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キリスト者の方に質問です。

聖書の記述で大宣教命令に違和感があります。
宣教・伝道はそれ程重要なことでしょうか。
個人的にキリスト教に関心はあるのですが、献金・奉仕も継続するのは不可能に近いです。
このような場合、キリスト教を信仰することは難しいでしょうか。
行動力が不足している人間も向かない気がします。

無教会主義に関してはどのように思われますか。

自分自身、教義の思い込みのように錯覚する時が多々あります。
哲学のように計画的に思考することは到底向いておらず聖書解釈も疲れます。
自分が可能な方法で歩んできましたが、
ここまで行き詰っているということは、やはり宗教に向かない性格なのでしょうか。

個人的には教会組織に頼らずに歩んでいきたいと思っています。
独りでは、やはり行き詰ってしまうのでしょうか。
教会員では無いので、牧師にも相談できず困っています。

A 回答 (6件)

カトリックのクリスチャンのものです。



私も宣教についていろいろと考えたことがあります。結論としてはとても重要な事だと思ってます。

質問者様は宣教や伝道について、どのようなイメージをお持ちでしょうか。私は以前、「宣教とは信者を獲得すること」と捉えていた時期がありまして、その時にはあまりよいイメージを持っていなかったです。

宣教や伝道とは教えを述べ伝えることでありますが、それは信者の獲得や教会の維持拡大というような狭い概念ではない事が最近ようやく分かって来ました。

ではその教えとは何か、それは神を愛し、人を愛するという言葉に集約されるような、私たちが目指す尊い価値を実践し、成就することにあります。それは時に「敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい。 」(マタイ5章44節)という、非常に高いレベルの要求を伴うものです。この尊い教えを自分の持った賜物の中で実践して人々に伝播させる、それこそが宣教や伝道の本質ではないかと思っております。

医学を身につけ、命を救う賜物をもっている方もいるでしょう。また、人に何かを教える事に長けた方もいるかもしれません。リーダーシップを持って組織をマネジメントする事に長けた人もいれば、人を楽しくさせたり、寄り添って心を癒す賜物を持っている方もいます。それぞれが今自分が出来る事、今自分が持っている賜物を使って全力で神の愛を伝えていく事が宣教や伝道のあるべき一つの姿だと思います。

無教会主義については、教会をどのように定義し、捉えるかによって考え方は様々かと思います。あまり詳しい事は分からないのですが、教会の建築物などハードを持ったら教会と言えるか、それとも聖職者など組織的な階層構造を持ったときに初めて教会と定義するのか、等です。教えを学ぶため集った時点でそれはすでに教会である、という人もいるようです。ただ、私個人的には教えや歴史を共有し、世代を超えて価値を深めていく教会には個人の救いを実現する上でも一定の合理性があると考えております。
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この回答へのお礼

Paulus0412様、詳しいご回答ありがとうございました。

行き詰った状況では、なかなか書籍も紐解けず分かり易いご説明助かります。
しかし、あまりよいイメージを持たない ⇒ 最近ようやく分かる と、いかにして推移できるのか、
私個人は現在推移できず辛いものを感じています。

宣教の本質に関してのお答え、信徒の方のご意見として参考になりました。
無教会主義に関しては自分でも調べてみるつもりですが、現在弱っており、先になりそうです。

お礼日時:2011/04/15 11:08

>ひかれた理由は、宗教の真理というものに大変関心があり講座から教会へと進みました。



うーん、、、
旧約聖書は、部族の共通了解の形成過程が書かれています。
少人数からだんだん集団の人口が増えていって、そうなると家族の長によって「こうだ」というものが違ってきますよね。
それじゃ集団はまとまらないので、「こうだ」という共通了解を形成して、その核の部分だけは誰もが「こうだ」と同じことを言う、する ようになれば、いざこざは起こりにくくなる。
要するに集団におけるルール。
この<民族内>でのみ適用するルール。

例えば<殺してはならない>と十戒にありますよね。
正確なニュアンスとしては「私の子供が仲間を殺そうことがあろうか、私の子供であれば殺すわけがない」
(古代ヘブライ語には禁止+命令を表現する語は無かったので)

