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図書よりわかりやすく面白いので、最近は「youtube高校」で日本史の中のいろいろな出来事を見ていますが、遣隋使を取り上げた内容で、最初の遣隋使は600年だったことを初めて知りました。
隋書に記載されているものの、日本書紀には記載されていないようです。

今から50年以上も前に戦後の歴史教育を受けた私は、第一回遣隋使は607年の「日出ずる国の天子・・・」ぐらいの記憶しかありません。
図書やインターネットで調べてみると、(2000年以降の)参考書などには記載ありますが、小学生向けの図書には記載されていないようです。私が好きなまんが日本史も607年です。私が生徒の頃の日本史の教科書を確認することはできませんでした。なお、世界史では607年になっています。

質問は、
(戦前だったらありうると思うのですが、)戦後の歴史教育の中で、最初の遣隋使が無視された理由は何だと思いますか?
600年の遣隋使の有る、無しで、学問としての歴史は大きく違ってくるような気がします。

「戦後の歴史教育の中で、最初の遣隋使が無視」の質問画像

質問者からの補足コメント

  • 質問を締め切ります。
    残念ながらベストアンサーはありませんでした。

    「どう思うか?」と質問したので、なんでもありだったのですが、想定外の回答がなくて残念でした。
    「隋書に記載されていることを近年知った。」と言う回答は、最も期待に近づいた回答だと思いましたが、これだと教科書に記載されている邪馬台国と卑弥呼を否定することになってしまいます。何故なら、邪馬台国と卑弥呼は魏志倭人伝に記載されていますが、日本書紀には記載がないからです。

    回答していただいた皆様ありがとうございました。

      補足日時:2022/04/03 23:57

A 回答 (10件)

他の回答で「年貢米は武士が全部食べられるわけがない」と言ったものがありましたが、四十年以上昔に学校教育を受けた年代の私も「年貢米を武士が全部食べるはずがない」とは思っていました。

そして学校の授業で聞いたのか社会人になってから聞いたのか忘れましたが、年貢米の多くは商人に売られて武士はそのお金でやりくりをし、そして商人はその結果力を着けて来たそうです。なので「武士が年貢米を全部食べられるわけがない」と言う理由だけでは「農民は重い年貢に苦しめられていた」がウソだったと言う事にはならないはずです。

(実際には新しく見つかった史料等から当時の農民の生活が分かって来たのでしょうが)

また世界史の方で言えば、昔はエジプトのピラミッド建設に従事していた労働者を「奴隷が強制的に働かされている」みたいな教えられ方をしていたと思いますが、近年の研究ではピラミッド建設の労働者は社宅などの福利厚生がバッチリ行き届いており、また休みも十分もらっていて、かなり文化的な生活をしていた事が分かっているそうです。そして生活面だけでなく「自分達は国家的なプロジェクトに携わっている」と言った仕事自体に対するモチベーションもちゃんと持っていたようです。

もちろん歴史的な事実は過去のものなので今後変わる事は絶対にないわけですが、それについての認識は研究等によっていくらでも変わり得るものですし、それが学問と言うものだと思います。
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この回答へのお礼

参考回答ありがとうございます。
質問内容からそれてしまいますが、昔も今も税金を徴収される底辺層の苦しみは変わらないようです。

「まんが日本史」はずいぶんと前に作成され、もう4回目ぐらいを見ていますが、いまだに新たな発見があって奥が深いと感じます。なので、歴史教育には今も昔も変わらない一貫性と言うか、なにかがあるのだろう、とは思います。

お礼日時:2022/04/03 07:27

#8です。

お礼ありがとうございます。

歴史研究はかなり難しいもののようで、バイアスをかける様々な要素があります。

たとえば江戸明治期だと科学的な精査方法が確立していなかったので「資料そのものが正しいのか?偽物や作り物はないのか?」というところから積み上げる必要がありました。

だからだんだんに資料が発見されて、たとえば「AがBに激怒した」という資料があったら「CはAがBに対して激怒したのを見た」という資料があれば裏付けが取れた、ということになり、近年でも割と重要な史実を裏付ける資料の大発見があったようです。

そういうひとつひとつの積み上げと、今は新しい資料が発見されて昔の資料と付き合わせていくので、どんどん歴史が変わってしまうわけです。

また「時代の価値観に合わせて評価される」という点もあります。
たとえば質問者様や私の世代は「農民は貧しく、年貢の重さに困っていた」という教えられ方をされているはずですが、あれはウソだとわかってきています。

これを解くのにある学者が説明したのが「外国人の学生が《では年貢で取っていった米は誰が食べたのですか?》という質問に誰も答えられなった」というものがあります。

このエピソードがほんとかどうかわかりませんが、6公4民で米を年貢として集めても、武士は人口の3%程度しかいなかったので、食べきれるわけがない、というごく単純な疑問なのですが、日本人は学者も生徒も「農民は年貢に苦しんでいた」という刷り込みがあるので、誰も疑問視してこなかった、というものがあるわけです。

このような部分もいまは見直されていて、なので近年の教科書は「士農工商」という言葉を使わなくなっていたりします。

>そんなもん、現場に行けばわかるだろ、専門家は大丈夫かよ・・・と思ってしまいました。

うーーん、私は「歴史の専門家」では現場に行っても分からないと思います。なぜなら「一般的な日本人で鉄砲の音を知っている人はいない」からです。

だから現場に行っても「この距離なら音は聞こえない」と判断することはできないでしょう。だから資料に「聞こえた、逃げた」と書いてあれば、基本的にはそれを史実だと思うわけで、近年になってようやく歴史だけでなく素材工学とかDNA解析とか、GPSを使った地形分析などを取り入れるようになったので「あれはウソかつくり話の可能性が高い」とわかるようになってきたわけです。

