からないところもあり不安もあります。
洗礼を受けたら講座には出られないそうですし・・。
聖書が分からないまま受洗するのもなあと思ってしまいます。
ただ、ミサでもきちんとご聖体を頂きたいと思ってしまいますし
やはり信者にならないとどこか仲間はずれ?な気持ちになっている自分がいます。
単純に神父さんに相談してみるのがいいのでしょうか。

Aベストアンサー

洗礼の期限は洗礼者ヨハネが行なっていた洗礼によります。(洗礼したから洗礼者なんですけどね)
これは神道の禊ぎと同じ意味を持ちます。具体的にはヒトが犯した原罪を清めるための儀式です。
ヒトは現在にって楽園を追い出されました。つまり原罪がある限り楽園(天国)には入れないわけです。ヨハネは洗礼によってこの原罪の赦しを求めたわけで、それはイエスが洗礼を受けるということで完成しました。
だからキリスト教系の多くは洗礼を受けるわけです。

では洗礼を受けなければどんなに主の教えに従って生きていても天国に入れないのか?
そうではありません。が、原罪はあります。だから煉獄において現在を償うと考えているわけです。
煉獄は一瞬だが、その苦しみは地獄より恐ろしい・・私はそう習いました。
だからこの世で洗礼を受けたほうがはるかに楽です。

でも洗礼を受けるということは主の教えに従って生きるという決意でもあります。
法を知っていて犯す罪は知らないものの罪より重い。同じ過ちを犯すにしてもそれを知らないで犯す無知者より知っているものは当然重くなるのだということを自覚して生きなければなりません。
しかし知ろうとしないことも大きな罪でもあります。

カトリックや多くの新教では洗礼を強制することはしませんから、冗談交じりに勧めているだけです。
洗礼を受けたか受けないかの実生活での差は「聖体拝領が出来るか否か」くらいですよ。
仲間はずれではなく本質は自分に何か足りないものがあるという感覚でしょう。周囲が敬遠しているのではなく、自分が距離を感じているだけなんです。
カトリック信者としては「それは自分が洗礼を欲しているから」というしかないですね。
気持ちを切り替えれば仲間はずれという感覚は消えます。そうなればムリに洗礼を受ける必要はありませんが、払拭できなければ洗礼受ければイイじゃないですか。

洗礼はゴールでなくスタートです。これからが本当の勉強なんです。
そして、より強いつながりを感じたら堅信を受ければいいんです。
どうぞ心をもう一度整理して神父様に相談してください。

洗礼の期限は洗礼者ヨハネが行なっていた洗礼によります。(洗礼したから洗礼者なんですけどね)
これは神道の禊ぎと同じ意味を持ちます。具体的にはヒトが犯した原罪を清めるための儀式です。
ヒトは現在にって楽園を追い出されました。つまり原罪がある限り楽園(天国)には入れないわけです。ヨハネは洗礼によってこの原罪の赦しを求めたわけで、それはイエスが洗礼を受けるということで完成しました。
だからキリスト教系の多くは洗礼を受けるわけです。

では洗礼を受けなければどんなに主の教えに従って生き...続きを読む

Qキリスト教はどうして偶像崇拝をするのでしょう?

教会にはキリストの磔像や絵がたくさんあります。
あれに祈っているようですが、どうしてキリスト教は、偶像崇拝をするようになったのでしょうか?
偶像崇拝をしてはいけないと聖書に書いてないのでしょうか?
イスラム教では厳格に禁止されているそうです。
キリスト経の歴史において偶像崇拝を推し進めたのはだれで、いつの時代でしょうか。

