No.7ベストアンサー
- 回答日時:
・高野勉は、聖徳太子と厩戸皇子は別人で、蘇我馬子の子・善徳が聖徳太子であり、大化の改新(正確には「乙巳の変」)で中大兄皇子に暗殺された事実を隠蔽するために作った架空の人物であるとしています。
・谷沢永一は『聖徳太子はいなかった』の中で、教科書に書かれている憲法十七条、冠位十二階などの政策は別人が作ったものを厩戸皇子(聖徳太子)に挿げ替えていると著しています。法華経義疏は題字と本文の筆跡が違うので、後世の別人によるもので、勝鬘教の義疏は中国で見つかっていて、太子の作ではないことが分かっているとのことです。
その他にも聖徳太子の存在を否定する論が数多くあるようです。帝に即位するどころか、実在を疑われる存在のようです。高野説が正しいのなら、それほどの実力者だったからこそ、政敵に命を奪われたのではないでしょうか?政治手腕に長けていて、仏教の教えを深く理解している善徳を太子に挿げ替えて、カリスマ性を持たせたのだと想像されます。
もちろん私も厩戸皇子=聖徳太子とは思っていません
聖徳太子とは後世に作られた架空の人物だと思います
しかし厩戸皇子なる人物は実在し推古天皇の摂政だったのは紛れも無い事実の様です
官位十二階も憲法十七条もすべて蘇我馬子の功績ですが
蘇我氏は半ば謀反のような形で滅ぼされています
これを蘇我氏の業績としたのでは都合が悪い
と歴史を改ざんしたのが かの藤原不比等と言われています
No.13
- 回答日時:
厩戸皇子と聖徳太子の伝説は、キリスト教の影響でつくるられたフィクションだと思います。
関祐二さんによれば、聖徳太子はほとんどが子供の姿であり、童子=鬼という古代からの風習を考えると、聖徳太子は祟り神であったということです。
井沢元彦さんも、死んだ人を悪く言わない日本の風習をもとに、徳がついた天皇は、いずれも非業の死を遂げている。ましてや聖も徳もついている聖徳太子はよっぽどの祟り神だろうと言っていますね。
関祐二さんはまた、聖徳太子は蘇我馬子であった、という説も出しています。
厩戸皇子は、フィクションか、そのネタに使われた存在であったことを考えると、力のある存在ではなかったようですから、天皇位には就けなかったんではないでしょうか。
余談ですが他の回答のお礼にも書いていありましたが、推古朝の政治的な功績は蘇我氏のものだというのは確かでしょうね。そもそも蘇我氏も王族であり、天皇の外戚として、のちに藤原氏が踏襲した支配体制も敷いていた蘇我氏が、わざわざ天皇の改革の反対派するはずがなく、中大兄と中臣鎌足コンビが、外交問題を巡って蘇我氏と対立して、最後力づくで解決を図ったのが、乙巳の変だと思われます。
蘇我氏は新羅派でしたが、中大兄は百済派でした。
百済派の中大兄は力づくで蘇我氏を滅ぼしますが、以後しばらく天皇位に付けなかったのは、周囲からの反感があったからでした。蘇我氏が真の天皇集権国家を作ろうしていましたが、鎌足はそれを嫌い、自分の権力を拡大すべく中大兄とこの変を画策したんだそうです。
以上関祐二さんの解説の受け売りですが。
No.12
- 回答日時:
推古天皇を擁立したのは蘇我馬子ですが、
もう当時に戻ることはできないので
結構いろんな説が飛び交ってます。
あくまで推測の一つ、ということで。
まず、当時は、今ほど天皇の力は強くなく地方の有力豪族の力を借りなければなりませんでした。
この時代はまだ皇太子の制度もありませんから次の天皇を決めるのも地方豪族が集まってきめていました。
つまり、時期天皇候補者が沢山いるんです。
その有力豪族の筆頭が蘇我氏で、馬子の時代は蘇我氏の全盛期。
文献によると、まるで自分が天皇であるかのような振る舞いをするほどのおごりぶりだったようです。
つまり、馬子は権力者でいたいわけです。しかも推古天皇の前の天皇も自殺させちゃうほどの強者です。
一方厩戸王は聡明といえどもまだまだ馬子よりは若年者。強くはでれないのです。
ゆえに馬子は、天皇選び放題なわけです。
利己的な馬子は考えます。誰を天皇にしたら自分にとって都合がいいか。
女性である推古天皇ですよね。
馬子にとって、若くて聡明で人望の厚い厩戸王は一番天皇にしたくないんです。
厩戸王が権力も家臣も持っていちゃいますからね。下手すれば蘇我氏ほろびかねません。
推古天皇が摂政に厩戸王を任命したのも
おそらく馬子は予想済みだったと思います。
馬子は摂政となった厩戸王に接近して一緒に本まで書いちゃってます。しかし、あくまで馬子>厩戸王なんです。
こうして馬子は裏で権力を握ってたってわけです。
推古天皇はだだの飾りですね。
しかも厩戸王は馬子より先に死んじゃってるんです。49歳でしんじゃってます。
馬子より長生きしてたら天皇即位はほぼ間違いなかったでしょうね。
No.11
- 回答日時:
私も歴史が好きですが、歴史というものはどこまで真実か分からないのが悩みの種です。
それは残された文献や遺跡などでしか想像がつかないからです。
また、それを書いた人が本当に正しく書いたかも分かりません。
明治24年頃、今の東大の前身の学校の先生方が江戸幕府の内実を、当時幕府の役人だった人や大奥の役職クラスだった女性に当時の事を質問をしてまとめた本があります。
この中で一部、質問を受けた人が間違って答えて先生側から指摘されております。
このように人によっては間違って記憶しており、ましてや後世の人がそれらを参考にして書いたものなど、どれほど信憑性があるか大いに疑問です。
比較的、資料が多く、ある程度理解されている江戸時代以降ですらどこまで正しいか分かりません。