でも十戒にそうかいてあっても、イスラエルはパレスチナ人と戦ってますよね。
戒律に違反していない。
だって、パレスチナ人は、アブラハムの長子の子孫であるが、イスラエル人ではないから。
イスラエル人とはエサウから長子権を奪って父親から祝福を受けたヤコブの子孫をさすので。

だから同じアブラハムを祖としながら、殺し合いをしても律法に触れないわけです。
ただし、同じイスラエル人を殺すことは律法に違反することになるので、律法に違反してイスラエル人ではなくなった つまり異邦人となったものは殺してよかった。


キリスト教の場合、限定内に通用するルールではなく、全地球の人々に対する「これがおみゃーらが守るルールだ。俺たちのルールは おみゃーらもまもらにゃならんだっちゃ わかったか ボケが!」となったわけです。

例えば、「全財産を教会に寄付した奴は天国にいける、 嘘ついて全財産を寄付しなかったやつは我らが神が殺す。死にたくなかったら全財産寄付しろ!」とか、これを全世界の共通ルールにしようとキリスト教会はしているわけです。

日本人からすれば 恐喝 強盗 大悪党で、おかしなルールですが、その話を信じた人たちは「殺されたくない」と信者になって「全財産は今は無理ですが、これでご勘弁ください 私は全財産を寄付しなかった罪人です、どうかお許しください 罰を与えないでください こわいよぉぉ」となっているわけです。

で、考えてみたらキリスト教が迫害される側から保護される側になったのは、コンスタンティヌス1世の時代から。
彼はどの神様にもいい顔していたら、悪いようにはならない という程度でキリスト教が布教することを認めたわけだし、キリスト教だけじゃなく どの宗教も国内において活動することを許したわけです。

キリスト教は、宗教で世界を自分たちの思いとおりに支配できるとして、死ぬ間際のコンスタンティヌス1世に洗礼を与え、「あのコンスタンティヌス1世すらキリスト教徒になったぞ」って宣伝に使った。
帝国の人々から厚い信頼と支持を受けていたコンスタンティヌス1世がなったくらいだから と。

そして聖書を作り、「これがローマ帝国の法律だ」と自分たちのルールを帝国のルールとしたわけです。
アフリカとか他の地域にキリスト教を広め、精神的に価値観を自分たちに価値観に塗り替え、宗教により支配地域を拡大していった。

「我々の宗教が 真理 だ」tって。

人間が作った真理が、宇宙の真理であーる と。


日本にもやってきて、まず坊さんに改宗させようとしたが、中国の儒教の思想の影響を受けていた日本の坊さんは「はぁ?」となったわけです。
「祖先を敬うな? 親を敬うな? 西洋の神だけを敬え? はぁぁぁ おかしくないか それ」って。

で、失敗に終わり、一般市民だと 簡単にまるめこめると思ったが、西洋と違い日本の庶民は学問を小さい頃から受けており、ギリシャにおいて哲学の教室での議論で誰にも負けたことが無かった宣教師フロイスは、こてんぱんに日本の一般人にやり込められてしまった。

「こ こ これは・・・」とかなり驚いたそうです、
得意の詭弁を使ってもまるめこむことができなかった。

まあ そんな日本人の倫理とは違う支配欲が産みの親のキリスト教を理解しようと思ったら、正面からではだめ。
斜めから切り込んでいくと、核にぶち当たる。
人間の<強欲>という核に。
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この回答へのお礼

kugumi様、ご回答ありがとうございます。

私自身揺れており、見極める眼が欠如してきているのを感じています。
頂いたご意見を視野に入れ、考えて行きたいと思います。

>人間が作った真理が、宇宙の真理であーる
日本人の聖書学者と言われる方々の書籍も読んでみるつもりです。

お礼日時:2011/04/15 10:59

私もしばらく教会に通うのはお休み中です。

理由はいくつかあるのですが、質問者さんと同じように、行き詰まった、というのが一番合うかもしれません。

うちの教会は、牧師さんがコンテンポラリーだったので、科学が発達した現在、キリスト教徒はそれにどう対応してゆけるか、という課題でよくお話なさっていました。いわく、我々は神の織り上げたタペストリーあるいは壮大なパズルのパズルピースである。であるから、一人一人の役割は全く違っている。しかしその一人一人が自分の役割を果たすことによって、より良い社会を生み出すことが出来る、というのが大まかな趣旨でした。