よろしくお願いします。

Aベストアンサー

質問者は、勘違いをされています。

キリスト教では、偶像崇拝は厳禁です。
現時点で、偶像崇拝をしているキリスト教の宗派はありません。

質問者の方は、キリスト教において、「神」の像を見た事が有りますか?
だれも見た事の無い神の形を、像にすることはできません。

でも、キリストの像を拝む事はありますし、十字架を拝む事もあります。
それが、像であったり、絵画であったりしますが。

もちろん、キリストの像や絵画を拝む事を禁止している宗派もあります。

キリストの像を拝むのは、キリスト教のカルケドンの公会議を認めるグループです。
これには、カトリック、正教会、プロテスタントなど、キリスト教会の80%以上が含まれます。

カルケドン派の教義では、「父なる神と子なるキリスト、そして聖霊は、一体である」とします。
この教義では、「神の像を崇拝する事は禁止されるが、子なるキリストを礼拝する事は、問題ない。」としています。

つまり、神自体の崇拝は禁止するが、子(人間)の形をとった、キリストへの礼拝は、問題ないといっています。

またカトリックでは、神へは崇拝、キリストには礼拝、聖人には崇敬、聖母マリアには、超崇敬を行う事になっています。

私は、キリスト教徒ではありませんので、実際に、崇拝と礼拝、崇敬の祈りの違いは、分かりませんが、キリスト教会の中で、区別されているようです。

当初キリスト教では、キリストの像を拝む事はなかったようです。
ローマ帝国内で国教とされたため、それまでのローマ帝国内の信仰(ギリシャ神話、ローマ神話、マトラ教など)と交わり、信仰の対象としての何かが必要になったため、それができるように解釈を変更する口実として、カルケドン派の三位一体が考え出されたと思います。

イスラム教は、キリスト教が、本来のユダヤ教が持っていた本質から離れた事を批判し、勢力を拡張します。
しかし、その過程で、あまりにキリスト教のキリスト像礼拝を批判しすぎたため、行過ぎた偶像崇拝論が形成されてしまいました。
しかし、信仰の対象としての何かが必要である事には変わりが無いため、必要以上の聖典コーランへの信仰と、メッカのカイバー神殿への崇拝となってしまっています。

質問者は、勘違いをされています。

キリスト教では、偶像崇拝は厳禁です。
現時点で、偶像崇拝をしているキリスト教の宗派はありません。

質問者の方は、キリスト教において、「神」の像を見た事が有りますか?
だれも見た事の無い神の形を、像にすることはできません。

でも、キリストの像を拝む事はありますし、十字架を拝む事もあります。
それが、像であったり、絵画であったりしますが。

もちろん、キリストの像や絵画を拝む事を禁止している宗派もあります。

キリストの像を拝むのは、キ...続きを読む

Qクリスチャンの意味は何ですか。

クリスチャンの意味は何ですか。
キリスト教を信じている人をクリスチャンと一般に言っているようですが、厳密にはクリスチャンとはどんな人を言うのでしょうか。聖書を経典として信じている人でもいわゆるキリスト教の異端(ものみの塔、モルモン教など)といわれる信者の場合もクリスチャンといえるのでしょうか。

Aベストアンサー

厳密なクリスチャンの定義なんて有りません。

そもそも、それぞれの教派や団体が自称する物です。
理由は、キリスト教やその他の宗教を束ねる上部組織があって、そこからクリスチャンと認められた宗教のみ名乗れる。
なんて構造がそもそも無理だからです。
(当然ですが、自分の宗教に上部組織となる宗教があるというのはあまり聞かない)


なので、自称「クリスチャン」を名乗る宗教団体で認定されればクリスチャンです。

また、クリスチャンが他の教派の信者を「クリスチャン」と認めるかどうかについても問題で、思っている教派もあれば、「あの教派のやつらはキリスト教徒じゃない」なんて思っている教派もあると思います。
これは宗教の相互理解が難しいという問題ですので、当然と言えるかもしれません。
(できたら世の中、とても平和です。)


そのため、聖書を教典とすれば…というのは誤りです。
モルモン教徒は新約聖書の他にモルモン書を教典としますし…
聖書も新約聖書を信仰する所もあれば、旧約聖書を信仰する所もあります。
(新約と旧約の違いは御存知かもしれませんが、全く別の教典である事を付記します。)

