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「神の存在が証明されたなら、神は存在しない」
と著名な哲学の先生が仰っていますがどういう意味なのでしょう。

A 回答 (12件中1~10件)

神の存在証明に関しては興味がないので、この分野は知らないのですが、聞いたところですと、パトリック・グリムという哲学者が、ゲーデルの不完全性定理を用いて、もし


[定義] すべての真理を知る無矛盾な存在を「神」と定義する、
と定義すると、
[定理] 「神」は存在しない、
となることを証明したそうです。
ただし、グリム自身が、この証明で言えるのは「人間理性によって理解可能な神」は存在しない、というだけであって、神学を否定するものではないと言っているそうです。言い換えれば、神が存在するとすれば、それは理性では本質的に認識不可能なものであるということになるそうです。(ということは、ゲーデルの神の存在証明も無効??? 私には分からない・・・)

私自身は、まだ、ゲーデルの不完全性定理をきちんと理解しているわけではないので、評価はできませんが。

あと、No.4さん、ケアレスミスですね(^^; 論理では逆ではなく対偶が同値ですから、「神の存在が証明されたなら、神は存在しない」という命題に同等なのは、対偶の「神が存在するならば、神の存在は証明できない」です。

この回答への補足

ご回答ありがとうございます。

問題は、神は「現実的な存在」なのかということですね。

もし現実的な存在だとしたら、推論だけではどうにもならない。

知覚との結びつき(たとえそれが直接的に知覚されないにしても)が必要だということですね。

補足日時:2009/04/28 03:23
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神の存在が証明されたなら、神は人智の中の存在になってしまいます。

神は人智を超えた存在ですので、存在の証明された神はニセモノになってしまう。ということではないでしょうか。
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>そのあなたというのは私ではないですね。



 もちろん、あなたではありません。無意味というのは、同じ名を同じだと証明することですが、これは数学でいう1=1を証明すること(否定問題)とは意義が違います。
 それと、絶対は、唯一ということです。ただし、主義の問題ではありませんから、相対の対義語じゃありません。

 No.4にお書きになられたゲーデルのチョンボ。つまり、Pの要素φが肯定的、つまり存在的だと定義した時点で、否定問題は扱えません。だから、「正しく」とお聞きしたのですが、命題を正しく証明する事と、信じる事とは別だというふうに僕は思います。
 正しさは、恐らく後者にしかありません。
 たぶん、これが僕の伝えたい答えでした。ありがとうございました。
 長かった。そして、さようなら。

この回答への補足

>そして、さようなら。

私も今日神にさよならしました。

「苦しいときの神頼み」
では神は応じてくれなかった。

信念も崩れてしまった。

人生にさよなら。

補足日時:2009/04/25 02:13
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 ご返事ありがとうございます。



>意味と意義ということですか?

 どうやら、そういう言葉を使って書いても良さそうな方なんですね。
 そもそもは神ではなく「明けの明星」と「宵の明星」でした。問題は、それらが「ともに」金星だと主張したときから始まったのだと思います。(もしもあなたが、このヴィーナス問題を意図して始めたのだとすれば、あなたは本当に悪い人だと思う)

 「明けの明星」と「宵の明星」は、ともに金星を指示するということ(意味)については区別できないが、片方は東の空に輝き、もう片方は西の空に輝くという、その名の与えられ方(意義)において区別される。「明けの明星」は「明けの明星」に等しいが、「明けの明星」は「宵の明星」に等しいと主張したとき、この両者の命題の間には、何か少しだけ違いがあることに気付くからでしょう。

 この同一性命題について、「明星」というその名は、意味を持つだけに留まるが、それを用いた命題になったとき、意義は初めて生まれるのだと思います。つまり、「神」という名は意味を持つだけに留まるが、「神」が命題になったとき、初めて「神」には意義が生まれる。どうやって生まれるか? それは、神が神ではなく、命題のなかでは「神」という「 」書きの記号に変わるからでしょう。記号は、世界の写像を意味付ける。
 「神」はすでに神だけではなく、わたしであり、あなたであり、絶対であるかのようなそういう複合的なものを記述する。
 ヴィーナスはもはや、僕の知るヴィーナスではないのです。
 つまるところ、二つのものについて、それらが同一であると語ることは「無意義」であり、一つのものについて、それ自身とそれが同一であると語ることはまったく何も語らないのでしょう。けれど思うんですよ、僕はこの同一性命題について、記号を分解して単純記号である名を見つけ出すためには、いったいどうしたら良いのだろうかと。
 それに、「無意義」ではあっても、その行いは無意味ではないのではないかと。
 確かに、あなたが仰るようにウィトゲンシュタインは「命題には一つの、しかもただ一つの完全な分析がある」と言った。「そのように」作文すれば、回避可能なことなのかもしれない。でも、「そのように」というのは、いったい「どのように」なのでしょうか。
 あなたはそれを「正しく」と書いた。それは、本当に「正しく」ですか?
 それと、最後に聞いてみたい。
 僕はこの世界のまん中で、いつまでこうやって叫んでいれば良いのでしょうか。

この回答への補足

>あなたはそれを「正しく」と書いた。

そのあなたというのは私ではないですね。

補足日時:2009/04/24 20:57
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この回答へのお礼

>それに、「無意義」ではあっても、その行いは無意味ではないのではないかと。

「無意味」とはどのような意味なのでしょう?

また

>失われた「絶対」

での絶対とは相対に対するという意味での絶対でしょうか?

