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1. 神は経験事象ではありません。

2. 時空間にものごとが起こるこの経験世界を神は 超えています。

3. 《超えている》という規定は 案外むつかしいですね。経験事象と
しての《有る無し》をそして善悪をも超えていますし さらに《因果関係》
をも超えています。

4. ということは 神は有ると言っても無いと言っても どちらの表現
も神に当てはまると推し測られます。有神論も無神論も どちらも間違い
だとは言えない。

5. ものごとの原因結果の関係を超えているということは 逆にそのよ
うな経験事象に容易に自由に神はカカハリを持つと推理され得ます。

6. 神によるこの世界における因果関係へのカカハリ――あるいは ひ
ょっとして要らない容喙?――は いわゆる摂理ないし因果応報の説とい
った見方で現われています。

7. その具体的な応用――たとえば《この災害は神の怒りだ》説――は 
正解が 決められるという性質のものではないはずです。主観としては持
たれたとしてもです。

8. ちなみに 経験事象としての《有る無い》への神による介入は――
もちろん想定であり 推理ですが―― やはり《よみがえり・復活・再生》
といった物語として語られて来ています。

9. では 《摂理》とは 何か? それをどう扱えばよいのか?

10. 単純に捉えるなら 因果応報の説が 当たるときもあれば当たらな
いときもあるというように 摂理と言っても その内容が実際の経験的なこ
とがらと きちんと対応するとはやはり考えられません。

11. もう少し細かく見るなら たとえば自業自得といった因果関係はあ
り得ます。とすると 摂理も そのように特定の我れなる主観の内では 該
当することがある・・・と言えるだろうか?

12. 摂理とは 自然のことわりに善悪などの価値観を添えて捉え直した
ものですね。倫理的な意味合いを帯びた宇宙の法則。

13. ですが このようにすでに人間の認識をほどこしたコトワリが じ
つは神本体から如何に遠いかを怠りなく思うことが まづ大事なのではない
でしょうか? いかがお考えになりますか?

A 回答 (21件中1~10件)

>  5. ものごとの原因結果の関係を超えているということは 逆にそのような経験事象に容易に自由に神はカカハリを持つと推理され得ます。



↓↓↓

 例えば、2次元に住む者からは、我々3次元に住む者のことは理解できない。だけれども、3次元に住む者からは、2次元の世界は理解しうる。
 このように考えますと、高次元にいる者ならば、その下位の次元の者は理解・把握可能かもしれません。逆はほぼ(全く)不可能ですが。


>  6. 神によるこの世界における因果関係へのカカハリ――あるいは ひょっとして要らない容喙?――は いわゆる摂理ないし因果応報の説といった見方で現われています。

↓↓↓

 上記”5”から推論しますと、”因果応報”といった見方で表出される、もしくは、(さらには、理解したい、という感情をも抱きつつ)そのように理解してしまうといった形で表出されることはありうるかと思います。


>  7. その具体的な応用――たとえば《この災害は神の怒りだ》説――は 正解が 決められるという性質のものではないはずです。主観としては持たれたとしてもです。

↓↓↓

 確かに、わかりません。わからない以上は、やはり、”決められ”ません、よ、、、ね。
 もちろん、神のご意思は知りたいですけれども。。。


>  10. 単純に捉えるなら 因果応報の説が 当たるときもあれば当たらないときもあるというように 摂理と言っても その内容が実際の経験的なことがらと きちんと対応するとはやはり考えられません。

↓↓↓

 上記”7”から推論しますと、”わからない”し、また、”決定できない”ため、きちんと対応するとはやはり考えにくい、と思います。私も。
 昔々、英国に在住していたニュートンという人が、「黙示録」の研究をとても熱心に研究していたと言われていますが。実際のその研究成果と言いますと。。。


>  11. もう少し細かく見るなら たとえば自業自得といった因果関係はあり得ます。とすると 摂理も そのように特定の我れなる主観の内では 該当することがある・・・と言えるだろうか?

 昔々の伝承であるマルセリーノの逸話について考えて見ますと、主観内ではありうる。さらに言いますと、そこに居合わせた人たちの希望・期待という感情の発露も手伝って、伝播することもありうると考えます。もちろん、実際の神のご意志はわからない、のですが。


>  12. 摂理とは 自然のことわりに善悪などの価値観を添えて捉え直したものですね。倫理的な意味合いを帯びた宇宙の法則。

 元来は、”神の摂理”、いわゆる”Providence(神意)”かと。それが後世になって、慣用的に”宇宙の法則・摂理”といった表現に用いられるようになったものと考えます。
 これまた昔々いたとされるガリレオという人なんかも聖職者でしたから、おそらく、ニュートンさんと同じく”神の摂理”が、近似的に”宇宙の法則・摂理”となったのかもしれません。さらに付け加えますと、自然科学(厳密には実証科学)が今日のように発展したのは、キリスト教圏であったのは、決して偶然ではない、と考えられます。


>  13. ですが このようにすでに人間の認識をほどこしたコトワリが じつは神本体から如何に遠いかを怠りなく思うことが まづ大事なのではないでしょうか? いかがお考えになりますか?