キリストを信仰すれば…という線引きもできません。
死後~復活のキリストを重視して信仰する末日キリスト教や
聖母マリアを信仰する正教系もあります。

また、キリスト教徒以外でもイメージしやすい「キリスト教」でも
「カトリック」と「プロテスタント」があったり、
一括りにはできない問題なので、「クリスチャン」という言葉がいかに広く曖昧かご理解いただけると思います。

また、教派間ではなく、同じ教派でもクリスチャンと名乗るには
洗礼を受けた人だけ、という人もいれば、毎週お祈りに来ればという人もいたり、
聖書を持っていればクリスチャンなんて理解する人もいたり。

日本の仏教でも同じで、曹洞宗でも真言宗でも浄土真宗でも「仏教徒」と呼びますし、
家の葬式が仏教式だからウチは仏教徒なんて理解している人もいれば、
お寺に寄付くらいはしないと最低でも仏教徒なんて言えない思っている人もいます。
それと同じです。


まぁ、どの宗教も、信じている人がどう思うか?が重要で、
外からどう認識されるかは重要ではないので、「自称」となります。
自分達の中では「厳密」なルールがあっても、外から見ると「自称」となると思います。

厳密なクリスチャンの定義なんて有りません。

そもそも、それぞれの教派や団体が自称する物です。
理由は、キリスト教やその他の宗教を束ねる上部組織があって、そこからクリスチャンと認められた宗教のみ名乗れる。
なんて構造がそもそも無理だからです。
(当然ですが、自分の宗教に上部組織となる宗教があるというのはあまり聞かない)


なので、自称「クリスチャン」を名乗る宗教団体で認定されればクリスチャンです。

また、クリスチャンが他の教派の信者を「クリスチャン」と認めるかどうかについても問題...続きを読む

Qクリスチャンの方々へ:あなたの洗礼名は何ですか?

クリスチャンの方々へ:あなたの洗礼名は何ですか?

少しでも多くの情報を集めたいと思ってアンケート形式にしました。よろしくお願いします。

Aベストアンサー

少しでも多くとのことですので、友人たちのものを羅列しておきます。
珍しい名前は本当に特殊なので、ちょっと本人の許可なく載せられないので、ポピュラーなものだけになりますが……。
ユリア、エステル、モニカ、エヴァ、イーヴァ(綴りはエヴァと同じですが、本人はイーヴァと発音していました)、アンジェラ、マリア、ハンナ、男性だとジョン、ペテロ、パウロ、マルコ、アリエル、レヴォなど。
基本的に聖人の名前から取りますから、かぶりやすい名前もけっこうありますね。
洗礼名とは別に堅信名というのもありますので、2つの名前をくっつけたような名前もあります。

