キリスト者の方に質問です。

聖書の記述で大宣教命令に違和感があります。
宣教・伝道はそれ程重要なことでしょうか。
個人的にキリスト教に関心はあるのですが、献金・奉仕も継続するのは不可能に近いです。
このような場合、キリスト教を信仰することは難しいでしょうか。
行動力が不足している人間も向かない気がします。

無教会主義に関してはどのように思われますか。

自分自身、教義の思い込みのように錯覚する時が多々あります。
哲学のように計画的に思考することは到底向いておらず聖書解釈も疲れます。
自分が可能な方法で歩んできましたが、
ここまで行き詰っているということは、やはり宗教に向かない性格なのでしょうか。

個人的には教会組織に頼らずに歩んでいきたいと思っています。
独りでは、やはり行き詰ってしまうのでしょうか。
教会員では無いので、牧師にも相談できず困っています。

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A 回答 (6件)

カトリックのクリスチャンのものです。



私も宣教についていろいろと考えたことがあります。結論としてはとても重要な事だと思ってます。

質問者様は宣教や伝道について、どのようなイメージをお持ちでしょうか。私は以前、「宣教とは信者を獲得すること」と捉えていた時期がありまして、その時にはあまりよいイメージを持っていなかったです。

宣教や伝道とは教えを述べ伝えることでありますが、それは信者の獲得や教会の維持拡大というような狭い概念ではない事が最近ようやく分かって来ました。

ではその教えとは何か、それは神を愛し、人を愛するという言葉に集約されるような、私たちが目指す尊い価値を実践し、成就することにあります。それは時に「敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい。 」(マタイ5章44節)という、非常に高いレベルの要求を伴うものです。この尊い教えを自分の持った賜物の中で実践して人々に伝播させる、それこそが宣教や伝道の本質ではないかと思っております。

医学を身につけ、命を救う賜物をもっている方もいるでしょう。また、人に何かを教える事に長けた方もいるかもしれません。リーダーシップを持って組織をマネジメントする事に長けた人もいれば、人を楽しくさせたり、寄り添って心を癒す賜物を持っている方もいます。それぞれが今自分が出来る事、今自分が持っている賜物を使って全力で神の愛を伝えていく事が宣教や伝道のあるべき一つの姿だと思います。

無教会主義については、教会をどのように定義し、捉えるかによって考え方は様々かと思います。あまり詳しい事は分からないのですが、教会の建築物などハードを持ったら教会と言えるか、それとも聖職者など組織的な階層構造を持ったときに初めて教会と定義するのか、等です。教えを学ぶため集った時点でそれはすでに教会である、という人もいるようです。ただ、私個人的には教えや歴史を共有し、世代を超えて価値を深めていく教会には個人の救いを実現する上でも一定の合理性があると考えております。
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この回答へのお礼

Paulus0412様、詳しいご回答ありがとうございました。

行き詰った状況では、なかなか書籍も紐解けず分かり易いご説明助かります。
しかし、あまりよいイメージを持たない ⇒ 最近ようやく分かる と、いかにして推移できるのか、
私個人は現在推移できず辛いものを感じています。

宣教の本質に関してのお答え、信徒の方のご意見として参考になりました。
無教会主義に関しては自分でも調べてみるつもりですが、現在弱っており、先になりそうです。

お礼日時:2011/04/15 11:08

>ひかれた理由は、宗教の真理というものに大変関心があり講座から教会へと進みました。



うーん、、、
旧約聖書は、部族の共通了解の形成過程が書かれています。
少人数からだんだん集団の人口が増えていって、そうなると家族の長によって「こうだ」というものが違ってきますよね。
それじゃ集団はまとまらないので、「こうだ」という共通了解を形成して、その核の部分だけは誰もが「こうだ」と同じことを言う、する ようになれば、いざこざは起こりにくくなる。
要するに集団におけるルール。
この<民族内>でのみ適用するルール。

例えば<殺してはならない>と十戒にありますよね。
正確なニュアンスとしては「私の子供が仲間を殺そうことがあろうか、私の子供であれば殺すわけがない」
(古代ヘブライ語には禁止+命令を表現する語は無かったので)

でも十戒にそうかいてあっても、イスラエルはパレスチナ人と戦ってますよね。
戒律に違反していない。
だって、パレスチナ人は、アブラハムの長子の子孫であるが、イスラエル人ではないから。
イスラエル人とはエサウから長子権を奪って父親から祝福を受けたヤコブの子孫をさすので。