 というよりも、今日的発想からしますと、寧ろ「神本体から如何に関わっているのか?」という問いの方が珍しく感じられるのですが。。。

 いかがでしょう?
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この回答へのお礼

ご回答をありがとうございます。

★ ~~~~~~~~~~~~~
  >  11. ・・・摂理も そのように特定の我れなる主観の内では 
 該当することがある・・・と言えるだろうか?

昔々の伝承であるマルセリーノの逸話について考えて見ますと、主観内では
ありうる。さらに言いますと、そこに居合わせた人たちの希望・期待という
感情の発露も手伝って、伝播することもありうると考えます。もちろん、実
際の神のご意志はわからない、のですが。
~~~~~~~~~~~~
☆ 言い得て妙だと思いました。

或る一人の主観の内では 当てずっぽとも言わなければならない神の意志に
ついての忖度が それとして生きているということがあり得る。――んです
よね。

――良心や自己表現の自由にもとづき その自由がわれなる主観の内に持た
れる限りで 主観としての神は生きていると感じることが出来る。

【10】までについていただいたコメントは だいたい無難な捉え方ではな
いかと 互いに思ったというところでしょうか。

【5】は いささか次元が違うのかも分かりません。ふつうは四次元と言わ
れる経験世界とそしてこれを超えている非経験の場(つまり 神の視点)と
を対比させていますので 二次元や三次元のお話とは異なるのかも分かりま
せん。


★ ガリレオ ニュートン・・・近似的に”宇宙の法則・摂理”となったのか
もしれません。
☆ という歴史があったかと思われますが この《近似》は けっきょく先
ほどの【11】でのお話をしのぐことは出来ない――とは思われます。

★ 自然科学(厳密には実証科学)が今日のように発展したのは、キリスト
教圏であったのは、決して偶然ではない、と考えられます。
☆ と言われますね。

★ 13. というよりも、今日的発想からしますと、寧ろ「神本体から如
何に関わっているのか?」という問いの方が珍しく感じられるのですが。。。
☆ そうなんですけれどね。そうなんですが それとは別の一面では 重ね
て触れますが やはり【11】の問題もあるのではないかと。

つまり あくまで主観の問題も――経験事象を超えた神とわれとの関係が問
われるかぎりで―― 顔を出して来ます。そしてこの問題を 無下に却下す
ることも おかしい。こう思うのですが。

お礼日時:2017/01/01 20:37

ゾンバルトは読んだことがないなあ。



ウェーバーの禁欲に対して欲望らしいのだけれど。
マルクスとウェーバーの比較とかは

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大塚 久雄(おおつか ひさお、1907年5月3日 - 1996年7月9日)は、日本の経済史学者。専攻は英国経済史で、西洋諸国における近代資本主義、近代市民社会の研究で知られ、マックス・ウェーバーの社会学とカール・マルクスの唯物史観論の方法を用いて構築した大塚史学は国際的評価を受けた[1]。

https://ja.wikipedia.org/wiki/大塚久雄

~~~~~~~~~~~~~


とりあえず
ゾンバルトとか
シュンペーターとか
バクーニンとか
ヘーゲルとか

メモ書き。
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それでも不思議なのだけれど、


最初から解脱とか不二一元論のようなインドの思想ではなくて
善悪二元論のゾロアスターのほうを通過するのは無駄なような気がするのだけれど
創造と破壊のプロセスが必要ということなのだろうか。