Qキリスト教信者の夫と結婚し洗礼予定です。

プロテスタント(改革派)信徒の夫と結婚して2年になります。昨年娘を授かりました。
このたび、娘が幼児洗礼を受けることになりました。その時に同時に私の洗礼もすることになりそれについて悩んでいます。
主人の実家は義父に彼の母方の祖父、叔父がプロテスタントの牧師家系です。主人自身は大学生の時に信仰告白をしました。私のほうは父方が浄土真宗の仏教ですが、実家が自営業で家に神だながありえびす信仰ではないですが、商売繁盛などのお札があって神棚を拝むような家でした。しかし、幼稚園はカトリックの幼稚園で七五三などは教会で子ども祝福式としてやったり・・・といろいろ混合した典型的日本人です。住んでいた場所も神社仏閣が多く、遊び場はお寺だったり神社だったり教会だったり・・・
そんな環境ですごしたため、八百万の神様だったり阿弥陀様だったりイエス様だったり見えないけどすべてに神様がいるという気持ちがあります。そういう感性を大切にしたいとおもっていました。
主人の実家は敬虔なクリスチャンホームではあるのですが、かなり柔軟な義母でクリスチャンホームの方々があまり行わないと言われる日本古来の行事(お食い初め、お雛祭り、七五三など)を行うことに否定的なことは言わないし、主人もライフイベントとして行うことに抵抗はないようです。(神社仏閣に行っても拝みはしないですが)
娘の幼児洗礼に合わせて私も洗礼を受ける予定だと先に述べましたが、主人は「娘のためにするものではないから、しなくても大丈夫だよ。」と言ってくれます。義実家にしても私の信仰に関してはなにも言いません。ただ、通っている教会からは無言のプレッシャーといいますか、遠まわしに言われまして、主人とずっと生きていくなら私もいつかは改宗しようと思っていたのでそれが少し早まったのだと思い、娘と一緒にしようと思い立ったのですが、勉強会の話になり思いが揺らいでいます。
結婚が決まってから今まで毎週日曜日(休むこともありましたが)礼拝にでています。子どものころはイエス様にお祈りをしてからご飯を食べるような幼稚園だったのでキリスト教に抵抗があるわけではないのです。
でも、上記に記載したとおり、私にとって八百万の神様もイエス様も同じなので、一神教であるキリスト教徒になるのはどうなのだろうか・・・・そういう思いが抜けません。
主人みたく神社仏閣に神様はいない!とは宣言できないのです。この気持ちがなくなってから洗礼をうけるのが筋なのではないか・・・・でないと、他の方々に失礼にあたるのではないか・・・・など色々と考え混んでしまっています。
やはり、まだ私は受けるべきではないでしょうか・・・・。これから物ごころがついていく娘にクリスチャンホームを守り教えていく母としてこのままでよいのでしょうか・・・・。(ちなみに主人と話、娘の宗教に関しては成人するときに自分で選ばせる予定ではあります。)
プロテスタント教徒の方、結婚を機にキリスト教徒になられた方などアドバイスを頂ければ幸いです。

頭の中がうまくまとまらず、読み難い文面や不快に感じる文面がございましたら申し訳ございません。
よろしくお願いいたします。

プロテスタント(改革派)信徒の夫と結婚して2年になります。昨年娘を授かりました。
このたび、娘が幼児洗礼を受けることになりました。その時に同時に私の洗礼もすることになりそれについて悩んでいます。
主人の実家は義父に彼の母方の祖父、叔父がプロテスタントの牧師家系です。主人自身は大学生の時に信仰告白をしました。私のほうは父方が浄土真宗の仏教ですが、実家が自営業で家に神だながありえびす信仰ではないですが、商売繁盛などのお札があって神棚を拝むような家でした。しかし、幼稚園はカトリック...続きを読む

Aベストアンサー

参考になるかどうかは判りませんが・・
私はカトリックです。中学洗礼でした。聖歌隊に属し、中高と聖書を学び、大学時代も近くの教会で聖書の勉強をしました。
その頃の神父様は比較的広い心を持ち、亡くなった人を送るための葬儀なのだからどの宗派でも出て構わないと教わりましたし、誰を祝うのかを考えれば七五三だろうと何だろうとやってもいいとおっしゃっていました。
「神(本来キリスト教では父とか主とか創造主と呼ぶべきものです。本来の神の意味とは違います)というものは一つしかない。言語や考えが異なっていても私達が主と呼ぶものも他の宗教で神と呼ぶものも、その実態は同じものだ」とおっしゃっていたのです。

細かい事を書くと長くなってしまうので結論だけを申し上げれば
納得できなければ洗礼を受ける必要は無い・・そう思います。
それは人に失礼とか言うのではなく、自分自身の問題です。
揺れる心を洗礼によって固めるのも一つの手でしょう。しかしそれは悪くすると恐怖心による束縛にしかなりません。
洗礼を受けたんだからと疑問を解く事無く信じ込むことは自分にとっては大きなマイナスになります。
それなら洗礼を受けずに信仰を学んでいたほうが遥かに尊いと私は思うのです。