だから同じアブラハムを祖としながら、殺し合いをしても律法に触れないわけです。
ただし、同じイスラエル人を殺すことは律法に違反することになるので、律法に違反してイスラエル人ではなくなった つまり異邦人となったものは殺してよかった。


キリスト教の場合、限定内に通用するルールではなく、全地球の人々に対する「これがおみゃーらが守るルールだ。俺たちのルールは おみゃーらもまもらにゃならんだっちゃ わかったか ボケが!」となったわけです。

例えば、「全財産を教会に寄付した奴は天国にいける、 嘘ついて全財産を寄付しなかったやつは我らが神が殺す。死にたくなかったら全財産寄付しろ!」とか、これを全世界の共通ルールにしようとキリスト教会はしているわけです。

日本人からすれば 恐喝 強盗 大悪党で、おかしなルールですが、その話を信じた人たちは「殺されたくない」と信者になって「全財産は今は無理ですが、これでご勘弁ください 私は全財産を寄付しなかった罪人です、どうかお許しください 罰を与えないでください こわいよぉぉ」となっているわけです。

で、考えてみたらキリスト教が迫害される側から保護される側になったのは、コンスタンティヌス1世の時代から。
彼はどの神様にもいい顔していたら、悪いようにはならない という程度でキリスト教が布教することを認めたわけだし、キリスト教だけじゃなく どの宗教も国内において活動することを許したわけです。

キリスト教は、宗教で世界を自分たちの思いとおりに支配できるとして、死ぬ間際のコンスタンティヌス1世に洗礼を与え、「あのコンスタンティヌス1世すらキリスト教徒になったぞ」って宣伝に使った。
帝国の人々から厚い信頼と支持を受けていたコンスタンティヌス1世がなったくらいだから と。

そして聖書を作り、「これがローマ帝国の法律だ」と自分たちのルールを帝国のルールとしたわけです。
アフリカとか他の地域にキリスト教を広め、精神的に価値観を自分たちに価値観に塗り替え、宗教により支配地域を拡大していった。

「我々の宗教が 真理 だ」tって。

人間が作った真理が、宇宙の真理であーる と。


日本にもやってきて、まず坊さんに改宗させようとしたが、中国の儒教の思想の影響を受けていた日本の坊さんは「はぁ?」となったわけです。
「祖先を敬うな? 親を敬うな? 西洋の神だけを敬え? はぁぁぁ おかしくないか それ」って。

で、失敗に終わり、一般市民だと 簡単にまるめこめると思ったが、西洋と違い日本の庶民は学問を小さい頃から受けており、ギリシャにおいて哲学の教室での議論で誰にも負けたことが無かった宣教師フロイスは、こてんぱんに日本の一般人にやり込められてしまった。

「こ こ これは・・・」とかなり驚いたそうです、
得意の詭弁を使ってもまるめこむことができなかった。

まあ そんな日本人の倫理とは違う支配欲が産みの親のキリスト教を理解しようと思ったら、正面からではだめ。
斜めから切り込んでいくと、核にぶち当たる。
人間の<強欲>という核に。
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この回答へのお礼

kugumi様、ご回答ありがとうございます。

私自身揺れており、見極める眼が欠如してきているのを感じています。
頂いたご意見を視野に入れ、考えて行きたいと思います。

>人間が作った真理が、宇宙の真理であーる
日本人の聖書学者と言われる方々の書籍も読んでみるつもりです。

お礼日時:2011/04/15 10:59

私もしばらく教会に通うのはお休み中です。

理由はいくつかあるのですが、質問者さんと同じように、行き詰まった、というのが一番合うかもしれません。

うちの教会は、牧師さんがコンテンポラリーだったので、科学が発達した現在、キリスト教徒はそれにどう対応してゆけるか、という課題でよくお話なさっていました。いわく、我々は神の織り上げたタペストリーあるいは壮大なパズルのパズルピースである。であるから、一人一人の役割は全く違っている。しかしその一人一人が自分の役割を果たすことによって、より良い社会を生み出すことが出来る、というのが大まかな趣旨でした。

彼はCSルイスの熱心な読者で、彼がキリスト教について書いたものをよく読んでいらっしゃいました。私はというとジョン・ロックの大ファンで、この世のルールで頭の中がぐちゃぐちゃになった時に、どのページでもしばらく読み進むと、頭の中がすっきり整理され、思わず”納得!”と頷いてしまうのです。もし、お暇があったら、彼がキリスト教について書いたものをお読みになってみてください。イエスの起こした奇跡についても書いてあります。