特に、人物像については実際以上にものすごく高く評価することが多いです。(坂本竜馬、西郷隆盛、野口英世等々)
ましてや、江戸時代よりずっと前のことなどは、私はおとぎ話くらいに考えて深く考えないようにしております。
否定的な意見で大変申し訳ありませんが、厩戸皇子については誰も本当のことは知らないというのが正しいと考えます。
まぁそうなんですよね
ひょっとすると太平洋戦争とかですら嘘かも知れませんしね
(直接見たわけじゃないし)
歴史なんてそんなものだと思います
ありがとうございます
No.10
- 回答日時:
一回聞いてみたかったのですが、厩戸皇子や推古天皇は蘇我系の皇族だったのだから蘇我馬子にとって都合のいい存在であったはずでは?日本書紀の記述から、蘇我馬子は絶大な権力をもっていたのですからやろうと思えば、厩戸皇子を天皇の位につけることは可能だったのではないでしょうか。
ライバル豪族の物部氏を退けたくらいですから権力を一気に掌握できたと思います。すごく気になるのは、皇子が摂政になった理由ですね。摂政は天皇が幼少だとか病気で政務を直接こなせないときに置かれるものだそうです。推古天皇は頭脳明晰で皇子よりも長寿だったそうですから、政務を直接こなせないわけがないです。むしろ新しい大臣ポストでもつくって就任させておいたほうがよっぽど権力基盤を安定させられそうな気がします。新しい政治改革を行いその成果を出したとしてもこれは普通、天皇の事績として記録されると思うのですが?なぜ彼の事績なんでしょうかねえ。
前にも述べましたが 推古朝の時代の功績は恐らくほとんどが蘇我馬子によるものでしょう
しかし蘇我氏は大化の改新で滅びています
いわば悪人です 悪人の功績を後世に残すことを嫌がった者が恐らく聖徳太子を作り上げそれらの偉業を彼の功績として作り上げたのでしょう
その人物とは藤原不比等です
父鎌足の偉業と皇族の名誉のために
蘇我氏の功績を塗りつぶし後世に伝える事ができる人物です
No.9
- 回答日時:
岩波新書『女帝の古代日本』(著者・吉村武彦)の中で、
「崇峻暗殺後の皇位継承者」との一節があり、そこに次のような記述がありました。
“当時、皇位につく条件として、もう一つ年齢の問題があった。
「記・紀」の範囲にあたる持統天皇以前の即位年齢は、
武烈天皇の10歳と安寧天皇(実在は疑わしい)の29歳を除くと、
すべて30歳以上で即位する(村井康彦「王権の継受)。
30歳代:欽明(31)、敏達(35)、推古(39)、舒明(37)
40歳代:用明(46)、崇峻(45)、皇極(49)、天智(43)、天武(44)、持統(46)
50歳代:継体(58)、孝徳(50)
60歳代:安閑(66)、宣化(69)、斉明(重祚62)
となる。
欽明天皇は即位時に、「余(おのれ)、幼年(としわか)く識浅(さとりすくな)くして、
未だ政事(まつりごと)に閑(なら)はず」
と述べており欽明を除けば、30代後半ということになる。
この年齢は、ヤマト王権の首長に求められる統治能力からみて、
当然の資格年齢であったろう。”
崇峻暗殺後、有力な候補者となるのは、欽明天皇の孫の世代で、押坂彦人大兄、竹田皇子、厩戸皇子の3人。
押坂彦人大兄は18歳前後、竹田皇子が17歳以下、厩戸皇子が19歳前後で3人とも30歳以下の可能性が高いようです。
“若い候補者であれば天皇暗殺後の政治的難局に立ち向かうことも難しい。”
との配慮もあって、推古女帝が誕生したとの説が述べられています。
推古の即位後は厩戸皇子が皇太子なったものの、推古存命中に死亡してしまったため、天皇にはならずじまいだったのです。
後世、幼少の天皇の即位が多くなったのは、その権威が安定してきたからこそ可能になったわけで、初期のころは実質的な政事ができるだけの年齢が必要だったのでしょう。
No.8
- 回答日時:
若すぎたから
推古天皇即位時593年
推古天皇 554年生まれ 39歳
厩戸皇子 574年生まれ 19歳
押坂彦人大兄皇子 33歳以上(?)
※ 大兄なので敏達天皇の次子春日皇子より上と思われる
また息子の舒明天皇が593年出生なので、この時点で存命
春日皇子 560年 33歳
前後の天皇即位時年齢
欽明 30歳
敏達 34歳
用明 45歳
崇峻 34歳
推古 39歳
舒明 36歳
皇極 48歳
孝徳 49歳
斉明 61歳
天智 41歳
天武 42歳
出生年に関して「?」の人もいるが、10代の若造などなっていない
No.2
- 回答日時:
azuki-7さん、こんばんわ。
なれなかったのではないです。推古天皇がとても長寿だったので、聖徳太子の方が先にお亡くなりになったのです。
彼が本当になれるチャンスがあったのは、崇峻天皇暗殺後です。彼はちなみに18歳でした。
推古天皇の摂政という一段低い位置に甘んじたのは蘇我馬子との協調体制のためなのか、彼がこの国の政治を主導していくために推古天皇を後ろ盾にしていたというところではないかと思います。
ただ、彼自身、蘇我系の皇子なので、蘇我氏を完全に抑えるというところまではいかなかったようです。
寿命に関しては下記のURLを参照してください。
推古天皇
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%8E%A8%E5%8F%A4% …
聖徳太子
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%81%96%E5%BE%B3% …
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