歴史的には
インドとイランを侵略したアーリア人同士の戦いで負けたほうが
イランへ行って、善悪二元論の宗教を創造したのだから。

いわば負け組の思想をニーチェが利用しているのが不思議だったが


それで、創造と破壊といえば
創造的破壊とかいうことばがあるらしくて





~~~~~~~~~~~

創造的破壊(そうぞうてきはかい)とはヨーゼフ・シュンペーターによって提唱された経済学用語の一つであり、経済発展というのは新たな効率的な方法が生み出されれば、それと同時に古い非効率的な方法は駆逐されていくという、その一連の新陳代謝を指す。
創造的破壊は資本主義における経済発展そのものであり、これが起こる背景は基本的には外部環境の変化ではなく、企業内部のイノベーションであるとした。そして持続的な経済発展のためには絶えず新たなイノベーションで創造的破壊を行うことが重要であるとシュンペーターは説いた。

https://ja.wikipedia.org/wiki/創造的破壊

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Other early usage[edit]

In Hinduism, the god Shiva is simultaneously destroyer and creator, portrayed as Shiva Nataraja (Lord of the Dance), which is proposed as the source of the Western notion of "creative destruction".[1]
In philosophical terms, the concept of "creative destruction" is close to Hegel´s concept of sublation. In German economic discourse it was taken up from Marx's writings by Werner Sombart, particularly in his 1913 text Krieg und Kapitalismus:[16]

Again, however, from destruction a new spirit of creation arises; the scarcity of wood and the needs of everyday life... forced the discovery or invention of substitutes for wood, forced the use of coal for heating, forced the invention of coke for the production of iron.
Hugo Reinert has claimed that Sombart's formulation of the concept was influenced by Eastern mysticism, specifically the image of the Hindu god Shiva, who is presented in the paradoxical aspect of simultaneous destroyer and creator.[1] Conceivably this influence passed from Johann Gottfried Herder, who brought Hindu thought to German philosophy in his Philosophy of Human History (Ideen zur Philosophie der Geschichte der Menschheit) (Herder 1790–92), specifically volume III, pp. 41–64.[1] via Arthur Schopenhauer and the Orientalist Friedrich Maier through Friedrich Nietzsche´s writings. Nietzsche represented the creative destruction of modernity through the mythical figure of Dionysus, a figure whom he saw as at one and the same time "destructively creative" and "creatively destructive".[17] In the following passage from On the Genealogy of Morality (1887), Nietzsche argues for a universal principle of a cycle of creation and destruction, such that every creative act has its destructive consequence:

But have you ever asked yourselves sufficiently how much the erection of every ideal on earth has cost? How much reality has had to be misunderstood and slandered, how many lies have had to be sanctified, how many consciences disturbed, how much "God" sacrificed every time? If a temple is to be erected a temple must be destroyed: that is the law – let anyone who can show me a case in which it is not fulfilled! – Friedrich Nietzsche, On the Genealogy of Morality
Other nineteenth-century formulations of this idea include Russian anarchist Mikhail Bakunin, who wrote in 1842, "The passion for destruction is a creative passion, too!"[18] Note, however, that this earlier formulation might more accurately be termed "destructive creation"[original research?], and differs sharply from Marx's and Schumpeter's formulations in its focus on the active destruction of the existing social and political order by human agents (as opposed to systemic forces or contradictions in the case of both Marx and Schumpeter).

Creative destruction
https://en.wikipedia.org/wiki/Creative_destruction

~~~~~~~~~~~~~~~~~~
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Warum ich ein Schicksal bin.



2.

Will man eine Formel für ein solches Schicksal, das Mensch wird? — Sie steht in meinem Zarathustra.
— und wer ein Schöpfer sein will im Guten und Bösen, der muss ein Vernichter erst sein und Werthe zerbrechen.
Also gehört das höchste Böse zur höchsten Güte: diese aber ist die schöpferische.
Ich bin bei weitem der furchtbarste Mensch, den es bisher gegeben hat; dies schliesst nicht aus, dass ich der wohlthätigste sein werde. Ich kenne die Lust am Vernichten in einem Grade, die meiner Kraft zum Vernichten gemäss ist, — in Beidem gehorche ich meiner dionysischen Natur, welche das Neinthun nicht vom Jasagen zu trennen weiss. Ich bin der erste Immoralist: damit bin ich der Vernichter par excellence. —
3.

Man hat mich nicht gefragt, man hätte mich fragen sollen, was gerade in meinem Munde, im Munde des ersten Immoralisten, der Name Zarathustra bedeutet: denn was die ungeheure Einzigkeit jenes Persers in der Geschichte ausmacht, ist gerade dazu das Gegentheil. Zarathustra hat zuerst im Kampf des Guten und des Bösen das eigentliche Rad im Getriebe der Dinge gesehn, — die Übersetzung der Moral in’s Metaphysische, als Kraft, Ursache, Zweck an sich, ist sein Werk. Aber diese Frage wäre im Grunde bereits die Antwort. Zarathustra schuf diesen verhängnissvollsten Irrthum, die Moral: folglich muss er auch der Erste sein, der ihn erkennt. Nicht nur, dass er hier länger und mehr Erfahrung hat als sonst ein Denker — die ganze Geschichte ist ja die Experimental-Widerlegung vom Satz der sogenannten „sittlichen Weltordnung“ —: das Wichtigere ist, Zarathustra ist wahrhaftiger als sonst ein Denker. Seine Lehre und sie allein hat die Wahrhaftigkeit als oberste Tugend — das heisst den Gegensatz zur Feigheit des „Idealisten“, der vor der Realität die Flucht ergreift, Zarathustra hat mehr Tapferkeit im Leibe als alle Denker zusammengenommen. Wahrheit reden und gut mit Pfeilen schiessen, das ist die persische Tugend. — Versteht man mich?… Die Selbstüberwindung der Moral aus Wahrhaftigkeit, die Selbstüberwindung des Moralisten in seinen Gegensatz — in mich — das bedeutet in meinem Munde der Name Zarathustra.


