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天武天皇と持統天皇の間には皇子がいますが、なぜこの皇子は天皇にならなかったのでしょうか?持統天皇の次は孫の文武天皇が即位してますので。その後この
皇子の奥さんである元明天皇が即位してます。聖武天皇への繋ぎという存在ではありますが、ここでもこの皇子はスルーされてます。

「持統天皇の皇子はなぜ天皇にならなかったか」の質問画像

A 回答 (5件)

草壁皇子ですね。



鸕野讚良皇女(後の持統天皇)は天智天皇の娘で、同じく天智の娘だった姉の大田皇女とともに大海人皇子(天武天皇)に嫁ぎ、鸕野讚良は草壁皇子を、大田は大津皇子を産んでいた。

草壁皇子は、母親の鸕野讚良皇女が天武天皇(大海人皇子)の皇女の皇后になった関係で皇太子になったと言われていますが、それがどこまで本当のことかは不明。

大田皇女は壬申の乱の数年前に早逝しており、理由は不明だが、5歳だった大津皇子は大田皇女の父親である天智に引き取られている。
もし、大田皇女が長生きしていれば、壬申の乱後に即位した天武天皇の皇后には鸕野讚良ではなく、姉だった大田がなっていた可能性もあっただろう。

そして大津は非常に聡明で身体も頑健だったらしいが、草壁は頭も体も見劣りしていたようだ。実際のところ、草壁も若く死去している。当然ながら天武の次は草壁ではなく大津だと考える臣下は多かっただろう。

そういう情勢下で天武天皇が崩御したわけだ。
そして草壁には、そのころ頭角を現し始めていた藤原不比等と後に不比等の妻となる県犬養三千代(後の橘三千代)という稀有の策謀家カップルが付いていた。
おそらく不比等と三千代ラインが、母親の鸕野讚良の意を汲んで、大津に謀反の罪をでっち上げて自殺に追い込んだのではないだろうか。

草壁の即位が遅れたのは、そういう強引なやり方に対する反発が非常に大きかったということなのだろう。
そして草壁は、まだ幼子だった珂瑠皇子(後の文武天皇)を残して死んでしまった。

そこで、やむなく鸕野讚良は、珂瑠皇子が成人するまでのつなぎとして即位して持統天皇となり、その後は不比等・三千代ラインが勢力を拡大し、藤原氏と橘氏が天武朝の奈良時代を支えていくことになる。
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草壁皇子が天皇に即位するのは既定路線でした。


しかし、天武が死亡した直後に庶弟の大津皇子が粛清されるなど政情が不安定で、朝廷内がごたごたして即位どころではなく、そうこうしているうちに病死したというのが定説です。
大津皇子は朝廷内で実力派として鳴らしていたので、支持者も多く草壁の地位を脅かす存在であったようです。大津の粛清は当然草壁が仕掛けたものでしょうから、かなりの反発を招いたのでしょう。
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スルーされてる皇子は草壁皇子です。

(表記しないのが??です)
天武天皇が崩御した後、立太子になっていたが後継者巡る争いが起こり
朝廷内の騒動の最中に亡くなり、鸕野讚良皇女(天武天皇妃)が41代持統
天皇になりました。
持統天皇が在任中に草壁皇子が亡くなり、孫の42代文武天皇に継承。
文武天皇が崩御された時、聖武天皇は7歳だったので、阿閇皇女(持統天皇の異母妹)草壁皇子妃が 43代元明天皇となり、氷高皇女(文武天皇同母姉)
が44代元正天皇となり45代聖武天皇に引き継がれました。
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聖武天皇の後継の男子は早死にしたので、阿倍内親王が歴史上、初の
立太子になり、46代孝謙天皇となり、阿倍内親王は生涯、処女である
事を求められました。
47代淳仁天皇は早世したので、阿倍内親王は再び48代称徳天皇となり、
小野道鏡との浮名を流して悪名を馳せた事は周知の通りです。

女の幸せを求めたのだと解釈して阿倍内親王に同情しますね。
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その皇子ってのは草壁皇子って言って、簡単に言えば天皇になる前に死んじゃったんだ。



草壁皇子 wiki
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%8D%89%E5%A3%81 …
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誰でもいいわけではありません。


それなりの素質が必要。
当時は実力主義。
ただ皇族であれば誰でもいいわけではありません。
元明天皇の夫である草香部皇子は
皇位に即きたくても
その時は亡くなっています。
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