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源頼朝から明治維新まで武家の長である将軍家が政権をにぎっていましたが
しかしその間、天皇はその将軍家の君主として滅びずにあり続けました。
これは何故なのでしょうか?
かつての王家が名目だけ残る、というのは、実質上のトップである将軍家にとってやりづらくはなかったのでしょうか?
天皇家を存続させるメリットや、潰すと起こるデメリットなどがあったのでしょうが
考えをめぐらせてもピンと来る答えに行き着きません。
もし「これだ!」というものがあれば教えて下さい。

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A 回答 (10件)

まず歴史をひも解いてみますと, 平安時代に「摂関政治」が始まって以来, 天皇が権力を持っていた時代はほんのわずかしかありません. 白河上皇の院政期と後醍醐天皇の「建武の新制」, 明治天皇の一時期 (憲法ができるまで) くらい?


ということで, 鎌倉幕府成立時点で既に天皇は「権力を認める背景としての権威を保持する機関」となっています. そして, 武家政権を確立した平氏・源氏ともに「武家の棟梁」として認められたのは「貴種 = 天皇につながる血を持つ者」であるところが大です.
つまり, そもそも権力を持たない天皇をつぶすメリットはありません (天皇家をつぶしたとしてもそれに代わる権威が得られるわけではない). むしろつぶしてしまうと, 自らの権力を認める権威が失われてしまうこと, そして自らの棟梁としての正当性を失うことにより, 2重の意味で自らの権力基盤を失うことになってしまいます. であれば, わざわざ手をかけてつぶすよりも手の上でコントロールしていた方が簡単です.
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この回答へのお礼

なるほど
月と太陽のような関係でしょうか
月が太陽を壊しても、太陽にはなれないし
自らの光源をなくすことになる

なんか我ながらうまいこといいました(笑)

お礼日時:2009/05/23 15:41

時の権力者は天皇の権威を利用するだけ利用し、必要なくなると人知れず始末しています。

 

108代の後陽成天皇は信長、秀吉、家康と三代の権力者に権威を与えています。 家康は自分の出自を知られており、この天皇は座敷牢に入れ、皇太子を即位させ後水尾天皇としました。 

しかし、公家諸法度で天皇家の石高を一万石に抑えています。 さらに家康は二代将軍秀忠の娘をこの天皇と嫁がせています。  しかし、中宮の膨大な持参金は持たせていますが、天皇家への資金援助は一切しない。 さらに薬師(くすし)を送り込んでいます。 彼らの真の任務は、天皇が側室に生ませた19人の男の子を密かに始末すること。

こういう扱いの最たるものが、薩長の孝明天皇への態度です。 薩長同盟が成立すると、公武合体論は邪魔になります。 この論の提唱者である孝明天皇は最早必要はなくなる。 都合の良い時、この天皇は病死(されたといわれています。) さらに皇太子の睦仁(むつひと)親王も、御所で蹴鞠に興じておられたひ弱な皇太子でした。 しかし、明治二年旧江戸城に白馬に乗って堂々と入場なさった時には、体重90キロの偉丈夫でした。 

要するに誰が天皇であっても、時の権力者は意に介しておりません。 力で押さえ込んで、自分の意図した動きをさせ、都合が悪くなると、密かに始末しているのです。   
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この回答へのお礼

天皇の権威を残して利用する、という説の最大活用ですね
こういう暗殺だとかドロドロした権謀術数バナシ大好きです(笑)

4ヶ月以上お礼をつけずにいてすいませんでした
たくさんの回答をいただき、ありがたく思っております。

お礼日時:2009/05/23 16:14

狩猟民族と農耕民族(従属性が強い)


特に日本人(日本民族とは、誰なのか?)の大本の人々(土着の)は従属性が強かったのでは無いかと考えます。
従って、天皇(9代目までは、神話なので実在しない)の元となった人種は戦いを好む人種で、土着の人間は簡単に征服され自ら従属性を発揮し従う事で生き残る道を選んだのでは無いかと思います。

たとえ、武家が絶対的権力を持っても、国民(民衆は)が天皇に従属したがって居れば天皇家を放逐又は滅亡などしたら政権を維持出来なかったのでは無いかと考えます。
---
今の日本人(日本政府も)が、アメリカに従属的であるのも、そうした国民性(民族性)がさせて居ると考えます。
---
実際の天皇家と言う血筋は今上天皇(125代目)と言われて居ても途中が、ぐちゃぐちゃなので純粋な血統では無いかも知れませんが、兎に角日本民族は、お上が居ないと安心出来ない(誰かに従って居たい民族)と言う経緯が、2668も続いて現在に至って居るのでは無いかと思います。
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憲法上からは、天皇は政治に関与しない事に成っていますが、政治家が大臣に成れても、天皇の認証が無いと、実質的には大臣と認められない。
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この回答へのお礼

日本人は従属性が強いから、お上をいだくと安心できるから
ということでしょうか

ではなぜ、時の権力者が勃興しても、旧勢力である天皇への従属が残っていたのでしょうか

「今の日本人(日本政府も)が、アメリカに従属的である」ほどに柔軟な従属性を持っているのに

お礼日時:2009/05/23 16:10

天皇家が潰されなかった要因の一つとしては、天皇が神事を取り扱うが故ではないでしょうか。

神主のもと締めみたいな天皇がいないとうまく治められないと考えたのかもしれません。
もう一つは、大学の講義の時に聴いた話ですが、天皇の権威を利用するためにあえて天皇家を残したという考え方です。幕府を開く時に、京都の人たちや他の武士集団、庶民などに自分が日本を治めるのは国の主である天皇に任されているからだ。と、周りにアピールすることで自分の統治を正当化するためだと聴きました。
天皇家を潰すと、京都を中心とする町衆や他の武士集団から、大罪であった主君殺しをしたとみなされ、自分が攻められて滅ぼされる可能性があったのではないかと思います。

