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崇峻天皇が暗殺された後なぜ聖徳太子が天皇(大王)にならなかったのでしょうか?
その当時前例のない女帝の推古天皇にするのなら、
聖徳太子が即位するのが自然なはずです。
その時で19歳という年齢も、聡明で知られる太子の
人物からすれば若すぎるとまではいえないでしょう。
現に摂政皇太子に任じられているのですから。
蘇我にとっても身内同然の血統なのですから、反対する理由は無さそうです。
太子が必ずしも蘇我に従順でない事に気づくのは後のことですし。

A 回答 (11件中1~10件)

崇峻天皇の後継者候補は、太子を含めて3人いました。


おっしゃるとおり、太子はその3人の中でもっとも有力でした。
しかし、当時は即位は30歳以上というのが慣例でした。
いかに太子が聡明とはいえ、若すぎるというのが当時の考え方でした。
さらに、当時は皇位は兄から弟に継承されていくのが普通でした。
崇峻天皇の前の用明天皇、敏達天皇、みな兄弟です。
ここで、この太子を含む3人の誰を即位させても、その次に兄弟への継承の際にまたもめることが予想されました。
崇峻天皇の後継ぎをスムーズに決めるためには、従来とは全く異なった考え方が必要とされました。
そこで、前例のない女帝推古が選ばれました。

ただし、推古が選ばれたのは、聖徳太子を次の天皇にするためだったと考えられています。
推古即位の直後、聖徳太子は皇太子に指名されています(そんなことはないという説もあります)。
いわば推古天皇は、当初から聖徳太子即位までのつなぎとしての役割を負っていたようです。
推古天皇に限らず、歴代の女帝はそういう役割だったことが多いようです。

しかし、ご存知の通り、太子は推古在位中に亡くなり、即位は実現しませんでした。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます

やはり年齢ですか。
しかし摂政で皇太子という事は、天皇の代理人にして次の天皇を意味しますが、
そういう地位にはなれても天皇そのものにはなれなかったのでしょうか?

お礼日時:2006/05/04 22:59

追伸


御しやすければ、利用価値があるので逆に庇護するでしょう。
「正論は耳に痛い」「良薬は口に苦し」と言います。
蘇我入鹿は、大分自己中心的な性格だったようなので、余計に聖徳太子を疎ましく思ったのでしょう。
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こんにちは。

異説を1つ紹介しておきます。聖徳太子はキリスト教徒でそれが原因で当時の朝廷主流派・蘇我氏と対立。暗殺された、という説を聞いたことがあります。奇想天外の話ですが、まったく根拠のないものでもなさそうです。何と言っても聖徳太子は「厩戸の皇子」と言われたくらいですから。それに当時、中国にはキリスト教が伝来していたらしいです。ですから、仏教と一緒に日本に入ってきたのかもしれません。これはあくまでも異説ですのでご注意下さい。
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 「聖徳太子」という呼称は後世のものですが、そもそも厩戸皇子が「聖徳太子」と呼ばれる理由となったような事蹟が歴史事実かどうかに疑問があります。


 「摂政」も「皇太子」も後世の呼称です。なお、『日本書紀』に記された「摂政」は、平安時代以来の官職としての称ではなく、「政を摂す」という動詞的意味だと解釈することが可能です。推古天皇は、『上宮聖徳法王帝説』に「他人を雑ふること無く、天下治しき」とある天皇に含まれています。すなわち、親政をしたと考えられます。推古天皇は、当時の厩戸皇子を上回る実力者であり、単なる中継ぎではなかったと見るべきでしょう。
 一方、厩戸皇子の「住所」は斑鳩宮ですね。飛鳥から約20kmも離れています。これは、彼がそれほどの権力者ではなかったことを示唆しているように思われます。
 厩戸皇子が推古天皇の「皇太子」(に相当する人物)とされていたのは、彼の婚姻関係による所が大きいと思います。というのは、彼の妃の中に、推古天皇の娘である菟道貝鮹皇女、孫である位奈部橘郎女がいます。推古天皇の構想としては、女系で自らの血統をつなげようとしたのではないでしょうか。しかし、この妃はいずれも子を儲けなかったか、子は夭逝したようです。
 そのためだと考えるのですが、推古天皇は厩戸皇子に譲位することなく、終身在位し、厩戸皇子は、その前に亡くなりました。
 
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20年ほど前に連載されていたあるコミックでの解釈ですが、大君一人の発言より、大君を後ろ盾にして皇太子として発言する方が、発言力が大きいというのがありました。

また、群臣たちの合議をただ認可するだけの実権の無い大君よりも、実権を伴う為政者を目指したのだ、ともかかれていました。
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大王(おおきみ)に即位する事について、現代とは大きく考え方が違っていたからだという事です。



つまり「王位の継承には血統よりも年齢や経験、人柄などが重視された」のが理由だそうです。十分な年齢に達するまでになくなった事が、即位できなかった最大の理由でしょう。
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#4です。



>しかし摂政で皇太子という事は、天皇の代理人にして次の天皇を意味しますが

全くおっしゃるとおりであり、このまま行けば、推古女帝の後に天皇の位についていたことでしょう。
しかし、#4で私が述べたとおり、その前に太子は亡くなってしまいました。

それなら、推古朝が太子の即位を目的としたものなのだから、
たとえば太子がいい年齢になったら推古が太子に位を譲るなどして、
天皇になることはできたのではないか、という意見もあるかもしれません。
しかし、この当時はまだ天皇が存命中に別の者に位を譲る、
いわゆる譲位の習慣はありませんでした。
太子が即位するには、推古が没するのを待たねばなりませんでした。
つまり、太子は天皇になることはできたはずなのに、その前に亡くなってしまったということです。
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「聖徳太子は聡明であった」ことが原因でしょう。


古代王朝は、絶対王権が確立しておらず、「王」と言うより「代表者」という意味合いが強かったのです。
ならば、「王」の権力を強化し、律令制を確立しようとした聖徳太子は、勢力拡大を図っていた蘇我一族から疎まれたのは当たり前といえます。
摂政皇太子にして懐柔しようとしたが、上手くいかなかったので暗殺した、そんなところではないでしょうか。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます

この当時ですでに蘇我は太子を身内というより
御しがたい相手のような認識をしていたのでしょうか?

お礼日時:2006/05/04 23:02

聖徳太子は架空の人物だった、という説もありますが・・・。

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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます

聖徳太子架空説は知っていますが、個人的には無理があるように思います。

お礼日時:2006/05/04 22:57

推古天皇の甥と言う説明があります。



これが正しいなら、女系であり、
永久に無理になります。

この回答への補足

ご回答ありがとうございます。

女系で無理と言うのなら立太子自体がされないのじゃないでしょうか?
皇太子というのは次の天皇という事ですから。

補足日時:2006/05/04 22:52
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