最速怪談選手権

パウロの主張では
「イエスがキリスト(救世主)であり、神の子であって、罪のないまま十字架上で死んで復活した、これを信仰せよ。その事実を信仰することが救済の条件だ。」
と言っています。

では、何故イエスを信仰すれば救われることにつながるのでしょうか?
そのメカニズムを教えてください。

A 回答 (11件中1~10件)

私も補足ということで書きますが、まずパウロのキリスト論から。

調べてみると、何と
新共同訳では、パウロがキリスト=神と認める(ように読める)訳がなされてました
(ローマ書 9:5、ピリピ書 2:6)。改めて、この訳の「すごさ」がわかったというか・・

>キリストは、万物の上におられる、永遠にほめたたえられる神、アーメン。

上がローマ書 9:5 の新共同訳です。一方、口語訳はどうなっているかというと、

>万物の上にいます神は、永遠にほむべきかな、アァメン。

口語訳聖書というのは、RSV という英訳聖書を参考にしていまして、この RSV は
英訳聖書史上、学問的に最も正確な訳と言われています。(一方、新共同訳が
参考にしている、NEB とか AVS とかいった聖書は、かなり自分たちに都合良く
訳す聖書と言われていて、少なくとも学問的にはあまりあてにならないんです)。
で、一応、RSV と AVS。

RSV: ......to them belong the patriarchs, and of their race, according to the flesh,
is the Christ. God who is over all be blessed for ever. Amen
AVS: ......whose are the fathers, and of whom is Christ as concerning the flesh,
who is over all, God blessed for ever. Amen.

こうやって見ると、新共同訳は AVS よりさらに一歩進んで、キリスト=神としてる
のがわかります。これをやってる英訳聖書は NIV という原理主義者の聖書なん
です。ここを読んでいただければ分かると思いますが、こういう読みは、
「無理に捻じ曲げれば、何とかそう読める」ということであって、学問的には
かなり怪しい解釈であることが分かります。
http://www.dtl.org/trinity/article/rom-9-5/pt-1. …

次にピリピ書 2:6。

口語訳:キリストは、神のかたちであられたが、神と等しくあることを固守すべき事
とは思わず・・・
新共同訳:キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しよう
とは思わず・・・

RSV: .....who, though he was in the form of God, did not count equality with God a
thing to be grasped,
AVS: ......who, existing in the form of God, counted not the being on an equality
with God a thing to be grasped,

口語訳の「かたち」、両英訳の form は、原語では morphe で、これは少なくとも
私の知る限り「身分」という意味はありません。ここでも新共同訳は、「超訳」を
やってのけています。morphe は eidos に対して、「外観」というような語感だそうです。

面倒くさいので一々引用しませんが、パウロは様々な個所で、キリストを神に従属
する存在として書いてます。だから、この二つに限って、(わざわざ無理に)神=キリスト
と読んでも、あまり意味がないかと思います。

パウロの言う「主」について。パウロだけでなく、福音書記者も書いてますが、
これは神のみをさす呼称でなく、「神の子」「人の子」と共に、キリスト論的尊称と
呼ばれるもので、当時のユダヤ社会ではメシアを指す呼称として用いられていた
ました。

三位一体について。新約聖書に三位一体が明言されていないのは、明らかな
事実です。三位一体論者が無理に読めば、そう読めなくもない、ということで。
確かにマタイにもパウロ書簡にも、父・子・聖霊を並べている個所がありますが、
これらが一体である、ということはどこにも書かれていません。だからこそ、
三位一体を信じない「異端」が出てきて、古カトリックが手を焼いたのです。

最後に、何故パウロ神学が問題に成るか。第一に質問者の方が、パウロの名を
挙げ、その思想を問題されています。第二に、信仰によって義とさせる(救われる)
なんて、ある意味とんでもないことを言い出したのはパウロが始めであって、
その後の2世紀以降の教会の解釈は、みなパウロを根拠にしているからです。
新約聖書内で、「信仰義認」を説いてるのはパウロとパウロ派によって書かれた
文書のみで、例えばマタイやヤコブ書を見れば、正反対のことが書かれてあります。

それゆえ、質問者の方が「信仰」という言葉を出された以上、パウロの神学が
「問題の核心ではない」なんての論外で、これを語らなければ、意味がないんです。
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この回答へのお礼

すいません、皆さんへのお礼をここにまとめさせてもらいます^^;

いろいろな意見ありがとうございました!
なんとなくわかってきました。
期待していた以上の情報を提供してくださり、とても興味深いものでした^^
みなさんの意見を参考にしていきたいとおもいます。
ありがとうございました!