もしかしたら、他にもメリットとデメリットがあるかもしれませんね。
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この回答へのお礼

権威を利用しようとした、というのは確かに説得力がありますね
潰すよりも、手を組む方が楽だし危険も少ないですね

神事を扱うから、という考え方もうなづけます

お礼日時:2009/05/23 16:05

やはり、ひとつの社会をまるごと新しい権威に従わせるというのは大変なことなので、天皇家を残した方が楽だったのだと思います。



例えば、織田信長が天皇家を滅ぼす意図があったかどうか分りませんが、世の中を完全に作り変えようとしていて、相当苦労しています。

彼の戦国大名としての力が大きくなると、石山本願寺や比叡山などの宗教勢力をも潰しにかかりますが、石山本願寺は結局10年間闘っても潰せず、和睦という形で終結しています。

武田や毛利、上杉といった名だたる戦国大名を圧倒した信長でさえ、これだけ苦労しました。

天皇という権威を仰がずに、すべてを自分の権威の元に置こうとすれば、武人同士の争いに勝ち残るだけではなく、宗教勢力・都市勢力と言ったこれまでの既得権益集団のすべてと争わざるを得なくなり、膨大なエネルギーと時間が必要になってしまいます。

その代りに、天皇を担げば、こうした自分たちとは違う分野における既得権益集団権利を一部認めざるを得ないかわりに、政治の実権を握る武人として彼らを従わせることができます。

この損得勘定の結果、天皇を残した方が良いという判断が代々続いてきたのでしょう。

単一民族で、外部から侵入者の少なかった日本だから維持できたシステムだとは言えますが。
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この回答へのお礼

世界はひとつのようにみえて、横から見ると何層も世界があるということですね
違う層まで支配できるような人間がいなかったということでしょうか

すいません、少し回答者さまの意見とはズレた解釈をしたかもしれません
しかし新しい観点からこの問題を見ることが出来ました

お礼日時:2009/05/23 16:02

日本史の中で考えるとなかなか思いつかないが、世界史の中で考えると、それなりに長く続いた王朝が亡くなるというのは大変な出来事です。


イスラム圏のアッバス朝
ムハンマドの叔父の子孫から始まり750年から実質的な支配王朝でした。9世紀にはバクダッド中心の地方権力に陥り945年にブワイフ朝のもとでの宗教権力だけになりました。しかし、1258年にイスラムを全く信じないモンゴル人が来るまで続きました。400年にわたって権力を失ってから存続し続けました。
そのモンゴルもチンギスハンの後、チンギス統原理が20世紀の頭まで生きていた。なくなるのはチベット仏教の大義が上回ってから。
現在のイングランドの王朝もノルマンコンクウェスト(1066年)から続いていることになっており、そのノルマン王朝でさえ、その前のイングランドの王朝との血縁を根拠に征服しています。
こうしてみると、中国や朝鮮の王朝交代(易姓革命)の方が、世界史的には珍しく見えてくる。
で、中国を考えると、中華民族というのが太古から延々と続いているのではなく、多民族国家の最強者が交代していたことが、前例となって王朝交代がルール化された変わった文化を持っているのではないかと思う。つまり、殷王朝は打倒されて周王朝になったが、殷は商として存続し続けたわけです。時代は全然違いますが、ハプスブル家の代わりにフランスのヴァロア家が神聖ローマ皇帝になりえました。フランソワ一世は実際に神聖ローマ皇帝の候補でした。もしフランソワ一世が神聖ローマ皇帝になって、現在のフランス=ドイツあたりが同一の政体になり、ハプスブルク家がウィーンあたりの王家として残るというのが、殷周の政権交代に似ています。そのくらい民族も歴史も違っていた。
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この回答へのお礼

なるほど
権威はまったく別の世界が現れるまでは消えないということでしょうか
島国である日本にとって、同じ世界同士で権力争いをしている以上は
天皇の権威が消えることは無い、ということでしょうか

お礼日時:2009/05/23 15:56

ごく当たり前のことです 一から作るのは簡単ではないのです


今のイラクを見ると理解できるでしょう
日本に最初から権力を作るのは大変なのです
日本に末端に権力を教える必要がないのです 天皇もその権力を作る為に
大変な力が必要なのです 一度作ると壊さない限り永遠に続くのです
今の日本もその権力で動いています まだ一度も壊れたことは有りません
いつ誰が作ったかは誰も知らないのです でも誰も盲目的に従います
天皇もその権力の中にあるのです 都会ではあまり気が付きませんが
田舎に行くとその中に無数のほこらがあります
全部誰もなぜかは疑いません でも誰も壊すことは無いです
それを壊すと秩序が乱れる事をみんな理解しているのです
今日本でこの権力を握っているのは公務員です
彼らはそれに気が付かず盲目的に動いています
実際は日本人が一人一人が小さな権力を持って動いているのです
それを誰も壊しません 壊そうとするとこの小さな権力が抵抗します
天皇家に権力が有るわけではないのです 彼らもこの小さな権利者に
動かされているのです あなたは今年もテレビで見たでしょう
今年は5回出られましたが どちらが権力者でしょうか
上にいる人下の人 それとも誰が盲目的に動かしているのですが
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この回答へのお礼

他国では、新たに権力をつくって壊すの繰り返しですよね?
日本でも、武家の中では権力が生まれては壊されていきました
天皇だけがこの権力争いの蚊帳の外にいられるのはナゼなんでしょう?
革命者のほとんどは、ほこらを壊し、自らのほこらを作りました
秩序を乱そうとして乱しているように思えます

将軍たちは、小さな権利者のパワーをなぜ独り占めしなかったのでしょう?

