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神とは何かとか、
神の子の話とか、
イエス・キリストは神か人間かとか、
はたまた神による奇跡物語の話とか、
考えること議論することはすべて愚かなことです。
信仰にも値しません。
ただの病気です。

その理由は簡単です。
神については既に答えは出ているからです。
神は宇宙の法則です。
アマテラスとかイエス・キリストとは無縁のものです。
神は万物の根源、宇宙の法則のことです。
つまり神はアルケーのことなのです。
この簡単な真理が理解できれば神について議論する必要はありませんよね?

A 回答 (11件中1~10件)

なるほど、そういう考え方ですか。



私は、神からではなくカオス(混沌)から神や物事が生み出され、そこから法則などが導きだされているように思ってましたから。
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★ (№9お礼欄) 


神の理解において、経験的か非経験的かはあまり重要ではありません。

☆ 経験的であるならば 人知がおよび 人間がその知性で認識できるというもの。認識できていないのだから 矛盾です。

宇宙の法則は 万物の根源も同じく 科学つまり知性で知ることが出来ます。

摂理は ただし一人の人間の主観として〔のみ〕知ったと思っているということです。


神じたいは 非知です。





★ 聖書の目的は神を人格化することです。
☆ 擬人化し 意志を持つ者として見立て その言葉や行動にまでおよび物語を編んだにすぎません。

表現方法のひとつです。

理論立てるのも 物語り化も どちらも人間の忖度にもとづいています。






★ 〔☆ 聖書は 神を人格化して描くことが目的ではありません。表現の手段です。ただし その表現方法として たしかにさだまった人格としてのように描いています。〕しかしこれは途方もなく大きなアヤマチです。
☆ 分かりやすくしたに過ぎません。

また 表現した文章――オシへ――が 神なのではありません。

ごらんくださいと言って指し示す《ゆび》です。ゆびが 神なのではありません。




★ 神に人格を与えてはなりません。
☆ 表現の方法としてひとつのの手です。《人格を与えた》のではなく あたかも人格の主体なる存在として設定し 物語を編んだだけです。

どだい 人間が神に人格にしろ何にしろ何かをあたえるなどということは あり得ません。
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★ (№7お礼欄) ~~~~~~~~~


ほぼ全ての宗教において神は意思を持つもの、人格を持つものとされています。
キリスト教はその典型です。
であるなら神は非経験では有り得ません。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
☆ では 《宇宙の法則あるいは万物の根源は 経験的な事物であるからには 超経験の神ではあり得ない》ということは 納得できたのでしょうか?




それでは 上の疑問は確かに理がありますから お答えします。長くなるのをおそれずに きちんと説明します。

1. はじめに 神は 人知を超えており 超自然および超経験です。これを《非知》または《非経験の場ないしチカラ》と呼んでいます。

2. 別様に概念として説明するなら 神は 無限で絶対性としてあることを意味しますから 有限で相対的なこの経験世界にもとづく言葉(≒概念)では 表わし得ません。



3. そこで それでも神について人間は――あるいは貪欲な哲学は――推考をめぐらし何とか捉えようとしますし さらには一たん想定した仮説理論に立って思考を展開します。

4. 神についていろいろ忖度するということですが あらためて神については 絶対性であり 相対的な存在である人間とは 絶対のへだたりがあります。


5. ところが この絶対性なる神は 相対存在である人間を――とうぜんのごとく―― つつみふくみます。

6. となると たとえば経験事象として《有る無い》といった規定は 神がそれを超えているということにおいて 包含することにもなる。言いかえると 神は――表現として―― 《有る》とも《無い》とも互いに同時に言える・・・かも知れない。



7. 同じくたとえば相対世界における《因果関係》 これも神は超えている。と同時に 含み持っていると言えるかも知れない。

8. 言いかえるなら 神は 経験世界における原因と結果との関係過程からまったく自由であると同時に その過程に介在しうる・・・と言えるまでになる。




9. ここから 神について――言わばその派生的な属性として―― あたかも人間と同じように《意志を持つ》と思い描くことが生じる。

9-1. つまりは 神を人格化して捉える。擬人化した神についてのあたかも物語が つむがれるまでになる。聖書・創世記です。


10. ひとは 経験世界における現象・出来事について あたかも神の意志が反映していると捉えるまでになる。摂理といった考え方です。




11. このような忖度による神観は それとしてその人の主観内面で持たれるまでは 自由だと考えられるのです。

11-1. それをオシへとしあたかもそれが神であるとして説くシュウキョウになると アウトです。


12. 言いかえると 神についての物語は――そしてオシへをその経験思想として制限して保つかぎりそのオシへも―― 信仰から得た産物であり 扱いようによっては 神を仮りに指し示す指として機能しているかも知れない。正解たる神へとみちびくために引いた補助線であるかも知れない。



13. 以上のような事情と背景において 神の擬人化や意志を持つ神の像などが 持たれて来ている。――こう理解してください。と考えますが どうでしょう?
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この回答へのお礼

>☆ では 《宇宙の法則あるいは万物の根源は 経験的な事物であるからには 超経験の神ではあり得ない》ということは 納得できたのでしょうか?