18-19世紀のアメリカでは、一時、教会が女子供の溜まり場になったことがあります。競争社会で実際に仕事をしている男性の世界観とは相容れないものになっていたんですね。その後20世紀になってから、特に男性向けに、”この資本主義社会で、いかにすれば良きキリスト教徒でありながら、良き家庭人・社会人でありうるか”という課題で勉強会が行われています。

キリスト教徒として成長するには、聖書のお勉強+それに基づく活動+神への感謝の祈りが欠かせないものだそうです。お勉強と祈りは、自分でしようと思えば出来ますが、奉仕活動は、組織に在籍しないと難しいですね。それを理解した上でしばらく個人でのお勉強と祈りの時間に集中して、何かのきっかけがあったら、新しい教会でも、今いらっしゃる教会にでもお戻りになったらいかがでしょうか。いつか、覚悟ができるというか、吹っ切れることもあると思います。

私も、もうすぐ引越しをする予定ですが、それを期に新しい教会探しを始める予定でいます。

もう少し考えたこともあったのですが、今日はここまで。
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この回答へのお礼

Ciaopolpo様、ご回答ありがとうございます。

CSルイスですか....
今迄は、ブレナン・マニングやCSルイス等の作家に傾倒してきましたが、
今はリベラルな立場の作家に関心があります。

18-19世紀のアメリカのお話、頷けるものがありました。

>キリスト教徒として成長するには、聖書のお勉強+それに基づく活動+神への感謝の祈りが欠かせないものだそうです。お勉強と祈りは、自分でしようと思えば出来ますが、奉仕活動は、組織に在籍しないと難しいですね。

私自身少し弱っているので、今は落ち着いて考えられるように時を待ちたいと思います。

お礼日時:2011/04/15 10:53

聖書は学問として研究するのなら、面白いと思います。

(面白い=興味深い)
古代の倫理が書かれており、その倫理は現代にも通ずる。
そう考えると、西洋の倫理は進歩していないってことですね。

キリスト教のせいで、文明が2000年遅れた と言われている。
どうなんでしょうね。


新約聖書は旧約聖書の簡略版なのですが、違うところは<福音>

幸福の福に音とかいて福音。
どんな音かというと(ここから早口で)「イエスが人類の原罪を消したから誰一人原罪を持っているものがいなくなった、よろこべ!」って瓦版みたいなもの。

この原罪を消したぞーって グッドニュースを多くの人々に伝達していくのが布教。
信者になったら宣教の義務があるらしく(カトリックだけかな?)、ニュースを伝える人にならなければならない。
要するに選挙の前になると電話帳をめくって 手当たり次第に電話しまくるS学会と同じ。
S学会の会員は普段以上に選挙のときに派手に布教しる義務があるってことですね、会員になった以上 権利じゃなくて義務 お勤め、お仕事。


で、しつもんを読んでみると、キリスト教にひかれた理由が書かれていない。
なんか「あの歌手の歌好きなんだなぁ だけど 友達と一緒にその歌を語り合ったりするってのは簡便、一人で楽しみたい 個人的な趣味だから、他人と一緒になって歌手を応援するってのは簡便」と同じノリな気が・・・・

で、歌詞を読んでいて、その意味がわからなかったりしたとき、「やっぱりfanクラブに会費払って入ったほうがよかったかな。その方が定期的にメールが来て、どういういきさつでこの歌詞は書かれたかとか背景が説明されて、そういうことか と前より深く歌詞を理解でき、歌手のワールドがわかるのに」ってのと一緒ですよね。

個人的な趣味 好み だってすきなんだもーーん と同じですよね。

「聖書のここがたまりません!」とか、多くの会員は聖書の一節を書きまくって「聖書は正しい ゆえにキリスト教徒である私に言うことは完璧であーる 敬いやがれ 俺様は頭いいんだぞ 理解できているんだぞ お前らは馬鹿だからわからんだろう わかるのなら 答えてみろ」っておもしろい行動をここで取っている人が何人かいる。

聖書を使って自分を美化するために、質問と称してキリスト教を自己宣伝に使っているアホ信者。


私思うんですよ。
そんなアホ信者らと同類だと思われていいのか って。

勉強をしたかったら、どれだけでも独学できますよ。
西洋の本は必ずといっていいほどキリスト教が出てくる。
それで、聖書がどういう内容か、聖書をほとんど読まないうちに理解したもん。

西洋の倫理はキリスト教が源泉ですが、キリスト教はエジプトやパレスチナ地方の倫理が源泉。
だから西洋倫理を勉強すればいいだけの話で、何も集団に入って「あーでもない こーでもない」と無駄なことをする必要は無いと思います。
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この回答へのお礼