お礼日時:2009/05/23 15:50

もし平将門(新皇)が日本を統一していたら天皇家は滅んでいたでしょう。



けっきょく強力な武人が天皇を殺して天皇制を廃止しても、
対抗勢力が新天皇をでっち上げて連合を組み反乱するだけなので
将軍が天皇を自身の権威付けの為に飼い殺しにするのが得策だった・・・。
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この回答へのお礼

天皇を廃しても新しい天皇が出てくる・・・
これも面白い考え方ですね
まるでゲリラですね
ゲリラを退治するには、根こそぎ退治するか、懐柔するしかない
将軍は懐柔するほうを選んだ、ということでしょうか

平将門が日本を統一していたらどうなっていたか
これを考えるのも歴史のロマンですね

お礼日時:2009/05/23 15:37

民衆(日本人の)の朝廷に対する信頼。


朝廷を敵にすると逆賊の汚名をきる。(最後の徳川政権が倒れたのも逆賊になった、錦の御旗に刃向かえなかったから)
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この回答へのお礼

これなんですよね。民衆の信頼。これがやっかいなのです。
これが、文字面は理解できるんですけど、実情としてピンとこないのです。
この信頼は、どこから生まれるものなのか?
これがハッキリすればスッキリするのですが

お礼日時:2009/05/23 15:39

政治システムの歴史を勉強すると分かりますが、故丸山真男東大名誉教授が書いておりますが、「天皇家はブラックホール」という論文に明らかです。



権威を天皇家が、実務を武家政権が担うことで、相互に利益のある関係が継続したためであると推定しています。

これは、中世から近代に及ぶ文化の都が京都公家文化にあって、実際の政治実務は武家の政権がおかれた各都市が担っていたということから明らかです。実際に資料調査などをしてみると分かりますが、室町幕府に関しては、公家政権と武家政権が駆け引きをしている中で、「応仁の乱」が起こり京都市中が乱れ、乱世に入ったのは事実であると思います。現実には、武家政権が行政として行ってはいけない、高利貸しを足利義正の側近が権力中枢に居るために行い、それが人々の知るところとなり、乱へ至ったという事実もあります。

天皇家の場合には、鏡・剣・勾玉という神器を保有していました。それぞれの意味は、鏡が良心を映し出すもの、剣が軍事を表し、勾玉が技術を表します。それらの象徴として、軍事を武家政権に委ねる。歴史上、明らかですが、平家の壇ノ浦の乱の後、剣は失われています。

つまり、初期においては剣の役割を武家政権が担い、その後・・・どんどん象徴を武家政権に委ねたことが、日本の政治システムの流れであった。確かに、何度も巻きなおしはありました(後醍醐天皇の天皇親政、明治の天皇親政など)が、実際にはどんどん行政の役割が代わり、政治と行政の間における緊張関係が政治システムを駆動する原動力になっているような気がします。
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この回答へのお礼

ありがとうございます
パスワードを忘れてしまい今まで回答できていませんでした
回答者各位には深くお詫び申し上げます

お互い、「あっちはオレの領分じゃないから知らないよ。必要な時だけ会いに行くよ。」ということでしょうか?
明快な回答ありがとうございます

お礼日時:2009/05/23 15:33

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Q徳川家はなぜ天皇家をつぶさなかったのか

徳川家はなぜ天皇家をつぶし、最高の権威を手に入れなかった

のでしょうか?

自分は徳川家が早い段階で天皇家を滅びさせていれば

明治維新は起きなかったのではないかと思っています。

徳川家は惜しいことをしたと思うのですが、やはり天皇家は

日本人にとって切っても切れない存在だったのでしょうか?

Aベストアンサー

ヨーロッパの王権神授説は有名ですが、中国でも漢民族の王朝の交代
に際しては、武力による旧王朝の打倒であれ家臣や姻族による簒奪で
あれ、タテマエだけでも禅譲という形式を取ったります。徳を失った
皇帝が徳のあるものに権力を譲るという「形式」ですね。イスラムは
宗教と王権が合体?していますね。前の方々も述べられているように、
要は、武力や経済力による実効支配だけではダメなんですね。

日本の場合、天皇からの権力の委任という形を取っているのが特徴で
すね。ですから、天皇家をつぶす為には、天皇に代わる権威(支配の
正統性)が必要なのです。徳川に限らず、結局のところ、力では圧倒
しても、天皇に代わる権威を見出せず、実行できなかったのだと思い
ます。

平家は都落ちに際し安徳天皇を拉致?しますが、京都には天皇家の家
長である後白河院が健在であったため、焼け石に水。
承久の乱では、北条義時が天皇家の家長である後鳥羽院の島流しを敢
行しますが、北条得宗専制ですらまだ始まってはおらず、あまりにも
時期尚早。天皇を頂点とする公家勢力・寺社勢力の息の根を止める以
前に、まだそれ以下の鎌倉「将軍」の権威で武士の統合が必要な時代。
元弘の乱の後醍醐天皇の配流と、建武新政崩壊後の南朝への攻略は、
持明院・北朝の存在を前提としたもので、天皇家抹殺の意図なし。
足利義満による皇位簒奪計画という学説もありますが、事実だとして
も未遂。
織田信長が将軍や関白などの官職を受ける意志がなかったとすれば、
どのように権威(支配の正統性)を樹立するつもりだったか、興味深い
ところ。信長自身の神格化?がそれという説も。
豊臣秀吉は天皇を中国に移し、自分はインド方面まで手を伸ばすつも
りだったとか。天皇を一国王としての地位に留め、その地位を保証す
る世界皇帝になることで、天皇を超えようとしたという説も。
で、本題の徳川家ですが‥
徳川家康の場合は、京都や大坂を掌中に置くのに時間がかかり過ぎ、
短期決戦できなかったのがネックでしょう。家光の代までに幕府も安
定し、禁中並公家諸法度などで従来の権門(公家・寺社)を幕府の法制
下に置き、武家官位と公家官位を分離するなど、色々と手は打ってい
るようですが‥
でも綱吉になると、生母桂昌院に従一位を貰って喜んでみたり‥
そうこうしているうちに将軍の継承問題、そして改革と挫折の連鎖の
時代となり、天皇家に構っている余力はない‥ 要は支配の正統性の
問題は、権力を握ったらすぐに手を打たないと、手遅れになるという
ことですね。