よく出される疑問ですが、「洗礼を受けて悪行を働き、告白によって許されたものと、洗礼を受けずに清浄な心を持ち、知らずの内にキリストの教えに即した人生を送ったものでは、どちらが天国に近いのだろう」
後者であれば洗礼の価値がなくなります。しかし前者であれば告白が免罪符となり、洗礼の価値がなくなるのです。
洗礼を受けるということは神の道を知ることです。むしろ神の道を知りながら悪行を行う事は知らずに犯す罪より重い。私はそう考えるのです。
洗礼者ヨハネの洗礼はそれまでの価値観や基準を180度替える為の洗礼です。許しを得るためのものではありません。
それほど大きな人生の転換を、「とりあえず受けましょう」とは言えませんよね。
だから私は幼児洗礼も否定します。実際私は子供達に洗礼を受けさせていません。
洗礼を受けるというのはそんな軽いものじゃないと思っているからです。

貴女は充分に信仰の道を進んでいると思いますよ。でも心が揺れているなら辞めておくべき事だと思います。
あと一歩踏み出せば、キリスト教の道を進める。そのときこそ洗礼を受けるときでしょう。
そして貴女の周りにはそれを教えてくれるご主人屋家族がちゃんと居ますから大丈夫だと思います。

私はカトリックですが妻の家は浄土真宗なんです。
義父の葬儀に先立ってお坊様と話をしていて、浄土真宗の考えは実に素晴しいと思いました。
日本の仏教は日本における人間の生き方を説いています。だから中国やインドの仏教徒は解釈が違って当たり前。
日本の風土に合った生き方を説いているんです。
その教えはキリスト教の中でも充分生かされるものだと私は思います。
それが見えてきてからでも、洗礼は充分に間に合うのではないでしょうか?
いつでも相談できる人がいる事は実に素晴らしい事です。だから家族に相談しながら自分を高めて行って下さい。
そして納得したら脇目もふらずに飛び込んで行って下さい。

参考になるかどうかは判りませんが・・
私はカトリックです。中学洗礼でした。聖歌隊に属し、中高と聖書を学び、大学時代も近くの教会で聖書の勉強をしました。
その頃の神父様は比較的広い心を持ち、亡くなった人を送るための葬儀なのだからどの宗派でも出て構わないと教わりましたし、誰を祝うのかを考えれば七五三だろうと何だろうとやってもいいとおっしゃっていました。
「神(本来キリスト教では父とか主とか創造主と呼ぶべきものです。本来の神の意味とは違います)というものは一つしかない。言語や考えが...続きを読む

Qプロテスタント教会での出来事

教会に恐怖を感じていくのをやめました。
洗礼は受けていませんが、一日5時間聖書を読めとか、一度でも礼拝を休むと
必ず、しつこく詮索してくる人がいます。今まで大勢の人が教会を去って行きました。
教会はどんな人でも受け入れるのが神様の愛なのではないのでしょうか?
普段はいい人なのですが、聖書を少しでも理解できない人や、期待した言葉をださないと
感情をむき出して、その人たちを排除して、オウムや創価のような恐怖や洗脳を思い出すがあります。1度、警察沙汰になったとき「私は悪くないのこの人は悪魔なの」と
警官のまえで悪あがきをして、このことが教会をやめる決定打になりました。
宗教って、生きることに疲れた人が心のよりどころと平安を与えるところ、
単純な理由で弱者や異質を攻撃するのなんて、残念です。
多くの教会が社交場化しているのでは、駅から歩いて3分もないのにわざわざベンツやBMWで乗り付けて路上に止めることもないのでは。

Aベストアンサー

カトリック信者で、ここの所原則毎週カトリックの教会に通っています。
少なくても私の周りでは、カトリック信者である前に、皆さん「良き市民」であり、特に偏屈な人、変に狂信的な人は見受けられません。逆に言えば、特別素晴らしい、徳の高い人にもそうそうはお目にかかれません。早い話が、一般の世の中と同じだということです。

