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西暦607年、聖徳太子(厩戸皇子)の命を受けて、小野妹子は国書を携えて隋に行ったが、煬帝に嫌われて、答礼使の裴世清と帰朝したが、その際に煬帝から受け取った「国書」は百済人に盗まれたと嘘をついた。国書を紛失した責任を問われ、流刑に処されるところ、推古天皇の寛大な処置で免れた。

1、自己の知識でまとめた、上記の記述は正しいでしょうか、もし誤りがございましたら、訂正のほど、よろしくお願い申し上げます。

2、煬帝は、妹子の携えた「国書」に不快感を示したが、国書には何と書かれていたのでしょうか

3、妹子は、煬帝から受け取った「国書」を盗まれたと何故、嘘をついたのでしょうか、その国書には何と書かれていたのでしょうか

4、そもそも不快な思いをしたのなら、無視をすれば良いわけで、何故わざわざご丁寧に答礼使として裴世清をよこしたのでしょうか

ご教授のほど、よろしくお願い申し上げます。

A 回答 (3件)

とりあえず、史料を見てみましょう。



日本書紀 推古天皇 25(即位15年)
 秋七月戊申朔庚戌、大禮小野臣妹子遣於大唐、以鞍作福利爲通事。

 7月3日、大礼の小野妹子を大唐(隋)へ派遣しました
 鞍作福利を通事(通訳)としました。


同26
 十六年夏四月、小野臣妹子至自大唐。唐国號妹子臣曰蘇因高。
 卽大唐使人裴世淸・下客十二人、從妹子臣至於筑紫。
 遣難波吉士雄成、召大唐客裴世淸等。
 爲唐客更造新館於難波高麗館之上。
 六月壬寅朔丙辰、客等泊于難波津、是日以飾船卅艘迎客等于江口、
 安置新館。
 於是、以中臣宮地連烏磨呂・大河內直糠手・船史王平、爲掌客。

 16年4月、妹子が大唐(隋)から帰国、妹子は蘇因高の名を賜り
 使者として裴世淸と部下12人が帯同し筑紫に到着。(以下略)


同27
 爰妹子臣奏之曰「臣參還之時、唐帝以書授臣。然經過百濟国之日、
 百濟人探以掠取。是以不得上。」於是、
 群臣議之曰「夫使人、雖死之不失旨。是使矣、何怠之失大国之書哉。」
 則坐流刑。
 時天皇勅之曰「妹子、雖有失書之罪、輙不可罪。其大国客等聞之、
 亦不良。」乃赦之不坐也。

 妹子が奏上するに「書を貰いましたが、帰りに百済で掠奪された」
 群臣は「使者は死んでも旨(目的)を失わないはずで
 大国の書を失うのは怠慢」としてる刑にするとしましたが、
 推古天皇が「書を失った罪はあるといえど安易に罪すべきではない。
 大国(隋)の客人に聞くのは意地悪である」


同28
 秋八月辛丑朔癸卯、唐客入京。
 是日、遣飾騎七十五匹而迎唐客於海石榴市術。
 額田部連比羅夫、以告禮辭焉。壬子、召唐客於朝庭令奏使旨。
 時、阿倍鳥臣・物部依網連抱二人、爲客之導者也。於是、
 大唐之国信物、置於庭中。
 時、使主裴世淸、親持書兩度再拜、言上使旨而立之。
 其書曰「皇帝問倭皇。使人長吏大禮蘇因高等至具懷。
 朕、欽承寶命、臨仰區宇、思弘德化、覃被含靈、愛育之情、無隔遐邇。
 知皇介居海表、撫寧民庶、境內安樂、風俗融和、深氣至誠、達脩朝貢。
 丹款之美、朕有嘉焉。稍暄、比如常也。故、遣鴻臚寺掌客裴世淸等、
 稍宣往意、幷送物如別。」時、阿倍臣、出進以受其書而進行。
 大伴囓連、迎出承書、置於大門前机上而奏之。事畢而退焉。
 是時、皇子諸王諸臣、悉以金髻花着頭、
 亦衣服皆用錦紫繡織及五色綾羅。
 一云、服色皆用冠色。丙辰、饗唐客等於朝。