あと、蛇足ではありますが、源・平・藤原・豊臣などの「氏」が、
日本の場合天皇から与えられるという性格を持つという点も、天皇制
存続に関して何らかの意味を持つのかもしれません。平清盛・源頼朝
・平(北条)義時・源(足利)義満が姓を自分で決めて自称せず、織田信
長・徳川家康が源・平姓を名乗り、羽柴秀吉が豊臣姓を貰って喜んで
いるうちは、天皇の風下に甘んじるという一面を持ちます。もっとも、
姓を自分で決めて自称するとか、姓を捨てて天皇家と同じ無姓となる
という発想自体が、思考力の枠を超えるものでしょうけど。でも、信
長あたりは長生きしていたらやっていたかもしれないし‥

ヨーロッパの王権神授説は有名ですが、中国でも漢民族の王朝の交代
に際しては、武力による旧王朝の打倒であれ家臣や姻族による簒奪で
あれ、タテマエだけでも禅譲という形式を取ったります。徳を失った
皇帝が徳のあるものに権力を譲るという「形式」ですね。イスラムは
宗教と王権が合体?していますね。前の方々も述べられているように、
要は、武力や経済力による実効支配だけではダメなんですね。

日本の場合、天皇からの権力の委任という形を取っているのが特徴で
すね。ですから、天皇家をつぶす...続きを読む

Q日本の歴史で朝廷はなぜ残り続けたのですか?

学説や細かい歴史について詳しくないため、中学社会の延長での本当に基本的なご回答で構いません。宜しくお願い致します。

諸説あるかと思いますが、もともとは強い豪族や支配者によって古代に天皇が作られたかと思います。
その後、武家社会や戦国時代など1000年以上も力の強い者が弱い者を支配する世の中が続き、支配者も二転三転したにも関わらず、直接的に軍事力が高かったわけではない天皇(朝廷)が残り続け、影響力を保ち続けた(王政復古まで)のはどうしてなのでしょうか?

常に勝ち馬に乗り続けたのか、それとも権力争いをする者達にも天皇=神と信じていたため天皇を支配するという考えはなかったのでしょうか?

宜しくお願い致します。

Aベストアンサー

天皇家は元々地方豪族(この頃に豪族という呼び名はありませんが)の一つでした。やがて彼らは天照大神と言う神の直系として地域を束ね、やがて日本の統治に乗り出しました。
武士(平家や源氏)も元は貴族であり、天皇を守護する立場です。貴族や武士はやがて天皇の統治のために日本のほとんどを制圧しました。尚且つ勢力争いの中で天皇家の血筋に近づく為に、より近い縁戚関係を結ぼうと画策しました。
天皇家自体も血脈を絶やさない為に多くの子孫が生まれ、貴族や武士の天皇家との繋がり(家系)はこのようにして築かれてきたのです。
日本の統治は天皇家を頂点とした天皇家由来の支配者とその他の豪族(家臣)によって構成されています。そして平氏滅亡後は支配者は基本的に源氏の家系が治めるようになりました。
地方豪族もより天皇家に近い血筋を持ちたいと、当初は血縁によって、後には家系の売買さえ行なわれるようになりました。
秀吉が関白の地位を得るために家系を創った事は有名な逸話ですし、信長の祖先が平氏を名乗り、信長自身も藤氏であるため、源氏系である家康を厚遇したという説もあります。
更に武士の頂点である幕府を開く資格も、基本的には源氏の流れを持つものに限られました。幕府を開く許可を与えるのは天皇であり、幕府は本来天皇を守護する武士団の長ですから、第一に天皇家安泰を考えるのは当然です。
武士の世界といえど、武士は天皇擁護のための組織である事は日本国中の武士が自覚しており、天皇を排斥しようとする者は排斥されるし、戦っても他の武士の助力を得られない事になるのです。
歴史のなかでは度々天皇家に対抗したり、懐柔しようとする者が現れましたが、徳川家でさえ完全な全武士団の賛同と助力を取り付けることは出来ず、中途半端に終わっています。
最後に天皇を担ぎ出したのは薩長軍で、当初は天皇家の許しを得られなかったものの、勝手に天皇家の御旗を掲げて幕府軍を朝的として討伐しました。戦況の有利を得て、天皇も正式に薩長軍を認めたのです。とは言ってもこれは、朝廷の貴族が押したために天皇も認めざるを得なかったのでしょう。
これも、武士が天皇の臣下である事を武士社会全体が自覚していたから成し得たのです。

天皇家は元々地方豪族(この頃に豪族という呼び名はありませんが)の一つでした。やがて彼らは天照大神と言う神の直系として地域を束ね、やがて日本の統治に乗り出しました。
武士(平家や源氏)も元は貴族であり、天皇を守護する立場です。貴族や武士はやがて天皇の統治のために日本のほとんどを制圧しました。尚且つ勢力争いの中で天皇家の血筋に近づく為に、より近い縁戚関係を結ぼうと画策しました。
天皇家自体も血脈を絶やさない為に多くの子孫が生まれ、貴族や武士の天皇家との繋がり(家系)はこのよう...続きを読む

Q「幕府」と「朝廷」の違いを教えて

中学校1年生の子供からの質問なのですが、

・「幕府」と「朝廷」の違いが分からない。
・そもそも「幕府」って何?「朝廷」って何?