コメントありがとうございます。
ひかれた理由は、宗教の真理というものに大変関心があり講座から教会へと進みました。

マイペースでやっていきたいと思う程、組織の拘束を感じています。

>勉強をしたかったら、どれだけでも独学できますよ。
実は勉強したら想像以上に複雑な世界で、聖書解釈も苦手であることがわかりました。
kigurumi様のように、独学が難しく行き詰っています。

お礼日時:2011/04/14 23:37

 信仰あるいは宗教に関心があるという事は、満たされない心のあることを感じているから。


 救いを求める心も、満たされない心が有るから。

 何とかこの求め心を納得させたくて、満たしたくて宗教に答えを求める。
 なぜならば精神の世界の事だから。

 物質の世界を解明しようとするのが科学。
 精神の世界を究明しようとするのが宗教。

 質問者さんは今、心のよりどころを求めています。
 “組織”に頼らずに。

 ならば、心の本質を知ること。
 「法句経」をお勧めします。

 私が聖書のように、座右に置いているのは松原泰道著“法句経入門”祥伝社NON BOOKです。
 かれこれ三十七、八年まえの本ですがその当時ベストセラーになりました。

 私個人のあなたへのメッセージを。

 心は使うほどに育ちます。
 好ましい心も、好ましくない心も。
 
 だから、釈尊は言いました。
 悪しきをなさず善きを行え、と。
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この回答へのお礼

>質問者さんは今、心のよりどころを求めています。
 “組織”に頼らずに。

vv8vv8az様、ご理解いただき誠にありがとうございます。
実は、仏教にも興味があり、「怒らないこと」という初心者向けの本を読みました。
仏教の方がなじみやすかったのかもしれませんが、
今となっては一神教を捨てることもできません。

ありがとうございました。

お礼日時:2011/04/14 23:43

自分が何を信じるかは自分の勝手。


「行って、宣べ伝えなさい」
をどう捕らえるかを含めて。

個人的には、
「互いに愛し合いなさい。」
を実行することだけが、宣べ伝えることだと思っている。
それをしないならほかに何をしても、たいして意味はないと思う。
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この回答へのお礼

ShowMeHow様、本日はお答え頂き、ありがとうございました。
私自身、大きなヒントになりました。

>自分が何を信じるかは自分の勝手。
それは仰る通りですね。

>個人的には、
「互いに愛し合いなさい。」
を実行することだけが、宣べ伝えることだと思っている。
それをしないならほかに何をしても、たいして意味はないと思う。

その通りだと思います。断言できる、ShowMeHow様が羨ましく思われました。
私もその位自分の解釈で信仰できれば良いのですが・・・・・・
最初に頂いた回答なので嬉しく思いました。ありがとうございました。

お礼日時:2011/04/14 23:49

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【日本人のキリスト教徒ってイエズス会のことだったんでしょうか?】


日本に隠れキリシタンがいた踏み絵の時代です。

その当時のキリスト教=イエズス会のことを指していた?

今のキリスト教徒はイエズス会じゃないですよね?

キリスト教がイエズス会から日本に入ってきていつの間に違うキリスト教に乗っ取られたのでしょう?

今の日本のキリスト教ってユダヤ教でもなさそうですし何のキリスト教なんでしょう?

なんでイエズス会系から違うキリスト教系に信者がいつの間にか変わっていた。

不思議なことですよね。

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>その当時のキリスト教=イエズス会のことを指していた?
イエズス会ではなく「カソリック」を指していました。

キリスト教の簡単な歴史を書くと分かりやすかもしれません。
キリスト教は、もちろんイエス・キリストが1世紀の初頭に布教した内容が元になっているのですが、昔のことですからいろいろな地方でいろんなことを話したり、キリストが死んだあと弟子が話した内容が伝わっていたり、といろいろな教えがあったのです。ローマは最初、キリスト教を禁教にしていましたが、4世紀になるとキリスト教を信じる皇帝が即位したりして、キリスト教をローマの国教にしました。

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>今の日本のキリスト教ってユダヤ教でもなさそうですし何のキリスト教なんでしょう?
今の日本のキリスト教はいろいろな宗派があります。

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>その当時のキリスト教=イエズス会のことを指していた?
イエズス会ではなく「カソリック」を指していました。

キリスト教の簡単な歴史を書くと分かりやすかもしれません。
キリスト教は、もちろんイエス・キリストが1世紀の初頭に布教した内容が元になっているのですが、昔のことですからいろいろな地方でいろんなことを話したり、キリストが死んだあと弟子が話した内容が伝わっていたり、といろいろな教えがあったのです。ローマは最初、キリスト教を禁教にしていましたが、4世紀になるとキリスト教を信じる...続きを読む