お礼日時:2003/07/16 21:57

こんばんは。



#6ですが、補足をさせてください。

原典である聖書を読み解くなら、パウロはこう記しています。

「口でイエスが主であると宣言し、心で神がイエスを
死者の中から復活させたと信じるならば、あなたは救われる」(ローマ人への手紙10-9~10)

これは研究者の中でもパウロが「イエスを主として
宣言したヵ所」として知られています。

また、三位一体論の根拠もまた、パウロの「コリント人への第一の手紙」
12章を根拠に出発しています。

そして、重要なのは聖書は人間が書いたものではあるけれど、
「神の霊感によって書かれた、神の約束の書」である
ということです。

ですから、ご質問に返れば、神の約束を信じることが救いにつながるわけで、
信じない人にとってはどうでもいいこと、となって
しまうでしょう。

究極は、そこに落ち着いてしまいます。
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人間パウロが何を主張しようと、それは問題の核心ではないわけで、要は、神を信じないものには神の福音が伝わりようがない、ってことなんでしょ? クリスチャンでなくても、当然だろって思います。

 
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こういった質問は、本来、私を含めてパウロ神学に通じてない人間は、発言を


控えるべきだと思いますが、あまりにも「おいおいっ!」って感じの回答があるんで・・

ご存知の通り、パウロのいわゆる「信仰義認説」は、信仰によって義(神の前に
おいて正しい状態)とされる、ってことですが、ここでいう「信仰」は、原語の
ギリシア語 では pistis と言って、本来は「忠実であること」という意味なんだそうです。
日本語で「神を信仰する」というと、如何にも信仰する側に主導権があるように
思いますが、実際は「神に忠実であれ」という非常に受動的な感じです。

では、パウロにとってイエスとは何であったかと言いますと、彼自身「キリスト」
と形容していますように、まず、神の使わされたこの世の救済者であったわけですね。
ちなみに、彼はイエスを「主」とも呼んでいますが、イエス・キリストは神自身である、
という三位一体のようなことは、私の記憶する限り、言っていません。これは後の神学
の話でしょう。(もしかしたら、言ってるかも。だから、パウロ神学に通じていない者
が発言するべきではないわけですが)

そういうわけで、イエスは神の使わされた御子ですから、神に忠実であるなら、
当然、その息子・使者にも忠実でなければならないのです。

次に、神に忠実であることと、救われることがどう結びつくのか。そもそも、「救われる」
というのはどういうことかというと、パウロによれば、楽園に戻り、(生命の果実を食べて)
永遠の生を得る状態のようです。何故、今、人は楽園にいないか? それは
ご存知のように原罪のためですね。楽園に戻るには、神の許しが必要です。
罪を許してもらうためには、まず罰を受けねばならない。パウロによれば、その罰は
イエス・キリストが一身に引き受け、そのために十字架にかけられた、というのです。
そして、今、我々は「恵みの時」(原罪を贖われた状態)にあり、神の救いに近づいた、
とこういうわけです。

さて、罰は受けた(というか実際は、イエスに引き受けさせた)からといって、いまや
神が許してくれる、と考えるのは、人間の驕りというものです。例えば、ある人物を
殺した殺人犯が、判決どおりに服役したからといって、彼が「罰を受けたんだから、
殺した奴の親族は、許すのが当たり前だ!」と考えるの傲慢でしょう? それと
同じです。楽園に戻る=神の許しを得るのは、神の一方的な意志にによるのであって、
人間は、その許しをただひたすら、受身で請い願うことしか出来ないのです。

そういうわけで、人は、その最終的な許しが下るまで、神に忠実(=信仰)であれ、
といううわけです。繰り返しますが、「信仰してるから、絶対救済される!」なんてことを
パウロは言ってません。ただ、神の一方的な許しによってのみ、人は救われる、
こういうことです。
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「イエスは罪なくして殺されることで原罪をあがなった(救世主である)」