と言われました。
お恥ずかしながら的確に説明できません。
教科書には説明が載ってないし、「先生に聞いてみたら?」と言うと
「先生は授業が終わるとすぐに職員室に戻ってしまうし、あまり質問しやすい先生じゃないもん!o(;△;)o 」
とのこと・・・(´_`;)

どなたか教えていただけますか?
私も勉強したいです。よろしくお願いします。<(_ _;)>

Aベストアンサー

朝廷というのは天皇を頂点とした政府のことですが、ここが日本全国を完全に支配していたのはせいぜい平安時代までで、その後紆余曲折はありますが、鎌倉時代、室町時代、戦国時代(この時代は全国を支配した政権はありません)、安土桃山時代から江戸時代まで、ほとんどは武士が支配することになります。
ただ、ややこしいのは武士が支配していた時代でも一貫して朝廷は存在していたことです。幕府の長は征夷大将軍ですが、これは形式的には天皇の部下なんですね。ただ、現実には天皇が将軍を自由に選べるということはほとんどなく、武士に言われるがままに任命していたわけですから、実権は武士の側にあったということになります。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%81%E5%A4%B7%E5%A4%A7%E5%B0%86%E8%BB%8D
これを端的にお子さんに説明するのは難しいかもしれません。
ただ、今の天皇陛下も政治的な実権はまったくなくて象徴として存在しているわけなので、それとちょっと似ているというような説明は、できるかもしれませんね。(今でも首相を任命するのは天皇と決まっています。ただし天皇が首相を選ぶことはできず、国会が選んだ人を形式的に任命するだけです)

朝廷というのは天皇を頂点とした政府のことですが、ここが日本全国を完全に支配していたのはせいぜい平安時代までで、その後紆余曲折はありますが、鎌倉時代、室町時代、戦国時代(この時代は全国を支配した政権はありません)、安土桃山時代から江戸時代まで、ほとんどは武士が支配することになります。
ただ、ややこしいのは武士が支配していた時代でも一貫して朝廷は存在していたことです。幕府の長は征夷大将軍ですが、これは形式的には天皇の部下なんですね。ただ、現実には天皇が将軍を自由に選べるという...続きを読む

Q最初の天皇はなぜ誕生したのか?

初代天皇は、どういう経緯で出来たのですか?
神武天皇は、国王(日本で一番偉い人)みたいなものだったのですか?

Aベストアンサー

実はそのことについてわからないので困っているんです。
というのも3世紀に活躍したとされる邪馬台国の卑弥呼という女王の解釈により、最近では神武天皇でさえ紀元前660年前の人物とすることには異論がありながらも、その存在自体はありえて、だからこそ正史である『日本書紀』に記載されているのでは?といった論調もあります。
神武天皇そのものというより、神武の伝承として伝わる物語の核になる史実が存在した。それは現存はしていませんが『日本書紀』編纂の主な材料となりえた『帝紀』などに書かれていたのであろう。と予測する立場があるんですね。
ですから国家や天皇の成り立ち自体はよくわかっていない中で、神話などの古伝承から国家や天皇の成り立ちを整合性を以って説明できるのでは?と目下奮闘中といった人々もいる。とのあり方が現況では一番進歩が見られるスタンスであり、逆にそのような暗中模索な状況こそが、現在の学界における日本国家成立の研究、ないし天皇支配の淵源の研究などの現状だと思います。

そして天皇(大王)を中心とした国家といった概念が表れたであろうとされるのが、いわゆる4世紀の古墳時代と呼ばれる時代であったことは、考古史料から、特に前方後円墳などの規格性の強い墓制の出現で見当がつきつつあるのですが、そこの詳しい実態は、日本はもとより、3世紀段階における日本の国情を伝えた古代中国の史書などが4世紀時点ではないためよくわからないんです。いわゆる「謎の4世紀問題」ですね。

いずれにせよ『魏志』倭人伝などの記述から、卑弥呼が活躍する前後(3世紀)にあっては「倭国大乱」と評価できる内戦状態が、その規模は別として事実あったのでしょうね。もちろんその戦闘状態は天皇の出現と無関係であるとも思えないんです。その様な中、詳しい経緯はわかりませんが、倭国大乱と呼ばれる混沌とした戦乱の世にあって、統一的国家としてのヤマト政権を樹立するだけの武力ないし交渉力が、4世紀段階における天皇(大王)の祖先にあったことは疑う余地はないのかな?と思いますし、考古史料などが語る結果から帰納法的に糸を手繰りつつ明らかにしようと試みている、3世紀から4世紀にどのような経緯で歴史がつながるのか?といった問題は、識者はもとより僕に限らず古代史に興味を持つ者が一番知りたい部分なのです。

ですから率直に申し上げれば「初代天皇は、どういう経緯で出来たのですか?」という質問については「こっちが知りたい部分です」といった頼りない回答になり、せっかくのご質問に明確にお答えできないことを心苦しく思いながらも、現状をご理解いただければありがたいと思う次第です。

実はそのことについてわからないので困っているんです。
というのも3世紀に活躍したとされる邪馬台国の卑弥呼という女王の解釈により、最近では神武天皇でさえ紀元前660年前の人物とすることには異論がありながらも、その存在自体はありえて、だからこそ正史である『日本書紀』に記載されているのでは?といった論調もあります。
神武天皇そのものというより、神武の伝承として伝わる物語の核になる史実が存在した。それは現存はしていませんが『日本書紀』編纂の主な材料となりえた『帝紀』などに書かれていたの...続きを読む

Q鎌倉・室町、戦国、江戸時代の天皇 権威はあったの?