まだまだ歴史の「事実」とされるものは変化するでしょうね。
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この回答へのお礼

回答の補足ありがとうございました。

お礼日時:2022/04/03 07:18

アラフィフです。


なので私が歴史の授業を受けたのは40年ぐらい前になります。

そのころと今の教科書はいろいろ変化していますね。
鎌倉時代もそうですが、特に7世紀前後の変化は大きいです。たとえば
・大和朝廷の成立→ヤマト王権の成立と朝廷への変化
・聖徳太子→厩戸皇子は存在したが、聖徳太子は不明
などがあります。

ご存じだとは思いますが、これらの変化を鑑みると、新しい研究によって史実の認識に変化があり「600年の遣隋使も間違いない」ということになったのだと思います。

また、最初の遣隋使は厩戸王つまり聖徳太子として知られた人物が派遣したようで、このあたり「厩戸王の歴史的評価が確定的になったから、600年の遣隋使も有ったとされるようになった」のではないでしょうか。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございました。

歴史の専門家は日本書紀に記載されている内容を絶対なものとして、隋書に記載されている内容を疑っていたが、時代の進展とともに隋書に記載されている内容も正しいと判断するに至ったということですね。

そういえば、NHK番組で関ヶ原の戦いを科学的に検証する番組がありましたが、我々が知っている話は江戸時代や明治初期に創作された内容だった、ということがわかったようです。
極めつけは、小早川に鉄砲をいかけるくだりですが、あの距離だと鉄砲の音は全く聞こえないみたいです。そんなもん、現場に行けばわかるだろ、専門家は大丈夫かよ・・・と思ってしまいました。

お礼日時:2022/04/01 23:41

単純に「そんなものがあったのを知らなかった」と言う事では? 現に「最近の参考書には記載がある」と言うわけですから「戦後の歴史教育が無視」とは言えないと思います。



「鎌倉時代の始まりが1185年に」のように、評価が変わったり新史料が発見されたりして「歴史の記述が学校で習ったものと変わっている」と言う例は他にも色々あるようです。
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この回答へのお礼

ようやくまともな回答、すなわち質問に対する回答をいただいたと感じます。

本当の事を知らない部外者はあれこれ考えるけれど、実は単純な理由だった・・・あり得ることだと思います。

回答ありがとうございました。

お礼日時:2022/04/01 04:25

600年は、単に国書の授受が成立しなかったので、載せないだけでは・・・


607年は、受け取ったので書いたという事・・・ただし、この当時の隋は、既に国力が低下し死に体の様相を呈しており、遣隋使が来ても相手国に対して、何もできない状況だったはずです。煬帝が激怒したと在りますが「そんな物は見せるな」程度であった筈です。そのため、本来は遣隋使自体を派遣する意味も薄いですが、中国の国情を知らなかったのか、国内向けのアピールか、死に体を知ってワザと対等な国書を受取らせたのか、色々と想像が膨らみますね。
p.s.隋の死に体は陳舜臣著「中国五千年」を参照。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。

国書の授受が成立しなかったので、日本書紀に載せなかった。なので戦後の教科書にも載せなかった・・・ということですね。

やはり、行き着くのは他の回答者と同じように「日本書紀に載せなかったから」になるようですね。

お礼日時:2022/03/31 21:07

日本書紀の記述と違いすぎることですね。


俀王の多利思北孤なんて人は日本書紀に出てこないのです。
それに対する一番スッキリした解釈は「これは大和朝廷ではなくて別の勢力による遣使である」とするものです。しかし、それは天皇家の万世一系史観に反するので、表だって主張できないのです。
卑弥呼や倭の五王の解釈にも言えることですが。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。
別の勢力による遣使であれば、大和朝廷の最初の遣使ではないため、確かに教科書には載せられないですね。ありうることだと思います。

問題は、2000年以降は600年の遣使は大和朝廷として扱っていることです。時間が経ってから何故大和朝廷の遣使と判断したのか、新たな謎が生まれました。

お礼日時:2022/03/31 21:00

相手にされなかったから、恥ずかしいので記述しなかったのですね。

中国にはしっかり記録が残ってるわけですね。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。
残念なのは質問に対する回答になっていないことです。

日本書紀に記載しなかったのは、恥ずかしいからだったのかもしれませんが、それは戦後の歴史教科書に記載しなかった理由にはならないのではないかと思います。

お礼日時:2022/03/31 19:15

参考に・・・


井 真成の石碑を調べてみましょう。
中国の皇帝に賛辞を贈られた日本人です。
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この回答へのお礼

引き続きの回答ありがとうございます。

わざわざ調べるのは面倒ですが、興味を抱いたら調べてみます。

お礼日時:2022/03/31 06:02

史料の信憑性が未だ十分に検証されていないのでしょう。

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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。
NHK講座だけではなく、ウィキペディアや最近の高校の参考書には記述があり、少なくとも2000年以降は専門家も、隋に最初に行ったのは600年で間違いないと判断しているようです。

お礼日時:2022/03/31 06:01

行ったのに追い返されたってことですか?

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この回答へのお礼

早速の回答というか、確認ありがとうございます。
追い返されたというよりも、恥ずかしい思いをして帰った、という感じだと思います。

隋書には、国書も持たずに小野妹子が口答で話した内容に、隋の王様があきれてしまった、という内容のようですが、日本書紀に記述がないため、このやりとりは創り話だった可能性もあります。

お礼日時:2022/03/31 05:57

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