神の理解において、経験的か非経験的かはあまり重要ではありません。
こんなことを考えてみてください。
https://oshiete.goo.ne.jp/qa/12904396.html



>つまりは 神を人格化して捉える。擬人化した神についてのあたかも物語が つむがれるまでになる。聖書・創世記です。

聖書の目的は神を人格化することです。
しかしこれは途方もなく大きなアヤマチです。
神に人格を与えてはなりません。
https://oshiete.goo.ne.jp/qa/12904220.html

お礼日時:2022/04/20 05:15


なぜアルケーを神とするのですか?
神について否定するのであれば、アルケーを神とは表記せずに、根源、宇宙の法則に基づくことである。とでも表記してくださいね。
貴方はすでにアルケーを神としている時点で、議論の元を作っていますよ。
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この回答へのお礼

>神について否定するのであれば、・・・

神を否定しているのではありません。
人々の神に対する認識を否定しているのです。
既成宗教における神を否定しているのです。
そもそも神を拝む人たちは神が何であるか理解していません。

お礼日時:2022/04/19 17:56

★ (№1お礼欄)


神についての真実は唯一つです。
神は万物の根源、宇宙の法則です。

☆ 万物も経験事物です。根源も モノです。神ではありません。

同じことの繰り返しになりますから ここまでとします。
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この回答へのお礼

ほぼ全ての宗教において神は意思を持つもの、人格を持つものとされています。
キリスト教はその典型です。
であるなら神は非経験では有り得ません。

お礼日時:2022/04/19 18:01

神 使えば 金もうかるし 相手国も侵略できる


低所得 心のさえないひと その他 こまっている人民 
腐るほどいるから 人間存在しているかぎり使えるよ
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この回答へのお礼

人間の心が貧しいと神はアルケーであるとゆー真実を理解できないのです。
そしてイエス・キリストが出てきて奇跡を起こしたりするのです。
人間の不幸はここから始まりました。

お礼日時:2022/04/17 11:58

私は家が無宗教だったので 神を見たことも、声を聴いた事もないし



このまま無宗教で行くと思いますが

アルケーの神は面白いですねえ。

神はその地域地域で違うし同じキリスト教でも違うし

同じプロテスタントでもカトリックでも一人一人違うので

日曜に集まって歌を歌って教えを聞いて過ごす分にはいいかと思いますが

宗教によって人が分断されるのは困りものですねえ

それのアメリカはキリスト教の聖書に宣誓するのにイラク戦争まで

何十万、何百万単位の人達を殺して来ました

ロシアはその反動かも知れません。

共産主義も宗教みたいなもので武力革命で国を作ったので

結局は解決手段は武力です。暴力です。

私は神については丘目三目ですね。

どの辺が間違ってるのか大体分かります。

仏教も古いし、キリスト教も内容を見直して愛の精神に立ち返らないと

イラク人50万人殺して知らんふりはないでしょう。
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神…この文字は不快でしかない…諸悪の根源です。

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「神」と一括りにしていますが、国、民族、学術などによって捉え方は様々です。


緑色で頭に触覚後生えていても、神と呼べば神です。

物理的(エネルギーや波、量子なども含む)に「存在」しているなどと論じるのはナンセンスだと思います。

しかし、信念や人生観、道徳感、倫理観などの「こうあるべき」とする事象を「神の教え」と捉える人もいるでしょうし、それには理解を示せます。

「神様」という人格を持つような存在を信じるというのであれば、流石にちょっと…と思います。
しかし、それを本気で信じて議論する人は、少なくとも先進国では少ないでしょう。
お宮さんの宮司さんやお寺のお坊さんだってそんなものは信じていません。
ローマ法王だってそうだと思いますよ。

その辺の線引きはすべきだと思います。
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神への信仰はただの「思い込み」です。

でも考えることによって思い込みが強まり信仰が強固なるものに変わっていきます。

人の人智の及ばないものを知らないままで不安でいるよりは妄想や思い込みで知ったかぶりをして日々の生活で不安にならないように生きるために身につけた知恵ですね。「信じるものは救われる」ってやつです。ちなみにあなたの神はアルケーも同類です。
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