「罪がなかったことは(=原罪をあがなったのだということは)復活したことが証明している」
ということを

是とすれば(=信じる人)は既に原罪をあがなってもらっている(=救済されている)
非とすれば(=信じない人)は未だ原罪をあがなわれることなく背負っている(=救済されていない)
すなわち
信仰しなくては救済されない
と単純化してみてはいかがでしょう
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こんにちは。



一応、ダメなカトリック信者です(笑

ご質問ですが、それを理解するには歴史的な背景も頭に
入れた方がより理解しやすいと思います。
ご存じのようにパウロが宣教していた時代はユダヤ教が主流の
時代であり、パウロ自身が熱心なユダヤ教徒から劇的な改宗をはかりました。

ユダヤ教はヤハウェを唯一の神とする一神教です。
そこで、ご指摘の>「イエスがキリスト(救世主)であり、神の子であって、
罪のないまま十字架上で死んで復活した、
これを信仰せよ。その事実を信仰することが救済の条件だ。」

と強調しなければならない理由は、「イエスこそ神そのものである」ということです。
この点を外してはキリスト教そのものが成立しません。

そして、>何故イエスを信仰すれば救われることに
つながるのでしょうか?
そのメカニズムを教えてください。

イエスは神そのものであり、神が人間となって世に降臨し、
人間の原罪を背負って昇天しました。

そして、信ずる者は「神の国」に入れるとしました。

神とはすなわち、全知全能です。
>そのメカニズム

は、全知全能の神であり、神が与えた約束なのだから、
信ずるに値する、ということにほかなりません。

理解するのではなく、信じること。それが救いです。
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人間がなぜ救われなければならないのでしょうか?


そのことをまず考えてみる必要はありますよね。
聖書によれば、人間始祖アダムとエバが堕落したと
あります。
これは、神様が創造された人間ですから、
彼らが順調に成長すれば、善悪をわきまえた立派な
大人になって結婚して真の夫婦となり、真の父母として
子女を繁殖し、そして、その善なる血統が繁栄していけば
万事OKだったわけです。
しかし、そのアダムとエバが堕落した。
そこには、尋常ではないことが起こらなければ、当然
堕落するはずもないわけでして、何が起こったのか
といえば、蛇に象徴された天使が、妬みから
本来のあるべき軌道を逸し、エバを誘惑して、
霊的に堕落しました。
そして、その霊的に堕落したエバが、アダムと
関係を持つことで、肉的堕落が生じました。
そこから、子々孫々、偽りの悪なる血統が伝播すること
となり、人間は生まれながらにして、自己中心的な愛を
血統的にもって生まれてくると言う、原罪を持つに
至ったのです。ですから、人間には、誰しも、悪を憎み、
善を指向する本心がありながら、それに反する悪なる
邪心も内包するという「矛盾」した存在に
落ちてしまいました。
パウロもそのことを聖書で嘆いていますよね。

「私の肢体には、願わざる悪なる欲望があり、それを
行おうとする。私はなんと惨めな人間なのだろう・・・」
というようなことが書かれていたと思います。

これが、我々堕落人間の偽らざる姿なのです。

ですから、この心の問題を解決して、更には、
血統的な問題をも解決してこそ、完全な救いがなされて、
本来、神様がアダムとエバに願った理想家庭による
地上天国の実現が復帰されるのです。
霊的救いと、肉的救いの両面がなされて、はじめて、
救いが成就するのです。

イエス様は、まさに、そのために来られましたが、
残念ながら、イスラエル民族の不信仰にあい、
十字架の道を余儀なくされました。
本来、イエス様は、アダムとエバがなし得なかった、
理想家庭を実現し、原罪を清算して、理想の男女
理想の結婚、理想の夫婦、理想の父母の模範として
メシアを待ち望んでいたイスラエル民族と一体化して、
ローマを支配して、世界を統一するように、神様は歴史を
かけて、準備されておりましたが、それが出来ずに、
堕落人間の「責任」がまっとうされずに、霊的救いのみが
十字架を信じることで成就されるに留まりました。

ですから、「私はもう1度来る。」とイエス様は
言われたのです。肉的救いが成就されていないからです。
血統的な罪=原罪が清算されてこそ、
本当の地上天国が到来する基台が造成されるのです。

もし、イエスを信じて救われるのなら、どうして、
黙示録で、再臨主が来ることを預言する
必要がありますか・・・?