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 キリスト教布教当初から信仰が拡大するにつれ、キリシタン大名領では神社仏閣の破棄が行われました。そのことから民衆側からもキリスト教を邪教視する風潮がありました。同時に寺社の破棄は、日本の伝統的倫理観の破壊と恐れられたのでしょう。

 次に創造主の元の平等、つまり創造主の絶対性ですが、それが日本の封建領主の倫理観とは相容れなかった。欧州では支配者と創造主は同一であるという「神権政治」、そこから発展した、王の地位は創造主より授けられたものという「王権神授」という伝統的倫理観が土壌にあります。そのような倫理観がない世界(日本)に創造主の絶対性を重んじる思想は、主君・領主への忠誠より、創造主への忠誠を優先させます。このことが天下統一のさわりになると、豊臣秀吉は天正15年(1587)に禁教令を発します。

 さらには外交政策の面。徳川家康は和平外交を進めるため、当初は信仰を黙認していましたが、慶長5年、オランダ船リーフデ号漂着により、プロテスタントであるオランダ・イギリスと交渉開始。日本市場の拡大を図るため、ポルトガル・スペインの締め出しを計画。そこでカトリックへの不利な情報と中傷を行いました。つまりカトリック国の侵略的意図。信徒を利用した反乱計画などをは、当時の幕府としては「天下統一のさわりになると」いう危惧をより拡大させました。禁制により教会の破壊・宣教師の国外追放。信徒の東北・蝦夷地への放逐などが行われました。
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参考
『国史大事典』(吉川弘文館)

 ただし、禁制も太平の世が長く続くことで形骸化していき、当初はキリシタン監視の意味でもうけられた寺請制度も、寺院側からすれば「檀家としての勤めを果たしていれば、裏でキリスト教を信仰していても黙認する」という事実もありました。領主も「良き領民としての勤め」を果たす限りは信仰も黙認状態でもありました。キリシタンであると暴露しても、領主の監督不行届と罰せられる危険性があったからです。
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資料
『オラショ―魂の通奏低音 カクレキリシタン』(宮崎賢太郎・長崎新聞社)
http://www.nagasaki-np.co.jp/jigyoubu/book/kakure_book.html

『カクレキリシタンの信仰世界』(宮崎賢太郎・東京大学出版会)
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4130104020/250-7207972-6663457

江戸幕府のキリシタン禁制は慶長17年(1612)、幕府直轄領での禁制、翌18年に、全国さらに外国まで広げたものですが、キリスト教禁令にはさまざまな要素があります。
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Q100%の信仰ではありません。(キリスト教徒)

3年前に洗礼を受けたプロテスタントのキリスト教徒です。
教義に疑問を抱き、1年半ほど教会を離れたあと、3ヶ月ほど前からまた教会に通うようになりました。

ですが、教会や牧師の教えに、100%頭から同意するという気持ちは、今もありません。

たとえば、自分は輪廻転生はあると思いますし、他の宗教の教えにも興味はあります。他の宗教を否定する気持ちは全くなく、共通するところや、互いに学べるところがあると思います。
聖書に関して曲解もあるような気がしてなりません。
つまり、イエス・キリストのことは大好きなのですが、
人間のつくった教義に対しては、不信をいだいてます。

聖書を読みつつも、精神世界の本や、ヒンズー教、仏教のことも少し勉強しています。
聖書以外にメインで読んでいるのは、パラマハンサ・ヨガナンダ氏の著作です。彼の設立したSRFなる団体にも顔を出しましたが、すでにヨガナンダ氏の理想とは離れた集団になっていると思われたため、行くのはやめました。

自分がこのように考えるのは、
信仰への興味が薄いのではなく、信仰を真剣に考えた結果です。

しかし、このような考えを持っていることは、教会の人には言えないまま、申し訳ない気持ちを抱えつつ、少し距離をおいたつきあいをしています。
本当はもっと仲良く付き合いたいのですが、このように隠し事をしている状況では、居心地も悪く感じています。

また、隠したままでいるのが心苦しいだけでなく、自分の考え・状況を理解してくれる人がほしい、と思います。

自分の状況を、クリスチャンの人に話してみるか、
キリスト教会とは別に、またスピリチュアルな集まりなどに、どんどん顔を出してみるか・・さらに秘密が増えてしまうわけですが・・

一人で信仰を求めようとして教会を離れたこともありますが、
うまくいかず、自分は一人でやっていける段階にはない、ということもよく分かりました。
信仰の仲間といえる人が欲しいのです。