 長いので簡単に
 隋からの使者が皇帝からの親書を伝えました。
 そこには「使者の妹子さんがこられたが、遠くから来てうれしく思う
 倭国は良い国みたいだから返礼の使者として裴世清を送るよ」
 その時の衣装はこうでした。



今度は隋書 倭国伝
 開皇二十年、俀王姓阿毎字多利思北孤號阿輩雞彌遣使詣闕 
 上令所司訪其風俗、
 使者言、俀王以天為兄以日為弟、天未明時出聽政跏趺坐
 日出便停理務、云委我弟、高祖曰此大無義理、於是訓令改之

 開皇二十年(600年)、倭王の多利思北孤が使者を遣わせました
 お上(高祖)は担当に命じて風俗を聞きました。(以下略)


 大業三年、其王多利思北孤遣使朝貢、使者曰聞海西菩薩天
 子重興佛法故遣朝拜兼沙門數十人來學佛法、其國書曰、
 日出處天子致書日没處天子無恙云云
 帝覧之不悦謂鴻臚卿曰蠻夷書有無禮者勿復以聞

 大業三年(607年)倭王の多利思北孤が使者を遣わせました
 使者は「海の死にの菩薩のような天子が手厚く仏教を
 興隆させているそうで使者として仏教を学ぶための出家者
 数十人と一緒に来ました」と言った。
 日本からの国書には「日が昇る気にの天子が日が没する国の天子に
 国書を送ります。お変わりありませんか」と書かれていた
 皇帝(煬帝)はこれを喜ばず「蛮族の書で無礼、二度と聞かせるな」
 と言った。


 明年、上遣文林郎裴淸使於俀国、度百濟行至竹島、
 南望聃羅國經都斯麻國逈在大海中、又東至一支國、又至竹斯國、
 又東至秦王國、其人同於華夏、以為夷洲疑不能明也
 又經十餘國達於海岸 自竹斯國以東皆附庸於俀

 翌年、お上(煬帝)は裴淸(裴世淸)を使者として返書を持たせた。
 その経路は以下の通りでした。


>自己の知識でまとめた、上記の記述は正しいでしょうか

嫌われたというか、礼儀を知らないと深いに思ったくらいで
だいたいその通り。


>国書には何と書かれていたのでしょうか

隋書にあるように、仏教を教えてほしいということ。
ちなみに、前述のように日本の認識での遣隋使1回目が607年ですが
それ以前にも使者が来たそうです。
正式でなかったか、伝わっていないか判りませんが、
600年の時の皇帝は高祖で607年は煬帝だったので
恙ないですか(お変わりありませんか)になったと思われます。


>煬帝から受け取った「国書」を盗まれた

隋からの使者も同行しているので、盗まれたとして隠蔽するのは困難。
口裏を合わせたか本当に盗まれたかはわかりませんが、
裴世淸が返礼の親書を伝えています。


>何故わざわざご丁寧に答礼使として裴世清をよこした

いわゆる大人の対応。
蛮族の礼儀知らずを不快に思いましたが、妹子は蘇因高の名を賜り
裴世淸の返書ではちゃんとねぎらっています。

よく、「日本書紀はファンタジー」といって無視する人が多いですが
裴世淸などの記述が一致するのでウソばかりではないと思います。
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この回答へのお礼

丁寧且つ詳細なご回答ありがとうございました。大変勉強になりました。

お礼日時:2022/04/19 01:29

無礼な蛮族に礼を諭し、特別の御慈悲で今回だけは大目に見てやる的なことが書いてあったのでしょう。


隋は、高句麗と対立して度々遠征軍を送っていたけど成果を上げらませんでしたから、高句麗を外交的に孤立させ、あわよくば倭国にも朝鮮半島に出兵してもらいたかったのでしょう。
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この回答へのお礼

丁寧且つ詳細なご回答ありがとうございました。大変勉強になりました。

お礼日時:2022/04/19 01:30

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この回答へのお礼

ありがとうございました。

お礼日時:2022/04/19 01:30

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