彼はCSルイスの熱心な読者で、彼がキリスト教について書いたものをよく読んでいらっしゃいました。私はというとジョン・ロックの大ファンで、この世のルールで頭の中がぐちゃぐちゃになった時に、どのページでもしばらく読み進むと、頭の中がすっきり整理され、思わず”納得!”と頷いてしまうのです。もし、お暇があったら、彼がキリスト教について書いたものをお読みになってみてください。イエスの起こした奇跡についても書いてあります。

18-19世紀のアメリカでは、一時、教会が女子供の溜まり場になったことがあります。競争社会で実際に仕事をしている男性の世界観とは相容れないものになっていたんですね。その後20世紀になってから、特に男性向けに、”この資本主義社会で、いかにすれば良きキリスト教徒でありながら、良き家庭人・社会人でありうるか”という課題で勉強会が行われています。

キリスト教徒として成長するには、聖書のお勉強+それに基づく活動+神への感謝の祈りが欠かせないものだそうです。お勉強と祈りは、自分でしようと思えば出来ますが、奉仕活動は、組織に在籍しないと難しいですね。それを理解した上でしばらく個人でのお勉強と祈りの時間に集中して、何かのきっかけがあったら、新しい教会でも、今いらっしゃる教会にでもお戻りになったらいかがでしょうか。いつか、覚悟ができるというか、吹っ切れることもあると思います。

私も、もうすぐ引越しをする予定ですが、それを期に新しい教会探しを始める予定でいます。

もう少し考えたこともあったのですが、今日はここまで。
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この回答へのお礼

Ciaopolpo様、ご回答ありがとうございます。

CSルイスですか....
今迄は、ブレナン・マニングやCSルイス等の作家に傾倒してきましたが、
今はリベラルな立場の作家に関心があります。

18-19世紀のアメリカのお話、頷けるものがありました。

>キリスト教徒として成長するには、聖書のお勉強+それに基づく活動+神への感謝の祈りが欠かせないものだそうです。お勉強と祈りは、自分でしようと思えば出来ますが、奉仕活動は、組織に在籍しないと難しいですね。

私自身少し弱っているので、今は落ち着いて考えられるように時を待ちたいと思います。

お礼日時:2011/04/15 10:53

聖書は学問として研究するのなら、面白いと思います。

(面白い=興味深い)
古代の倫理が書かれており、その倫理は現代にも通ずる。
そう考えると、西洋の倫理は進歩していないってことですね。

キリスト教のせいで、文明が2000年遅れた と言われている。
どうなんでしょうね。


新約聖書は旧約聖書の簡略版なのですが、違うところは<福音>

幸福の福に音とかいて福音。
どんな音かというと(ここから早口で)「イエスが人類の原罪を消したから誰一人原罪を持っているものがいなくなった、よろこべ!」って瓦版みたいなもの。

この原罪を消したぞーって グッドニュースを多くの人々に伝達していくのが布教。
信者になったら宣教の義務があるらしく(カトリックだけかな?)、ニュースを伝える人にならなければならない。
要するに選挙の前になると電話帳をめくって 手当たり次第に電話しまくるS学会と同じ。
S学会の会員は普段以上に選挙のときに派手に布教しる義務があるってことですね、会員になった以上 権利じゃなくて義務 お勤め、お仕事。


で、しつもんを読んでみると、キリスト教にひかれた理由が書かれていない。
なんか「あの歌手の歌好きなんだなぁ だけど 友達と一緒にその歌を語り合ったりするってのは簡便、一人で楽しみたい 個人的な趣味だから、他人と一緒になって歌手を応援するってのは簡便」と同じノリな気が・・・・