うまくまとまっていない質問文ですみませんが、
アドバイスをください。お願いします。

3年前に洗礼を受けたプロテスタントのキリスト教徒です。
教義に疑問を抱き、1年半ほど教会を離れたあと、3ヶ月ほど前からまた教会に通うようになりました。

ですが、教会や牧師の教えに、100%頭から同意するという気持ちは、今もありません。

たとえば、自分は輪廻転生はあると思いますし、他の宗教の教えにも興味はあります。他の宗教を否定する気持ちは全くなく、共通するところや、互いに学べるところがあると思います。
聖書に関して曲解もあるような気がしてなりません。
つまり、イエス・キリス...続きを読む

Aベストアンサー

難しい問題ですね。

でも、あなたの感性が真実を求めているからこそ、生じる苦悩だと思われて仕方ありません。
その、純真な真摯さは失わないで欲しい、それを、保ちつつ解決に向かって欲しいと、強く願っています。

さて、自分で考えた解決方法ですが、あなたの場合、現状のキリスト教では、満足できないのでこのままでは、苦悩が大きくと思えます。
また、一人になる孤独もつらいのでそれも、出来ないでしょう。

それで、現状は、キリスト教の仲間関係を保ちつつ、ホームページを作って自分の日々考えることを記載されたらいかがでしょうか?
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そこから、同じ悩みを持つ仲間が見つかることもあるでしょうし、アドバイスをいただけると思います。

気長に、対応したほうがいいと思います。(哲学も勉強されるのもいいと思いますよ。)
それから、あなたの苦悩は、あなたを大きく成長させる力になると思います。

頑張ってください。
.

難しい問題ですね。

でも、あなたの感性が真実を求めているからこそ、生じる苦悩だと思われて仕方ありません。
その、純真な真摯さは失わないで欲しい、それを、保ちつつ解決に向かって欲しいと、強く願っています。

さて、自分で考えた解決方法ですが、あなたの場合、現状のキリスト教では、満足できないのでこのままでは、苦悩が大きくと思えます。
また、一人になる孤独もつらいのでそれも、出来ないでしょう。

それで、現状は、キリスト教の仲間関係を保ちつつ、ホームページを作って自分の日々考...続きを読む

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江戸時代のはじめごろ、日本ではキリスト教が禁止されました。その時代は踏み絵などでキリスト教を徹底的に排除しようとしましたし、キリスト教を信仰し続ければ死刑になっていました。しかし、隠れキリシタンも多数出現しました。

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1:キリスト教の禁止は徳川家光将軍時代だったように思いますが、なぜ当時の将軍は日本でのキリスト教の信仰を禁止したのでしょうか?
2:もし、現在日本でキリスト教の信仰が禁止されると、どうなると思いますか?

Aベストアンサー

> 1:キリスト教の禁止は徳川家光将軍時代だったように思いますが、なぜ当時の将軍は日本でのキリスト教の信仰を禁止したのでしょうか?
スペインによる植民地化を防ぐための政策だった。(下記url参照)

> 2:もし、現在日本でキリスト教の信仰が禁止されると、どうなると思いますか?
戦時中に英語が敵性語として禁止され、様々な言葉が日本語に置き換えられました(野球の「ストライク」→が「よし」、「カレーライス」→「辛味入汁掛飯(からみいりしるかけめし)」等々)。それと同じように、キリスト教の影響があるものを禁止されたり表現を変えられたりするのではないでしょうか。

参考URL:http://www2s.biglobe.ne.jp/~nippon/jogbd_h12/jog154.html

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宜しければ、ご回答お願い致します。

Aベストアンサー

イコン崇拝は、主に「正教会」の問題で、イコン崇拝が、偶像崇拝にあたるかどうかが、問題となりました。

キリスト教では、偶像崇拝が禁止されています。
これは、過去も現在も同じです。

そのため、教会などでも、崇拝の対象としての神の像や絵画を見た人は、いないはずです。

ほとんどのキリスト教では、神の子キリストや、聖母マリアの像などを通して、神を崇拝します。

イスラム教徒や、単性派(アルメニア教会やヤコブ派、コプト教)、二元論派(主にパウロス派)は、キリストの像やマリアの像を通して神を崇拝することが、偶像崇拝につながると非難したため、正教会内で、偶像崇拝問題が起こりました。

これは、過去カルケドンの公会議で、一旦決着がついた事の蒸し返しでした。
カルケドンの公会議では、「キリストは、神と人と聖霊の三位一体である。」
そのため、人間であるキリストの像を造る事は、神の偶像を作る事にはならず、また、人間そのものでもないため、キリストの像への礼拝は、問題無いとの結論に達しています。