また、聖書は、比喩やたとえが多く書かれてあります。
イエスは、再臨の時、雲に乗ってこられるとありますが、
これも比喩です。
どうして、イエス様が、女の体から生まれたのに、
再臨主が雲に乗って孫悟空のように登場しなければなり
ませんか?肉的救いを成就するために来られるのです
から、女の腹から生まれてこなければなりません。
同じです。イエスのことを、聖書では、第2のアダムと
呼んでいますよね。ですから、再臨主は、第3アダム
です。アダムが出来なかったことを為すために、再び
来られるのです。アダムが出来なかったこととは、
理想の結婚による理想家庭の実現です。
神様の願う家庭が崩壊したので、この世はすべて
おかしくなったのです。堕落して、愛の秩序が狂った
ので、歴史上すべての問題は、この問題に帰着するの
です。
ですから、世の終わりには、即ち、終末時代には、
必ず、家庭が崩壊します。何が善で、何が悪か混沌と
なるのです。男女の問題がめちゃくちゃに成ります。
青少年の淪落を誰も止めることが出来なくなります。

「原罪」の問題を解決できる再臨主が来られなければ
無理なのです。真のアダムだけが世界を救えるのです。
この世は、一人の堕落から始まった偽りの世界なので、
一人の方から救いが始まるのです。

ですから、明かに、現世は終末時代なのです。
私達は、既成概念を捨てて、謙虚な心で、真理を求め、
再臨主を待ち望まなければなりません。
これが、終末時代に処する我々のあるべき姿勢では
ないでしょうか・・・?

それでは、失礼致します。
乱筆・乱文ありましたら、どうかお許しを・・・
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イエスが住んでいた場所は荒れ果てた地中海式気候地区。


したがって.知識のある支配者にしたがっていれば.それなりの食料が得られて「救われます」(=生きていられる)。が.乱獲したりすると.木々が枯れて(再生が困難.今の砂漠地帯参照).食料がなくなり.滅びます。

まあ.知識人による独裁政治支配下にあれば食料を得やすいということです。日本のようなモンスーンでは.どこでも食料が手に入りますので.日本古来の多神教が成立するのです(仏教は中国の鉄器等の高級な文化による支配を日本にもたらしました。その結果.仏教による独裁政治が可能になりました(蝦夷征伐に代表される侵略が可能になった)が.天皇に依存しない独自の宗教文化が個別に発達することが可能だったのも.食料が豊富だったからです)。
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自らの罪を認めて悔い改めることによって救われるという前提から、そのように言われているのでしょう。


キリスト教によると、イエスはこの世のすべての人間(私たちひとりひとり)の罪の身代わり(犠牲)になって十字架に掛けられたのです。それを信じることは、自分の罪のためにイエスが犠牲になったことを認め、自分の罪を自ら痛みとして引き受けること、すなわち悔い改めることに繋がるということです。

イエスの復活を信じるというのは、死んだ人の復活を事実として信じるということではないと思います。
イエスが存命の時代においては、多くの人にとって、イエスの主張はただの異端の新興宗教のようなものとしか思われなかったでしょう。にも関わらず教祖たるイエスが亡くなってもなお、一旦は滅びたかに見えたイエスの教えが世に復活し、数々の弾圧を経ても現在に至るまでその教えは滅びることなく生き続けている。これ奇跡として物語的に述べたものが「イエスの復活」であると私は理解しています。
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メカニズムというのはないと思います。


簡単に言うと、聖書に書いてあるから、これが信仰でしょう。仏教においても南無阿弥陀仏と唱えると極楽に行ける。ということでしょうね。
どうしても信仰は頭で考えるものではなく、ただ受け入れる、それが宗教だと思います。
ただ信じてしまった。と書くほうがわかりやすいかもね。
よければ、近くの教会にどうぞ?
 
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