お礼日時:2009/04/24 21:38

 ある時代までは、事実命題と価値命題のあいだのジレンマだと言われた。



 けれど現代は、それをダブルバインドと呼ぶほうが多いのではないでしょうか。
 例えば教会で神父様が神はいるよと(言語的に)言っておきながら、信者がそこへとすり依ると、逆にお姿をお隠しになる(非言語的)。あるいは、家庭において親が子どもに「おいで」と言っておきながら(言語的)、「行かないと怒られるので」寄って行くと突き飛ばされてしまう(非言語的)。
 これらは階層が異なるのだから、論理の世界で言う矛盾ではないのだけれど、「行かないと怒られるので」という認識だったものが、現実にくり返されるうちにそれが単なる呼び声なのか、それとも現実の怒声なのか、その区別がつかなくなる。
 すると、「あると、あるの否定がともに真であるような」そういう、不思議な世界で暮らし始めることになる。波の音だけが鳴っているとても静かな世界で、じっと耳を澄ますようになる。現実の世界のことも、認識の世界のことも、どちらもよく「わかってしまうために」言葉に表されていない、意味にばかり偏執するときと、言葉の文字通りの意味だけにしか、反応しなくなるときがあって、それがリズムを刻むように囁いてくるから、結果的に人との関わりがどうも面倒になる。

 それが、「神の存在が証明されたなら、神は存在しない」現代の風景ではないのかな? と思います。失われた「絶対」を探すべきです。

この回答への補足

ご回答ありがとうございます。

>現実の世界のことも、認識の世界のことも、どちらもよく「わかってしまうために」

意味と意義ということですか?

補足日時:2009/04/23 04:08
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こんにちは。


神といいますのは人智を超越したものです。
ならば、人智がそこに到達したならば、それは神ではありません。
という意味だと思います。

この回答への補足

ご回答ありがとうございます。

厄介なことに存在論的(本体論的)証明に言及しなければならなくなりました。
新たに質問いたしますのでよろしくお願い申し上げます。

補足日時:2009/04/19 15:48
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「神」→「非存在」に置換してみるとか。

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 こんにちは。



 【回答1】 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 神の存在が証明されたなら その証明にかんする限りで 《神の存在》は 肯定されています。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
  ☆ これでは 無味乾燥です。

 【回答2】 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 神は いやしくも 神であるなら その存在を証明される必要はない。その必要が あっては おかしい。
 また 証明されようがされまいが その証明の可否や内容は あくまで 人間の存在を基準にして言っているのであり その理性および感性から見ての話にとどまる。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ ただし 《いやしくも神であるなら》という条件に 異論を唱える人が出るでしょう。

 【回答3】 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 神について なぜ その存在を証明したいのか? これを 先に聞かせて欲しいと答える。
 証明したいわけではないという返答であれば ぢゃあ しなくていいではないかと答える。

 証明したいと返答されれば 誰に対してか? と問い返す。
 人びと一般に対してだという返答を受けるなら ぢゃあ それは 必要ないはづだと答える。
 神との関係は 非思考だから。ひとに伝えられない。

 それでも どうしても 自分に対して 証明したいという答弁が返ってきたなら 大いに 証明につとめてくださいと答える。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

この回答への補足

ご回答ありがとうございます。

無信仰な人間にとってこういった証明は何か意味を持つと思われますか、あるいは何の意味もないでしょうか?

補足日時:2009/04/21 00:21
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ゲーデルの不完全性定理(論理学)を使って例えているだけです。


意味はありません。

ゲーデルの不完全性定理
「無矛盾な体系では、自らの無矛盾性を証明できない」
これを言い換えて、「神の存在を肯定する無矛盾な体系では、神の存在の無矛盾性を証明できない」ということですね。
これが、「神の存在が証明されたなら、神は存在しない」ですね。
論理学では逆も真ですから
「神の不存在が証明されたなら、神は存在する」ですね。
こういう場合に適用しても・・・意味ないでしょ。

この回答への補足

ご回答ありがとうございます。

そういえばゲーデルも神の存在証明を試みていますよね。

P(φ) φは肯定的(またはφ∈P).
公理1.P(φ).P(ψ)⊃P(φψ). 任意の数の連言
公理2.P(φ)∨P(~ψ). 排反的選言
定義1.G(x)≡(φ)[P(φ)⊃φ(x)](神)
定義2.φEss.x≡(ψ)[ψ(x)⊃N(y)[φ(y)⊃ψ(y)]]. (xの本質) xの任意の二つの本質は必然的に同値である。
p⊃nq=N(p⊃q).必然性
公理3.P(φ)⊃NP(φ)
~P(φ)⊃N~P(φ)性質の本性より導かれる。

定理.G(x)⊃GEss.x.
定義.E(x)≡(φ)[φEss x⊃N(∃x)φ(x)].(必然的存在)
公理4.P(E).
定理.G(x)⊃N(∃y)G(y),
  ゆえに(∃x)G(x)⊃N(∃y)G(y);
  ゆえにM(∃x)G(x)⊃MN(∃y)G(y).(Mの可能性)
M(∃x)G(x)⊃N(∃y)G(y).
M(∃x)G(x)は、肯定的な性質すべてを含む体系が両立可能であることを意味する。なぜなら、
公理5.P(φ).ψ⊃nψ:⊃P(ψ),よって
x=xは肯定的
x≠xは否定的。

ちなみに欠陥があるとすればどの点でしょうか?

補足日時:2009/04/21 00:18
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証明には前提が必要です。

存在を証明する場合でも同じです。幽霊が存在するためにも前提は必要です。根源は自我意識の存在理由が証明できないことに行きつくのではないでしょうか。
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