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 聖徳太子が天皇になら(れ)なかった理由については、諸説あると思います。

 その一つに、
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用明天皇と不仲であった穴補部皇子は、
厩戸皇子を次期天皇にさせまいと、泊瀬部皇子を立てた
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というものがありました(出展を忘れてしまいました。)。
どういう意味でしょうか?

A 回答 (1件)

私の理解では、穴穂部皇子を推す物部氏と、豊日大兄皇子を推す蘇我氏の対立の構図であり、穴穂部の弟の泊瀬部皇子は、まだこの段階では出る幕ではなかったのではないかと思われます。

当時の朝廷において勢力の全くない泊瀬部を、よりによって同母兄の穴穂部が立てるなどとは奇想天外のことと思います。

穿った見方では、穴穂部皇子は対抗馬である彦人大兄皇子、額田部皇太后の生した竹田皇子、用明天皇の皇子厩戸とで争う図式の中で、蘇我との結びつきが強い厩戸を警戒していて、当面はより組しやすい竹田を立て、その母と結託しようとしたというのはあります。ですが、泊瀬部を立てても有利になるとは思えず、より存在感がある自身が出ることの方が自然であると思えるのです。穴穂部は蘇我の血縁とはいえその専横を憎んでおり、その弟崇峻天皇も即位後は蘇我を退けて大伴氏と結びましたから、蘇我が共通の敵であったという複雑な事情もあって、そのような説が立てられたのではないかと推測します。

さらに穿った見方では、推古天皇における聖徳太子、または舒明天皇における中大兄皇子の「権力の二重構造」のごとく、泊瀬部を即位させ自身は大兄として実権を握るということですが、当時は兄が弟に皇位を譲るのが自然の環境であったことからして、それは有り得ないことだと考えられます。実力も背景も無い泊瀬部には大兄も無理ですから、この兄弟が結託する理由がまるでわかりません。

泊瀬部皇子に光が当たるのは、用明天皇が崩御してからのことですが、それは、彦人も竹田も三輪氏という後ろ盾を失くしたからではないでしょうか。この時を境に、泊瀬部は蘇我に担がれて穴穂部と皇位継承争いをする節すら見られるので、ますます意味不明としか言い様がないのです。崇峻天皇は崇神でも崇仏でもなく、即位後は蘇我を嫌って崇神に傾いた可能性はありますが、要するにどこからも担がれやすく、しかも御しやすい天子であったということは間違いなさそうです。
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