この「良き市民」とは、キリスト教的に言えば「善きサマリア人」と言い換えてもよいと思います。
サマリア人は、聖書の時代、ユダヤ人から見てひどく差別されていたようです。
しかし、イエスの説法の中にある有名な「善きサマリア人のたとえ」(新約聖書・ルカによる福音書第10章第26~37節)にある通り、道で行き倒れになった人を救助し看病したのは、ユダヤ教の祭司などではなく、ふだんは卑しめられ差別されていた一人のサマリア人だったという話です。その人は、まるで自分のことのようにその行き倒れた人のことを心配し、先を急いでいたのに立ち止まって救助したのです。この「他人の痛みや苦しみを自分のことのように心配して、救いの手を差し伸べる精神」つまり「隣人愛」こそ、イエス・キリストが最も重んじるべき価値観として奨励したものであることは、質問者様もよくご存じの通りだと思います。

更に質問者様もよくご存じの通りかと思いますが、キリスト教の神は、本来、「裁く神」ではなく、人の過ちを「7の70倍」まで許す神です。(新約聖書・マタイによる福音書第18章第21~22節ご参照)
又、律法ばかりを重んじ、血の通わない、隣人愛の伴わない正義(?)をふりかざすパリサイ人たちに対するイエスの批判は当を得たものだったと思います。
更にもうひとつ、マタイによる福音書第6章第5~8節にもあるように、祈る時は隠れて祈れ、これ見よがしに人に「祈ってるぞ」と見せびらかすこともない、とあるように、虚栄心を戒めていますね。

こうしたイエスの教えにもかかわらず、教会といえども、世間のドロドロした人間関係や虚栄心、邪心から逃れることは出来ず、最初に書いた通り、やはり「弱い人間」の集合体なのだと思います。
だからこそ、逆説的ではありますが、そんな弱い人間から脱却して、少しでも心掛けのよい人間になるために、キリスト教をはじめとした宗教や、教会などのコミュニティの存在意義があるのではないでしょうか?

あなたの通っておられる教会は、どうも不幸な現状に晒されているようですが、それが、キリスト教ひいては宗教のすべてとは思わないでください。しかし、「すべて」ではないにしても、一つの姿ではあるという現実とも、同時に向き合って下さい。

その上で、あなたの身の処し方については、あなたの自由意思で考えて頂いてよいと思いますが、
1.今の教会で「改革」を目指すにしても、
2.他の教会(含・教派・宗派の変更)で再起を目指すにしても、
出来れば、キリスト教にもう少し付き合い、色んな現場から、学んでいって頂ければ幸いです。
(因みに、プロテスタント諸教派は、聖書に最も価値をおきますが、カトリックは、必ずしもそうではなく、教義にも柔軟な所が見受けられるようです。)

勿論、キリスト教にこだわらないのも、一案です。
最後に白状しますが、私自身、仏教や神道などにも深い親近感を持っており、特定の宗教というよりも普通名詞の「宗教」や「神」と向き合いたいという意識を強くもっています。

カトリック信者で、ここの所原則毎週カトリックの教会に通っています。
少なくても私の周りでは、カトリック信者である前に、皆さん「良き市民」であり、特に偏屈な人、変に狂信的な人は見受けられません。逆に言えば、特別素晴らしい、徳の高い人にもそうそうはお目にかかれません。早い話が、一般の世の中と同じだということです。

この「良き市民」とは、キリスト教的に言えば「善きサマリア人」と言い換えてもよいと思います。
サマリア人は、聖書の時代、ユダヤ人から見てひどく差別されていたようです。
し...続きを読む

Qキリスト教の人と結婚したらどうなる?

今付き合ってる彼の家はクリスチャンだそうです。彼自身は熱心な信者と言うわけでもないようですが、やはり彼と結婚したら生活に何か影響が出てくるのでしょうか?

