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「心だに誠の道に適ひなば 祈らずとても神や守らむ」という道真公の和歌があります。

この現代語訳ですが「心さえ誠の道に適っているならば、たとえ祈らなくても」というところまでは絶対の自信があります。

「神や守らむ」のところについて、何人かの方の訳を見てみたのですが、「神は守ってくれるだろう」と訳されています。大切なのは心であって、形ではない、ということなんでしょう。

でも、「神や」の「や」は疑問・反語の係助詞ではないかと私は思っています。つまり、「神は守ってくれるだろうか、いや守ってはくれないだろう。」心ももちろん大事だけれど、形も大事だ、という意です。

この私の解釈には無理がありますか?もし、私の解釈に無理があって、一般的な解釈が正しいとしたら、「や」は文法的にどのように考えるべきなのでしょうか?

gooドクター

A 回答 (4件)

お示しの和歌が次のページ(の下のほう)で言及されています。

これを見る限り、「反語」の文脈ではなさそうですね。

http://www2u.biglobe.ne.jp/~gln/77/7722/7722104. …

この歌を載せるという『四季物語』とは、鴨長明の著とされる(実際にはやや後に成立したらしい作者不明の)随筆ですが、たしかに、この歌からは、道真の時代というよりももっと中世的な印象を受けます。

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調べてみると、中世の和歌には「神や守らむ」「神ぞ守らむ」「神も守らむ」といった(おそらく決まり文句的な)句を含むものがかなりあるようです。「や・ぞ・も」の違いはあれ、基本的には、神が守ってくれることを祈り、期待する表現だと思われます。すべての出典を確認してはいませんが、だいたいが13世紀以降、つまり上記『四季物語』と同時期の歌のようです。

津の国の 難波のしわざ みことのり みな住吉の 神や守らむ
春日山 峰に生ひ添ふ 松の根の 絶ゆることなく 神や守らむ
石清水 かざす雲居の 藤の花 万代かけて 神や守らむ
祈り置きし 千代の光を 照らしても 契りを知れる 神や守らむ

踏み分けて 問はるる雪の 跡を見て 君をぞ深く 神は守らむ

君が経む 千代の景色を み熊野の うらやましとや 神も守らむ
春日山 頼む甲斐ある 君が代を 幾万代か 神も守らむ
君が代は 幾千歳にか 葵草 変はらぬ色に 神も守らむ
春日山 峰の木の間の 月なれば 左右にぞ 神も守らむ
さらに今 君を助くる 君なれば 国頼めとや 神も守らむ

敷島の 道を捨てずは 住吉の 神ぞ守らむ わが君の御代
五十鈴川 流れて清き 瑞垣の 久しき代をも 神ぞ守らむ
和らぐる 光の庭に 居る塵の 末をも山と 神ぞ守らむ
跡絶えず をひえの杉の しるしあらば 末の代までも 神ぞ守らむ

和歌の検索には日文研の和歌データベースを用い、仮に漢字を当てました。

http://tois1.nichibun.ac.jp/database/html2/waka/ …

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こういう定型があるらしいことからすると、お示しの和歌の場合だけを反語と取るのは難しい気がします。

辞書で「や」を引くと、確かに「疑問・反語」としか定義されていませんが、語調を整えたり詠嘆を込めたりするための「や」も(中世以降には特に?)かなり存在するように思います。詠嘆の「や」は、俳句の切れ字につながるものかもしれません。

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したがって、ご質問の和歌の場合、「神は守ってくれるだろう」という意味に取って間違いではないと思います。あるいは、疑問といっても反語的ではなく、むしろ希望を込めて「(道を外れなければ)神は守ってくれるだろうか、そうであってほしいものだ」といった気持ちと取ることもできるでしょう。

辞書の定義は実際の用例から帰納されたものですから、辞書の定義に従って無理やり解釈するというのは、厳密には本末転倒ともいえます。辞書が疑わしいときは、同時代の類例を見渡してみると役に立つことがしばしばです。特に古語辞典の場合は、1000年を超える歴史的日本語を「古語」とひとくくりにしているわけですから、もともと相当に無理があるものです。

お尋ねの「文法的」な説明が物足りないかもしれませんが、取り急ぎ。
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この回答へのお礼

ご丁寧にありがとうございます。おっしゃることは良く分かります。「分からないときは同時代の用例を見るべきだ」というお話ももっともで、自分の怠慢さが恥ずかしくなります。それから、「辞書の定義は用例から帰納されたもの」というのもその通りなんですが、それならこの『や』の用法を、なぜ辞書では載せてくれないのでしょう?「係助詞の『や』には、疑問の意を持たず、単に主題を提示する働きもある」なんて記述が一文でもあれば、すっきりするんですが。

お礼日時:2004/12/12 11:17

 ヤは上代には「はやし言葉」でした。

アソレソレみたいな感じですね。そこから感動、詠嘆の助詞へと変化し、やがて反語、疑問の意味が出たとされます。岩波古語辞典におつきになればかんたんに知れます。
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この回答へのお礼

そうですね。すると、「や」は、この歌では、「呼びかけ」とか「感動・詠嘆」の間投助詞から「疑問・反語」の係助詞への過渡期的な姿で、「は」のように主題を取り立てている働きをしている、と考えてよいのでしょうか。

お礼日時:2004/12/13 14:23

冒頭の和歌を読んで、私も「神は守ってくれるだろう」という訳が思い浮かびました。



勿論、確かに係助詞の「や」は疑問・反語を表し、文末の推量「む」も連体形になっているので、Kamonohajiさんの訳が文法的に間違った解釈であるとは言えません。

しかし、なんかこう唐突で、違和感を覚えます・・・うまく言えませんが。No.1さんが「要は文脈次第」と仰ってますが、この歌の前後はどうなっているのですか?
反語の意図が込められていた場合は、
「誰某が『心さえ備わっていれば神様は守ってくれるはず』と言っていたが、それはどうだろうか」というような前置きがあるんじゃないかと思いました。
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この回答へのお礼

ありがとうございます。北野天満宮を訪れたときにもらった栞に、この歌が載っていました。解説には「道真公が生涯一貫された『心を正しく持って日々を真剣に生きよ』という誠の心は、今も生きつづけています」とあります。たしかに、自分でもパッと見たときに「神は守ってくれるだろう」という訳が思いつきました。でも、その時に「あれ、この『や』は文法的にどう説明されるのかな」と疑問に思い、今回の質問になりました。

お礼日時:2004/12/12 10:48

確かに「や」は、疑問か反語と習いましたね。

この和歌の詠まれた文脈がわからないので、何ともいえませんが、kamonohajiさんの訳でも問題ないと思います。さらには、「守ってくれるのだろうか」という疑問の訳も可能性として残ります。要は文脈次第かと。
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この回答へのお礼

ありがとうございました。

お礼日時:2004/12/13 14:25

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