しかしこの事は、教会での礼拝が、神に対してなのか、キリストに対してなのかの混乱を引き起こし、その点を、当時急速に勢力を伸ばしたイスラムにつかれた事に、起因します。
また、当時のビザンツ帝国において、イコンなどに否定的であった、エジプト(コプト教会)、シリア(ヤコブ教会)、などが、自主的にビザンツ帝国を裏切り、イスラムになびいた事も原因となっています。
ビザンツ帝国としては、イコン崇拝を続ける事は、偶像崇拝を否定しているアルメニア教会やパウロス派教会の地をも、イスラムに奪われる可能性があったため、それを阻止するためにも、偶像崇拝の否定を強調する必要性が有りました。
しかし、その事は、ビザンツ帝国内での大混乱を引き起こし、内戦状態にまでなり、かえってビザンツ帝国の弱体化を引き起こします。

この問題には、ローマ教会も乗り出し、東西教会の分裂の原因ともなります。

カトリック教会では、「神には崇拝を、三位一体(キリスト)には礼拝を、聖人には崇敬を、聖母マリアには超崇敬を」と、(時代は下りますが)トリエントの公会議で定めています。
つまり、「キリストの像を拝むのは、礼拝をしているのであって、崇拝ではなく、マリア像を拝むのは、超崇敬であって崇拝ではない」としています。

イコン崇拝は、主に「正教会」の問題で、イコン崇拝が、偶像崇拝にあたるかどうかが、問題となりました。

キリスト教では、偶像崇拝が禁止されています。
これは、過去も現在も同じです。

そのため、教会などでも、崇拝の対象としての神の像や絵画を見た人は、いないはずです。

ほとんどのキリスト教では、神の子キリストや、聖母マリアの像などを通して、神を崇拝します。

イスラム教徒や、単性派(アルメニア教会やヤコブ派、コプト教)、二元論派(主にパウロス派)は、キリストの像やマリアの像...続きを読む

Q精神科医とキリスト教

私はキリスト教徒で、心療内科に通っていますが、以前「キリスト教はいいですよ」と担当医にはなしたら、困った顔をされました。やはり精神科医は、「キリスト教は死ぬと天国だから自殺の引き金になる」と思っているのでしょうか?
精神科医とキリスト教について詳しい方、ご意見願います。
また、私個人は、キリスト教によって精神の安定が保たれていますが、たまに疑いが起こることもあります。
心療内科に通う身として、キリスト教とどう付き合っていくべきかもご意見伺えたら嬉しいです。

Aベストアンサー

No.7です。
ちょっと補足を。
私はうつ病を患ってますので、逆に、
自殺=キリスト教的には絶対の禁忌。
であることが、自殺衝動への強烈なストッパーになっているのも事実であります。
自殺=自分をこの世に生み出した神の全否定=自分の信仰の全否定=アイデンティティの崩壊
とつながっていくからです。
自殺衝動が起きると、自殺してしまいたい誘惑と信仰の間で身もだえし、「神さま、助けてください。苦しい。つらい。これでもまだ『生きよ』とおっしゃるのですか? 私にはまだ耐えられる力がありますか? この試みを耐え忍ぶ力をどうか私にください」と祈ります。
信仰がなければ、躊躇なく死の誘惑に身をまかすだろうにと。信仰があるからこそつらいと思うことさえあります。

西洋の映画で、キリスト教徒が自殺する場合、自分の命とともに、自分の神も宗教も参加しているコミュニティ(お墓に入れてもらえません)も何もかもかなぐり捨ててしまう決意や絶望感であると思います。

天国と地獄については、真っ向から「そんなものありませんよ」というプロテスタント信者はいないでしょう。日本の風土に「地獄と極楽」のイメージは根強くあるので、地域の風習や習慣をむやみに否定はしないのです。
大航海時代にカソリックが全世界に布教したとき、その地域の風俗・習慣をむやみに否定して不必要な反感を買うことはせず、むしろキリスト教の教義に結びつけて利用しました。日本でも「聖母マリアは観音さまと同じような存在」とか「極楽は神さまの国に行くことですよ」と、既存イメージを上手く利用して布教しました。この柔軟性がキリスト教が広く知れ渡った遠因でもあります。
天国と地獄についての認識は、キリスト教を深く知れば正しい認識に自然となっていきますから、それでかまわないと思います。