私はバツイチの子持ちなのですが、私や子供も入信しなければいけないのでしょうか?またキリスト教でも離婚をしてはいけない派閥があると聞きましたが、バツイチの人と結婚するのはどうなんでしょう?

また私の家は熱心ではないですが仏教徒です。しかも親戚にお寺があると言う、家柄です。
宗教の違いと言っても怪しい宗教ではないですし、私自身キリスト教系の学校に通っていた為、なじみが全く無いわけではありません。特にキリスト教に対する偏見などもありません。

ただ、先日神社であったお祭りに出かけた時「お参りする?」って聞いたら「宗教が違うからしないほうがいいような気がする・・・」と言われ、これが宗教が違うと言う事なのか!と実感してしまいました。
またクリスマスもやはり毎年ミサに参加しているそうで、「良くある『ホテルで2人でディナー』とかは出来ないの?」と聞くと「親戚とか集まるからクリスマス位は・・」ということでした。イヤ特にホテルのディナーに行きたいわけではありません。私も去年のクリスマスは子供と一緒に近所の教会へ行ってみたほどなので。ただそういった「宗教的行事」などは強制参加になるのでしょうか?

お付き合いしていく分には特に支障はないようなのですが、今まで自分が当たり前にやってきた宗教行事(お葬式、法事等)とかけ離れた世界の事が日常的に繰り広げられてるようで結婚後の想像がつきません。
また宗教が違うと結婚の際もめたりする事は考えられるのでしょうか?何か体験談等ありましたらお聞かせください。

今付き合ってる彼の家はクリスチャンだそうです。彼自身は熱心な信者と言うわけでもないようですが、やはり彼と結婚したら生活に何か影響が出てくるのでしょうか?

私はバツイチの子持ちなのですが、私や子供も入信しなければいけないのでしょうか?またキリスト教でも離婚をしてはいけない派閥があると聞きましたが、バツイチの人と結婚するのはどうなんでしょう?

また私の家は熱心ではないですが仏教徒です。しかも親戚にお寺があると言う、家柄です。
宗教の違いと言っても怪しい宗教ではないですし、...続きを読む

Aベストアンサー

私自身クリスチャンですが、クリスチャンの中にも色々あります。彼がどのぐらい生活の中に宗教を入れているか、によって違います。また、結婚となると彼のご家族とのお付き合いもあると思いますので、彼のご家族の信仰に対する姿勢も関係してきますね。「相手も絶対にクリスチャンじゃなきゃイヤ!」って方もいらっしゃいますし。

一般的なクリスチャンの生活です。日曜日は教会に行く。礼拝ですね。そして毎日聖書を読む。朝夕お祈りをする。食事の前にも必ずお祈りをする。週に1回は聖書の勉強会みたいなのに出席する。奉仕で教会の掃除をする。教会の運営に携わる。などでしょうか?また、結婚式の仲人も神式だったら引き受けないとか、身内の結婚式でも神式だったら式場の外で待っているとか、お葬式でお焼香はしないし、手を合わせたりの行為(人を拝む)はしないとか、お供えものは頂かないとか、初詣もしないし、七五三もしない。お祭りや地蔵盆も拒否っていう人も。

私のクリスチャン生活。礼拝に出席する。聖書は時たま。寝る前にお祈りする。食事の前のお祈りはおなかがすいているので出来ない(笑)。勉強会は気が向いたとき。奉仕はしない。教会の運営にも携わらない。結婚式は何でも出席する。お葬式も数珠持って拝むし、お焼香ももちろんする。お供え物は頂ける物はなんでも!初詣もするし、息子はきっちり三歳と五歳に七五三しましたよ。お祭り大好き!地蔵盆も息子と行きました。(これを読んで怒るクリスチャンの方もいらっしゃるかと・・・)

と、言うように一般にクリスチャンといっても千差万別。また、カソリックやプロテスタントとの違いもあります。彼はミサというのでしたら、カソリックでは?プロテスタントではミサとは言いません。