鎌倉・室町、江戸時代の天皇は権力がなく、室町時代や戦国時代は食べるものに困るほど貧窮した暮らしをしていたと思うですが、その時代には天皇の権威はあったのでしょうか?
あったとすれば、それは祭司王としての権威でしょうか?過去に作られた神話をもとにした権威でしょうか?古代の神(同時に鬼としても)信仰があったのでしょうか?ピースメーカーとして機能していたの?
権威があったのならあの時代、貧窮しなかっただろうし、江戸時代も皇位継承を幕府に握られるようなことはなかったと思うのですが。。。
そこらへんを詳しく解説していただけると助かります。

Aベストアンサー

<参考>
 日本史において、『中世~近世の天皇が、いかなる存在であったか』は、相当重要なテーマでありながら、過去の歴史家に見過ごされてきました。

 最近になって、この点を独自に掘り下げて、続けて論文・著書を発行し、この問題についての歴史的第一人者とみなされているのが、今谷明氏です。
 以下の著書を参考にお読みになればどうでしょうか。

『天皇家はなぜ続いたか 対談集』(新人物往来社 1991.12)
『日本国王と土民』集英社版日本の歴史、1992年)
『戦国大名と天皇 室町幕府の解体と王権の逆襲』(福武書店、1992年/講談社学術文庫、2001年)
『信長と天皇―中世的権威に挑む覇王』講談社現代新書、1992年/学術文庫、2002年)
『武家と天皇―王権をめぐる相剋』岩波新書、1993年)
『天皇と天下人』(新人物往来社、1993年)
『象徴天皇の発見』文春新書、1999年)
『象徴天皇の源流 権威と権力を分離した日本的王制』(新人物往来社、2011年)

 今谷氏は、女性宮家創設の是非について、日本政府から公式に意見を聞かれたりもしています。

<参考>
 日本史において、『中世~近世の天皇が、いかなる存在であったか』は、相当重要なテーマでありながら、過去の歴史家に見過ごされてきました。

 最近になって、この点を独自に掘り下げて、続けて論文・著書を発行し、この問題についての歴史的第一人者とみなされているのが、今谷明氏です。
 以下の著書を参考にお読みになればどうでしょうか。

『天皇家はなぜ続いたか 対談集』(新人物往来社 1991.12)
『日本国王と土民』集英社版日本の歴史、1992年)
『戦国大名と天皇 室町幕府の解体と王権...続きを読む

Q天皇家はなぜ滅亡しなかったか?

中国や、ヨーロッパなどの歴史を見るとひとつの
国が滅んでまた新たな国が起こるというのは、常識ですよね。でもなんで日本だけが、二つの権力が両立していたんですか?武家は、天皇制を何で完全に排除しようとしなかったんでしょうか?専制君主せいだったらなおさら天皇が疎ましくなると思うんですが。不思議です。

Aベストアンサー

うーん、中国の歴史をいくら読んでも日本の歴史はわかりませんよ(^^;。

ただ、誤解があるようなのでもういちど。

> 源頼朝も足利尊氏も織田信長も太閤秀吉も徳川家康も、
> すべてを掌握したあと(すべての権力を手中に収めたあと)
> 天皇を排斥して自分が史上最高、名実ともに支配者への野望はなかったのでしょうか?
> (織田信長なんか生きていたら天皇を排斥してそうですけど(^^;)

日本の事実上の最高権力者である条件は、天皇を意のままに操ることです。
日本人が神聖なものとしてあがめていた天皇家を操ることができて、
はじめて最高権力者として君臨できたのです。

となれば、誰も天皇家に取って代わろうとは思いませんよね。
せっかくの権力の象徴を、自分でつぶしてしまっては、元も子もありません。

織田信長なんぞ、戦国の混乱ですっかり衰微していた天皇家を、
自らの権力の象徴として見出して、再び栄えるように手を打ったくらいです。
もともとは足利将軍家を権威として担ぐつもりだったのですが、
やはりそこは武家の棟梁、信長ごときに操られるのを潔しとしなかったため、
より無害で、かつ足利将軍家に官位を与えることができるほど
高い存在である天皇家を利用することを思いついたのですね。

徳川家康にいたっては、天皇家の地位と名誉のみは残しましたが、
公家も含めて事実上京都に幽閉状態とし、財力も極端にそぎ落とし、
一切世俗権力には近づけませんでした。
ここまで無害にしたものをつぶそうがつぶすまいが、
徳川家の天下になんら差しさわりがあるものではありませんね。

織田家や徳川家など、信長や家康の何代か前はほとんど素性も明らかで
ないほどの家(豊臣秀吉にいたっては自分の氏素性すら不明確)ですから、
自分が天皇に取って代わっても、権威の裏づけに乏しいことはみんな
自覚していました。それに、日本全土を自ら制圧したわけではなく、
既存勢力を傘下に入れての国内統一ですから、それらを心服させられる
手段が多いに越したことはありません。

ただ、信長は最終的には封建制を廃し、中央集権制にすることを考えて
いた節がありますが、本人は無神論者でもキリスト教を認めていた男です、
天皇家が政治に口出しをしない限りは、やはり象徴としてのこしたのでは
ないでしょうかね。

うーん、中国の歴史をいくら読んでも日本の歴史はわかりませんよ(^^;。

ただ、誤解があるようなのでもういちど。

> 源頼朝も足利尊氏も織田信長も太閤秀吉も徳川家康も、
> すべてを掌握したあと(すべての権力を手中に収めたあと)
> 天皇を排斥して自分が史上最高、名実ともに支配者への野望はなかったのでしょうか?
> (織田信長なんか生きていたら天皇を排斥してそうですけど(^^;)

日本の事実上の最高権力者である条件は、天皇を意のままに操ることです。
日本人が神聖なものとしてあが...続きを読む

Q天皇家はなぜ滅びなかった?

天皇家はなぜ滅びなかった?

