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斉明天皇の次に即位したのは、天智天皇ですが、亡くなったあとすぐに即位したわけではないと書いてあります。斉明天皇が亡くなり天智天皇が即位するまで、天皇席は空席だったのですか?白村江の戦いの時は誰が天皇だったのですか?

A 回答 (4件)

現代では、殺人罪として起訴される件、それに対して対応未熟な社会があり、へびがかえるを呑み込んでいった。

 そんな推理もたつ。
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当時は今と違ってすぐに即位しません。


称制といって
新羅で敗戦。
本土に攻めてくる可能性を考慮して
防人を置き、
新羅の反撃に備えた。
新羅は半島から追い払って、
海を越えて
攻めることはせず。

7年後に即位。

こういう順ですな。
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推古時代に蘇我氏は全盛を迎え、乙巳の変で蘇我宗家を潰されたとはいえ、蘇我氏全体としては依然として最大勢力を保っていた。

乙巳の変の成功も蘇我石川麻呂など宗家以外の蘇我氏の支持を得ていたからだろう。
大化の改新も、そう簡単には進められなかった。

そもそも乙巳の変の頃の天智は19歳くらいだ。まだまだ有力な天皇候補は沢山いた。
そういう中で百済が滅亡し、軍を西に向けたが斉明天皇が崩御。斉明に代わって軍司令官の名代を天智が務めることになるが、白村江で大敗。この責任は重い。
唐軍の来寇に備える必要もある。天皇即位どころではない。
ようやく落ち着いてから、蘇我氏の協力も得て近江京を建設してそこで即位となるが、大敗の責任を天智に問う声は強かっただろう。
弟の天武も蘇我氏にやられた物部系氏族など勢力を拡大していたからなおさらだ。

教科書に書いてあるほど、天智は万全の体制ではなかったことは間違いない。それが即位が遅れた理由だろう。
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空白です。



中大兄皇子が蘇我入鹿を暗殺した乙巳の変(645年)で中大兄皇子が朝廷で一番の実力者になったのにもかかわらず天皇に即位していません。

乙巳の変後、皇極天皇は退位し、中大兄皇子は自ら皇太子となりすぐに叔父を即位させ孝徳天皇とします。その後孝徳天皇と対立し、孝徳天皇の死後、自らの母親である皇極天皇を再び即位させ斉明天皇とします。斉明天皇死後7年たってからやっと即位していますよね。

なぜ中大兄皇子の即位が遅れたのか、諸説ありますが、一番有力なのは孝徳天皇の后だった間人皇女と不倫の関係にあったとのことです。しかもこの間人皇女は中大兄皇子の同母妹なんですよ。これは非常におおきいスキャンダルで、これによりすぐに即位せず時間をかけたとのことですね。
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