それから「私はキリスト教徒です」とおっしゃると、キリスト教の信者は「この方は洗礼を受けてどこかの教会に所属しているクリスチャンなんだな」と誤解しますよ。

最後に、私はカソリックについては全然わかりませんので、悪しからず。

No.7です。
ちょっと補足を。
私はうつ病を患ってますので、逆に、
自殺=キリスト教的には絶対の禁忌。
であることが、自殺衝動への強烈なストッパーになっているのも事実であります。
自殺=自分をこの世に生み出した神の全否定=自分の信仰の全否定=アイデンティティの崩壊
とつながっていくからです。
自殺衝動が起きると、自殺してしまいたい誘惑と信仰の間で身もだえし、「神さま、助けてください。苦しい。つらい。これでもまだ『生きよ』とおっしゃるのですか? 私にはまだ耐えられる力がありますか? ...続きを読む

Q聖書と科学の矛盾をキリスト教信者の方はどう捉えているのでしょうか

宗教というカテゴリーがなかったので、こちらにに質問させて頂きます。新年に神社でお参りし、教会で結婚式を挙げ、死んだら寺の墓に入る無宗教の日本人の素朴な疑問なのですが、キリスト教を信仰してるであろう国の科学者達は(科学者だけではないかもしれません)、聖書の中に書かれている内容と、人類学や科学などで考えられたり証明されたりしている事実との矛盾を、どうとらえているのでしょうか。
例えば、人間は猿から進化したものとされていますが、キリスト教では神が創ったとされています。(正確にいえば人間ではなくアダムですが)学問と宗教で真実が異なるわけですが、宗教を信仰している科学者は科学と相反する教えをどのように捉えているのか、無宗教の私にはずっと疑問であり謎でした。どなたかこの疑問にお答えいただけないでしょうか。よろしくお願い致します。

Aベストアンサー

質問者さんがお書きの
>学問と宗教で真実が異なる
事を多くの人は理解しており、社会生活を営んでいます。
それは聖職者であっても科学者であっても同じ事です。
むしろ科学者のような高度な教育を施された人の方が、割り切り度合いは大きいでしょう。

『神のものは神に、カエサルのものはカエサルに』とは聖書の言葉ですが、
「人が何を信じどう生きるか」と「人がどんな栄養素を採れば生きられるのか」
は別の問題だと、認識しているので矛盾しないのです。
『人はパンのみに生きるに非ず』という聖書の名文句を聞いて
「人には肉体的な満足感だけでなく精神的な満足感が必要だ」という意味で引用する人はいても
「人にはパン以外に野菜や肉も食べないと栄養が偏るよ」という意味で栄養学の教科書に引用する人はいないのです。

以下余談
#5さんがご指摘のようにキリスト教にもイスラム教にも原理主義者はいます。
彼らは「学問と宗教で真実が異なる」事を同じ土俵で解決しようとしているから矛盾するのです。
そして、現実を捻じ曲げて解釈しています。(キリスト教原理主義者たちが『汝の敵を愛し』ているとは到底思えませんがね)
こう考えると、宗教を迷信として無視する科学万能主義者と原理主義者は精神構造が近いのかも知れませんね。
世の中の全ての事はたった一種類の法則で説明可能である、というのは理想でしかないからです。
その法則をE=mc2(二乗)とするか聖書に(あるいはコーランに)求めるのかだけの差という意味で。

では我々日本人は?臆病な科学信奉者とでも言えますでしょうか。多くの日本人が「バチが当たる」という言葉を
忘れて久しいですが、それでも多くの人は結婚式に仏滅の日を選ぶ勇気はないのです。
以上余談。

よって、聖書などに書かれているのは神の言葉であって科学法則ではない、から矛盾しないのです。
もう少し哲学風に言えば、形而上の話と形而下の話を一緒にすれば矛盾するのは当然であるから、です。
お釈迦さんが生まれた時甘茶の雨が降ったとか、産まれた直後に「天上天下唯我独尊」と言ったとかをマジメに研究して甘茶の雨は降る事ができない!とか産まれた直後に直立して自然言語を操る新生児はいない!と否定する日本人はいませんよね?それと同じ事ですよ。

質問者さんがお書きの
>学問と宗教で真実が異なる
事を多くの人は理解しており、社会生活を営んでいます。
それは聖職者であっても科学者であっても同じ事です。
むしろ科学者のような高度な教育を施された人の方が、割り切り度合いは大きいでしょう。

『神のものは神に、カエサルのものはカエサルに』とは聖書の言葉ですが、
「人が何を信じどう生きるか」と「人がどんな栄養素を採れば生きられるのか」
は別の問題だと、認識しているので矛盾しないのです。
『人はパンのみに生きるに非ず』という聖書...続きを読む


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