中国では、皇帝の一族が滅ぼされるということが、
よくあったと思います。

日本では、どうして天皇家は滅ぼされなかったのでしょうか。

単純に日本人は権威を尊ぶ、権威に弱いということなのでしょうか。

Aベストアンサー

#5さんに加えて補足しておきます。

>(1)天皇家が権力を手放し、権威のみの存在となった

これに加えて重要なキーワードは

日本が中央集権国家ではなくて封建国家であった。

です。中央集権国家では王とそれに直属する国民きりおりませんが、封建制度では王の王(将軍)と、王(豪族とか大名)と、その豪族に直属する国民と言う3種類で国家が構築されております。封建制度は豪族がドングリの背比べで、たとえ抜きん出た豪族がいても、残りの豪族がまとまって抵抗したらその傑出た豪族一人では敵わない場合に出来上がる制度です。その傑出した豪族が王の王になるわけです。その場合、王の王は軍事力ばかりでなく、外交を駆使して残りの豪族の説得した同意の下で成り立っているのですから、どこかからその権威のお墨付きを貰うと言う形にしておいた方が皆を説得され易いです。各豪族は皆平等であると言う原則を認めつつ、状況に応じて天皇から承認された者が国政を預かるとしておけば、残りの豪族も納得出来ますから。そう考えると、江戸から明治への政権委譲が何故大政奉還と言う形をとって殆ど無血でなされたかの理由も判るでしょう。また、天皇の承認を国民の承認に入れ替えてみば、封建制度と現在の民主主義と殆ど同じ精神を持った制度なのです。昔の封建制度では武力と外交による説得を使ったのですが、その武器の部分をお金と置き換えてみればいきなり民主主義になりますね。

もともと平等と言う概念は、それを正当化する根拠が曖昧な概念です。その証拠に、西洋ではその根拠を「神の下に平等」などと分けの判らない神なる概念を引っ張り出さなければ説明出来ないのです。日本では神の部分を天皇で置き換えることによって、この平等という概念を西洋に教わることなく、自前の千年にもわたる歴史から手に入れてきたのです。日本人の持っている徹底した平等意識は、アメリカを含め何処の国より優れています。その証拠に、私はアメリカに住んでいますがアメリカでは自由という言葉をラジオやテレビで聞かない日は在りませんが、平等という言葉は一ヶ月に一度けれたら良い方です。天皇制がこの日本人の平等意識を育むのに、どんなに重要な役割を演じてきたかお判りになりますね。我々の先人達のこの智慧はことほど左様に大切なものですから、天皇も同じ人間じゃないかなどという幼稚な発想だけは止めておいた方が良いと思います。下手すると、今回のアメリカの選挙でオバマに反対した45%以上のアメリカの白人達と同じように、日本人から平等意識を奪い取ってしまうかもしれないからです。

ここ2千年程の人類史で政権の安定期に中央集権制ではなく、封建制を採用したのは、西欧と日本だけのようです。そして、この両地域だけが明治大正ころの近代の早い段階で民主主義を確立したこと、また、近代技術革命を成功させ高度な資本主義を発達させたのですから、日本が中央集権制ではなく、封建制であったことがどんなに幸運だったか分かると思います。

上で述べたことから判るように、もし絶対的に軍事力のある豪族が出てきたら、こんな込み入った封建制度など採らずに、いきなり中央集権制度をとって、自分を皇帝と呼ぶようになるはずです。日本の歴史ではそんなことができたのは信長だけだったと思います。天皇家にとって幸運だったことに、信長は夢半ばで暗殺されてしまいました。

私は、日本史の中で天皇制の存続の危機が過去に三度在ったと思っています。建武の中興で貴族を取り立てて武士をないがしろにしたときと、信長と、この間の敗戦です。

#5さんに加えて補足しておきます。

>(1)天皇家が権力を手放し、権威のみの存在となった

これに加えて重要なキーワードは

日本が中央集権国家ではなくて封建国家であった。

です。中央集権国家では王とそれに直属する国民きりおりませんが、封建制度では王の王(将軍)と、王(豪族とか大名)と、その豪族に直属する国民と言う3種類で国家が構築されております。封建制度は豪族がドングリの背比べで、たとえ抜きん出た豪族がいても、残りの豪族がまとまって抵抗したらその傑出た豪族一人では敵...続きを読む

Q時の権力者はなぜ天皇家をほろぼさなかったのですか?

織田信長、足利義満のように天皇家を必要としない行動をしていたように教わりましたが、
なぜ時の権力者は天皇家を滅ぼさず、自ら王になろうとしなかったのですか?

Aベストアンサー

信長を除いて、日本ではずっとドングリの背比べだったからです。信長が長生きしていたら、天皇家は断絶させられていたと思います。過去の日本のでは、時の権力者が如何に強かったとしても、残りの大名や豪族達がまとまって反対側に付いてしまうと力関係でも叶わなかったようです。ですから、時の権力者は力づくの脅しばかりではなく、外交を使っての懐柔に長けていなくてはならなかった。また、政治力がすでに失っていたとは言え、形式上皆が認めていた天皇家の権威からの任命ないし権力の仮の譲渡という形を採ることで、残りの豪族達も納得していたのです。そのような権力の仮の譲渡という立場が徹底的に認識されていたからこそ、江戸時代から明治への権力譲渡が大政奉還という形式を採り、ほとんど無血でそれが可能になった重要な要因の一つに成っているわけです。

また、そのドングリの背比べと言う正にそのことが原因で、日本は周りの中国や朝鮮にある中央集権制度とは全然違った、幕府と呼ばれた封建制度を自前で見つけ出してそれでずっとやってきたのす。封建制度は王の王がいるといつ制度で、直接国民をたった一人の王の所有物とみなす中央集権制度とは全然違った、世界史的にみて例外的な制度です。ここ2千年程の歴史に限ってみると、この制度を安定期に明確な形で実行したのは、日本と西欧だけのようです。そしてこの2カ所だけが近年の産業革命を効率よくやり遂げ、その結果資本主義社会として高度に発展できました。中央集権制度ではなくて、封建制度であったことが自発的な近代国家の成立にどんなに重要であったかお判りでしょう。江戸時代に日本にすでに高度な経済国家が成立していたことは良く知られていることです。天皇家を存続させざるを得なくしたこの封建制度が、経済大国たるこの日本の近年を形作るための要因に成っているわけです。