で、歌詞を読んでいて、その意味がわからなかったりしたとき、「やっぱりfanクラブに会費払って入ったほうがよかったかな。その方が定期的にメールが来て、どういういきさつでこの歌詞は書かれたかとか背景が説明されて、そういうことか と前より深く歌詞を理解でき、歌手のワールドがわかるのに」ってのと一緒ですよね。

個人的な趣味 好み だってすきなんだもーーん と同じですよね。

「聖書のここがたまりません!」とか、多くの会員は聖書の一節を書きまくって「聖書は正しい ゆえにキリスト教徒である私に言うことは完璧であーる 敬いやがれ 俺様は頭いいんだぞ 理解できているんだぞ お前らは馬鹿だからわからんだろう わかるのなら 答えてみろ」っておもしろい行動をここで取っている人が何人かいる。

聖書を使って自分を美化するために、質問と称してキリスト教を自己宣伝に使っているアホ信者。


私思うんですよ。
そんなアホ信者らと同類だと思われていいのか って。

勉強をしたかったら、どれだけでも独学できますよ。
西洋の本は必ずといっていいほどキリスト教が出てくる。
それで、聖書がどういう内容か、聖書をほとんど読まないうちに理解したもん。

西洋の倫理はキリスト教が源泉ですが、キリスト教はエジプトやパレスチナ地方の倫理が源泉。
だから西洋倫理を勉強すればいいだけの話で、何も集団に入って「あーでもない こーでもない」と無駄なことをする必要は無いと思います。
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この回答へのお礼

コメントありがとうございます。
ひかれた理由は、宗教の真理というものに大変関心があり講座から教会へと進みました。

マイペースでやっていきたいと思う程、組織の拘束を感じています。

>勉強をしたかったら、どれだけでも独学できますよ。
実は勉強したら想像以上に複雑な世界で、聖書解釈も苦手であることがわかりました。
kigurumi様のように、独学が難しく行き詰っています。

お礼日時:2011/04/14 23:37

 信仰あるいは宗教に関心があるという事は、満たされない心のあることを感じているから。


 救いを求める心も、満たされない心が有るから。

 何とかこの求め心を納得させたくて、満たしたくて宗教に答えを求める。
 なぜならば精神の世界の事だから。

 物質の世界を解明しようとするのが科学。
 精神の世界を究明しようとするのが宗教。

 質問者さんは今、心のよりどころを求めています。
 “組織”に頼らずに。

 ならば、心の本質を知ること。
 「法句経」をお勧めします。

 私が聖書のように、座右に置いているのは松原泰道著“法句経入門”祥伝社NON BOOKです。
 かれこれ三十七、八年まえの本ですがその当時ベストセラーになりました。

 私個人のあなたへのメッセージを。

 心は使うほどに育ちます。
 好ましい心も、好ましくない心も。
 
 だから、釈尊は言いました。
 悪しきをなさず善きを行え、と。
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この回答へのお礼

>質問者さんは今、心のよりどころを求めています。
 “組織”に頼らずに。

vv8vv8az様、ご理解いただき誠にありがとうございます。
実は、仏教にも興味があり、「怒らないこと」という初心者向けの本を読みました。
仏教の方がなじみやすかったのかもしれませんが、
今となっては一神教を捨てることもできません。

ありがとうございました。

お礼日時:2011/04/14 23:43

自分が何を信じるかは自分の勝手。


「行って、宣べ伝えなさい」
をどう捕らえるかを含めて。

個人的には、
「互いに愛し合いなさい。」
を実行することだけが、宣べ伝えることだと思っている。
それをしないならほかに何をしても、たいして意味はないと思う。
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この回答へのお礼

ShowMeHow様、本日はお答え頂き、ありがとうございました。
私自身、大きなヒントになりました。

>自分が何を信じるかは自分の勝手。
それは仰る通りですね。

>個人的には、
「互いに愛し合いなさい。」
を実行することだけが、宣べ伝えることだと思っている。
それをしないならほかに何をしても、たいして意味はないと思う。

その通りだと思います。断言できる、ShowMeHow様が羨ましく思われました。
私もその位自分の解釈で信仰できれば良いのですが・・・・・・
最初に頂いた回答なので嬉しく思いました。ありがとうございました。

お礼日時:2011/04/14 23:49

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