Ecce homo.

Wie man wird, was man ist.
http://www.nietzschesource.org/#eKGWB/EH





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とりあえずニーチェの文章だけ。
なぜ善悪二元論のゾロアスターなのか不思議だったが
ニーチェ本人が説明していた。
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この回答へのお礼

〔神としての〕二元論は あり得ません。

お礼日時:2017/01/10 20:57

No.17です。



bragelloneさん、再々の説明に感謝します。

まず、
「日本神話は 八百万の神々」
→私の家系は代々浄土真宗、私の学校はプロテスタント・メソジスト、そして現在は神社総代の立場です。
いろんな角度から学んできました。

「神は――現人神といった想像の産物がおかしいと言うように――煮詰めた言い方で 超自然なのです。つまり 超経験」
→bragelloneさんが、そう決めてるだけです。

「これを知らない・認めないというのであれば もう放っておきます」
→ですから、最初の回答に書いたでしょ。
神は人々の心の中にあるのです。
とても素朴なものなのです。
そのように超自然、超経験と高貴に位置づけて吹聴するものではないのです。
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No.16です。



bragelloneさん、丁寧な説明に感謝します。

「2. ・・・・超えています。
 3. ・・・をも超えています。
 ☆ このように《想定する》というかたちで 定義しているのです」
→ですから、それはbragelloneさんや同胞が勝手に定義しているだけなのです。
 それ以降の説明も同じなのです。
 つまり、我々多くの人が納得できる説明でないと証明にはならないのです

「これを認めないというのは:★☆ 勝手にそのように書いて突っぱねているだけです」
→私の言葉を流用しても無理ですよ。
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この回答へのお礼

ご回答をありがとうございます。

いちばんの問題は 《有無や因果関係といった経験現象あるいは
つまり ものごとの寿命や雌雄の性差や法律や言葉や さらにあ
るいは 精神としての記憶・知解・意志なる能力といった経験事
象 これらのような経験世界を超えている》という説明 これを 
どう捉えたか? にあります。

日本神話は 八百万の神々と言ったりしますが もともとの神は
ひとはしらの普遍神です。

それは 初めの神であるあめのみなかぬしの神らが 独り神とな
って身を隠したといった記述から想像できます。

それ――つまりあたかも《隠れたる神(デウス・アブスコンディ
トス)》であるかのようなあり方――から言って 実質的にはい
わゆる唯一神に近いものがあります。

神は――現人神といった想像の産物がおかしいと言うように――
煮詰めた言い方で 超自然なのです。つまり 超経験。

ただし・しかも この超経験なるナゾは 人間にはついぞ知り得
ない(知り得るか知り得ないかが知り得ない)というしろもので
す。

だから 哲学としては《想定する》という恰好を採ります。

この仮説の仕方でよいのです。

それに反対する場合には この想定法――つまり仮説法(アブダ
クション)――が 推論として認められていることを知るべきで
す。

つまり 《勝手に》想定して その想定の内容が 経験合理性に
適合するというとき ひとまづ仮説として一般にみとめられる。
そういう問題です。

演繹法や帰納法のそれぞれ一本のみによるのではない論理です。
これを知らない・認めないというのであれば もう放っておきま
す。

お礼日時:2017/01/07 11:56

No.15です。



「無限であり絶対なるナゾなのです。
~~~~~~~
☆ これが 証明です。反論するのなら この《無限》が かくかくしかじかのように認識し得て じっさいにこういう内容のものであると示して 反証明してもらわねばなりません」

→それは証明になっていません。
勝手にそのように書いて突っぱねているだけです。
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この回答へのお礼

ご回答をありがとうございます。

☆☆(趣旨説明欄) ~~~~~~~
2. 時空間にものごとが起こるこの経験世界を神は 超えています。

3. ・・・経験事象としての《有る無し》をそして・・・さらに《因
果関係》をも超えています。
~~~~~~~~~~~
☆ このように《想定する》というかたちで 定義しているのです。

なぜそのように想定することが出来るか?