信長を除いて、日本ではずっとドングリの背比べだったからです。信長が長生きしていたら、天皇家は断絶させられていたと思います。過去の日本のでは、時の権力者が如何に強かったとしても、残りの大名や豪族達がまとまって反対側に付いてしまうと力関係でも叶わなかったようです。ですから、時の権力者は力づくの脅しばかりではなく、外交を使っての懐柔に長けていなくてはならなかった。また、政治力がすでに失っていたとは言え、形式上皆が認めていた天皇家の権威からの任命ないし権力の仮の譲渡という形を採る...続きを読む

Q卑弥呼と天皇の関係

邪馬台国が北九州にあったのなら疑問はないのですが、もし畿内にあった場合は
当時、奈良か大阪にいた天皇勢力とはどんな関係だったのでしょうか?
当時の天皇勢力の範囲も限られていたため、邪馬台国とは共栄共存という感じでしょうか?

Aベストアンサー

邪馬台国は、畿内とは言っても、京都、兵庫、大坂の地域に分布した国です。一方、原大和朝廷(天皇勢力)は大和盆地(奈良盆地)にあった国です。両者は棲み分けていました。魏志倭人伝に登場する狗奴国が原大和朝廷のことです。(邪馬台国が畿内にあったのはほぼ間違いありません。)

また魏志倭人伝にある通り、邪馬台国の領袖は女であり、狗奴国の領袖は男(天皇)でした。

両者は国境を接して小競り合いを続け、対立を繰り返し、決して友好な関係ではありませんでした。しかし、邪馬台国が魏朝と晋朝の冊封体制下にある間は、中華皇帝の威光を背景とする邪馬台国の勢力が優っておりました。

武帝が死去して恵帝の時代になると晋朝の内部崩壊が始まり、八王の乱に至って晋朝の権威は地に堕ちました。中華皇帝の威光の凋落は日本にも大きな影響を与えました。邪馬台国の勢力は弱体化し、この時期に原大和朝廷が邪馬台国を制して西日本の統一へ動き出したと見られます。(第八代孝元天皇から第十代崇神天皇のころ)

Q天皇制は「今」なぜ必要なんでしょうか?(怪しいものではありません)

政治に疎い主婦です(汗)。
敗戦後の政策として天皇制を残しておいたというのは理解できているのですが、「今」天皇制は必要だとみなさんは思われていますか?
(敗戦後におけるマッカーサーの政策云々は理解しておりますのでその点はご回答頂かなくて大丈夫です)
「今」天皇制が必要であるという理由を教えてください。
(ちなみに私は右翼だとかそういう人では全然ありません!!単純にわからないので質問させていただいています。)

Aベストアンサー

 あの、別に天皇制で構いませんよ。歴史的には、確かに左翼が使った用語なのですが、現在は浸透して左翼以外も使っていますし、天皇制の特殊性(天皇が神道の最高神官であり、神道と皇室とを分離する事が事実上不可能である事など)という問題もありますので。ちなみに、右翼の人達は天皇制とは言わず皇室という呼び方をしますが、こちらも一般的ではないですから。
 さて、私は必要性を全然感じません。日本の文化や伝統の守護者としての皇室に期待する方もおられますが、現実には、世襲制原理に正当性を与えている問題(国民意識の中に、世襲を是とする古い意識がこびりついている)や神道との関連が不可分であり政教分離と抵触している可能性があるなど、様々な問題を抱えているのが事実です。天皇制廃止派というと、何かと左翼と結び付けて語られがちですが、実際には、宗教関係者だったり、反世襲ということでアメリカ的な競争原理を支持する観点からの反対論など、非左翼系が意外と多いのです。
 元々、戦後の一時期は天皇制について活発な議論があったのですが、右翼が度々マスコミを襲撃し、中央公論社の社長宅が右翼少年に襲われる事件(無関係なお手伝いさんが殺されました)を契機にマスコミが萎縮報道をはじめ、天皇制議論は抹殺されてしまいました。国民には天皇制を考える機会と情報が与えられずにきたのです。そして皇室を賛美する報道ばかりが増え、結果的に右翼に利する形となり、今のような天皇制支持率80%時代を迎えたわけです。逆に言えば、今の状態は右翼とそれに屈したマスメディアによって作り出された虚構とも言えます。
 必要性を聞かれた際、こうした経緯がある事から、きちんと回答するのは困難でしょう。少なくとも、必要性を感じていない人を説得するのは事実上不可能です。戦後君主政体の国は続々と共和政体に変化し、今や世界に残る君主国は微々たるものです。政治思想も、天皇制を補強するものよりも、共和制を補強するものの方が強固で論理的正当性を持ちます。最早、天皇制を論理的に擁護することは出来ないのです。
 アメリカは、戦時には大統領を中心にまとまるそうです。民選元首でも国民統合の象徴足り得る証左であると考えます。大統領制を導入して天皇制を廃止しても、きちんと機能すると思われます。

 あの、別に天皇制で構いませんよ。歴史的には、確かに左翼が使った用語なのですが、現在は浸透して左翼以外も使っていますし、天皇制の特殊性(天皇が神道の最高神官であり、神道と皇室とを分離する事が事実上不可能である事など)という問題もありますので。ちなみに、右翼の人達は天皇制とは言わず皇室という呼び方をしますが、こちらも一般的ではないですから。
 さて、私は必要性を全然感じません。日本の文化や伝統の守護者としての皇室に期待する方もおられますが、現実には、世襲制原理に正当性を与え...続きを読む


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