彼と彼の家族がバリバリのクリスチャンだったら、あなたと子どもさんも宗教行事に参加でしょうね。でもあくまで自由参加。私の夫も行ったり行かなかったりです。でも教会の人達は「ご主人も参加してもらおうね」とか言ってきます。心の中で「大きなお世話!」と言ってしまっている私がいます。(主よ お許しください)その辺を彼がどう思うか、彼の家族がどう思うかによって変わりますよね。

具体的に話が進んで行っているのですね。お幸せに。

私自身クリスチャンですが、クリスチャンの中にも色々あります。彼がどのぐらい生活の中に宗教を入れているか、によって違います。また、結婚となると彼のご家族とのお付き合いもあると思いますので、彼のご家族の信仰に対する姿勢も関係してきますね。「相手も絶対にクリスチャンじゃなきゃイヤ!」って方もいらっしゃいますし。

一般的なクリスチャンの生活です。日曜日は教会に行く。礼拝ですね。そして毎日聖書を読む。朝夕お祈りをする。食事の前にも必ずお祈りをする。週に1回は聖書の勉強会みたいなの...続きを読む

Q短期間でキリスト教の洗礼を受けるには?

洗礼を受けてクリスチャンになりたいと思っています。
私は、海外に住んでいます。
住んでいる国はイスラム圏です。

日本に帰国した際、洗礼を受けたいと考えているのですが、日本に長期滞在が出来ません。
最大で3ヶ月程度です。
そのような短期間で洗礼を受けることは出来るのでしょうか?
帰国予定は10月中旬になりそうです。
普段から聖書は読んでいます。
ご回答の程、宜しくお願いいたします。

*キリスト教、イスラム教の宗教観についての書き込みはご遠慮下さいますよう、お願いいたします。

Aベストアンサー

プロテスタントのクリスチャンです。

各教会によって受洗のための勉強をします。
いわゆる「信仰告白」です。
その勉強期間が教会(宗派)によって違います。
神父や牧師の見解にもよりますけど。

私の教会なら大丈夫なんですけどね。
週1で3ヶ月もあれば充分です。
でも、牧師や役員が「そのような理由では・・・」と難色を示すかもしれませんけど。
ただ、受洗は「教会員になる」ということで、その教会に籍を置く(教会籍を置く)という話になりますけど良いのでしょうか?

そちらの国で教会に通う事になったら、その教会に転会(転籍)することになります。
受洗した教会の神父か牧師に転会する旨を伝え、書類を用意してもらい・・・と手続きが必要です。

そちらの国では教会に行く事は難しいですか?
キリスト教の宣教師がどこの国にでも必ずいるはずですから、そちらで受洗することも可能です。
また、のちのちのサポートも必要ですし(教会に通うとかのです)。

なんにせよ、帰国される場所の近所の教会に相談されるのが良いと思います。
毎日曜日にはミサや礼拝を捧げることになりますし、勉強にしても通いやすいところが良いと思いますから。
できればそちらの国の教会と一緒の宗派が良いですけど、そんなところまでは言ってられないかもしれませんね。
でも、できればカトリックとプロテスタントの違いぐらいは抑えておいた方が良いと思います。
プロテスタントにマリア信仰はありませんから少しギャップがあるかもしれません。
その時にエホバや統一教会、ものみの塔、モルモン教などには気をつけてくださいね。
キリスト教を騙った邪教ですから。

プロテスタントのクリスチャンです。

各教会によって受洗のための勉強をします。
いわゆる「信仰告白」です。
その勉強期間が教会(宗派)によって違います。
神父や牧師の見解にもよりますけど。

私の教会なら大丈夫なんですけどね。
週1で3ヶ月もあれば充分です。
でも、牧師や役員が「そのような理由では・・・」と難色を示すかもしれませんけど。
ただ、受洗は「教会員になる」ということで、その教会に籍を置く(教会籍を置く)という話になりますけど良いのでしょうか?

そちらの国で教会...続きを読む


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