その証明が たとえば《無限》というナゾをわれわれが共有していると
いう事実にあります。

もし証明になっていないと言うのなら この無限という言葉を抹殺して
しまわねばならないでしょう。

あるいは 《永遠》というナゾも 証明の例になります。
人間は 永遠を知っているわけではないのです。もちろん 説明につい
てその意味内容は認識しえます。初めもなければ終わりもない・時間を
超えた時間性です。

ですが その実態については 人間の誰も知りません。これが 永遠だ
というように示すことも出来ません。

これが 証明なのです。

これを認めないというのは:
★☆ 勝手にそのように書いて突っぱねているだけです。

お礼日時:2017/01/06 22:51

No.14です。



「というものは 意味内容の認識とは別に まったく人間の理解を超えています」
→それを客観的に証明しなけければ、あなたが勝手に決めているだけ、ということになります。
分らない人には分からない、というのであれば、何の説得力もないのです。

「その説明の意味内容は認識できるでしょうが そのものが一体どういうものかは 人間は 見たこともなければ それを示すことも出来ないのです」
→その説明も”勝手な言い分”の範疇を超えていません。

「そういうナゾについては 定義としては そのナゾを《想定する》というかたちを採って 共同に取り扱うものです」
→そういうことは決まってはいませんね。

「認識し得るということは 経験事象だからです」
→経験事象以外にどうやって他人を説得するのでしょうか。
説得できなければ、自分勝手な言い分の範疇を超えられないでしょ?

私は神の必要性を否定していません。
必要な人には神は必要なのです。
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この回答へのお礼

ご回答をありがとうございます。

★ →それを客観的に証明しなけければ、あなたが勝手に決めている
だけ、ということになります。
☆☆(№14お礼欄) ~~~~~~
二で割っても三で割っても その商はやはり元のままであるというの
が 無限であり絶対なるナゾなのです。
~~~~~~~
☆ これが 証明です。反論するのなら この《無限》が かくかく
しかじかのように認識し得て じっさいにこういう内容のものである
と示して 反証明してもらわねばなりません。

ほかの反論もみな おなじたぐいです。

お礼日時:2017/01/06 22:33

No.13です。



「《人間が考え出した》というのは あり得ません。つまり 《絶対》は 相対的な存在である人間を超えています」
→誰にも文句を言わせないために、”人間を超えているという神”を作ったのです。
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この回答へのお礼

ご回答をありがとうございます。

いいですか。
★ ”人間を超えているという神”
☆ という・人間の言葉で表現されたその意味内容は それとして理
解されるものです。

と同時に 
○ 《絶対》としての・人間や経験世界を超えているナゾの何ものか
☆ というものは 意味内容の認識とは別に まったく人間の理解を
超えています。

二で割っても三で割っても その商はやはり元のままであるというの
が 無限であり絶対なるナゾなのです。

その説明の意味内容は認識できるでしょうが そのものが一体どうい
うものかは 人間は 見たこともなければ それを示すことも出来な
いのです。

そういうナゾについては 定義としては そのナゾを《想定する》と
いうかたちを採って 共同に取り扱うものです。

もし そのような超経験のナゾを人間がつくったというのであれば
それは ただの観念として持たれるだけのものです。

思考や想像の産物として持たれる観念です。どこにも 経験事象との
対応がない。そして しかももし認識が出来るというのであれば そ
れは 超経験ではないのです。

認識し得るということは 経験事象だからです。

お礼日時:2017/01/06 21:57

神は人々の心の中にあるのです。



何故、神が必要なのか。
その理由は、人間は信じるに足らないからです。
そのために、絶対的な神を考え出したのです。
人間がです。
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この回答へのお礼

ご回答をありがとうございます。

★ その〔*その中身について省略しますが〕ために、絶対的な神を
考え出したのです。
☆ そのような必要に迫られて 見つけ出した・・・のかも分かり
ませんが 《人間が考え出した》というのは あり得ません。

つまり 《絶対》は 相対的な存在である人間を超えています。

因果関係に影響を受ける人間が 因果関係から自由なナゾの何もの
かを――見つけ出すことはあっても―― 思考しこしらえることな
ど あり得ません。

そういう思考や想像の産物としての――観念としての――神も じ
っさいにはあり得ていますが それが絶対としての神であることは 
金輪際 あり得ません。

人間が認識し得る神ないし絶対というものは 言葉そのものの矛盾
です。

お礼日時:2017/01/06 18:09

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